セレクション 53回より
私の昭和史 その1
1宮地医院
昭和と言っても私は昭和26年の生まれだから、覚えているのは昭和30年頃のことからであろう。
今でもよく覚えている初期の記憶は、祖母に連れられて中庄町の宮地医院へ行ったことである。これは幼稚園を休んで行ったのではなかったから、上の幼稚園(重井学園)へ行く前のことである。なお上の幼稚園には2年保育もあったが、私は1年保育であった。そのあと下の幼稚園が1年で、それから小学校入学である。
ゴムタイヤのついた荷車は我が家には二つあった。その小さい方で、糖尿病の祖父を乗せて、重井町川口の我が家から、中庄町の入川橋の宮地医院へ通うのである。姉は下の幼稚園で弟は母が見たのであろう。
その頃は一本松から南は菓子処中島のこちらの家があるだけで、途中は家はなく中庄町 に入り、上池(うわいけ)、下池(したいけ)を過ぎて、丸池の方へ行く道の手前とその辺りに2軒だけあった。上池はインター出口、下池はひだまりの下に現存している。
(写真、上が北:A:一本松、B:上池、C:下池)
これらを祖母は、うわいけ、したいけ、中の庄のお じいさんの家、おばあさんの家と順番に、おとぎ話でもするかのように、教えてくれた。
次がゲートボール場になっている片刈池である。祖 母は、「ひょうたん池」だと教えてくれた。『因島の文化財』の表紙に使われている絵図では、確かに瓢簞形に描かれているから、「ひょうたん池」で間違ったいなかったと思う。この瓢簞池では泳いでいる鳥を「鴨」だと教えてくれて、それが潜って、少し後に離れたところから顔を出すのを、止まった見せてくれた。何度見ても面白かった。
そこから現在因北小学校の正門前になっている道を南へ進んで土手の上に上がる。そこで左折して入川橋のところまでいく。そこに宮地医院があった。隣に雑貨店というのだろうか、小物屋があって、茶碗を買って帰った。その頃新しく買った陶器は水を入れた鍋に入れて沸騰させ、冷ましてから使っていた。
川の向こうに立派な垣のあるお屋敷があって、その向こうが外浦町であった。こちら側を左に曲がると唐樋であるが、どちらへも行かなかった。
ただ、中庄のお宮へ連れて行ってもらったように思う。記憶が曖昧で祖母に連れらて見に行ったのか、小学校の遠足で行ったのか定かでないが、馬の像があったことだけを覚えている。
その頃は、今と違って舗装などしてなくて、雨が降った後は水たまりが路上にあり、その上をバスが通り過ぎるのだから水たまりはさらに大きくなるというような時代だった。だからバスが通りすぎると砂埃が舞った。道端のヨモギ、チチ草、カヤなどの葉は砂埃で白くなっていた。今は舗装されているから雑草は目立つが、当時は雑草の中に道があったのだから何とも思わない。当時はまだ青影トンネルはできておらず、バスは重井町から中庄町を経て大浜町へ行っていた。ボンネットバスという前が低くなっている型である。(以上53回より)
。私の昭和史 その2 因の島バス
上の幼稚園へ行く前の年というと私は昭和26年の生まれだから、昭和30年になる。その時、中庄町の入川橋の宮地医院へ行ったのだが、そのルートに大川橋は含まれていない。それなのになぜ大川橋という名前を覚えていたのか? それは中庄町のバス停が大川橋だったからだろう。私が通ったのは現在の因北小学校の正門前の南へあがる道だが、当時はバスが通るほど広くなかった。少し西に現在の駐在所の近くに南へ入る道があって、そこがバス路線だったと最近教えてもらった。その後は入川橋、唐樋を通って大浜へ向かうルートだ。
その頃のバスは時速30kmぐらいだっただろうか。スピードは遅いが結構早かったと思う。なぜなら信号はないし、おまけに停留所もないのだから、我々が思う以上に所要時間は少ない。これは国道2号などでも同じであった。それに対向車などというものないのだから、これで十分だった。重井は西の浜に停留所が1つあっただけだ。
大川橋を出た土生行きのバスは重井に入ると大正橋で左折して岡崎医院の前を通って、南小路を通っていた。道いっぱいで屋根瓦に当たることもあった。
その頃の重井中庄間は今のように平坦ではなかった。現在の因島イ
ンター北のバス停(写真のA)のところで上り坂になっていて大きく迂回していた。今でも駐車場の両側が小山になっているように海ではなかったのだろう。Bの三叉路に塞の神が祀られているが左手へ行けば大浜越えである。現在はしまなみ海道とぶつかるところで消えている。Cの辺りが重井町と中庄町の境である。現在の大浜越えはここである。第三久保田橋のところへ出る。さらに古い大浜越えは川口から白滝山の南麓を通るもので峠道である。これを大浜往還(古道)、Bから入るかつての記憶にだけある道が大浜往還(旧道)、そしてCから入る現在の道が大浜往還(新道)である。大浜往還(古道)は自転車も荷車も通れない。ただ歩けるだけである。最高部から白滝山への参道があり、ゴリラ岩の下へ通じている。柳田國男の「峠に関する二、三の考察」によると峠道は交通機関の発達により、より遠くより低くなるということだが、まさにその通りである。信州などの山国での話かと思っていたが因島でもよく合う。青空文庫にあるので読んでほしい。青空文庫にはリーダーもあるが私はテキストファイルをダウンロードして、読んだところから消していく。
さて、昭和30年に話を戻すと因の島バスが来ると道の端に止めてやり過ごす。その時自転車の発電機が道端に落ちてあったので拾って帰った。回転はするのだが途中で必ず止まる。その止まり方にクセがあって不思議だった。その頃からおもちゃは少し遊んだら分解していたので、これも分解しようと思ったが、どこにもネジがない。それで金槌で何度も叩いた。何日か続けてやっと外枠が破けて中から磁石が出てきたのでとった。そして次の年の4月から上の幼稚園へ行くのであるが、その前に子守のことについて書いておこう。
その頃、そしてもっと後まで、多くの家で住み込みの子守の女の子がいて、夕方になると一本松とか試験場の灯篭のところなどに集まって、子供たちと遊んでいた。神社などもそうだったと思う。しかし、私にはその子らに子守をされた経験がない。後で聞いたことだが、尾道から来た子守の女の子がいたのだそうである。そしてある夏の日、私を乗せた乳母車を止めて蝉をとっていたらその乳母車が動き出して、私を乗せたまま崖から落ちた!結果は、今こうして生きているのだから死ななかったということである。しかし、以後私の面倒は祖母が見ることになって、その子は解雇された。後年、小学校の夏休みに子ども会で折古ノ浜へ行った時、かき氷を食べに入った売店でその子とばったり会った。私には記憶にない人だ。大工と結婚して因島にいるとか、父と話していた。なかなかキレイな人だった。こういうオテンバ娘に木登りとか魚釣りとか、片手で釣り針に釣り糸を結ぶ方法などを教えてもらっていたら、もっと面白い子に育っていたと思う。その子守の子らもいつの間にかいなくなっていた。因の島バスが進化したように、時代も大きく変わろうとしていた。(以上54回より)