2019年7月14日日曜日

高等学校における生活単元理科

 

 

 
1 新制高等学校

戦後教育は、昭和21年(1946年)3月のアメリカ教育使節団の調査および勧告、ついで教育基本法、学校教育法の公布に始まる。これらの法律により、高等学校が新しく発足し、単線型の教育制度が始まった。アメリカ教育使節団の訪問は、第一次(昭和21年3月)と第二次(昭和25年8月)がある。また、これに先立つ昭和20年9月22日にCIE(民間情報教育局)が設置された1)

新制高等学校は、昭和23年(1948年)4月から、発足した2) 。戦前の中学校、高等女学校は高等学校となった。戦前の高等学校と区別するために、新制高等学校と呼ばれる。本節では、新制高等学校の教育目標を明示するとともに、教育目標と生活単元理科との関係を考察する。

新制高等学校の成立は、戦後の教育改革のなかの画期的な出来事であるとともに、前例のない新制度であっただけに、模索とともに大きな期待も寄せられた。文部省の担当者の意気込みの中でも、科学的精神の涵養や、教師の自主的な指導などが当初目論まれていた3)
教育課程についてみると、国語、社会、体育が必修教科で他は選択教科になっている。選択教科である理科は、物理、化学、生物、地学のうち1科目5単位が必修である4)

これは、上記の教師の自主性とも関連することであるが、新制高校を多様で自由な発想の学校にしようとしていたことが伺える5)。 それは、学習法においても同様で、教師の一方的な講義や説明ではなく、生徒の経験的学習が進められるよう求められている6)
 
新制高校の最初の原則として生活単元があるが、それは、戦後の新制高等学校が、以前のような、上級学校への進学準備とは異なり、大衆教育として考えられていたからである7) 。授業の展開の仕方については、生徒が教師とともに計画を立てることが目指されていた8)。 生徒主体の活動は、アメリカ教育視察団報告書の「子供の持つはかり知れない資質は、自由主義という日光の下においてのみ豊かな実を結ぶものである。」(報告書序論)9)という主張に通じるところがある。その具体的活動については、自分の住んでいる世界について科学的に探究・理解し、それを生活に役立てることが求められた10)。 また、文部省学校教育局の大照完は、理科教育における実験観察などの意義を強調している11)
 
しかし、このような理想がそのまま現場に受け入れられたのかというと必ずしもそうではない。そのあたりの事情を、学校教育法の起草段階から事務に参加していた、文部省の安嶋彌は、当時の状況を「新学制の肉づけが、大体でき上がるには、十年かかった」と回想している12)
2 生活単元理科の時代

寺川智祐や、根本和成が記しているように、小学校、中学校とともに、高等学校も、戦後の理科教育は、生活単元理科であった13)
昭和23年の高等学校学習指導要項(試案)時代、さらにそれが徹底された昭和26年改訂版の時代が、高等学校における生活単元理科の時代である。
『昭和31年度改訂版 高等学校学習指導要領理科編』(昭和30年出版、昭和31年度から実施)では、学習指導要領で規定する学習内容に、「生活に関係深い物質」「産業上重要な物質」が多数選ばれている。しかし、「単元と展開例」(昭和27年)から「内容」「留意事項」(昭和31年度)へと学習内容の提示の仕方がより明確になり、単元という言葉は使用されなくなった。この改訂は、「生活単元学習から系統学習へ」の転換として理解された14)
この学習指導要領は、昭和31年度の1学年から学年進行で実施されたのであるから15)、 それまでの期間が、高等学校における生活単元理科の時代ということができる。
3 生活単元理科

高等学校における生活単元理科の実態として、吉本市は、昭和22年より昭和30年頃までの高等学校理科について、「方法論として、経験単元、あるいは教材単元による学習理論も幾分かは取り入れられた。(当初の教科書はしたがって、単元としていくつかにまとめたものが出版されている。)しかし それは到底本来の意味で、高等学校の課程には入りえなかったし、また教師の側も受け入れなかった。そして自然に戦前と同様な内容形式にもどっていったのである。」としている16)

このような事情を考慮すれば、高等学校の生活単元理科を、小学校、中学校のものと同列に扱うことはできない。もちろん、本来の意味での生活単元学習を目指した理科教育も実践されており、報告されているのも事実である17)。 
 
