2019年2月25日月曜日

夕凪亭閑話 2008年1月

    
2008年1月1日。火.曜日。晴れ。旧暦11・23  かのえ ね 一白 先負
 謹賀新年。
 本年もよろしくお願いいたします。
 特別の抱負などというものは,ございません。今年は,昨年に続いて「史記」を読むだけです。
 今までにない色が出ました。新春にふさわしいと感じましたので,採用しました。特別の意味づけは,今回はありません。
 昨夜はグレタ・ガルボ主演の「クリスチナ女王」(1933年)をDVDで見ました。実在の人物はともかくとして,映画だけなら実に見事なラブロマンスで,ガルボの美貌も演技も大いに堪能させられた。ただし,男装でスペイン大使と同宿するというところは,どう見ても男装に見えない。字幕が男言葉にしてあって(それはそれでいいのだが)不自然なくらいであった。これでは男装とは言えない。
 女王様の庶民感覚への憧れといえば,これまたあまりにも有名な「ローマの休日」を思い出させる。「ローマの休日」はメルヘンタッチ,「クリスチナ女王」は悲恋に仕上げているのだが,スペイン全権大使を追って退位するというのは,やはり現実的ではない。「ローマの休日」のようにメルヘンタッチにしておいたほうが受け入れ易いであろう。
 映画では名前が一度だけ出てくるが,デカルトが最後の交友をもったのがクリスチナ女王である。早朝にデカルトはクリスチナのために講義をした。そして風邪を引いて死んだ。デカルトにとってはいい迷惑だったに違いないが,映画のように知性と教養と美貌に溢れていたのであったらなら,それはそれでデカルトにとっても素晴らしい生涯となったと羨むのであるが,史実はどうであったのだろうか。映画ではクリスチナ女王が朝早く起きて読書をするシーンがある。政務が忙しくて朝しか読書ができなかったということであろうが,想像するに,クリスチナ女王は高血圧だったのではないでしょうか。
 
 「楚世家 第十 史記巻四十」(新釈漢文大系)
 有名な屈原が登場しますので,記しておきましょう。秦の恵王の宰相である張儀が楚の懐王に求められ使節としてやってきます。懐王は張儀を捕らえて殺そうとしますが,張儀と通じている楚の高官の要請によって開放され帰国します。その後,斉に使いしていた屈原が帰ってきて「何不誅張儀」(何ぞ張儀を誅せざりし)と懐王を諫めます。後の祭りです。懐王十八年のことです。また,是歳秦恵王卒ということです。
 
2008年1月2日。水曜日。晴れ。旧暦11・24   かのと うし 二黒 仏滅
 昨日放映された舞台録画「ナツひとり-届かなかった手紙-」DVD録画で見た。NHKドラマ「ハルとナツ」の舞台版である。日本に残されたナツのほうを女の一生風に脚色したもので,オリジナルとは少し変更があるが,飽きさせない展開に仕立てた技には感服する。今年はブラジル移民百周年の年だからこの番組を元旦の夜放送したことは,大変意義深い。百周年というのは,ブラジルへの移民船「笠戸丸」が1908年6月18日にサントス港に入港・接岸したからである。
 今日も年賀状が配達された。昨日は住所録がうまく起動しなくて,その調整に手間取った。今日二日分の返事を書いた。新しい年になってから書くという習慣にしてかなり経つので,すっかりそれに馴染んでしまったようだ。
 
2008年1月3日。木曜日。晴れ。旧暦11・25 みずのえ とら 三碧 大安 さんりんぼう 
 今日は少し暖かくなって氷ははっておりません。今年は源氏一千年ということで,多数関係本が出るのではないかと思われますが,残念ながら今年は「史記」を中心に読みますので,その余裕がありません。ただ一つ注目しているのが,新潮社の円地文子訳本の朗読CDです。最後まで続きますように。
 
