2022年4月26日火曜日

そして神戸

 そして,神戸である。神戸では,元町駅から北へ坂道を10分ほど上がった山本通りにある,国立神戸移住斡旋所に入る。ここでほぼ1週間,身体検査,研修,出国手続きなどをする。東と南側に向かって坂道が下がる傾斜地にある鉄筋5階建てのこの建物は,現在も残っている。もちろん,その役目も終え,外務省から離れている。看護学校や芸術家集団の活動場所として利用されている。
 1階左側に食堂,右側に風呂洗濯場などがあった。5階に講堂。身体検査,特にトラホームの検査を受けた医務室は2階だったようである。現在,1階右側が公開されていて,資料室となっている。資料室といっても,ブラジル関係が多いのだが,本,ビデオ,移民船の模型,写真などが置いてあるだけで,学芸員がいるわけでもない。出航記録など見せてもらえるものかと期待して行ったのだが,そういうものはなかった。しかし,所内を写した古い写真があり,往事の姿を伺うことがことができた。また相田洋「航跡 移住31年目の乗船名簿」(NHK出版)の元であるドキュメント番組のビデオも見ることができた。
 移住斡旋所の玄関前で第二陣を写した写真が「広島県移住史 通史編」のグラビアにある。出発前の記念写真だと思われる。玄関頭上には「KOBE EMIGRATION CENTER」という文字がはっきり写っている。これは今でも残っている。庭の植木の変容はあたりまえだが歳月の移り変わりを感じさせる。写真の左側(西側)に,今は大きな石に「ブラジル移民発祥の地」と書かれた石碑が建っている。石川達三の「蒼氓」は戦前のここが舞台である。そしてその作品は第一回の芥川龍之介賞を受賞した。
 南の坂の下が元町駅,さらに中華街入り口を経てメリケン波止場に続く。多くの移住者が列車で元町駅に降り,鯉窪川通りを上がって移住斡旋所に入った。通りの周辺の商店には渡航用荷物を扱う店が多く,移住者たちはここで調達したという。故郷に別れを告げてきた人たちが最後に接する日本人が神戸の人たちだったというわけだ。神戸の人たちも大変親切で「移民さん」と呼んで,歓迎した。1週間のうちに顔なじみになり,不安と夢がないまぜになった会話が交わされた。そして出航の日が来ると「頑張ってくるけー」「身体に気をつけて頑張っていらっしゃい」という別れの挨拶が方々で見られた。そういう歴史のある坂道である。この坂を下りて,メリケン波止場から乗船である。
 今,メリケンパークには「希望の船出」という親子三人のブロンズ像が建っている。「神戸港移民船乗船記念碑」というもので,台座には「神戸から世界へ」と書かれている。「希望の船出」とはいうものの,どこかさみしそうな三人である。時代離れした洋装と帽子がそう思わせるのか。三人の視線は彼方に向かい,子供は右手をかかげ,指さす方向はブラジルである。ブラジルは地球の反対側だから,どちらを指しても間違いではないが,船が出る海のほうを指しているので,よりブラジルの方角に近いような気がする。
 一方,ブラジルで最初に上陸する地,サントスには「この大地に夢をA ESTA TERRA」と題する親子三人の像があるそうである。この「日本移民上陸記念碑」のほうは「宮崎県南米移住史」のグラビアで見るだけであるが,父親が手をかかげる。父親の指さす方向は日本なのか,あるいはこれから赴任する大農場(これを日本人は耕地と呼んだ)なのか,私にはわからない。どちらを指しても日本ではあるが。こちらは母親が帽子をとっており,髪型が時代を感じさせる。そして子供の帽子がまた,この後の苦労を象徴しているかのように不似合いだ。希望といい夢とはいうものの,日本人移住史が苦難に満ちたものであったことを思うと,どちらの親子にもそれがよく現れていて,すばらしい作品になっていると思う。
 さて,沼隈移住団第一陣であるが,横浜から回航してきたオランダ船籍のチチャレンガ号に乗り込み,神戸港を出航したのは,昭和31年10月15日,午後6時10分のことである。神原町長と町の関係者も見送った。しかし,一部の家族を除くと,多くのものが親戚縁者とは沼隈町で既にお別れを済ませているので,ここまでは送りに来ていない。秋の日は既に落ち,船が遠ざかるにつれて,うっすらと見えていた六甲の山並みは,次第に夜の闇に溶け込んで視界から消えていった。遠くに見える明かりは淡路島や大阪のものであるが,初めて乗る船がどのあたりは航行しているかは,すぐに分からなくなった。チチャレンガ号の次の寄港地は沖縄である。












