夕凪亭別館(写真館)
2026年7月24日金曜日
2026年7月23日木曜日
因島抄 11~20
因島抄(順不同)その11
(承前)中国新聞社の『瀬戸内海上』(昭和34年)p.45~ 因島だけではない。付近の島々、愛媛県弓削島、佐島、生名島からも、500から600人が通勤船に乗って日立造船に通い、人々の生活は、造船景気と浮沈をともにするわけだ。この島から昭和32年中に進水した船は、9隻。タンカー、貨物船合せて253850重量。金額では144億7500万円である。船主はほとんどパナマ、ギリシャ、オランダだから、『因島人の手』 によって外貨がかせぎ出されるのだと、島の人は自慢である。六万五千トンの船台、五万トンがスッポリ入る乾ドック、世界屈指の地位にのし上がっているだけに、景気は下火といっても世界の船主から注文が切れることはない。このところ二、三年分の手持工事量があり、島の人は忙しい。朝八時か ら夕四時までの勤務を終えて、大てい二、三時間は残業だ。多い人で一ヵ月百時間の残業になる。●残業から残業ヘ-仕事に追われる生活の余暇に、島の人は碁に興ずることを唯一の楽しみとし、趣味としている。造船所の昼休みには、鉄カブトをかぶり、船影でパ チリパチリと碁石をたたく風景は、いたるところで散見できる。十四世本因坊秀策も、因島の出身。富士も広い すそ野があってそびえ立つように、因島から本因坊秀策を生んだのも、それだけの背景があるものとみてよい。●造船所は、いまをときめく近代産業の舞台に上がっているが、ひとたび不況の波が押しよせれば、船台はガラ空き、工員の首切りが始まる。造船工業一辺倒の島の暮しは、好況下でもきわめて地味、食生活もゼイタクは敵としている。つまり、不況期に備え、島の人は平素から貯蓄に心がけるわけである。貯金の伸びは御調郡下でトップ レベル。昨年末の平均四万五千円のボーナスも、貯蓄 する人が多いときいた。●昭和三十三年の造船界は、三十二年ほど好調でないかも知れない。しかし、どんな不況に見舞われようと、因島の人は造船工業にしがみつき、じっと辛棒する。島の人にとっては、造船界の好、不況は、そのまま生活の喜びと悲しみになるというものだ。だから親子三代、造船所に勤務するという”造船一家”は五十四軒ある。親子 二代組は軒並みだ。日立造船木工部工長、村上富次郎さ ん(五一)は、二十一歳のとき入社してことしで 三十年、六男二女のうち四人の息子さんを造船所へ入所させている。富次郎さんの父貞松さん(七七)も、造船所で生涯を送った人。富次郎さんはこう言っている「因島の人間は都会にあこがれないで、造船界と生死をともにするのです」と。これが”造船一家” 因島の生活信条とな っているのだ。
『朝日日本歴史人物事典』より。本因坊秀策(ほんいんぼう・しゅうさく)文政12.5.5(1829.6.6)~文久2.8.10(1862.9.3) 江戸末期の囲碁棋士, 14世本因坊秀和跡目。備後国因島(因島市)出身。本姓桑原, 幼名虎次郎。天保8(1837) 年本因坊丈和門に入り,10年初段。弘化3(1846)年, 幻庵因碩に定先で3連勝し名声を高めた。嘉永1(1848)年六段に進み、本因坊秀和の跡目となる。翌年から御城碁に出仕し、以後13年間に19局全勝を記録した。同6年から太田雄蔵との30番碁は有名。黒番を持って三隅の小目を占める布石「秀策流」は近代布石の基礎となっ た。文久2(1862)年, 流行病(コレラという)患者の看護に当たり,自らも感染して本因坊跡目のまま急逝。道策, 丈和と並んで碁聖と呼ばれる。参 荒木直躬『本因坊秀策全集』(歴代名人囲碁大系), 福井正明『秀麗秀策』 (囲碁古典名局選集) (谷口牧夫)
(以上44回)
因島抄(順不同)その12
『芸備孝義傳 卷六』(広島大学教科書コレクションより)
御調郡(みつきこほり)
◯重井(しげゐ)村長右衛門 ◯市(いち)村太郎兵衛
長右衛門ハ院(ゐん)の島(しま)の民(たみ)なり、家ハ世々しげゐ村にありて元和二
年の頃より、所の庄屋をうけたまハり、よろづ実意(じつい)にして裁判(さいばん)する
こと、聊(いささか)も、ひがにあらず、哀憐(あいれん)の心さへ深(ふか)くして此里の風気(ふうき)自然(しぜん)に、
やわらかなり、田畑をひらき、農業(のうげふ)をすゝめ、民の為に、利を興(おこ)すことも、
すくなからず、あまたの事、君きこしめして馬を賜(たま)えり、殊(こと)なる
賞(しやう)をたれゐひき、万治三年、庚子の年なり、それより、十年へて身
去りぬ、年七十三、庄屋つとめること五十四年なり、子孫今に
いたりて七代、蓋し、その役(やく)を落(おと)さずといふ、元禄の頃、市村に太郎兵衛
といふ民あり、父母継母(けいぼ)によくつかふまつるを以て、四年辛未(かのとのひつじ)冬、
米五石を賜(たま)ハるといふ、
◯院島外浦(いんのしまとのうら)八三郎
八三郎ハ 外浦の庄屋なり、親おもひの者にて、後にハ、母老(おい)てひとり
ありけるが、夏(なつ)の夜ハ蚊帳(かや)の内(うち)にありて、床(ゆか)をすゞしくし、冬の夜ハ、
衾(ふすま)のすそに入て、足をあたゝかならしめ、今日(けふ)ハ、之あり、かくありしと、
面白(おもしろく) なぐさめて、よく寝(いね)たるをうかゞひ、やをら退(しりぞ)き出る、凡(かくて)
しとなん、元文四年十二月十六日銀を六匁たまひてその行(おこなひ)を賞(しやう)し
たまふ、
(以上45回)
因島抄(順不同)その13
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。一部省略。
創業に至るまで
明治になってわが国は西洋文明を急いで取り入れた。人々にとって,諸制度の改革はもちろんのこと,針金便り(電信電話)・陸蒸気 (汽車)・ガス灯など,すべてが驚異であった。
明治10年の西南戦争によるインフレが収まり,銀行制度が整備され,官業の民間払い下げが行われる中で,明治19~22年には紡績・鉄道・鉱業・保険・海運・造船・商業などの分野で民間の新会社が次々と設立された。
当社が「大出鋳物」の名で独立開業したのは,この第1次企業設立ブーム期が終わろうとした明治23年(1890)2月のことであった。ちょうどこの年には,わが国で制限選挙ながら初めて総選挙が行われ,第1回の帝国議会が開かれたが,その一方で,資本主義成立後初の経済不況が起こった。
創業者・大出権四郎(おおで ごんしろう)(のちに久保田姓となる) は明治3年(1870)10月3日,今の広島県因島市大浜町に生まれた。桶屋を兼ねた農家の末っ子に生まれた権四郎は,貧しいながらも家族の深い慈愛の下に成長していった。はなやかな文明開化の時代となっても島での生活に変わりはなく,苦労する母の姿を見て,幼な心に「貧乏から早く抜け出し出世して母を喜ばせなければならない」という気持ちを強く抱くようになった。丘に登って沖を行く蒸気船を眺めながら,彼はいつしか船を造る西洋鍛冶屋になる夢をふくらませていった。