2008年1月4日。金曜日。晴れ。旧暦11・26 みずのと う 四緑 赤口
 寒波が緩んだようで,穏やかな一日となりました。今日から仕事です。明日が土日ですから,まだ冬休みをされているかたが多いとみえて,午後の街は車で溢れておりました。
 「楚世家 第十 史記巻四十」(新釈漢文大系)
 さて次は合従連衡である。大国の秦,楚に加えて周辺に燕,斉,韓,魏,趙がある。秦,楚がいかに周辺諸国と盟約するかで秦楚の力関係は変わってくる。秦がリーダーとなって他国と同盟するのが連衡で張儀が言い出したものである。秦が中央西側にあり,楚が秦の東南とはいえ楚以外の四国が秦の東側にあるので横のつながりになる。それに対して秦以外の五国が同盟を結ぶと秦に対して東側に縦(南北)に同盟することになる。これが合従で楚が南側で当然その中心になる。合従策は蘇秦の発案である。
 懐王十一年に「蘇秦従を山東の六國と約し,共に秦を攻む。楚の懐王,従長たり」(p.460)となるのだが,秦の張儀に欺かれ楚は秦に接近するというわけだ。それに危険を感じて,斉王は懐王に書を送って止める。そこで一度は思いとどまるのだが,二十四年に秦では昭王が即位し,楚は接近する。翌年盟約なる。すなわち合従を楚が破棄したことになる。だから二十六年に「楚が従親にそむきて秦に合ひしが為に,三國共に楚を伐つ」(p.472)となる。三国とは,斉,韓,魏である。当然,楚は秦に救いを請いそれは受け入れられる。しかし,翌二十七年,秦に人質としている楚の太子が秦の大夫と闘い殺して逃げ帰るから,秦楚の仲もこれで破綻する。
 
 
2008年1月5日。土曜日。晴れ。旧暦11・27 きのえ たつ 五黄 先勝
 そろそろ新月が近づいておりますから,大潮でしょうか。大潮で満潮になると道路すれすれまで潮が満ちてきます。あの光景が昔から好きなのです。今のように干魃のときは地下水が海水を押し返す力が弱まっていますから沿岸近くの土地にとってはよくないのでしょうが・・・。
 「楚世家 第十 史記巻四十」(新釈漢文大系)
 さて,楚の運命や如何に,ということになりますが,それは史実をみれば分かるとおり,秦が統一するわけですから,楚は頂点に立てなかったのです。合従策からは切り離される,秦からは見放されるという状況のなかで,よくあるパターンが起こます。秦が楚に一度合って詫びを入れよ,そうすればまた同盟しようと言ってきます。行けば殺される,行かなければ孤立するという,何処も同じ滅びの前奏曲です。
 結局,懐王は秦に行き,捕らえられます。領土割譲を求められ拒否しますから返してもらえません。この頃,秦から無断で逃げ帰った太子は斉に人質となっております。この後の展開がまたおもしろい。斉に対して懐王が死んだというのです。斉はどうするか議論します。新王が立てられれば,人質の太子は意味がなくなるので返そうということに決まり,太子は帰国します。これが頃襄王です。
 秦は,楚が頃襄王を立てて要求に応じないことに怒り,楚を伐ちます。その後,頃襄王の二年に懐王は脱出を謀ろうとしますが,結局また秦に連れ戻されそこで病死します。遺骸が楚に返され,ここで秦・楚の関係は完全に絶たれるというわけです。「諸侯,是に由りて秦を直とせず。秦・楚絶ゆ」(p.477
 
2008年1月6日。日曜日。晴れ。旧暦11・28 きのと み 六白 友引 小寒
 昨日今日と,まるで春の日のような(ちょっと言い過ぎか?)よいお天気で週末を満喫しております。
 ミチオ・カク著,野本陽代訳「サイエンス21」(翔永社)を読んだ。何も正月だから未来予言の本を読んだという訳でなく,以前から読んでいたのが本日やっと読み終わったというだけのことであるが,interesting でexcitingな本であった。
 原著は"VISIONS : How  Science  Will  Revolutionize the 21st  Century "と言って10年も前に出版されているから,いささか六日の菖蒲の感無きにしもあらずだが,現在も十分通用する,科学の主要分野を網羅した未来予測の書である。
  量子,DNA,コンピュータ革命が,わらわれの生活や考え方をどう変えたかということが述べられ,そして将来のあり方,到達度を鮮やかに予想してみせるという類い希なる書である。
  著者のカク ミチオ氏は日系アメリカ人で物理学者であるととも,すぐれたサイエンスライターであるから,量子やコンピュータや宇宙論については,お家芸に近いものがあるだろうが,生命科学や医療についても要点を見事に解説されており,著者の並々ならぬ才能に驚嘆する。
 そして何れの分野に於いても文明史的に過去と未来を鳥瞰できるように工夫されているから,多くの人にとって読みやすと思われます。
 
