2025年3月1日土曜日

夕凪亭閑話2025年3月

 

 クリスタルホーム

2025年3月1日。土曜日。小雨のち曇り。6464歩。73kg。6時に起きる。暖かいので朝昼と畑と庭の整理。古文書。


2025年3月2日。日曜日。曇り時々小雨。4490歩。72.85kg。6時に起きる。朝、買い物。午前、昼、午後と畑と植木の手入れ。古文書。



2025年3月3日。月曜日。雨時々曇り。2209歩。72.25kg。5時に起きる。また、雨。外作業ができない。古文書。6時から常会の年度末打ち上げ。



2025年3月4日。火曜日。雨。1736歩。72.65kg。4時に起きる。今日は一日中小雨。それに寒い。外仕事一切せず。佐藤雅美、『幽斎玄旨」、文春文庫、終わる。



2025年3月5日。水曜日。雨のち曇り。3273歩。73.1kg。5時に起きる。朝、医師会病院。買い物。因島図書館。午後、来客。瀬戸内タイムズ原稿送る。 『公孫龍』3、読み始める。



2025年3月6日。木曜日。晴れ。8064歩。73.3kg。4時に起きる。今日は9時より権現山清掃。文化財協会役員。昼食後役員会。昼寝。古文書。



2025年3月7日。金曜日。晴れ。3620歩。73.8kg。6時に起きる。昼前に出て福山へ。福山城へ。コピー。古文書学習会。帰って入力。送る。





読書の記録

3月4日

佐藤雅美、『幽斎玄旨」、文春文庫




クリスタルホーム

2025年2月9日日曜日

送春賦

 送春賦

 

 その年の秋、僕らはある小さな町の大学へ合同セミナーを行いにやってきた。その町は川と山に挟まれた小さな平野の中にあった。川の中州には、雑草が生い茂り、所々にたまった丸い石は、乾いて土砂がこびりついていた。水はゆっくり流れ、小さな魚がすばやく泳いでいた。そして、その魚が方向を変えるとき、魚の腹が太陽の光を反射して緑色に光った。


 デモ隊は町の中を始終動き回っていた。彼らのあげるシュプレッヒコールが小高い丘に反射して、祭りの夜の喚声のようにどよめいた。大学の中でも、それに呼応するかのように一瞬どよめきが流れた。

 その年は、秋が訪れるのが早かった。僕らは、デモ隊が大学の前を通過するのを、学生会館のガラス窓越しに眺めた。ガラス窓は白い水滴で曇り、外と中の気温の差を示していた。

 赤い旗や黄色い旗が乾いた風に舞った。その風に、街路樹のプラタナスの葉がゆれ、そのうちの何枚かが落ちた。デモ隊の中のだれひとりとして、その葉には目もくれず、彼らは行進を続けた。デモ隊が通過した後、黒いアスファルトの上は、プラタナスの黄色い葉が押し潰されたり、曲げられたりして、斑点のように散らかっていた。

 田圃には刈り入れを前にした稲穂が、山に背を向けて傾(カシ)いで、しずかに風にゆれていた。遠くから見ると黄金色の絨毯が果てしなく続いているようだった。その先は日本海へ注ぐ湖の青へと連なっていた。反対側には、果樹園が麓からなだらかに山頂へと延び、わずかに色づいた秋色の潅木と境を接していた。遠くのもっと標高のある山では頂上の方から次第に秋を深めていた。二週間もすれば、その変化は、はるか麓の平野部にも達することが予想された。それは、夜と朝の冷込みから誰もが予感していることだった。

 夕方になると、さすがにデモ隊の声は小さくなったが、時には日が落ちてから、夜の帳を越えて集会の鬨の声が、一面の冷気を引き裂くように伝わった。日が暮れると、大学周辺は急激に人影も疎らになり、昼間の喧騒が幻を見ていたのではないかと錯覚されるほど静かになった。その空虚さを破るかのように、僕たちが宿泊している建物の別の階から、華やかな男女の笑い声が流れた。しかし、それも束の間で、まもなくもとの静寂にあたりは覆われた。

 夜の闇の中で、西の方をみると、小高い丘の影が淡く浮いてみえた。その影の先端は右側にいくにつれて低くなり、湖に接していた。その付近の人家の灯が波に反射して紫色に揺れていた。