明治18年の春,まだ15歳にもならぬ権四郎は,意を決して単身上阪した。だれ一人知る人もない町で職を探して歩き回り,やっと「黒尾鋳造」という看貫(はかり)鋳物屋に奉公することになった。初めは子守りや使い走りということであったが,やがてその誠実さを主人に認められ鋳物の手ほどきを受けるようになると,天性の器用さが役立って,その腕前はたちまち仲間を追い越した。
3年の年期奉公が明けお礼奉公中,父の死に遭った権四郎は「出世して母を安心させる」ために,早く独立して鋳物業で身を立てようと決心した。それには,さらに鋳物の技術を習得する必要があったので,お礼奉公を終えると,「塩見鋳物」に移った。また,開業資金100円を目標に,風呂代や散髪代も節約して貯金に励んだ。
創業と移転
こうして,ようやく100円を手にした権四郎は,早速,大阪市南区御蔵跡町(現・中央区日本橋2丁目)に長屋の一隅を借りて,「大出鋳物」の看板を上げた。時に明治23年2月,弱冠19歳であった。この後,鋳物業を含む鉄鋼業は製造業に占める割合が大きく伸長しており,幸運にも成長分野での開業となった。創業から5年の間に,3度も移転を余儀なくされた。何分にも借家のつらさで家主から立ち退きを迫られると是非もなかった。
最初の移転先は高津町で,明治24年のことだった。この年,権四郎は郷里から妻・サンを迎えた。働き者の夫婦が力を合わせて順調に回り始めた26年夏,また移転。今度は西関谷町であった。明治27~28年の日清戦争の結果,わが国には, 利子を含めて合計3億6000万円余の賠償金が入った。これは26年の国家総予算の4倍という膨大な数字であった。
(以上46回)
因島抄(順不同)その14
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その2
この賠償金によって一挙に好景気の波が押し寄せた。特に繊維工業を中心とする投資熱 が盛り上がり,軽工業を中心に,わが国は第1次産業革命を迎えることになった。
大出鋳物は10人を超す規模となり,名称も「大出鋳造所」に改めた。27年の全国鋳物工場数(10人以上)は52カ所で,職工数は1工場平均35人であり,まだ零細の域を出なかった。
28年には3度目の移転をした。同じ西関谷町であったが,今度は、月賦で土地を買い取り大正6年まで22年間存続した。製造品目は看貫鋳物,日用品鋳物から次第に紡績用・切削用機械の鋳物を手がけるようになっていた。
久保田鉄工所と改称,鉄管製造の本格化
明治10年代末ごろから,防疫のため開港都市を中心に,近代水道の敷設が切望されるようになった。水道に用いる鋳鉄管の国産化は至難とされたが,権四郎は「外国人に出来ることが日本人に出来ぬはずがない」という信念で,26年から研究試作に取り組んでいた。
28年7月,母・キヨが亡くなった。享年66歳であった。当時の平均寿命が44歳,それに比
べると長命であったが,権四郎は心の支えを失ってぼうぜんとなった。しかし,いつまでも悲しみに沈んでいるわけにはいかず,鉄管の国産化という使命に奮起し,その研究に一段と情熱を傾けた。
そのころ,取引先の久保田燐寸器械製造所の主人・藤四郎から養子に懇望され、30年6月, 権四郎は久保田姓を名乗ることとなった。大出鋳造所も「久保田鉄工所」に改めた。
33年,立込丸吹法による鋳鉄管の製造に成功,34年に北高岸町工場を建設して,次の課題である量産化に取り組んだ。37年1月,妻・サンが幼い子を残して逝った。辛苦を共にしたサンを失った悲しみを振り払うかのように, 権四郎はさらに研究に打ち込み,ついに同年「立吹回転式鋳造装置」を開発した。この年, 鉄管はガス用にも採用され,当社発展の技術的基盤が固まった。
37~38年の日露戦争を契機に重工業が台頭し,第2次産業革命が起こった。義務教育就学率は96%を超え,近代文学も花開いた。
水道の需要は40年以降好調となり,鉄管の増産のため41年には北高岸町工場の設備を強化拡充し本店工場(のちの船出町工場)とした。
多角化に踏み出す
明治末期から大正初年にかけて,世界的不況が続いた。とりわけわが国は、日露戦争後 の不況と戦費の後遺症で財政難となった。
不況のさ中でも大阪商人の心意気は盛んで, 明治45年ハイカラな大衆娯楽場「新世界」が誕生し,その通天閣は74mの空中から大阪ミナミの変遷を見つめ続けた。
当社では、大正元年をピークに鉄管が不振となり,これを乗り切るため,大正3年(1914) 工作機械の製造を開始した。同年,第1次世界大戦が勃発し,わが国は軽工業から重化学工業へ産業構造の転換が進んだ。当社は「良い機械は良い鋳物から」を信条に,スチームエンジン・製鉄機械にも進出した。大戦景気を背景に機械部門が繁忙となるにつれ,本店工場が機械中心に移行したこともあって,6年,鉄管・鋳物の専門工場として尼崎工場・恩加島工場を開設した。 |
(以上47回)
因島抄(順不同)その15
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その3
わが国の加工貿易が進む中で,大正6年,鉄管2000トンをジャワ(現・インドネシア)向けに輸出した。7~8年には、銑鉄の入手と営業の強化を図るため東京・九州・呉に出張所を設けた。 事業の拡大につれて従業員は1500人に達した。
このころ関係会社として製鉄会社や自動車会社も設立したが,これらはその後,中途で休業、譲渡して当社の事業にはならなかった。
4年余りに及んだ世界大戦が終結した後,9年,戦後恐慌に襲われ,当社でも機械・鋳物が不振にあえいだ。10年には解雇をめぐる労働争議が発生したが,これを機に労使協議の原点となる工場委員会が設けられた。
不況打開のため,機械の分野では,11年,農工用発動機の製造を始めた。13年には,はかりの製造に進出し翌年市岡工場を開設した。鋳物では,耐熱鋳鉄を開発し,11年に節炭機, 昭和2年(1927)には自動給炭機を製品化した。
不況の中で鉄管だけは毎年増産を続け,2年には東京の(株)隅田川精鉄所を傘下に収め, トップシェアを確立した。
大正8年と昭和2年に所主・久保田権四郎は海外に出張し,先進国の鋳物技術を実地に検 分した。その結果は,鋼管に対抗する高級鋳鉄管の開発あるいは画期的な遠心力鋳造法の 実用化につながっていった。
西洋鍛冶屋を 夢見た少年・大出権四郎 明治3~18年 創業者の生い立ち p.6
因島に生まれ育つ
