2024年7月17日水曜日

20240725

因島ロータリークラブ 講演     @ホテル因島


積善の家に余慶あり 

       白滝山五百羅漢と柏原伝六


                   柏原林造

                   1951年6月御調郡重井村生まれ 

序 (概略)伝六と観音信仰

1。青木茂『因島市史』

2。功過自知録

3。陰隲録(いんしつろく)  

4。五百羅漢

5。白滝山とは何か?



序(概略) 伝六と観音信仰

     伝六1781-1828.3.15 48歳  石仏工事開始の半年後逝去。 1830石仏工事(3年3ヶ月)終了


  子のできない親が西国巡礼をして生まれたので、自分を観音菩薩の生まれ代わりと信じ「観音道一観」と称する。

  観音菩薩の功徳。現世御利益と来世往生の2つ。 

    現世御利益・・功過自知録(道徳の点数化)による生活改善。

    来世往生・・白滝山上に極楽世界を築き、羅漢となって往生する。


1。青木茂『因島市史』

 「彼の書いたものをみると、心学的道徳的なものの概念が、かなり深いようである」(p.913)

 『観音和讃その他』(好善法師本)の項目の紹介があり、「仏、儒、神道など道徳教的な具体語意を多く収録す」(p.915)と記されている。好善法師(高根島出身、2代目白滝山堂守)

心学:石田梅岩が始めた石門心学、すなわち商人道徳のこと。

   石田梅岩1685-1744

日本思想大系42『石門心学』、岩波書店。

日本の名著18 『富永仲基 石田梅岩』、中央公論社 

R.N.ペラー『徳川時代の宗教』、岩波文庫

及川大渓『広島の心学』、国書刊行会

            「思想は当時あった儒仏、老荘もいくらか入っているんでしょうけれども、儒仏と神道です。朱子学を中心にして、神仏を入れた折衷主義でしょう。思想的にみて独創的なところはほとんどないが、だれにでもわかりやすい。」(加藤周一月報対談p.2 

 パンフレット、WEB等に書かれている、「仏教、儒教、神道、(それに人によってはキリスト教を)加えて新しい宗教・一観教を作った」と言うのとそっくりではないか!

 一観教についての説明がどこにも無いということは、「独創的なところはほとんどない」というのに酷似している。そういう皮肉を言ったのではないと思うが、青木茂氏の指摘は冴えている。



        

それでは、石門心学と似ていたのは何か?  「功過格ー功過自知録」ではないか?青木茂氏が見た資料には、このような図入りの説明がある。

 



『陰騭録』には明の伯仕宋のものと、明の袁了凡のものの2種があり、前者は雲棲袾宏の「自知録」「功過格」を収め、後者には雲谷禅師伝の「功過格款」を収めている。袁了凡の『陰騭録』はわが国では袾宏『自知録』と1冊に収められて元禄14年(1701)に和刻本が出版された。(『岩波 哲学・思想事典』p.566)

写真下の右ページ左下に袾宏の文字が見える。



功過格ー功過自知録」とは何か?

中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273-274)

 羅漢の黄檗様式に儒仏道三教の混在がみられるという説明の次に

「そのような素地の上に、知識人の間にはさらに王学左派的な学問・思想が新知識として与えられ、次第に林兆恩や袁了凡の伝や著者にも接し『太上感応篇』や『功過格』『隠隲文(いんしつぶん)』などといった善書の類も次々と刊行されて(中略)身近に用いられるような風潮が生じてきた」。また、「『功過格』などはその後は我が儒生の間にすっかり根づいて、有名なところでは日田(ひた)の淡窓塾の例の如く、日常徳目の成績表として普段に用いられるに至る。ともあれ一八世紀中葉のかかる道教的思想・学問の風の瀰漫は、これまた明儒の、それも王学左派的三教一致思想の波及するところであったことは確言できるように思う。」

さらに興味深いのは、「明儒の学の流行は、(中略)また新しい庶民倫理としての石門心学を生む」とあり、青木茂氏の「心学的道徳的なものの概念」というのも「功過格」の影響と考えていいだろう。

 王学左派:陽明学左派  右派より過激で仏教、禅と接近

 三教一致思想:伝統宗教の儒教、外来宗教の仏教、新興宗教の道教の一致 

 日田(ひた)の淡窓塾:  現在の大分県日田市にあった広瀬淡窓の桂林荘・咸宜園のことである。「桂林荘雑詠諸生に示す」という漢詩があるのでその一部・「休道」を記しておく。

 休道他郷多苦辛  いうことやめよ他郷苦辛多しと    

 同袍有友自相親  同袍友あり自ら相親しむ   

 柴扉暁出霜如雪  柴扉暁に出づれば霜雪の如し  

 君汲川流我拾薪  君は川流を汲め我は薪を拾はん

  広瀬淡窓自身も「万善簿」というのをつけていた。良いことをしたら白丸1つ、悪いことをしたら黒丸1つをつけ白丸から黒丸を引いて1万になるのに何日かかるか記録したものである。1度だけ1847年、67歳で達成したということである。(享年75歳)。 

 広瀬淡窓1782-1856

 これは江戸時代の話であるが、現代の話を書いておこう。三好信浩『私の万時簿–広島大学最終講義–』(風間書房、平成8年)に載っている。三好信浩氏は日田市の小学校の時、校長が「淡窓の実践した万善簿を、われわれ小学生に習慣づけようと努力された。一日一善、その善行の内容を簡単に記すだけのことであるが、毎日つけるのはかなり苦痛だったことを覚えている」(p.6)という経験から、研究者になってから研究に費やした時間数が何年何か月で1万時間に達するか万時簿として記録されたということである。他に、『明治のエンジニア教育』(中公新書)。     三好信浩1932-2024














3。陰隲録(いんしつろく)  


しかし、伝六の「功過格」は地元因島では伝承されたという記録は、まだ見つかっていない。伝六の死後途絶えたのか? あるいは、白滝山五百羅漢ができて役目を終えていたのか?