2008年1月7日。月曜日。晴れ。旧暦11・29 ひのえ うま 七赤 先負 さんりんぼう
「楚世家 第十 史記巻四十」(新釈漢文大系)
 その後,楚は孤立して滅ばされるかというと,さにあらずで,幾度か秦と平和条約を結んでは決裂するということを繰り返した後,楚の負芻五年,秦の将王煎・蒙武,遂に楚國を破り,楚王負芻を虜にし,楚の名を滅ぼし,楚郡とすと云ふ。
 時に紀元前二百二十三年のことである。ということで楚世家が終わる。
2008年1月8日。火曜日。晴れ。旧暦12・1 ひのと ひつじ 八白 赤口
 日中はこの季節のものとは思えぬ暖かさ。
 「越世家 第十一 史記巻四十一」(新釈漢文大系)
 やっと次に入れます。あの呉越同舟,臥薪嘗胆の越王句踐のはなしである。まずは以下のように始まる。
 越王句踐,其先禹之苗裔,而夏后帝少康之庶子也。封於會稽,以奉守禹之祀。文身斷發,披草萊而邑焉。后二十餘世,至於允常。允常之時,與呉王闔廬戰而相怨伐。允常卒,子句踐立,是為越王。
 越王句踐の時代はその祖から二十代も後の話である。
 はじめは越が勝ち,負けた呉王闔廬は子の夫差に曰った:“必毋忘越。”かならず越の恨みを忘れるな,と。
 今度は,後の大将軍・范蠡の諫めも聞かず若気の至りか,無謀にも句踐は呉王夫差に挑み,会稽山に包囲され,屈辱の講和を提案する。呉王夫差はこれまた名臣の伍子胥が殺せというのを聞かず,越王句踐を許すから今度は句踐が恨みを晴らすべく努力する。
 
2008年1月9日。水曜日。晴れ。旧暦12・2 つちのえ さる 九紫 先勝
 今日も暖かかった。朝は暗い。夜は薄暮の状態が少し伸びたか。
 「越世家 第十一 史記巻四十一」(新釈漢文大系)
 臥薪嘗胆二十二年,越王句踐と宿敵の呉王夫差との決戦がありますが,その前に夫差の腹心伍子胥は夫差の狭量な性格のために殺されます。子胥は使者に言います。「必取吾眼,置呉東門,以観越兵入也」と。
 子胥がいなくなったのだから,呉を攻めようかと,句踐は范蠡に尋ねます。對曰:“未可。”です。翌春また范蠡に尋ねます。蠡曰“可矣”。です。
 今度は勝ちます。会稽山の逆です。今度は夫差が和平を請います。句踐は許そうとしますが,范蠡は伐柯者其則不遠(柯を伐る者,その則遠からず),君忘會稽之厄乎,と言って反対します。結局夫差は自殺し,呉は越のものとなります。この後,范蠡は蜚鳥盡,良弓藏(蜚鳥盡きて良弓藏され),狡兔死,走狗烹(狡兔死して,走狗烹らる)と言って斉に去ります。
 
 
2008年1月10日。木曜日。晴れ。旧暦12・3 つちのと  とり 一白 友引
 よいお天気も今日までのようで,週末はくずれるとか。
  「越世家 第十一 史記巻四十一」(新釈漢文大系)
  越王句踐以降のこともなかなか名文でおもしろいが,最後に,范蠡のその後のことが書かれていておもしろい。というのは,どこへ行っても成功し,斉では宰相にまでなる。しかし,久受尊名不祥(久しく尊名を受くるは不祥なり)と言って,友人などへ財産を分け与えてその地を去る。そしてそこでもまた成功し産を成す。陶朱公と称し,その名は有名になる。なぜかくも成功するのか,ということになるが,一つのエピソードがある。二男が人を殺し,捕らえられる。それを救うために末子を行かそうとしたら,長男が自ら行くというので行かせたが,失敗する。陶朱公はわかっていたという。自分と一緒に苦労してきた長男は財産を捨てることにこだわるが,裕福になって生まれ育った末子はそうではないから,末子を派遣しようとしたのだ,と言うわけである。
 范蠡のことは列伝六十九の,「貨殖列伝」にも出てくる。
 
2008年1月11日。金曜日。曇り後,午後小雨。旧暦12・4 かのえ いぬ 二黒 先負
 天気予報通り,午後から小雨である。一週間前の予報の通りであるから愕く。
 池内了「泡宇宙論」(ハヤカワ文庫)は,はじめに身の回りの泡について教えてくれるユニークな本であるが,中心は宇宙論である。複雑な宇宙論に至る観測方法や推論などが,わかりやすく述べられてはいるのだが,やはり宇宙論は難しい。それでも種々の可能性や,現在考えられる途方もない解釈が記されていて楽しい。それにしても遙か彼方の星や銀河を観測する技術や,見えない星を見つける話など,はじめて知るものも多く,感心した。
 