創業者・大出権四郎は,明治3年(1870)10月3日,備後国御調郡の大浜村で生まれた。現在 の広島県因島市大浜町である。瀬戸内海の中央部に浮かぶ因島は,緑濃い山間にわずかずつの耕地が点在し、古くから人々が半農半漁の暮らしを営んでいた。島の北東部にある大浜村は,平家の落人が住み着いたと伝えられ、海岸線に沿って約240戸,1200人余りの,のどかな小村であった。
父は岩太郎,母はキヨといい、長男政太郎・長女サクノ・次男茂平に次いで,権四郎は三 男の末っ子であった。家業は酒樽などを作る桶屋を兼ねての農業で,父は律義でコツコツ働き,母も夜遅くまで賃仕事に精を出していたが,収入はわずかだった。明治になって租税が変わり,家計はより窮屈となっていた。
当時の学校教育と少年時代
権四郎が通った小学校は、村の見性寺で, 本堂が教室だった。学校教育が発足したころ の教科書は,福沢諭吉の「学問ノスヽメ」「世界国尽」・中村正直訳「西国立志編」などで,近代思想による自主独立や自然の原理探究を説く当代一級の啓もう書であった。
往時を知る人の話では,権四郎は年の割に背の低い、やせた少年で、学校へあまり行かなかったということであるが,当時は毎日学校へ通わない例は珍しくなかった。しかし父に似て無口な権四郎は、几帳面で根気強く利発な少年であった。
地方で小学校教育を受け,その後も独学で研究を続けて、のちに名を上げた同時代の人 に,豊田佐吉(豊田式自動織機発明者)や牧野富太郎(日本植物図鑑著者)らがいるが,権四郎もこの時代の新しい空気に触れて、自らの努力で立身出世の道を切り開こうと志した一人であった。
(以上48回)
因島抄(順不同)その16
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その4
p.7 母の涙に発奮
この利発な少年が郷里を離れ単身上阪する決心を固めた一番の動機は、家が貧乏だった からだという。彼は貧乏のために何度も悔しい、悲しい思いをした。
10歳の秋のことだった。村の鎮守さんであ野島神社の祭礼の日,子供たちはうきうき,晴れ着姿で食べ物屋やおもちゃ屋,見世物小屋を出入りしていた。しかし権四郎は新しい着物を着せてもらえず,笛・太鼓や人のざわめきを、薄暗い家の中でじっと聞いているだけだった。そしてこの不憫なわが子に涙を見せまいと努めている母親の様子が,権四郎少年には一層つらく悲しかった。
「今に見ようれ,わしゃ、ぜったゃぁえろうなって、おっ母さんを喜ばせてやるけぇのう」 涙ながらに心の中で誓うのであった。
のちに権四郎は「貧乏な家に生まれたということを感謝しています。裕福な家に生まれ ていたら、私は今日を得なかったかも知れません……」と述べている。
自立を決意し大阪へ
権四郎は小高い丘に登っては,海を眺めた。正面・北東の方向を望めば,布刈瀬戸をはさ んで向島,さらに遠く鞆浦方面の島影が浮かぶ。西南戦争(明治10年)後2~3年もすると, 因島付近にも蒸気船が通るようになった。それを見ているうちに権四郎は一日も早く大阪へ出て、大きな蒸気船を造る西洋鍛冶屋になって出世しようと心に決めたのであった。
彼が上阪した方法については、諸説がある。一説によれば,大浜村の河野留作所有の石炭 運搬船・栄重丸に乗り組み,炊事や水くみなどの仕事をしながら,北九州若松と阪神間を往復し,3回目の航海が終わって大阪に寄港した際に下船したという。
時に明治18年,彼が14歳と数カ月,今なら中学2年から3年にかけての年ごろであった。
明治の新政もようやく安定し,大阪は官民こぞって近代的商工業都市へ向けての基盤整備に動き始めた時期で,鉄道も大阪から西が神戸,東が大津まで開通していた。
p.8すべてが修業 一心に仕事を覚える 明治18~19年 上阪して鋳物屋に住み込む
単身大阪の町へ
瀬戸内海の小島で生まれ育った,世間知らずの少年・大出権四郎は,何のよるべもない大阪の町に,身体一つで飛び込んだ。明治18 年(1885)春先だった。
もちろん相談相手はなく、町の方角も分からず,食べることから寝ることまで,すべて独りでしなければならなかった。大阪に上れば,すぐにでも仕事が転がっているように思っ ていた少年の空想は,安治川口で船を下りた その日に破られた。
このころの大阪は不景気のさ中であった。徳川幕府以来,政治の中心地として発展する 東京に対し,庶民の町・商業の中心地を自負する大阪であったが,西南戦争特需の反動と当時の緊縮政策も影響して,16年以降経済不 況に落ち込んでいたのである。
(以上49回)
因島抄(順不同)その17
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その5
p.8 子守りで住み込む
勝手の分からぬ町を,鍛冶屋をたずねて歩き回り,働き口を探したが,むしろ口減らしをしたい店の方が多い時勢で,全く相手にされなかった。軒先か物陰で夜露をしのぎ,朝方,町角でたき火を囲む人たちに交じって暖を取り,また,職探しに歩く日々もひと月近くなると,乗船中にためた小金も底をついてしまった。空腹のためもう歩く気力もない状態でたずねたのが,西成郡九条村の鋳物屋・黒尾鋳造(現・西区九条1丁目辺り)であった。
この店は,はかりと金庫の鋳物を作っており,主人の黒尾駒吉は当時29歳,実子に恵まれず,妻・サキの妹の子を養子としていたが, お国なまりで必死に頼む権四郎のけなげさに同情し「子守りと掃除・使い走り」として,住 み込みを許してくれたのであった。
鋳物の徒弟制
とにかく,あこがれの大阪に出て鋳物屋に住み込んだ権四郎であるが、住み込みの時の 事情もあって,鋳物の仕事は全く教えてもらえなかった。
当時,鋳物の技術は,もっぱら徒弟制で伝承されていた。徒弟は,水くみや掃除などの下働きとして住み込み,師匠に見込みがあると認められたら,やっと本来の技術に関係する仕事が与えられた。もともと職人に教科書や参考書があるはずもなく,徒弟は兄弟子や師匠の手伝いをしながら,見よう見まねで技術を身に着けるのだが,その間,主家の用事・先輩の言い付けなど公私の区別ない酷使に耐え、ひたすら仕事の習得に励むのである。鋳物は特に,材料の配合・溶鉄の温度・砂土の固さや湿度などすべて経験と勘の世界である。
一通りの技術を覚える「年期奉公」が普通3~5年で,年期明けの「お礼奉公」半年間を済ませ,ようやく「渡り職人」として認められる。これが通常の過程であった。
陰日なたなく働く
黒尾鋳造では,権四郎は一番年下だった。名前も言いやすい「松之助」という呼び名がつ けられた。兄弟子たちに,寝入りばなをたたき起こされ、肩をもめ,腰をさすれ,菓子を買ってこい,揚げ句の果てには「こらっ松,早うせんかい!」と怒鳴りつけられた。それでも、兄弟子たちがわずかに交わす仕事の話に, 懸命に耳を傾けて,教えてもらえぬ仕事への執念を燃やし続けたのであった。