 
引用・参考文献
1) 木田宏監修、『証言 戦後の文教政策』、第一法規、1987、p.39
2) 大田堯編著、『戦後日本教育史』、岩波書店、1978、p.142
3)「三 新制高等学校の教育目的」の中に「理科教師は抽象的事実を教えるのではなく、理科は社会にどんな貢献をしているか、いろいろの事実探究・調査研究のために科学的方法を採用すべきかを教えなければならない。」と記されている。また、「生徒は近代生活における 科学の地位を充分理解して、自分の研究のために科学的調査方法を採用する。」とある。大田周夫、「新制高等学校制度の概要とその教育目的」、文部省担当官共著、『新制 高等学校の教育』、尚学社、1948、p.12
 また、「新教科課程においては文部省は大体の基準だけを示し、ここの場合については教師の自主的工夫にまかせ、生徒も自己の特性に従って、ある程度教科の選択ができ、十分に各自の創意工夫が発揮できるように作られた。」と記してある。野村武衛、「新制高等学校の教科課程について」、 文部省担当官共著、『新制 高等学校の教育』、尚学社、1948、p.29
4) 野村武衛、「新制高等学校の教科課程について」、文部省担当官共著、『新制 高等学校の教育』、尚学社、1948、p.33
5) 上掲書4) 、『新制 高等学校の教育』、p.34
6)「生徒は学習にあたって問題を発見し、それを解決するために自らの計画を自らたてなくてはならない。そしてこの計画によって時には行動によって、時には表象的に種々な試みを重ねて、自らの理解に到達しなければならないのである。」青木誠四郎、「高等学校教育に於ける学習指導」、文部省担当官共著、『新制 高等学校の教育』、尚学社、1948、p.58
7) 倉沢剛、『中等カリキュラム』、誠文堂新光社、1950、「はじめに」p.1
(なお、ここでは、中学校としているが、本書は中学校、高等学校を対称としたものであり、 高等学校についても同じ考え方とみなせる。)
8)「新制高等学校の生徒は、学校での活動についてその目標を定め、計画をたて、これを進 行させるのに、他の人々と共にその責任をとることを学ばせなければならない。教室に限らず、学校全体を通じて、生徒活動の計画は教師と生徒の協力によって立てる。」 文部省学校教育局、『新制高等学校教科課程の解説』、教育問題調査所、1949、pp.7-8
「実際的な問題を大いに重んずるのであるが、この場合に、その重点は成長にあるのであって教科にあるのではない。」(同書 p.13)そして、「新制高等学校のの生徒には、自分達の学習や作業を計画し目標づけることを自分でやるように、奨励してやらなければならないのであって、それが知能の発達になる。生徒活動の多くは、プロジェクトまたは小グループ・プロジェクトの形で行われることが大切である。」(同書p.14)
9) 教科教育百年史編集委員会編、『原典対訳 米国教育使節団報告書』、建帛社、1985、p.15
10) 文部省学校教育局、『新制高等学校教科課程の解説』、教育問題調査所、1949、pp.14-17
11) 大照完、『新制高等学校の制度と教育』、旺文社、1948、pp.51-52
12) 前掲書1)、『証言 戦後の文教政策』、p.77
 制度に対して、現場が対応できなかったことは以下のような文献からも伺うことができる。 「新制の高等学校は昭和二三年度から発足することとなっていたので、昭和二二年の最初の学習指導要領は主として小学校および中学校を対象とするものであった。しかし現に旧制中等 学校の生徒で新制高等学校の第一・二・三学年に相当する者は相当学年の教科を学ぶこととなる関係もあり、文部省は昭和二二年四月七日付の通達で「新制高等学校の教科課程」を明らかにした。これは「学習指導要領」一般編第三章(教科課程)の補遺として通達したものである。これによれば高等学校にも教科として「社会科」がおかれ、第一学年では必修教科となっている。この教科課程は昭和二三年一〇月に改正され、さらに昭和二四年六月の改正を経て、昭和二六年改訂版「学習指導要領」に至っている。その一般編では小学校・中学校 と並んで高等学校の教育課程も示され、また各教科別の学習指導要領は小学校学習指導要領と中学校高等学校学習指導要領とに分けて作成されている。」 仲新、『日本現代教育史』、第一法規出版、1969、p.349
13) 前掲書24)、p.57 また、前掲書22)、p.198
14) 伊藤信隆、「高等学校理科の学習指導要領・教科書の変遷」、日本理科教育学会編、『現代理科教育大系 第3巻』、東洋館出版社、1978、p.381
15) 文部省、『高等学校学習指導要領理科編昭和31年度改訂版』、大日本図書、1955、まえがき
16) 吉本市、『理科教育序説』、培風館、1967、p.180
17) 堀田正信、「本校理科カリキュラムについて」、『理科の教育』、Vol.3、1954、pp.397-399