2008年1月12日。土曜日。雨。旧暦12・5 かのと い 三碧 仏滅
 三連休は雨で始まりました。無惨な冬の雨です。しかし,気温はこの季節にしては高く,炬燵で本を読みながら昼寝するには,なかなか趣があってよい天気です。
 「鄭世家 第十二 史記巻四十二」(新釈漢文大系)
 鄭の桓公友は,周の厲王の子で,宣王の弟であるから,ここもまた他の世家と同様,周からはじまる。そして金太郎飴のように同じような記述が続く。しばらくして,例の重耳,すなわち晋の文公が亡命したとき,鄭に来るのだが,そのときの鄭の文公(ややこしいのだが)は,弟の叔の忠言を入れずに冷遇する。叔は「礼せずんば,遂にこれを殺せ」と言うが,そうもしない。後に重耳が即位してから鄭と敵対する因となる。
 
2008年1月13日。日曜日。晴れ。旧暦12・6  みずのえ ね 四緑 大安
 今日はしまなみ海道を通って松山へ行って来ました。冬なのに風もなく,海が大変きれいでした。石鎚山系は雪を抱き,銀色に輝いておりました。
 三島由紀夫さんの「海と夕焼け」を筑摩の文学全集で,久しぶりに読みました。少年十字軍の話です。ジャンヌダルクの話のように,フランスの羊飼いの少年が「お告げ」に寄って,十字軍に参加すべくマルセイユに集まります。しかし,お告げのように海が分かれることはありません。少年たちの一部は人さらいに連れられてエジプトの奴隷市場で売られるという話です。
  「鄭世家 第十二 史記巻四十二」(新釈漢文大系)
  霊公元年,風変わりなエピソードがあります。楚から送られたスッポンの料理をもとに,霊公と家臣の間に争いが起こります。大夫の子公が食指が動いて,指動けば必ず異物を食らへり,と言い,その通りになったと霊公の前で言うと,霊公は意地悪をして子公にはスッポン料理を与えません。子公はスッポンの羮を作った鼎の中に指を入れてその指を舐めて退出します。怒った霊公が子公を殺そうとすると,逆に殺されたということです。その後,混乱が続くかと思われますが,それはおさまります。
 
2008年1月14日。月曜日。晴れ。旧暦12・7 みずのと うし 五黄 赤口 成人の日
 成人の日,ということで,お休みである。でも成人の日は生まれた時? いや,物心着いたときから一月一五日と決まっていて日曜日であろうが平日であろうが,その年最初の祭日になっていたので,今のように変わって何年たつのかわからないが,いつまでたってもなじめない。それはともかくとして,まずまずのよいお天気で,一日炬燵でのんびりとしました。
 雪が見たくなった訳ではないが,「女王陛下の007」というのをDVDで見た。シリーズ六作目,2代目ボンド,ジョージ・レーゼン登場ということになっている。昨年は「猿の惑星」シリーズがBSで放送され幸い全作品をまとめて見ることができたので,今年はボンドシリーズを皆見るのも,いいかもしれない。
 「鄭世家 第十二 史記巻四十二」(新釈漢文大系)
この後,小国鄭は大国楚と晋の間で何度も揺れる。孔子が鄭にいたとき兄事していたという子産が登場する。博学で人格者であったので,その死を多くの人が悲しんだ。孔子は為泣曰,古之遺愛也。その後,鄭君の二十一年,韓の哀公が鄭を併合して滅ぼした。
 
 
2008年1月15日。火曜日。晴れ。旧暦12・8 きのえ とら 六白 先勝
 この冬一番の寒さになりましたが,不思議と風が吹いておりません。
 青空文庫で桑原隲藏「司馬遷の生年に關する一新説」を読みました。資料が少ないのですが,その資料の解釈により,若干の違いが出るようです。
 「趙世家 第十三 史記巻四十三」(新釈漢文大系)
 趙氏之先,秦と祖を共にす,とある。悪来と季勝の兄弟があり,悪来から秦が,季勝から趙が起こる。趙氏の中で,趙衰は重耳に事え,多くの進言を行う。「文公の国に反り及び覇たる所以は趙衰の計策多し」ということである。趙衰は死後成季と呼ばれた。成季にかわって国元では趙盾が政治を行った。
 