もちろん子守りも掃除も使い走りも,まじめに働いた。最初,鋳物の仕事を教えてもらえずガッカリしたが,これも自分の仕事と考え直すことにした。どうしたら機嫌よく子供を遊ばせられるか,もっときれいに掃除ができないか,もっと早く使い走りができないか, と工夫した。この陰日なたのない働きぶりで, まずおかみさんに可愛がられ、兄弟子や主人にも認められ,当初立ち入り禁止だった仕事場の掃除を言いつかるようになった。
ふだんから暇を見ては仕事場をのぞいたり, 槌などの物音で仕事の呼吸を覚えようと苦心 していたので,仕事場に入り道具や製品に直接触れるようになったのは,大きな前進であっ た。師匠や先輩の物腰・手先の動きを目の当たりにする機会もできた。月2回の休日には 仕事場へ忍び込み,まね事ながらある程度の砂型が作れるようになっていった。
(以上50回)
因島抄(順不同)その18
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その6
p.10 長屋の一隅で 鋳物屋を開業 明治20~23年 弱冠19歳で独立
母への孝心で独立を目指す
師匠でもある主人の駒吉が,権四郎を鋳物の徒弟と考えていたかどうか定かでないが, 結果的には典型的な徒弟制度のステップを踏んでいく。仕事場に慣れ、兄弟子の手伝いを許され,ついに仕事の手ほどきを受けるようになると、日ごろの研究の積み重ねに加え, 天性の器用さも発揮してたちまち師匠も驚く腕前となった。技術面では,3年の年期明けごろ既に,ひとかどの職人として扱われた。
仕事面は順風に恵まれ始めたが,私的には不幸に見舞われた。器用さと根気強さを譲っ てくれた父,岩太郎の死である。まだお礼奉公中の明治21年(1888)7月のことであった。
このころから権四郎は,現実の境遇と「出世して母を安心させる夢」をどう結びつけるか真剣に考え始めた。そして「早く一人前の職人となり,元手をつくって親方になろう。安定して仕事をするには店も要る。よし、元手をためよう!」と決意を固めたのであった。
100円の元手づくり
「炉と砂とずく(銑鉄)があれば鋳物は吹ける」といわれていた当時でも,鋳物屋を始めるには最低100円の元手が要る計算であった。
年期奉公中,1日と15日の休みごとにもらう小遣いは当初20銭,年期明けごろには40銭, お礼奉公になると日給20銭をもらったが,今度は食費などに半分消える。目をかけてくれた黒尾夫妻に将来への志を説明し,励ましの言葉と10円の別を受け取った権四郎の全財産は,この時21円60銭だったという。
より広く鋳物の技術を習得するため,権四郎が職人として移った先は,南区御蔵跡町の通称「堀留」と呼ばれる辺りにあった「塩見鋳物」で,日用一般鋳物を造っていた。待遇は腕を見込まれ年齢の割に高給の日給25銭で, わき目も振らず働き,元手づくりに励んだ。
こうと決めたら最後までやり通すのが,権四郎の生き方であった。塩見鋳物に移ってからは、なりふり構わぬ倹約に徹し,わずか1年半で彼の貯金は目標の100円に達したのであった。
このころ敢行した耐乏と節約の生活は,自身でも強烈な思い出だったのであろう。後日 の話になるが,功成り名を遂げた立志伝中の人物として,週刊誌などの対談に登場する都度,「1銭の金を惜しんで風呂屋へも床屋へも行かず命がけで金をためた」当時の心情をつぶさに語り, その迫力で対談者に深い感銘を与えた様子が紹介されている。
徴兵検査のため,権四郎は久しぶりに大浜村へ帰郷した。将来の夢を語る彼に,家族はもちろん親戚の人も,できる限りの協力を約束し,心から激励してくれたのであった。
大出鋳物として独立
大阪の町で,当時,鋳物工場の最も多かったのは御蔵跡町である。江戸時代後期には, 鋳物場は天満・西道頓堀・西高津付近の3地区に固まり,大砲の鋳造を盛んに行っていた。 しかし、維新後には鋳物師も新設の砲兵工廠 や造幣局に入所し、店を閉鎖する所も現れ, 結局もとの鋳銭場跡地でもあった,西高津地区の御蔵跡町に多くの鋳物屋が残ったのである。この中の最大規模の店は,大谷数太郎工場で、職工15人を抱え,既に7馬力の蒸気力を使用していた。
大浜村から帰阪し,さっそく独立の準備にかかった権四郎は、この大谷工場の裏手で,塩見鋳物からもほど近い古長屋の一隅を年8円で借り受けた。南区御蔵跡町23番地(現・中央区日本橋2丁目20-3)であった。間口2間・奥行4間(約26㎡)の床を落として仕事場を作り, こしき炉とこれに風を送る足踏みの輪を据え, 屋根から煙突を出した。取鍋・柄杓や箆・鏝・槌など道具一式をそろえ,手伝いの弟子も雇 い入れた。
明治23年(1890)2月、弱冠19歳の権四郎を主人とする「大出鋳物」は、はかりの分銅や部材を吹いて仕事を始めた。
これが当社の創業である。折しもわが国初の経済恐慌が起こり,20年ごろから続いた企業設立ブームが,一段落しかけた時期であった。
(以上51回)
因島抄(順不同)その19
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その7
p.12 金繰りから炊事まで 独りで切り回す 明治23~28年 苦難の創業期
大わらわの開業直後
開業直後の権四郎の働きぶりは,筆舌に尽くし難い。1軒の店を切り回すには,たとえ零細な鋳物屋でも,生産から販売,金繰り・帳付け・人の管理など,広範囲の対応が必要となる。遮二無二,元手をつくって独立したものの,自信があるのは鋳物師としての腕だけで,他の方面には経験も知識もなかった。
鋳込み日は徹夜仕事,鋳込みのない日も大忙しだった。朝の炊事,仕事の指図のあと,製品を積んだ大八車を引いて西区立売堀(いたちぼり)の金物屋街へ売りに行き,帰りに次の原料銑を仕入れ,さらに米・野菜も買ってくる...何しろ未だ独身の19歳,信用もなければ、得意先もなかったから,5尺1寸・12貫(154cm・45kg)のやせた身体で精いっぱい働き,何から何まで自分でやるしか仕方がなかったのである。
金繰りに悩まされる
新米の若主人を最も悩ませたのは,金繰りである。売れ残った製品を,値は安いが大抵引き取ってくれる立売堀の浅井商店に持ち込み,同じ西区千代崎町にあった銑鉄問屋「紀野」で輸入銑を仕入れると,もうその日の米を買う金しか残らぬこともしばしばであった。
大出鋳物は当初,各種はかりの分銅や部材を鋳造し,通称看貫鋳物屋と呼ばれたが,鋳物の品質と精度を評価され,技術的に難しい機械部品や日用品鋳物も次第に頼まれ始めた。
度重なる移転
仕事にも資金にも,多少見込みが立ち始めた明治24年(1891)夏,家主から立ち退きを迫られた。砂・土・黒味(主に松炭の粉)それに火を使う仕事で,ほこりが立ち火災の危険もあるとあって,働き者の権四郎に好意的だった長屋の人々もたまりかねたのであろう。
