ふるさとの史跡をたずねて(231)
大出家先祖碑(因島大浜町)
因島大浜町の見性寺で久保田権四郎夫妻の墓にお参りしたら、さらに上に登り右側に続く小道を経て道路に出よう。少し上の右手に大出家の先祖碑がある。
それには「大出先祖太郎左衛門碑」と記されている。この人物について、重井町に残る資料から推定してみよう。永享元年(1429)に北面に勤仕した大出左衛門太夫藤原清宗の嫡男大出太郎太夫藤原宗高と弟の次郎太夫は諸国歴訪ののち因島に来た。兄は重井に住み、弟は南部に住むも、北部に移る。兄の方を重井大出氏の初代とする。2代の大出太郎太夫藤原護良の弟に大出太郎左衛門の名が見える。
この人物が大浜大出氏の祖ではないかと思われる。
一方、5代の子三郎右衛門昭信が寛永6年(1629)に分家し大浜村に移住し大浜大出氏の初代となったとする記録もあり、これら2つの関係は私にはわからない。
先祖碑の裏面には五代茂平の隣に大阪権四郎とある。
ふるさとの史跡をたずねて(232)
白滝山庫裏(因島重井町白滝山)
白滝山山頂の管理事務所は平屋造りであるが、本瓦葺き二層の屋根をもつ珍しいものである。しかし、写真からもわかるように屋根面は歪んでおり老朽化が目立つ。大正5年7月に再建が決まり、同8年4月に竣工した。その後、多少は手が入っているものの基本的には当時のままで、この状態で今後10年保つとは思われない。
この建物の建設費の一部に久保田権四郎翁の寄付金が使われている。この事業は白滝山庫裏鐘楼再建として重井村によって行われたが、多くを個人の拠金にたよっている。
総額1960円27銭のうちの大阪連中465円50銭で、その中に「一、金30円大阪市玉出久保田鉄工所」と寄付芳名録の京都大阪部に記録されている。
庫裏再建724円11銭、鐘楼再建431円93銭、上棟式490円99銭、寄付塚118円75銭、羅漢供養39円3銭の大事業であった。なお、鐘楼は平成7年に新築されたので、この時再建された姿を現在見ることはできない。
権四郎翁の事業は、大正2年には従業員は1200人を超えており、更にこの頃、鋳物、鉄管だけでなく機械部門へと進出し拡大を続けていた。
ふるさとの史跡をたずねて(233)
一番霊場改築寄付碑(因島大浜町霊山寺)
因島四国八十八箇所霊場は、『ふるさと三庄』によると、「明治45年(1912)因島重井の大師講連中の発起で島内八十八ケ所に堂宇を設立し、大師入寂の旧3月21日を期して巡拝を始めたのが始まりである」ということである。それから既に百年以上が経過しているのだからお堂の多くは再建、あるいは再再建されているであろう。
灯台近くにある大浜町の一番霊山寺も、立派なお堂で、これが明治末年のものとは考えにくいので、再建されたものだということは一目でわかる。古いお堂を私は知らないのだが、防波堤のない海岸にあったということだ。そして現代のものは防波堤の内側には昭和五十九年に建てられた。
さて、お堂の前には写真のような「第一番霊場改築寄付芳名」の石碑がある。
筆頭は「一、金二百円久保田権四郎」である。ところで久保田権四郎翁は昭和34年11月に亡くなっておられるので、この石碑が現在のお堂が建てられた時のものではないことは明らかであろう。すなわち海岸のお堂が改築された時のもので、現在のお堂とは関係なさそうである。
ふるさとの史跡をたずねて(234)
駒島大明神(因島大浜町押場)
西洋館、重井のお宮、中庄のお宮、大浜の灯台、外浦の干拓、鏡浦の海岸、そして最後が奥山。・・幼稚園や重井小学校のかつての遠足の行き先。こういう風に、だんだん遠くへ行くのが春の遠足のパターンだった。その頃は舗装はされていなかったが、道路は歩くためにあった。そして初夏になる前だったら炎天下を歩かなくてよいし、蛇と出会う心配もなかった。
島四国はそれ以前にできたものだから、今では想像できないようなところを歩いたに違いない。1番から2番への遍路道も山の中を通って、今のような海岸道ではなかったのではないか。しまなみ海道より南側の大浜崎公園にある番外札所らしき薬師堂の近くの道を、かつて灯台へ行く時に通ったと言う人がいた。
その薬師堂の近くに粗製箱式石棺(因島1号)というのがある。そこに「駒島大明神」の石碑があった。
石棺よりこちらの方が興味深い。でも、全くわからない。この近くの岩礁が馬に似ていて、それを駒島と呼んだのか、あるいは八重子島の別名か、などと妄想を抱くばかりである。大浜町の古地図にもそれらしき地名は出てこない。