 毎日のように小雨が降った。海には風が舞い、山は雲で覆われた。アスファルトの歩道は黒々と光り、道行くデモ隊の速度も心なしか迅くなった。灰色にくすんだヘルメットは濡れると、白い部分を中心にして鮮やかな輝きを取り戻した。目の部分だけを出して、ヘルメットとタオルで顔が見えないようにしたグループは、揃いもそろって薄水色のジーンズの上下に軍手という出で立ちだった。薄汚れた軍手が闘争の長期戦を物語っているのとは対照に、顔半分を隠しているタオルは真新しく、小雨も中までしみ込まず、雨滴が表面に浮かんで銀色に輝いた。ただ、靴だけが色とりどりで、白いズック靴もあれば茶の革もあった。鈍い黒色のカジュアルも散見された。

 その中に彼女はいた。

 どこと言って目立った服装をしていたわけではない。なのになぜ僕の気を引いたのだろうか。同じような服装で同じように行進しているのに彼女だけが印象に残っている。

 大学二年の僕は、きわめて非行動的なグループに属していた。山陰の大学の原子力発電所建設反対闘争を支援するために、その大学へきていた。

 いろいろなグループが来ていた。ぼく達はデモには参加していなかった。

 支援といってもようすをさぐりに来たようなものだ。毎日集会が開かれていた。その集会に参加するのが目的ではなかったが、それでも当座の学生の無聊(ぶりょう)をいやした。

 昼間、集会の移動のとき、廊下を横切る姿を見て好ましく思われたものだが、いまデモ隊のなかで懸命に叫んでいる姿を見て、何か胸を締めつけられるような気持ちになった。

 冬になる前に僕らはその町を去った。その町を去った日、プラットホームの屋根はその年最初の霜で銀色に朝日に耀いていた。僕らを乗せた列車が動きだしたとき、僕はその町に何か大切なものを忘れてきたような気がした。

 列車の後方へ延びて細くなっていく線路は、そのまま僕らが過ごした時のように、急速に遠ざかっていった。それは僕が別の大学で過ごした二週間を、無意味なものに感じたからではない。確かに闘争は長引き、疲労の堆積を僕たちは引き摺って帰路に着いていた。しかし、その突破口の見いだせなかった二週間でも、それはそれで僕の生活に他ならなかった。

 

 ・・・あれから半年以上が経っていた。

 初夏のその町は、空気が透明に覆い、ずっとむこうの山並みが蒼い空にまで伸びていた。

 打水されたプラットホームは、足早に過ぎ去るビジネスマンのような人にも、あるいは静かに観光案内に目をやる旅人にも、同じような緊張とくつろぎを同時に与えていた。

 僕は澄んだ空気を確かめるように、ゆっくりとプラットホームを歩いた。

「何だか寂しくなちゃうな。この前のときとはたしかに学生の数は増えたけど、このままずるずると膠着状態が続くということは、すなわち向こうの思う壷というわけ。解決しないことが悪いのではない。何もしないことが悪いのだ」

 昨日から行動をともにしている学生が言った。どこといって特徴のない男である。しいてあげれば、過激でもない。そうかといって非活動的でもないという、ごく普通の、どちらかといえばこんな場所にいること自体が不似合いな感じの男である。すなわち、男はあまりにも、平凡すぎた。

「いや、そうではない」隣の背の低い、顔の少し赤い男が、表情に似合わぬおだやかな声を出した。赤ら顔のせいか、表情は随分険しく見えるが、声は優しかった。僕の気持ちは和んだ。

「そんなことはない。我々はずっと学習を重ねるとともに、毎日それなりの反対の意志を主張してきた。それはマスコミも取り上げ、全国からも支援の便りも届いている」

 澄んだ目、澄んだ声、そして何よりも自己の正当性を信じる人間の傲慢さの表出を少しも躊躇しない自惚れも、この場ではきわめて自然だった。

 人が時の流れを変えていくのか、時が人の考えを変えていくのか。季節の移ろいが、人の心の移ろいと重なっていた。変わった。確かに変わった。プラットホームを流れる空気も変わった。