鋳物屋では設備器具のほかに鋳物砂も大切な財産で,引っ越しには大きな損失を伴うが, 気を取り直した権四郎は高津町4番丁(現・中央区高津3丁目辺り)の旧鋳物工場跡を見つけ,家賃15円で借り移転した。辛苦1年半,やっと蓄えた600円は,すっかり失くなっていた。
24年,再出発を期する権四郎は,妻を迎えた。郷里因島の鍛冶屋の娘で18歳,名をサンといった。働き者のサンは,夫や弟子たちの 食べ物の世話はもちろん,大八車を押したり, 鞴(ふいご)を踏んだり,金繰りに困った折は質屋通いもするなど,良き協力者となって苦難の創業期を支えるのである。
2度目の工場では,綿繰機械などの受注生産品の比率を高め,また,郷里から応援に来た長兄・政太郎が力を合わせて働いてくれたお陰で,2年ほどの間に2000円近い資金を持てるようになったが,工場で小火を出したため,近所から追い立てられ, 再び移転した。
26年夏,南区西関谷町(現・浪速区日本橋西)の,元鋳物工場跡へ移った。翌年起こった日清戦争の影響で,鉄工業界は全般に好況となり,大出鋳物も零細ながら,このころから工場らしくなり始めた。人員は長兄と交代で応援に来ている次兄・茂平や因島出身の弟子を含めて10人を超え,名称も「大出鋳造所」と改めた。新製品にも関心を持ち,鉄管の研究に着手した。権四郎自身は,上阪以来,外向けに使っていた通称・松之助から本名に戻し, 内部では「御主人」と呼ばれ始めている。
土地を買い取り腰を据える
明治28年5月,家主の都合で明け渡しを要求され,またまた引っ越した。今度は,すぐ近くの,道路に面し3部屋ある建物で,裏側に仕事場を設けた。その後の事業発展の基礎づくりが行われた所で,のちに, この土地を地主のガラス屋「和田源」から月賦で譲り受け, 西関谷町工場としている。
場所は, 現在の大阪球場前の道路を東進, すぐ南海電車のガードをくぐり, そのまま高架沿いに南へ270mほど下った東側であった。
当時まだ高架でなかった線路の向かい側には、江戸時代の幕府米蔵が立ち並んでいた。
移転直後の28年7月,母・キヨが亡くなった。「えらくなって母を喜ばす」ことが生きがいだった権四郎は,一時,ぼうぜんとなったが,以後は2年ほど前から始めた鉄管鋳造の研究に一段と打ち込むことになるのである。
(以上52回)
因島抄(順不同)その20
『クボタ100年』(1990)より久保田権四郎氏について読む。その8
p.14外国人に出来ることが 日本人に出来ぬはずがない 明治26~30年
鉄管鋳造に独力で取り組む
コレラと近代水道
安政5年の開国以来,わが国には諸外国から新しい文物が一挙に流れ込み、明治初期にかけて文明開化の花が開いた。半面,予備知識の不足や受け入れ体制の未整備から,多くの問題も発生した。コレラ・チフス・天然痘などの伝染病もその一つである。特にコレラは、開国早々,長崎に始まり全国へ流行した。明治になってからも2~3年ごとに流行し猛威を振るった。ちなみに,明治12年の発病者16万人中,死者10万5000人であった。
新政府も,13年に伝染病予防規則を制定するなど,保健衛生行政に立ち上がった。この過程で,水系伝染病対策として水道施設の整備が強く提唱されたのである。
20年(1887),ろ過した浄水を有圧で送水する近代水道が,わが国で初めて,横浜に開設された。次いで函館・長崎・大阪・広島・東京と,外国と接触の多い都市で水道が順次計画されたが,主要資材の鉄管を,輸入するか国産品 (土管・陶管などの代替品も含め)とするかの論議が,その度に世間をにぎわせた。
大阪市創設水道と鉄管
明治24年,大阪市は殖産興業などの見地から,国産鉄管の採用を決め,大阪砲兵工廠に2万トンの鋳造を依頼した。工廠は1年余の試作を経て,わが国初の本格的鉄管鋳造を始めたが,作業の未熟から実績が上がらず,26年, 目標の半分を輸入に切り替えることになった。
この間,輸入量の変更案や東京に新設された鋳鉄管の会社への切り替え案などで話は二転三転した。特に,輸入先の変更とその処理 不手際については市民集会も開かれ,大阪市参事会の総辞職に発展した。このような一連の経緯は,連日新聞で伝えられ,26年後半の大阪では,「鉄管」は大きな話題となった。
鉄管の試作
権四郎も,この水道と鉄管に強い関心を持った。当時の大阪は,良い飲み水が不足しており,淀川上流の水をくんで売り歩く「水屋」が繁盛していた時代であるが,水に乏しい島で育った権四郎には,水道の将来性についてより強くひらめくものがあったのである。
鋳鉄管(直管)は円筒形の単純な形をした鋳物で,製造も一見容易に思える。20年代後半には,多くの鋳物業者が格好の新製品として手がけた。しかし、いざ作ってみると直管は長いので偏肉や鋳巣が生じ,検査に合格する品物はなかなか難しい。形状を仕上げるのに一苦労のうえ水圧テストでほとんどが不合格となる。結局採算が合わず手を引いていった。
大出鋳造所も真剣に取り組んだが,短い管や異形管はできても,やはり直管は失敗の連続だった。何しろ文献も経験者もなく、独力で工夫するだけですべて手探り,試行錯誤の中から改良を積み重ねていくのである。
初めは普通の鋳物や異形管のように型を横にし、のちには斜めにもした。中子の芯に青竹を使い,溶鉄を注ぐとポカンと破裂するな ど、今考えれば笑い話のようなことも試みた。
このような試作・改良は、大抵夜に行われた。興味半分で協力した職人たちも1年たつと飽きてしまい,不平も出てくる。しかし, 権四郎は不撓不屈,自分も向こう鉢巻で陣頭 指揮をとり,興が乗れば「追分」などを口ずさみながら、独自の工夫を凝らしていった。
信念で独自の工夫
彼の信念は「やれば出来る」であり「外国人に出来ることが日本人に出来ぬはずがない」であった。鉄管を国産化して多額の輸入代価支払を防げれば,当時の国策にかなうことも心の支えであった。
明治30年(1897) になって、口径3~4インチ(約10cm)の直管がついにでき始めた。下型を土間に37~38°の角度でいけ込み,上型は木枠に砂込めして合わせる「合わせ型斜吹鋳造法」を開発したのである。
実は,26年に鋳造を始めた砲兵工廠では, 煉瓦造りのピット内に鉄芯に縄を巻いた中子を立て、外側から二つ割りの型を合わせる立吹鋳造だったが,それを知らぬ権四郎は苦心の研究のすえ,粗末な設備で可能な独自の斜吹方式を開発したのであった。
(以上53回)
因島抄 1~10
因島抄(順不同)その1
コウモリ谷
所在地 北浦乗越乙三五~一、この山の珪石は最初、広島県因島の岡清太郎が採掘をはじめ、数年後の昭和三年(一九二八)五月、住友金属株式会社が買いとり、かなり大規模に採掘を行った。しか し、めぼしいものがなか ったらしく昭和七年(一 九三二)に閉山した。『伯方町誌』p.36