 さて、形式としては現在まで継続性は見ることができるが、その考え方の背景については『隠隲文(いんしつぶん)』について見るのが良いだろう。


 石川梅次郎氏は『陰隲録(いんしつろく)』(明徳出版社)のあとがきで、述べている。「昔は大変よく読まれたが、今日はあまり読まれない本がある。陰隲録もそのひとつである」と。この本は明の学者袁了凡(えん りょうぼん)が書いたもので、ふつう「善書」と呼ばれる。「善書」「袁了凡」『陰隲録』と言っても、極めて限られた人しか聞いたことがない言葉であろう。

 いろいろ探してみたら、安岡正篤氏の『立命の書「陰隲録」を読む』(竹井出版、平成2年)というのがあった。過日、細木数子さんの訃報に接して安岡正篤氏の名前を思い出した方もおられるかもしれない。また、以前話題になった『菜根譚』の著者洪自誠は袁了凡の弟子であったと言われているので、こんなところにも、その考え方は現在にまで引き継がれているのかもしれない。

 道教

   道教と道家は違う。(幸田露伴)『露伴全集』18巻p.256

   道家・・老子、荘子   諸子百家の1

 (老子の思想の)ながれのひとつは、のちに呪術や神仙思想などをふくんで「道教」という宗教を形成した。宮城谷昌光『孟嘗君2:』p.11

石川梅次郎『陰隲録(いんしつろく)』(明徳出版社)、p.100 以下事例が続く。あたかも今昔物語の仏教説話の如し。

(自分の運命は決まっているという)運命論を脱して努力して自分の運命を変える、というのがその趣旨である。運命を変える努力の一つが積善である。

そしてて、積善の家に余慶あり  ということになる。
 儒教では、善は自分のためにし、仁を目指す。
 仏教の因果応報と似ているが、仏教は悟りを目指す。
 道教は努力して仙人を目指す。

積善の家に余慶あり  は、目的か?、結果か?

日々反省し善を増やせば、生活は向上する。これこそ伝六=観音菩薩の現世御利益であった。


  



4。五百羅漢

  羅漢と観音菩薩 と禅宗

禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」

松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196

  

5。白滝山とは何か?   

「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)

 同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。


 白滝山の4大誤謬

 1 白い滝の山ではない。「タキ」は西日本では崖を表す。

 2 隠れキリシタン遺跡。妄想に過ぎない。勉強不足。

 3 一観教。伝六生存中も死後も現在も一観教を名乗る集団は存在しないし、個人信者もいない。

 4 恋し岩伝説。 岩は観音岩、山上のもの。力士・白滝 地名語源説話で話は逆。これらが合体した創作民話。



付録

「また、観世音菩薩には三十三応身といって、必要に応じて三十三に変身して衆生を救済する融通無碍の性格があります。このいわば円通自在の心が、禅者にとっては必要なわけで、刻々として移りゆく事象の変化に応ずる心境が要求されるわけです。観音信仰が特に禅宗において重要視されるわけです。」(松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196) 

 話はそれるが同書に松下氏はまた次のようにも記している。「地蔵菩薩は一所に滞在せず、常に遊行して人びとの霊を救う役割をもっています。禅僧が修行のためあるいは布教のため常に師を求めて江湖を行脚する姿にも似ているわけです。」「この地蔵信仰に関連して禅林でとりあげられたものに十王信仰があります。」「禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」と。ここまで書けば、白滝山が一時、曹洞宗善興寺の奥の院になっていたことが不思議ではないということがわかるであろう。そして白滝山五百羅漢が伝六にとっては、曹洞宗からはみ出たものでなかったことがわかる。すなわち、伝六が「観音道一観」と名乗ったからといって、曹洞宗から飛び出したものではないことがわかる。同様に白滝山が曹洞宗に異を唱える聖地を目指そうとしたものではなかったことがわかる。

 さて、伝六が自ら観音菩薩の生まれ代わりだと言ったのであるから、さらに観音菩薩とは何かと考えてみたい。それは白滝山の最頂部、展望台の東側にある阿弥陀三尊像を見ればよくわかる。中央が阿弥陀如来、阿弥陀如来の右側が勢至菩薩、左側が観音菩薩である。この位置に阿弥陀三尊像を置くというのが伝六の意志によるのであれば、その観音菩薩は伝六自身でなければならないだろう。観音菩薩の生まれ代りで「観音道一観」と名乗る以上はそうであろう。そうでなければ言行不一致になるではないか。余談ながら、そうであるならば、阿弥陀三尊像より少し下にある一観夫婦像というのは余分である。私は必要ないと思う。ではなぜ、あそこに一観夫婦像があるのか。伝六寄進にはなっているが、伝六の子息の寄進ではなかろうか。そして、親の心子知らずで、頂上の観音菩薩が伝六であるという認識に達していなかったのだと思う。

 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)

 同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。