2008年1月16日。水曜日。晴れ。旧暦12・9 きのと う 七赤 友引
 今日は昼前から寒くなった。木枯らしも吹いている。暖冬の夢は破れ,いつものような冬が来るのだろうか。
 青空文庫で「星の王子さま」を読んだ。といっても青空文庫版は,新訳で,タイトルはあのときの王子くん」,訳者は大久保ゆうさんである。(原題:LE PETIT PRINCE,原著者アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリ Antoine de Saint-Exupery) どうやらPETIT PRINCEというのは,王子といよりは大公に近いようだが,たった一人しか住んでいなかった,星の住人というメルヘンだから,王子さまでも構わない。星というのは太陽のように核融合反応が起こっていて灼熱地獄だろうから,人など住めないから,惑星か小惑星といったところであろうか。それはともかく異星人だから,ウルトラマとか古いところではエイトマンなどと同類かと思われるが,怪力や超能力をもっているわけではない。可憐な少年似過ぎないが,メルヘンであるから蛇やキツネと話ができる。特にキツネとの対話は感動的であるので未読の人は是非読んでみられるといい。
 「趙世家 第十三 史記巻四十三」(新釈漢文大系)
 敬候元年に趙始都邯鄲(趙始めて邯鄲に都す)。その後成候二十一年に魏我が邯鄲を囲み,二十二に魏の恵王が邯鄲を抜く。(攻略したこと。)二十四年に斉が魏を敗り,魏は邯鄲を返す。
 趙は南に魏,韓,東に斉,北に燕と,他国に囲まれているのでいざ戦いがはじまると油断ができない。
 
2008年1月18日。金曜日。晴れ。旧暦12・11 ひのと 九紫 仏滅 土用
 連日寒い日が続いております。特に夜はよく晴れていて,その分,射すように冷たい空気が真冬であることを自覚させてくれております。このように,暑い夏と寒い冬が交互にきて,暑さ寒さも彼岸まで,と言いながら彼岸が待ち遠しいのも例年のとおりであります。 
 「趙世家 第十三 史記巻四十三」(新釈漢文大系)
 武霊王の十六年,ちょうど秦の恵王が亡くなった年,他日,王夢見処女鼓琴而歌。詩曰
“美人熒熒兮(けいけいたり),顏若苕之榮(てうのはなさけるがごとし)。命乎命乎(めいなるかな,めいなるかな),曾無我嬴!(かつてわれをえいとするなし)”
 苕:豆類,えんどう と注にある。
 
 
2008年1月19日。土曜日。晴れ。旧暦12・12 つちのえ うま 一白 大安 さんりんぼう
 暖かくはないが,まずまずのお天気。土曜日の大安で,いつも通る結婚式場はさぞ賑やかであろうと想像するが,この季節では,よいお天気にといってもよいだろう。
 土曜日は怠け者には最も快適な日である。怠惰な日を送って,脳を休ませるのも,また一つの健康法ではないかと思う。放埒な読書に耽るのも,更によい。湯川さんの「物理学講義」(講談社学術文庫)を拾い読みしていたら,ニュートンのところで,ケインズの話がでてきたので,世界の名著「ケインズ ハロット」で,ケインズについて読んだ。イートン校の大秀才が,ケンブリッジのキングスカレッジで挫折するところに感動した。子どもが買った本に何かなかったかと,日の射さない書庫に入って探してみると,古川洋「ケインズ」(ちくま文庫)というのがあった。あまり早く読むと記憶に残らないので,一週間くらいかけて読んでみよう。
 「趙世家 第十三 史記巻四十三」(新釈漢文大系)
 武霊王というのはなかなか賢者のようで,その言動が活写されている。胡を討つのに胡服を採用する。反論者を理路整然と説得するところは見事である。以書御者不盡馬之情,以古制今者不達事之變(書をもって御する者は,馬の情を尽くさず,いにしえをもって今を制する者は事の変に達せず)という諺を引用したりする。当然のことながら,戦果も上首尾である。

