重井教育史抄 第1回
150年以上の歴史を持つ重井小学校と、併せて戦後の重井教育のもう一つの柱であった重井中学校が来年3月末で閉校する。そこで重井教育について振り返ってみたい。井上一次先生が編集された『白滝教育百年のあゆみ』には、なぜ白滝教育と呼ぶのかは、書かれていない。そこで思いつくのは白滝山伝六のことである。
先月紹介した「反省の泉」に連載された柏原舒延先生の論考によると、伝六さんの初期の仕事に「功過自知録」という道徳の点数化を広めたことがある。これは伝六と同じ頃生まれた広瀬淡窓が天領日田(現大分県日田市)の漢学塾で塾生たちとともに実践したものと同じものである。その根底には「積善余慶」の思想があり、白滝山の石仏に寄進するのも積善であった。その伝統は明治以降も連綿と続き、村の経済では考えられないような立派な木造校舎が次々と建てられていった。もちろん日常生活を貫く道徳心も同様であったと思われる。このように伝六さんの仕事が重井教育の根底にあると考えるのであれば、重井教育を白滝教育と呼ぶ意義は十分あると私は思う。さて、明治以降の公教育は、十六小区因島では重井村の「振徳舎」と田熊村の「研幾舎」の2つが明治6年4月に県によって認可された。場所はそれぞれの村のお寺であったから、寺小屋と紛らわしい。もちろん長い寺小屋教育の地盤の上に認められたのであろうが、それ以前の寺小屋や私塾とは違う。明治5年8月の明治国家の法律「学制」に基づく公教育の始まりであった。このことは重井村や重井小学校の歴史であるのみならず、因島の公教育の記念すべき歴史である。「村立」とか「小学校」と言う言葉が一般的でなかった時代であったので、校名や制度は新しい法律とともにめまぐるしく変わるのであるが、とにかく明治近代国家における公教育は、このようにして始まった。図は認可を伝える文書の一部。(『因島市史』、p. 892による。)
重井教育史抄 (2) 2026 2月
昭和28年に何が起こったか? 5月1日に因島市が誕生した。御調郡重井村から因島市重井町に住居表示が変わった。一見、村が町になっただけのように見える。しかし現実は重井村という地方自治体は消滅し、重井町は住居表示であっても地方自治体ではなくなったのである。だから小学校も中学校も重井町立ではなく因島市立となった。このことは従来の重井教育・白滝教育という言葉が根本的に意味をなさなくなったと考えてよい。あえて言えば、重井教育ではなく因島教育の時代になったのである。因島市を構成する元の町村でも事情は同じであった。歴史と児童・生徒数に違いがあるものの、因島教育というべき普遍化に向かうのが法の上での平等というものである。さて、ここで因島市立重井小学校へ目を向けると、聞き慣れない因島市というものを子供たちに理解させるために、児童会活動を地域のシンボルであった白滝山にちなみ、白滝市と名付け、児童会長を白滝市長と呼び、児童(白滝市民)の選挙で選ぶというような、白滝市活動が登里豊校長により提案され実践された。このユニークな活動は、ラジオ、テレビ、新聞、雑誌等で報道されたり表彰されたりした。子供達はますます熱心に活動するとともに、保護者・町民からも支持され協力があったことは多くの人の記憶に残っている。確かに因島市の市政の一端は子供達にもよくわかった。しかし子共達の視線は因島のことよりも重井小学校の活動に集中した。保護者・町民の視線も同様であったであろう。すなわち、ここで死語となるはずであった重井教育という言葉が復活した。重井教育・白滝市教育として。だから重井村時代を含めて重井教育・白滝教育という新たな伝統が生まれたのであった。写真中央は村上泰通初代白滝市長と登里豊校長。その後ろは安松延二初代因島市長。
重井教育史抄 (3) 2026 3月
昭和40年2月24日白滝市10周年記念式典が行われ、その後、記念植樹や記念駅伝大会があった。記念式典には麓因島市長の他に、土生小学校児童会会長の中根範之君らが祝辞を述べている。(写真)誰もが想像するように、この活動が長く続き益々御発展することを祈念しますと締めくくられたに違いない。しかし、物事には始めがあれば終わりがある。期待通りしばらくは白滝市活動は活況を示したことであろうが、やがて終わった。それはこれと言った原因があった訳ではなく終わるべくして終わった。重井小学校はこの年の6年生が3クラス最後の学年となった。白滝市活動の中心となる6年生のクラス数の減少は組織の変更を要したであろうし、下級生の参加する活動を含めて以後児童数の減少への対応は大変なものだったと思う。しかしそれだけが活動の終止の原因ではない。それはこの活動が始まった時点に帰って、1、この活動は普遍の制度として長く続ける予定であったか、2、この活動は他校にも広げる実験的実践研究であったか、と問うてみればわかる。どちらも否である。だからこそ、そういう月並みな教育実践と異なるユニークな活動として世評を高くしたのであった。10年間の成果を振り返れば創業時の熱気をさらに維持することの難しさを実感した教職員は多かったと思う。それに因島市ができて10年も経てば重井村時時代の風潮から離れ、市議会とか市長選挙と言うのも当然のこととして話題になる。すなわち因島市と言うものを理解させると言う当初の目的はもはや必要でない時代になっていた。そのような中で伝統ある実践を廃止することは難しいのであるが、鼓笛隊(後のトランペット鼓隊)が充実してくるとともに、「伝統」のバトンタッチが行われるのはやさしかったのではなかろうか。
重井教育史抄 (4) 2026 4月
振り返ってみれば、戦後の新教育の時代の重井小学校を象徴した白滝市活動の伝統をトランペット鼓隊(当初は鼓笛隊)が見事に継承した。その鼓笛隊の設立の由来を思い出してみたい。重井(村・町)出身で大阪で牛乳販売業を営んでいる人たちの同郷団体である大阪白滝会の方から15万円が寄付さたことに因む。60年前の15万円なら、今では150万円ぐらいの価値があったと思う。「大阪白滝会の方から」と言う表現は、「大阪白滝会からの寄付」と考えるのが普通であろうが、会員一人の個人的な寄付とか、あるいは数人の有志の寄付というのは考えられないであろうか。というのは、都会の子に引けを取らないような活動に使ってほしいと言う付言が個人的な思いのように感じられることと、50周年記念誌を刊行した際、大阪の関係者に問い合わせたところ記録が無いということだったからである。もちろん50年も前のことだし、完璧な調査とは言えないので記録が無いことで事実が無かったとは断定はできないが。明確なことは、鼓笛隊の活動にと指定されたものではなかったと言うことである。その活動を鼓笛隊と決めたのは学校側であった。また、都会の子に引けを取らないような活動をと言う寄付者側の思いを無視するわけではないが、鼓笛隊活動の目標として明文化することは、常識的にはありえない。また、児童に対して説明されたことはなかったのではないかと想像する。それはともかくとして、この15万円の寄付がなかったら、トランペット鼓隊は誕生してなかった。その後の60年間の華々しい校内外の活動については、当事者である卒業生、保護者、町民のよく知るところであるし、多くの記録が残されている。写真は交通事故防止県民総ぐるみ運動賛助出演(昭和52年12月)のようすで、2台の白バイに先導され、後ろにはパトカーが保護している。私は、15万円の寄付者も、都会の子供に引けを取らないような活動をと言う思いも、大阪白滝会の総意か、有志あるいは個人のものなのかを確定する材料を持たないし、60年にわたる活動のどの程度が大阪へ伝えられたのかも知らないが、その善意も思いも60年の活動は十分に報いることができ、達成することができたと思う。
(因島重井町文化財協会・柏原林造)