宮城県塩釜市の松島湾の南部にある無人島に駒島というのがあるので、日本三景の松島の数ある島の一つであろうが、それ以上のことはわからない。
ふるさとの史跡をたずねて(235)
倉谷新開竣工記念碑(因島大浜町一区)
島四国2番極楽寺は大浜公民館の前である。と言ってもはじめての人には見つけにくい。前にもいろいろあるからだ。北側の橋の下へ行く道路の反対側の崖の下である。
お堂の前には崖にくっつくように、2つの石碑がある。一つは、「第二番大師堂新築寄付者」で昭和54年に建て替えられた時のもの。
もう一つはお堂からさらに離れて、同じように崖に接して「倉谷新開竣工記念碑」が建っている。
右側の側面に「文久二年三月起工 明治四年十月竣工 昭和八年九月建之」と記されている。文久二年は1862年だから実に9年半の歳月をかけた大工事だった。
大浜公民館、因島出会いの家、福山大学、因の島運輸車庫などのある一角で、第三久保田橋の架かる大川原までの国道317号線より海側。大浜町の国道より海側の干拓地としては最大のもので堤防も立派だ。
この大きな堤防(後に改修されたものだろうが)を見ただけでも当時の苦労を容易に想像することができる。
ふるさとの史跡をたずねて(236)
倉谷神社(因島大浜町沢崎)
島四国2番極楽寺から3番金泉寺へ行くには、国道へ出て第二久保田橋の跡のところで右折するのだが、第三久保田橋で右折して神社のところで左折し古い路地を歩くのも風情があってよい。
そこの神社が倉谷神社で、厳島神社かと思ったがそうではなかった。沢崎小宮とも言う。大河原(倉崎川)横の道は福山大学の連絡バスも走る幹線道路であるが、実は三代目である。それを私は古い順に大浜往還(古道、旧道、新道)と呼んでいる。大浜往還(古道)は尋常小学校に高等科が設置された時、重井村の方が少し早かったので、大浜村にできるまで大浜村の子供たちが通った山路である。村境の辺りから白滝山の登山道に接する。今でも重井町側はかろうじて通れる。
大浜往還(旧道)はかつてあった因島消防署因北分署の近くにある塞の神の所から入るが、しまなみ海道のところで今は消えている。この峠道を通ったことが一度だけある。中学を卒業した早春、三年間担任をしていただいた大浜町の河野高三先生のお宅へお礼に行って来いと言われ、単身自転車で向かった。最頂部は切り通しでできていて押して登った。怖かったが、無事倉谷神社の前に着いた時はほっとした。15の春の遠い記憶である。
この時のことを使った小話が偕成社から出版された時、それを読んだ母親が、ここのことでしょうと言った。母親というのは、切り通しより怖いものだと思った。
大浜往還(旧道)が、大浜中庄間の海岸道路の花壇にある新設道路開通記念碑に同時に記されている「自大濱村至重井村大池奥崩岩線」という道路で久保田権四郎翁の寄付によるものだったということを知ったのは、更に後のことであった。(126回参照)
ふるさとの史跡をたずねて(237)
河野静夫翁顕彰碑(因島大浜町斎島神社)
島四国3番金泉寺からは少し戻って、倉谷神社から南へ伸びる道をゆっくり歩こう。大浜町の町の美しさは家の美しさにある。いつの頃からか「大浜は家に、中庄は庭木に、重井は服にお金をかける」と言われているが、大浜町を歩くとなるほどと思う。が、重井町についてはどうだろうか。畑着と普段着とよそ行き着があって、滅多に着ないよそ行き着はいつも新しく、お金をかけているように見えただけだと思う。そんなことを考えながら家を見ながら歩いていると斎島神社の前に着いた。今回は河野静夫先生の顕彰碑を見ていこう。
斎島神社の石段を上がる。鳥居の手前で右側、鳥居の隣の一段上がったところを見て欲しい。
玉垣で囲まれた石碑があるだろう。これである。
南面には小さな文字でびっしりと書かれているのだが、緑青(ろくしょう)に似た色の苔やそれが枯れたのか黄色のものなどが文字を覆ってほとんど読めない。一番右側の「仙洲河野翁碑」というのがこの石碑のタイトルである。
河野静夫翁は医業の傍ら、明治7年から家塾を開き若者たちを指導した。また明治22年には私費で立生館を建てた。これは漢学を主とし、教師兼校長として水戸の宮田裕太郎、後任に兵庫県から尾野字一郎を招いた。月白米1俵は中庄村地蔵鼻にあった所有地産米を当てた。生徒は地元因島のほか、山口県、佐賀県、高知県、茨城県などから来て、40名に達した。明治35年8月1日静夫翁没後、同年末尾野字一郎氏の子息も亡くなり閉校した。