島四国
このように本四国を巡るには、金も時間もかかるので、岡山県の 神島(笠岡市神島)や因島の新四国(島しょ部にあるものは「島四国」と呼ぶ)、福山の港町・川口・野上を巡る新四国を巡礼する人が多 かった。 『沼隈町誌民俗編』p.469
子安講
昭和三〇年(一九五五)代までは、春と秋に神島(岡山県笠岡市) や因島にある新四国の子安さんに参っていた。『沼隈町誌民俗編』p.465 因島島四国61番香園寺(田熊町浄土寺内)のこと。
石工
石工は頼まれると他の村にでかけて仕事をすることが多いが、松本彦右衛門は因島三庄村から常石に住まいを移した石工で、ここを拠点にたくさんの作品を残している。彼は明治二十年(一八八八)から沼隈で仕事をはじ め、明治二八年一一月から明治三〇年二月にかけての作品には「石工因島三庄」と刻んだり、名だけを刻んでいるが、明治三一年八月以降はところを「常石」と刻んでいる。『沼隈町誌民俗編』p.614
(以上34回)
因島抄(順不同)その2
青峰山
志摩に青峰山(あおみねさん)という朝熊山(あさまやま)より少し低い山があります。難破しそうになった漁師たちが青峰山の十一面観音を念じると、その火がポッと出る、その方向に漕いでいくと陸に出るという伝承が残っていますが、かつて青峰山で火を焚いていて、それを目印にしたからだとおもいます。五来重『四国遍路の旅 上』(角川文庫)p.49 *重井町北浜に青峰山を祀っている家がある(写真)。おそらく農船で出作をしていたのであろう。十一面観音を念じれば、日暮れても無事に帰れた。朝熊山(あさまやま)は伊勢神宮の奥の院。
因島のコレラ薬
尚又(ショクアタリ)(カデクスリ)(ケンインコチヨガン)インノ島のコレラクスリ、右の薬御送り被下、【発信人 マニラの伊津友吉 マニラ消印1912.2.3】【宛先 沼隈郡田島村 伊津美す(妻)】。武田尚子『マニラへ渡った瀬戸内漁民』(御茶の水書房)p.327
*1912年は大正元年。因島のコレラ薬を島四国遍路(明治45年創設)で買ってきたとは考えられないので、別のルートで田島まで広まっていたのだろうか。
打瀬船
『明治三十六年広島県水産試験場事業報告』より。武田尚子『マニラへ渡った瀬戸内漁民』(御茶の水書房)p.142。*右写真は鏡浦町。手前が小学校。上部が鏡浦漁港で打瀬船の帆柱が見える。三浦村は外浦、鏡浦、椋浦から成る。明治22年発足。昭和23年4月解体。
荘園
中之荘 初め加茂の神領たりしが、建武五年尊氏によって東寺に寄附せらる、神領たりし時村上家預りなりしが如 し、建武二年地頭職を浄土寺に寄せたり、応永頃より再び村上家預りとなる、貞和四年小早川氏之が代官となり観応には本主となったり。
三津荘 重井荘 共に当初の本主は文書なければ知るに由なし、中庄と共に建武二年に地頭職を浄土寺に与へられ、同五年に東寺に寄附せらる、其他中庄と同じきものと見るべし。 正安中有二三津荘一」(東寺文書)延元中有二中庄重井庄一」(浄土寺文書)(以上大日本史)(『御調郡誌』p.23)
(以上35回)
因島抄(順不同)その3
第1回国勢調査(1920年大正10年10月1日)の記録(峰松育夫氏提供)
(以上36回)
因島抄(順不同)その4
第1回国勢調査の記録(承前)
(以上37回)
因島抄(順不同)その5
幻の名著だと思っていた「土生村風土記」を方々に問い合わせて探してきて3年ほどが経った。たまたま村上武次氏より寄贈された資料を見ていたら、因島土生町文化財協会発行の「郷土文化」18号と19号に村田市郎「土生村風土記」として2回にわたって連載されいたことがわかった。
今回はその中で「土生村庄屋大土生、宮地家家譜」を再掲する。(「郷土文化」18号)
初代土生村庄屋 慶長ヨリ寛永五年迄参拾ヶ年勤務 土生村 清左ェ門光時
二代土生村庄屋 寛永五年ヨリ承応元年迄二十五年勤務 清左ェ門ノ子 久右衛門時一
三代土生村庄屋 承応元年ヨリ明暦三年迄四ヶ年勤務 久右衛門ノ子 久右衛門明久
四代土生村庄屋 明暦三年ヨリ元録九年迄四十二年勤務 久右衛門ノ子 清九郎光氏
五代土生村庄屋 元録九年ヨリ享保六年迄貳拾六年勤務 清九郎ノ子 清左ヱ門光弘
六代土生村庄屋 享保六年ヨリ元文三年迄拾八 ヶ年勤務 清左ヱ門ノ子 多郎四郎光政 但四十二年卒ス
七代 土生村庄屋 元文三年ヨリ安永五年迄勤務 多郎四郎ノ子 清左衛門康貞 但六十七年卒ス 但安永五年ヨリ寛政元年迄重井村庄屋兼帯、天明元年ヨリ寛政元年迄土生村庄屋再勤、年数五十二年勤務此年数ノ内、大浜村椋浦庄屋兼務ス 年限不詳。
八代土生村庄屋 安永五年ヨリ天明六年迄拾壱ケ年勤務 清左衛門ノ子 又次右衛門貞久
九代土生村庄屋 寛政二年ヨリ文化四年迄勤務一七年 清左衛門ノ子 藤蔵康久 但八十二年卒ス
十代土生村庄屋 文化四年ヨリ文政十一年迄勤務 藤蔵ノ子宮 地久右衛門為重 但六十九年卒ス 但文化十年田熊村庄屋半役兼帯、文政四年椋之浦庄屋拝命天保六年土生村庄屋再勤、同七年田熊村庄屋兼帯、同九年社倉主役拝命、弘化二年割庄屋格拝命
十一代土生村庄屋 文政十一年日以天保六年迄勤務 久右衛門ノ子 藤三郎空光 但二十八年卒ス
十二代土生村庄屋 天保十一年以安政六年十一月迄勤務 久右衛門ノ子 清左衛門為歲 但四十三年卒ス 但嘉永二年ヨリ田熊村庄屋半役兼帯、安政四年迴船方頭取拝命、同五年ヨリ病気、同六年依願免職ス。
十三代土生村庄屋見習拝命 萬延元年申七月一日 文久二年戌八月廿八日本役拝命 清左衛門ノ養子 宮地良左衛門春房 但四十七年卒ス 当郡中庄村神宮 宮地義広四男 同官一弟 明治二十一年四月没
なお、大土生宮地家の墓は対潮院と旧宅の裏にある。
大土生宮地家長屋門の写真が掲載されているが現在はない。
(以上38回)
因島抄(順不同)その6
因島土生町文化財協会発行の「郷土文化」19号の村田市郎「続土生村風土記」より、
土生町内摩崖仏造立所在地表 六ヶ所と土生町内史跡文化財目録を再録する。(p.36-38)
土生町内摩崖仏造立所在地表 六ヶ所
一、郷区池の奥木野山さんに遺る巨石群摩崖仏 奥州南部宇曽利山大師尊像他二体
一、郷区焼家谷奥 一体三頭観音座像
一、赤松峠山上巨岩三体弘法大師立像 石鎚大權現 秋葉神社 金之大神
一、長崎岩屋寺巨岩摩崖仏三体 弘法大師立像 不動明王像他
一、宇和部小学校奥八坂寺巨岩五輪塔壱基 巨岩下の石室に無縁仏が十体程が奉祀されてい る。
一、因島公園中腹の巨岩には大岩大明神が奉祀され ている。
土生町内史跡文化財目録
1、大山峠道祖神地蔵堂 2、大山船方みち山神社奥宮
3、郷草迫の道棲寺跡石仏五輪塔 4、木野山神社摩崖仏三体
5、宝地谷小丸山城跡 6、宝地寺跡石仏群百二十体
7、宝地谷荒神社と古代遺跡 8、大土生宮地家庄屋敷跡