 
2008年1月20日。日曜日。晴れ。旧暦12・13 つちのと ひつじ 二黒 赤口
 朝からずっと雪が降っております。下界へ降りて行くと霙で,どこにも積もってもいないのに,こちらは屋根や,草の上が白くなっていますから,百メートルほどの標高差がこんなにも影響するものかと愕いた次第です。時折,牡丹雪になりながら,ずっと降り続いて,午後には道路まで積もってしまいました。それでも,夕方には雪解け水が樋を伝う音が聞こえていたのですが,夜になるとそれも消え,屋根瓦の上に厚く積もって,まだ降っております。明日の朝の気温が下がらなければいいのですが・・・・。
 「趙世家 第十三 史記巻四十三」(新釈漢文大系)
 武霊王は二男の恵文王に譲り,隠居して主父と称して秦に敵状視察に行ったりする。長男の章を安陽君として封じ,田不礼を宰相として付けた。忠臣たちは二人が反乱を起こすことを心配するするが,その通りになった。しかし,よくこれを防ぎ,章と田不礼を殺した。ここまでの記述は,これまでの流れに沿っていて納得できるが,次にまったく逆の記述に遭遇し面食らう。主父まで殺すとなるのである。ここはどうみても別資料の混在だと思われる。
 恵文王の時代は蓁、斉、燕など周辺諸国との交戦も慌ただしいが、恵文王の三十三に王はなくなり、太子が、孝成王となる。
 孝成の四年に韓が上党を守り切れないので、献上すると言ってくる。平陽君は「聖人は、甚だ故なきの利を禍とす。」と言って断ろうとします。ただほど高いものはない、というわけですね。しかし、平原君のほうは承知します。結末の蓁の攻撃のほどはあまり詳しく書かれてはおりませんが、蓁に攻撃され趙兵四十万人が穴埋めにされたということで、孝成王は平陽君の言を採用しなかったのを後悔したとあります。
 孝成王は二十一年に亡くなるが、その前年に蓁では後に始皇帝となる蓁王政が王位についている。その後、悼襄王、幽繆王遷と続くが遷の八年、すなわち西暦紀元前228年10月、蓁に降伏して、邯鄲為蓁。かくして、祖を同じくする蓁に滅ばされた訳である。
  
 
2008年1月21日。月曜日。曇り。旧暦12・14 かのえ さる 三碧 先勝 大寒
 昨日一日中(寝るまで降っていた)降っていた雪は今朝未明には止み,ポタリ,ポタリと水の滴をたらしながら,融けておりました。
 でも,一日中曇りで,そのまま氷になってしまったところもあるようです。
 網野善彦さんの「日本の歴史をよみなおす」(筑摩書房・プリマーブックス)を読む。「たとえば室町期,十四,五世紀にできた村や町のあり方が,今や崩壊といってもよいほどの大きな変化にさしかかりつるあることは疑いないと思いますし,人の意識の上にも大きな変化おこりつつあります。病気のとらえ方,動物に対する接し方の変化などに見られるように,人間と自然とのかかわり方がいまや人類的な規模で変化しつつあることのあらわれが,日本の社会にもはっきりとおこっています。」(p.233)
 そういうことである。少し考えてみるだけで,大きな転換期であろう。家族,家,教育,読書・書物,労働,農業・・・何をとってもいい。確かに大転換の時代に遭遇しているようだ。しかし,すぐにある日突然変わるわけではない。親から子へ,子から孫へと,継承されながら廃れるという形で,じわりじわりと変わって行っているのだ。そして長い目で見れば大転換であろう。
 
 
2008年1月22日。火曜日。曇り,午後雨。旧暦12・15 かのと とり 四緑 友引
 木々の間から雪解け水がぽたりぽたりと落ちて冷たい空気に覆われている日でしたが,午後になって小雨も降り出して,ますます寒くなりました。
 自動車で通勤するからいいようなものの,寒がりの小生にとっては外は寒そうでした。網野さんの大転換のひとつに車社会を挙げてもいいと思います。小生の住む住宅団地も,車がなければ,ただの山だったところです。老後の脱車になったときには,他のところに移るしかありません。すなわち,住めないところに住み,老後を見る子どもと住まないという,ついこの前までは考えられなかったことを,多くの国民がしているのですから,これを大転換と言わずして・・・,と思います。
 「魏世家 第十四 史記巻四十四」(新釈漢文大系)
 前史とも言える文候が即位したのは,秦の霊公と同じ年である。その文候が李克に宰相の人事で尋ねたとき,李克の名答がある。「居ればその親しむ所を視,富めばその与ふる所を視,達すればその挙ぐる所を視,窮すれば其の為さざる所を視,貧しければ其の取らざる所を視る。五つの者,以て之を定むるに足る。」論語にでもでてきそうな名文である。文候の後が武候で,その後が恵王である。