その他の静夫翁の顕著な仕事として、「若連中誓約書」「村定約」などを定めたことがある。また、公共事業にも積極的に関わり私財で道路や橋を改修された。
ふるさとの史跡をたずねて(238)
黄幡神社(因島大浜町黄幡)
河野静夫先生の顕彰碑からそのまま山道を上がると、幸崎城跡で芋神様として食饒神社が祀られていることは62回で書いた。そこを南西に向かって降りる。斎島神社の本殿の裏側あたりを西へ抜けると黄幡(おうばん)神社がある。
ちょっと見ただけでは、集会所か、ひと昔前の公民館のような印象であるが、よく見ればやはりお宮である。斎島神社のすぐ隣であるので斎島神社の境内神社か、あるいはかつては同じ敷地内であったものかなどと考えていたら、電柱の隣に社地の寄付碑があるので、全く別のものだとわかる。
黄幡神は方位神の八将神の一つで、武芸には吉、移転普請は凶とされる。その方角は十二支によって決まっていて、子年は辰(東南東)、丑年は丑(北北東)という具合だ。その年に、この方向に土地や石を動かすのは凶と言われる。戦いの方は、この方角に対して戦いを挑めば必ず勝つとも言う。
社地寄付碑の隣に久保田権四郎氏の寄付碑があった。大正14年7月のもので「一、金百円 久保田権四郎」とある。
現在の建物は昭和55年に改築されたもので、地区の集会所としても使用されている。
ふるさとの史跡をたずねて(240)
小田原大造頌徳碑(尾道市向東町古江浜)
久保田鉄工の第3代社長を勤められた小田原大造氏の頌徳碑が向東町の古江浜公民館の前、消防団の器具庫の隣にある。
このように書くと、向東町も大浜町も海を隔てて近いので、他の大浜町の出身者と同様に、同郷のよしみで入社し久保田権四郎氏の協力者になったのだろうと思うだろう。ところがそうではないのだ。小田原氏の勤める関西鉄工が久保田鉄工所に買収されたため久保田鉄工所の社員となった。権四郎翁の知遇を得た後に、郷里を近くするという特別な信頼感もあったことは十分考えられるが、運命というものは不思議なものだ。
頌徳碑の台座には「大阪商工会議所会頭 久保田鉄工KK社長 小田原大造殿」と書かれているふるさとの史跡をたずねて(240)
写真・文 柏原林造
小田原大造頌徳碑(尾道市向東町古江浜)
久保田鉄工の第3代社長を勤められた小田原大造氏の頌徳碑が向東町の古江浜公民館の前、消防団の器具庫の隣にある(写真)。このように書くと、向東町も大浜町も海を隔てて近いので、他の大浜町の出身者と同様に、同郷のよしみで入社し久保田権四郎氏の協力者になったのだろうと思うだろう。ところがそうではないのだ。小田原氏の勤める関西鉄工が久保田鉄工所に買収されたため久保田鉄工所の社員となった。権四郎翁の知遇を得た後に、郷里を近くするという特別な信頼感もあったことは十分考えられるが、運命というものは不思議なものだ。
頌徳碑の台座には「大阪商工会議所会頭 久保田鉄工KK社長 小田原大造殿」と書かれている。
財界人としての多彩な活躍と功績については尾道市や向島側の資料に譲ることにして、本稿では久保田鉄工での功績について記そう。3代目社長といっても、権四郎翁が78歳で社長を辞め、子息久保田静一氏が1949年2月から2代目社長となるも、翌年1月から小田原大造氏が社長に交代しており、実質的には権四郎翁の後継者と考えてもよいだろう。その後18年間社長を勤めた。戦後の会社再建と、資本金の増加を達成した。またどこの会社でもありがちな同族企業からの脱皮なども行い世界的な大企業に飛躍させた功績は大きい。
なお、1953年に久保田鉄工所株式会社から久保田鉄工株式会社へと社名が変更された。現在は株式会社クボタであるが、我々の世代はクボタ鉄工と言い慣れている。
写真)。財界人としての多彩な活躍と功績については尾道市や向島側の資料に譲ることにして、本稿では久保田鉄工での功績について記そう。
3代目社長といっても、権四郎翁が78歳で社長を辞め、子息久保田静一氏が1949年2月から2代目社長となるも、翌年1月から小田原大造氏が社長に交代しており、実質的には権四郎翁の後継者と考えてもよいだろう。その後18年間社長を勤めた。戦後の会社再建と、資本金の増加を達成した。またどこの会社でもありがちな同族企業からの脱皮なども行い世界的な大企業に飛躍させた功績は大きい。
なお、1953年に久保田鉄工所株式会社から久保田鉄工株式会社へと社名が変更された。現在は株式会社クボタであるが、我々の世代はクボタ鉄工と言い慣れている。
写真・文 柏原林造