9、対潮院薬師堂と西国観音石仏群 10、対潮院内巻幡家連墓所及庄屋宮地家墓所
11、田熊土生越明体古戦場跡と石仏群一石塔 12、焼家谷奥摩崖三頭観音
13、龍王山石鎚神社と雨乞祈願所 14、広畑の大楠と笠塔婆伝今岡四郎の墓
15、串畑谷天神社と中世刀鍛治跡 16、島前城跡と長源寺跡石仏
17、巻幡家祖藤原泰高墓所と耳護社 18、島前波止のお鳥喰さん
19、箱崎戎神社と龍宮神岬祠
20、土居巻幡家大家敷跡と石仏五輪塔石窟
21、江の内明神社と箱崎浦合戦古戦場跡
22、宇和部八坂寺巨岩五輪塔
23、土生小学校開設記念碑由興明治四十年建立 24、赤松幡磨石巨岩摩崖三体
25、塩浜明神社と因島船梁創設記念碑 26、長崎城々山史跡
27、荒神山城跡と宝筐印塔壱基 28、荒神平岩屋寺巨岩摩崖仏三体
29、高野山夫婦松跡地蔵堂 30、平木村上水軍弓場跡
31、因島公園鯖大師堂と島四国石仏八十八体 32、因島公園弘法大師銅製尊像大正八年建 3
3、因島公園つれ潮の道水軍和寇記念碑 34、因島公園村上家長崎城開城六百年記念碑
35、天狗山頂上石神社石室享和三年奉祠 36、大山神社舟型手水缽一基、享禄三年
37、大山神社社頭自然石灯籠一基享禄三年建 38、大山神社社宝山神原出土須恵器二点
39、鄉宝地谷奧巨石群「ドンジ石」 40、郷区三庄峠才の神石仏
以上町內史蹟文化財四十ケ所 平成二年十月町內史蹟文化財再調查 村田市郎
(以上39回)
因島抄(順不同)その7 因島市史料
因島市史料は因島市史編纂過程で蒐集された古文書を解読して冊子にしたものである。貴重な資料であるから、ここに目録を作っておく。
第一集
安永三年 村立実録帳 重井村 1
宝曆十四年 村立実録帖 田熊村 29
享保十一年 村立実録帖 中庄村 47
御調郡中庄村差出帖 中庄村 83
国郡志御用に付下しらへ書出帳 大浜村 101
芸藩通志抜粋因島の部 111
第二集
条々(表題なし) 8
御用米御定例御仕法書 9
御城米御送状 写 19
関舩理法書 47
被仰渡書写 55
御條目 59
椋之浦 三ツ庄村 両浦廻舩定書 65
虎江新造 幸徳丸 小遣帳 73
第三集 安政三年 差上書類控 三庄村分
第四集
一、寛永十五年九月吉日 備後国御調郡因島内土生村御地詰帳 1
二、寛永十五年九月吉日 備後国御調郡因島内田熊村御地詰帳 29
三、元禄十年閏二月廿七日 備後国御調郡因島之内土生村新開御地詰帳 69
四、天明二年四月十日 備後国御調郡田熊村之内大山奥山入相新開地詰帳 75
第五集
因島村上家文書 1
金蓮寺在銘瓦 33
第六集 能島来島因島由来記
第七集 武家萬代三島海賊家軍日記
第八集 武家萬代三島海賊家軍日記(続)
第九集
一、寛永十五年九月吉日 備後国御調郡因島内外浦御地詰帳 1
二、寛永十五年九月吉日 備後国御調郡因島内重井村御地詰帳 17
三、明暦三年酉三月廿六日 備後国御調郡因島之内重井村新開御地詰帳 79
四、延宝三年未九月 日 延宝七年御調郡椋浦御年貢米請取通 99
(以上40回)
因島抄(順不同)その8 椋浦の漂流民
千石船の盛んな時代、椋浦では船主だけでなく船乗りになる人も多かった。それは狭い耕地を考えれば当然であっただろう。その流れの中から、椋浦とは関係のない船に乗る人も出てくる。また遭難に会う機会も増える。漂流民も出る。椋浦の亀蔵(後、亀五郎)は後にアメリカ彦蔵と呼ばれた男とともに遭難した。以下、吉村昭『アメリカ彦蔵』(読売新聞社)より引用。p.292~。(● は改行)。
帰国の途についた遣米使節を乗せたアメリカ軍艦「ナイアガラ号」は、九月十日に香港に入港して、石炭、食料、水の補給をし、その間、新見らは香港に上陸したりして日をすごした。● 十八日に出港したが、前日に一人の日本人がアメリカ人の紹介状を手に清国の小舟に乗って艦にやってきて、オランダ語通訳官のホイットマンに面会を申し入れた。 ●ホイットマンが会うと、男は亀五郎と名乗り、かなり流暢な英語で自分の身上話をした。 ●亀五郎は、芸州椋之浦(広島県因島市椋浦町)の生れで、十年ほど前、船乗りとして江戸から帰航中、熊野灘で遭難、破船漂流してアメリカ商船に救けられ、サンフランシスコに上陸した。一同十七人であったが、清国に送られる途中、ハワイで船頭が病死。亀五郎は、治作、彦蔵とともにサ ンフランシスコにもどり、船の炊に雇われてすごしていた。● その船で長い航海をしてサンフランシスコにもどると、すでに彦蔵は神奈川に、治作は箱館にそれぞれ帰国したことを耳にした。● ただ一人になったことを知った亀五郎は、狼狽して日本へ行く船を狂ったように探しまわり、商船「ロッジル号」が商用で香港へ行くことを知って船長のノルデネルに乗せて行ってくれるよう懇願した。船長は承諾し、亀五郎は水夫に雇われて乗船し、五十日間の航海をへて香港についた。かれは、遣米使節団の乗った「ナイアガラ号」が入港したのを知り、それに乗せてもらって帰国したいと考え、ホイットマンに面会を申出たのだという。● 亀五郎の話に同情したホイットマンは、正使の新見豊前守にそれを伝えた。新見が会ってみようと言ったので、ホイットマンが亀五郎を連れてゆくと、亀五郎は新見の前にひれ伏し号泣した。● 家臣がおだやかな口調で問いただし、亀五郎は、涙で声をつまらせながら香港にたどりつくまで のいきさつを陳述した。● 亀五郎の話に強く心を動かされた新見は、「ナイアガラ号」の艦長に亀五郎をこの場で引取りたいと申出た。これに対して艦長は、艦に乗せて日本へ連れていってはやるが、新見に亀五郎の身柄を託すことには強く反対した。アメリカの法則では、漂流民を引取る折りには、その地駐在のアメ リカ領事から艦長宛の申請書の提出が必要で、適当と認められた場合のみ許される。そうした手続きをへていない亀五郎を、日本側に引渡すことはできないという。 新見は、さらに懇請したが、艦長は頑くなに拒否の姿勢をくずさなかった。 そのため両者話し合いの末、帰国後、亀五郎を艦長から駐日アメリカ公使に引渡し、その扱いは公使の判断にゆだねることに決定した。この話し合いに従って、亀五郎は艦に乗って品川に上陸後、 公使館に拘留され、公使館は幕府の役人に引渡したという。 ●「以上のような次第で、亀五郎は只今、江戸で御吟味を受けておりますが、亀五郎の陳述にまちが いはありませんでしょうか」● 役人の言葉に、「相違ございません」と、彦蔵は答えた。
(以上41回)
因島抄(順不同)その9