 
 
2008年1月23日。水曜日。小雨。旧暦12・16 みずのえ いぬ 五黄 先負
 せっかくの冬空の満月は昨日今日と小雨で見ることができません。それに寒い日でした。
 「魏世家 第十四 史記巻四十四」(新釈漢文大系)
 孟子に出てくる梁の恵王というのが,この魏の恵王である。恵王が孟子と会見するのは,三十三年のことである。三十一年に,秦,趙,斉が「共に我を伐つ」ということで,ともに魏を襲ってきて,大敗した後のことである。恵王は謙虚で,また自信をなくしており,「千里を遠しとせず,かたじけなくも幸いに弊邑の廷に至り」と慇懃に迎える。「何をもってか我が国を利せん」と問えば,孟子は「上下,利を争えば,国すなわち危うし。人君たるものは,仁義のみ。何ぞ利を以てなさん」と有名な答弁をする。
 恵王は三十六年に亡くなり,襄王が即位した。
 
2008年1月24日。木曜日。曇り。旧暦12・17 みずのと い 六白 仏滅
 平山郁夫美術館に猪が来たということだ。イノブタが繁殖し,生口島橋を渡るとか,海を泳いで隣の島へ行くとか,数年前からよく噂になった。本当にいるんですねエー
 「魏世家 第十四 史記巻四十四」(新釈漢文大系)
 恵王の後の系図には混乱があるようである。その頃と,さらに後代を飛ばして,魏末には有名な,信陵君(無忌)が登場し,献策に戦闘にと活躍する。しかし,魏はそれを活用できない。これが魏の衰亡した原因だという世評に対して司馬遷は秦が統一しようとするのは天命だから,如何ともしがったと書く。国が亡びるときは,そのようなものであろう。人材がいてもそれを用いるだけのバックが既に傾いているのだ。似たような例がローマ帝国の末期に何度も出てきた。遠く離れて見れば,滅ぶべくして滅んだように見える。あたかも天命のように。司馬遷はそう言いたかったのだと思う。
 
 
2008年1月25日。金曜日。曇り。旧暦12・18 きのえ ね 七赤 大安
 今日はDVDでグレゴリー・ペック主演の「大いなる西部」Tge Big Country を見た。主題は西部の価値観に反した平和主義・非暴力主義を貫く男のヒューマンストリーであるが,広大な乾燥した原野で牛を飼うという,アメリカ牧畜の一面を描きながら,開拓者のメンタリティーもよく描かれていたと思う。そして荒々しい自然も。 
 「韓世家 第十五 史記巻四十五」(新釈漢文大系)
 韓世家は短いのですが,前半にひとつ面白い話があります。秦と楚にはさまれてどう生きるか,という難しい問題で,韓はしくじります。宣恵王の五年に秦では張儀が宰相になります。一六年に韓は秦に大敗を帰し国難になります。宰相公仲の進言にしたがい秦に和睦しようとします。楚では遊説の徒陳軫が奇策を授けます。楚王はすぐに実行し,韓を助けると称して多量の贈り物をもって行かせます。韓では公仲が「実をもって我を伐つ者は秦なり。虚名をもって我を救う者は楚なり」と言って王を諫めますが,公仲の言を採用しません。「秦因って大いに怒り,甲を益して韓を伐ち,大いに戦う。楚の救,韓に至らず」で韓はますます疲弊します。
 
2008年1月26日。土曜日。晴時々曇り。旧暦12・19 きのと うし 八白 赤口
 日曜日に降った雪がまだ残っています。日中の気温があがらないせいです。今日も最高気温は8℃くらいだったのでしょうか。冷たい空気でした。
 「韓世家 第十五 史記巻四十五」(新釈漢文大系)
 韓は秦魏楚に鋏まれた小国であるから,絶えず周辺の国の出方を伺っていなければならない。こういう国では,よっぽどの名君か天才的な政略家でもいないと,大国と互していけない。そういう意味でいえば,目立たないが長く続いたとも言える。だから,特別の逸材はいなかったが,まずまずの人たちが周辺にいたということは言えるのではなかろうか。
 