 閑話休題。このページはあれやこれやと,まとまりのないことを書くのが本来の目的であったが,あまり飛びすぎるのも読んでくださる方は大変だろうと思い,沼隈町パラグアイ移住史を書き出したら,どんどんすすんで少し,窮屈になったので話題を変えよう。沼隈町パラグアイ移住史というのは,私にとっては郷土史の一部であるが,郷土史として関心がある人物に菅茶山がいる。茶山翁は備後神辺の,あるいは広島県の生んだ江戸時代最大の詩人である。茶山翁については,地元神辺町に立派な記念館があるし,また顕彰会があり,それぞれに研究と普及そして保存にとすばらしい仕事をされており,常々敬服している次第だから,小生ごときが書き加えることは何もないのである。そこで,ここに記すことは,きわめて私的な感想にすぎないということをはじめに,お断りしておく。さて,残り1冊のみとなって完結間近の岩波書店の新日本古典文学大系105巻の中に,66巻として「菅茶山 頼山陽 詩集」として,また99巻に随筆「筆のすさび」が収録されているのは,ファンの一人として大変うれしい。これは古いほうの日本古典文学大系に89巻「五山文学集 江戸漢詩集」としてわずかに10編しか収録されていなかったのに比べればおおきな進歩である。これはそれだけ漢詩が読書として愛好されているということでもあるし,また茶山翁の評価が上がったということで,地道に研究を続けられてこられた方々のおかげだと思う。
2004.8.5
 神戸港を出るとまず最初の寄港地沖縄に,10月18日に着いた。ここでは沖縄からの移住者90名が乗船した。(多分,ボリビアへの移住者だと思うが,まだ確認できていない)。このとき,広島県人会会長の広島市出身の辰野氏から泡盛2斗,パイカン1箱等が贈られる。第一陣の出発は,「町ぐるみの集団移住」ということで全国的にも有名になっていたから,沖縄の広島県人会では第一陣を激励しようとその到着を心待ちにしていた。広島県人の結束は硬い。そして広島県人は北海道をはじめとして,各地に進出している。海外もまたしかり。
 沖縄を出航してから後,香港,シンガポール,ダーバン,ケープタウン,リオデジャネイロ,サントスに寄港して,アルゼンチンのブエノスアイレス沖に投錨したのは12月23日だった。この間約2ヶ月。到着後,船上で通関の手続きと検眼。特にトラホームの検査は厳しかった。波濤万里,船酔いにも耐えてはるばる地球の反対側まできても,トラホーム一つで上陸を拒否される。これが南米諸国が当時とっていた政策である。強制帰国となり,家族と離ればなれになるという悲劇が起こる。24日,長い航海を終え,待ちわびた上陸である。はじめての南米大陸の大地に夢と希望をこめて力強く踏み出す。報道陣や広島県人の出迎え。折しも聖夜。ここでも広島県人の歓迎を受ける。翌25日は,市内日本人会館で広島県人会の歓迎会。アルゼンチン国拓殖組合長片山氏も出席される。26日は,午前7時から,税関で家族別に荷物検査。下船は,午後2時半からである。ここからは,アルゼンチン国拓殖組合副幹事鈴木氏の案内である。バス,トラックに荷物を積み込み,河船の乗船場へ向かった。アルゼンチンの広島県人はここまで見送りにきた。出航にあたって「パラグアイがいけなんだら,いつでもアルゼンチンへ来んさい。パラグアイとアルゼンチンは目と鼻の先じゃけえ」「そのときやあ,お世話になります」というような会話がなされたかもしれない。
  「河船は七百トン位のもので,とても汚く内地の船とは比較にならない。ただ黙って寝るだけ。食事は自費で,パン,ハム,果物など一人当たり百円だが,二日目は暑いし,パンはフのようでただ水を飲むばかりであった」という記録が残っている。27日の午後2時過ぎになってやっとコレクションというところに着く。もうウルグアイとの国境に近い。岸壁がホームになっていて,待っている汽車にすぐに乗り込んだ。国際列車である。28日も外気は暑い。左右に草原をみながら,列車は北上した。空気が乾燥しているので内部は涼しい。南米は広いと感嘆したものの,単調な景色にいつしか疲労を覚えはじめたころ列車は止まった。午後4時である。アルトパラナ河に接したポサーダスがアルゼンチン最後の駅である。通関の手続きの後,列車に乗ったまま河船に乗って渡る。河の向こうは,いよいよパラグアイである。パククワ渡船場には日パ拓殖会社のの石橋亘治氏が迎えにきていた。少し走るとパラグアイ第二の都市,エンカルナシオンである。ここからトラックで居住地に行く予定が,トラックが来ていない。駅舎で寝ることになった。周辺に住む日本人が握り飯を準備してくれた。トラックが来たのは翌日29日の午前10時前だ。トラックは赤土の砂塵を巻き上げながら北に約40キロ走り,アペリアに到着した。そこに仮宿舎がある。まずまずの大きな建物。雑魚寝。一面煉瓦のような赤土だ。赤塵が夥しい。30日の午後,入植地の現場を案内される。見渡すばかりの原生林。31日になって入植の手続き。「暑くランニングシャツでごろごろしている」という状況だったという。かくして,昭和31年は暮れ,明日はパラグアイで迎えるはじめての新年となる。それはまた,はじめての,夏に迎える正月でもる。