山内譲『海賊の日本史』(講談社現代新書、2018)は歴史学者の最新の見解と受け取ることができる。以下、p.149より。(● は改行)。●因島村上氏の本拠は、備後国因島の東岸に位置する中庄(広島県尾道市)である。中庄の入江の先の布刈瀬戸は山陽沿岸と燧灘を結ぶ重要な航路であった。中庄の集落背後の標高二七五メートルの地点には因島村上氏の本城とされる青陰城が位置し、集落の中には菩提寺とされる金蓮寺も所在している。また島の周囲の沿岸部には長崎城、青木城、幸崎城、千守城などの城が配置され、これらは近海を航行する船舶ににらみをきかせていたものと思われる。● 因島村上氏は、因島周辺のみならず、そこから遠く離れた海域でも活動した。一五世紀後半に瀬戸内海を旅した大徳寺の禅僧没倫紹等(もつりんじょうとう)(一休宗純の弟子)の日記には、豊後の沖で村上と号する「院島の海賊」と遭遇したが、その海賊は、一三艘の船を連ね、二百余名 の兵卒を抱える集団で、旅人たちの乗った船を周防国遠崎(山口県柳井市)まで連行してい ったと記されている(臼井和樹「『[没倫紹等日記]』断簡」)。遠崎は、中国本土と周防大島にはさまれた大畠瀬戸に面した港で、大畠瀬戸は、周防灘や伊予灘と広島湾を結ぶ海上交通の要衝である。ここで、因島村上氏は、船舶の側と通行料の交渉に当たったのだろう。これ をみると因島村上氏は、室町・戦国初期には、大畠瀬戸に面した遠崎などを拠点にして、周防灘や伊予灘などの海域にまで活動範囲を広げていたことがわかる。● 因島村上氏の活動拠点としてもう一つ重要なのは備後国鞆(広島県福山市)である。鞆は、芸予諸島を抜けて東方に向かう航路と山陽沿岸航路が合流する所で、風待ち、潮待ちの港としての自然条件にも恵まれていたので、古くから多くの船舶や旅人が足をとめた港町である。因島村上氏は港の入り口に位置する大可島(たいがしま)に城を築いて港や沿岸航路を支配した。● 因島村上氏の全盛時代を築きあげたのは、吉充と弟の亮康である。吉充は、小早川氏や 毛利氏との結びつきが強く、一五六一(永禄四)年の豊前蓑島沖での合戦、一五七六(天正四)年の摂津木津川口での合戦などにおいて他の村上諸氏とともに戦功をあげた。また一五八二(天正一〇)年に、来島の村上通総が離反した時にも毛利氏への忠誠を誓い、小早川隆景や毛利輝元から周防国内に領地を与えられている。● また、亮康は前記の鞆を支配して「鞆津主」と呼ばれた。亮康は小早川隆景配下の水軍として山陽沿岸ににらみをきかせたが、一五七四年に室町将軍足利義昭が信長によって京を追われ鞆に移ってくると、その護衛と監視も重要な任務になった。● ところで、海賊衆村上氏は、瀬戸内海から外洋に出て倭寇とかかわりを持つことはなかったのだろうか。ともに海上活動をこととすることから、海賊と倭寇の関係に関心が持たれ、松浦党同様に村上海賊も倭寇とのかかわりが問題にされることがある。これまで述べ てきたように村上海賊の主な活動時期が一六世紀であることを考えると、倭寇との関係があるとすれば後期倭寇の時期になるが、第二章で述べたような後期倭寇の実態からすると、村上海賊が倭寇にかかわる余地はないように思える。しかし、それでもしばしば村上 海賊が倭寇の構成員となったかのような言説がなされるのは、近世の軍記『南海通記』 (巻八)に、能島村上氏が海外へ出て戦ったかのような記述があるからである。しかし、 『南海通記』はもともと物語性の強い軍記で、それだけを根拠に結論を出すことはできない。● それでは一次史料ではどうかというと、村上氏に残された史料をみる限り、同氏が海外に進出したことを示すような記述はみられない。また、中国側の倭寇関係史料に精通している田中健夫も、村上氏が倭寇の一翼を担った明確な根拠はないと述べている(『倭寇』)。 これらのことからすれば、村上氏が倭寇に関与した可能性は低いといえる。
(以上42回)
因島抄(順不同)その10
中国新聞社の『瀬戸内海上』(昭和34年)は昭和32年からの連載記事をまとめたものである。当時の交通事情や社会情勢を考えれば、取材の事情は最近の比ではなく極めて困難
なものだったと想像できる。現在から見れば、異を唱えたくなる記述もあるが、そのまま記して資料とする。p.43より。
因島(広島県因島市) 広島県に属する島だけで約150島、因島の大 きさは県下で一、二を争う。(面積40平方、人口2万2千) 昭和28年5月1日、近隣他町村にさきがけて市制がしかれ、"一島一市"というのは、全国で因島だけであろう。御調郡内の郷の名に「印乃之末」と書いた古書が あり、千年前から史上に名をあらわした島だと、郷土史家は信じている。島には"村 上"と名乗る氏 が 非常に多い。商工会議所所在地である「田熊」、島の中央部にある「中庄」の町は、それぞれ三百世帯ばかりあるが、半数は"村上"と名乗っている。驚いていると土着の人は、その理由を話してくれた。● 昔、戦国時代、村上三郎左衛門義弘が、海の野武士としてここに城を構え、海賊となった。村上水軍と呼ばれ、内海の招かざる客として勇名をとどろかせた。今日、中庄町の青影山が その本拠で、土生町の日立造船"城山クラ ブ" が出城になっていたものである。天下太平の徳川時代になって、海将村上水軍もその足を延ばす余地がなくなり、因島に定着して、農業、漁業に従事したー「村上氏」が多いゆえんである。同姓同名は、はき寄せるほどある。郵便配達さんは、家の格式や交際関係をのみ込み、差出人をみてカンで配達する。税金の令書などが間違えられると、笑えぬ悲劇を起すこともあるそうだ。● 島の生活は、大なり小なり、日立造船因島工場とのつながりにおいて、ソツのない呼吸が続けられている。因島市土生町というところは、明治末期までさびしい一寒村にすぎなかったが、造船所が設けられてから、修繕船の出入りに恵まれ、物資の動きが盛んになり、人口がふ え、大正7年ごろから、町筋には紅灯の一郭さえ設けられ、絃歌さんざめく繁栄をみせてきたものである。●日立造船の前身はこうだ。慶応3年、今から約90年前、英人エドワード・ハズレット・ハンター氏が海外飛躍の大志を抱き、郷里アイルランドのロンドンデリーから帆船に身を託し、香港、上海を経て横浜に上陸、大阪のクスリ問屋平野氏の娘愛子と結婚、四面環海の日本の立地条件から、将来造船業がさかんになることを予想し、明治14年大阪鉄工所を設立、小型木造船、陸上機械をつくった。明治40年、因島が波おだやかで水深く、海岸線が長いことに目をつけ、大阪鉄工所因島分工場を設けたのがはじまりとなっている。 日立造船の従業員4500人、臨時工1500人、合計 6000人。島の男は、あげて造船所へ勤務する。家業は商業でも、息子、娘は造船所へ行くという家庭が多く、一 戸で一人は必ず造船所と関係しているという。支払われる月給は、一ヵ月一億円を越える。この一億円が、島の経済の背骨になっているわけだ。因島北部の方は段段畑 がひらけて、除虫菊、サッマ芋、ノリ、ミカンなどが、わずかずつ耕作され、四季花のにおいに包まれて美しいが、百姓はもっぱら主婦の仕事、亭主は造船所へ通い、農繁期だけ工場を休むのである。
(以上43回)