2008年1月27日。日曜日。晴時々曇り。旧暦12・20 ひのえ とら 九紫 先勝
 昨日久しぶりに月を見ました。まだまだ明るいのですね。それから朝六時頃明るい星が出ています。かなり大きく見えます。 
 今日も寒かった。一月の月末ですから,二月と変わりませんね。寒いのはあたりまえかも知れません。逼塞という言葉がよく当てはまるような生活をしておりました。
 「田敬仲完世家 第十六 史記巻四十六」(新釈漢文大系)
 完が斉へ出奔したのは,斉の桓公の即位十四のことであった。「完が死んで,諡して敬仲と言った。」ということである。また,「敬仲は斉へ行ってから,陳の字を改めて田氏とした。」とある。これが,「田敬仲完」の意味である。だから,タイトルからしてこれまでの封建国家を扱ってきた世家と異なるのである。以下,孔子世家と続くのだから,世家とは国家のことかと思っていた考えを変更しなければならない。
 田氏は斉の宰相を何代にもわたって勤めてきた。そして斉候の後継者を自分の思うようにしたり,他のライバル家臣を殺したりしてきた。そしてついに康公のときになって,田太公が康公を海浜に遷し,魏の文公に諸候にしてほしいと頼んだ。これを周の天子が許可したので康公の十九年「田和は立って斉候となり,周室の諸侯の列に連なり,改元して元年と定めた。」ということである。これが田斉である。
 
 
2008年1月28日。月曜日。曇り後雪。旧暦12・21 ひのと う 一白 友引
 午後から雪が降り出して,夜になると積もってきました。今も音もなく降り続いております。先週の日曜日と同じような調子で。明け方止んで,気温が上がればこの前のように融けるのですが,どうなることやら。
 「田敬仲完世家 第十六 史記巻四十六」(新釈漢文大系)
 田和の子が桓公である。桓公の子が威王である。威王は9年間政治をしながいが,やりだすと的確にやる。名君である。そのエピソードが多数記される。威王は36年に死ぬ。その子が宣王である。宣王もよく部下を用いる。また「宣王文学遊説の士を喜ぶ」ということで,「斉の稷下の学士また盛んにして,まさに数百千人ならんとす」ということであった。宣王は19年で死に,その子が湣王(びんおう)である。
 
2008年1月29日。火曜日。曇り。旧暦12・22 つちのえ たつ 二黒 先負
 朝起きると,昨夜来の雪は止んで,どんどんと融ける音がしていたので安心しました。車も安全に進めることができました。でも,こくらいで雪はやめにしてほしいものです。
 「田敬仲完世家 第十六 史記巻四十六」(新釈漢文大系)
 鶏鳴狗盗の孟嘗君君の姓は田氏で名は文。ここで出てくる。食客数千人といい,列伝で秦脱出の話は面白可笑しく書かれているが,果たして大人物であったのであろうか。
 それから,唇亡びて歯寒しの名言が,ここでも出てくる。周子が王建に献策するときだ。趙の斉と楚に対する関係が唇と歯の関係のようなものだという。今日趙が滅亡したら,明日禍いは斉と楚に及ぶから斉を応援しなければならないという訳である。勿論秦に対して。しかし斉王はそれを採用しない。やがて,斉も秦の傘下に入り,戦国時代も終わる。そこのところは,「遂に斉を滅ぼして郡と為す。天下,壱に秦に併せられる。秦王政,号を立て,皇帝と為す。」紀元前221年のことである。
 以上で,新釈漢文大系86 吉田賢抗著 史記六(世家中)を終わる。
 
 
2008年1月30日。水曜日。曇り。旧暦12・23 つちのと み 三碧 仏滅
 少し暖かくなったが,また明日からは寒くなりそうである。
 「孔子世家 第十七 史記巻四十七」(新釈漢文大系)
 いよいよ新釈漢文大系の世家下に入る。すなわち,残り2/3となった。
 孔子の伝記であるので,発端の全文を記しておこう。
 孔子生魯昌平郷陬邑。其先宋人也,曰孔防叔。防叔生伯夏,伯夏生叔梁紇。紇與顏氏女野合而生孔子,禱於尼丘得孔子。魯襄公二十二年而孔子生。生而首上圩頂,故因名曰丘云。字仲尼,姓孔氏。
 孔子は魯の昌平郷の陬邑に生る。其の先は宋人なり。孔防叔と日ふ。防叔,伯夏を生む。伯夏,叔梁紇を生む。紇,顏氏の女と野合して,孔子を生む。尼丘に禱り,孔子を得たり。魯の襄公二十二年にして孔子生る。生れて首上圩頂(しゅじょううちょう)なり。故に因って名づけて丘と日ふと云ふ。字は仲尼,姓は孔氏。