 

 ほどなくして、衝突は起った。

 警察は催涙弾を我々に向けて射ってきた。他のグループのどこかから、火炎ビンが投げられた。僕たちも火炎ビンを投げた。特別に狙ったわけではなかったが、期せずして同じところを狙った形になった。他のグループも一斉に投げ始めた。夥しい量の火炎ビンだった。はじめのうちはパッと燃えて消えていた炎が、だんだんと数が増すにつれて大きな炎となり、火災現場のような状況になった。機動隊員の中には、衣服に火が移って、背中から不動明王のように炎を背負って逃げまとっているものもいた。警察のサイレンが鳴り響いた。遠くのほうからは消防自動車のサイレンも聞こえた。

 投石が繰り返された。デモ隊だけでなく、周囲をとり囲んでいた市民や学生の中にも一緒になって支援してくれるものも出た。

 白煙が至る所で上がり、騒動はますます大きくなっていった。ひときわ大きな煙のあがっているところを見ると、乗用車が燃えていた。後からも、前からも機動隊の渦だ。僕たちは前へ走り、後ろへ逃げた。しかし、どうしょうもなかった。周囲をアルミの盾と白いヘルメットで囲まれ、その円陣がじわじわと狭められたとき、僕は覚悟を決めた。いよいよ今度こそは、一戦交えずには済むまいと思われた。じわじわと、機動隊は僕たちを囲繞するサークルを狭めてきた。

 と、そのときである。ただなすすべもなく、包囲が狭められていくだけかと思っていたとき、デモ隊の一部に力ずくで包囲網を突破しようとしたグループがあった。はじめからそのような作戦が立てられていたのか、あるいは機をみるに敏感なリーダーに率いられた一団が、咄嗟に行動を起こしたのかは、確認のしようがなかった。けれども、そのような状況に至るということ自体が予想されていたことではなかったから、多分、後者だろうと僕は思った。そして、その行動の見事なさまは、まるで白昼夢でもみているのではないかと錯覚されんばかりだった。気がついたときには、僕たちは包囲網を突破していた。

 僕たちは怪我は無かったが、数回にわたる衝突だった。怪我人は相当あっただろう。あるいは死者も出たかも知れなかった。

 総崩れになったデモ隊は蜘蛛の子を散らしたように四方に乱れた。隣りにいた彼女の手を掴んで、人のいないほうへ走った。

 

 岡山から来たというこの女性は中学校で数学を教えていたと言った。ちょうど教員になって一年目に、休職して、ここに来たのだということだった。最初、見たときは大学生と見分けがつかなかった。

「ちょうど一年が終わろうとしていた頃のことよ」女は夢見るような調子で話し始めた。「一年が終わってみると、このような一年一年が何十年か何事もなく過ぎ、そして人は大過なく教員生活が送れたことは幸せでした、などと言って辞めて行くのかと思うとぞっとして、しばらく体の震えがとまらなかったわ。さっそく、翌日辞表を書いて教頭のところへもっていくと、しかとした理由がないのなら休職にしてしばらく考えたらといってくれたの。母もそうしなさいというものだから、休職にしちゃったの。数学の教師であることがいけないというんじゃないけれども、でも働けないのよね。子供の頃からよく大きくなったら何になるって、聞かれるでしょう? 私だけじゃないわ。誰でもよ、きっと。こういう問いって罪がないのね。聞くほうにもたいした意味もなければ、答えるほうも大きな責任なんかないわ。軽く、スチューワデスだの、看護婦さんだのと答えておけば済むの。それだけのことよ。でもね、そういうことが何度も何度も繰り返されるたびに、子供は夢を膨らませることができるの。一度広がりはじめた夢というのは途方もなく広がるものなのよね。だれも知らないことだけど、少女の胸の中の夢は無限なのね。未来が無限に広大で、そしてその可能性のいずれもを選択することができるのね。それが、大きくなったら何になる?という問いの意味よ。

 ・・・そしていつのまにか気がついてみると、自分の掴んでいるのが、その広い広い未来の、いや未来だったものの、ほんのちっぽけな現実なのね。こんなはずではなかった、私の未来はこんなものじゃなかったと、みんな心の中では叫んでいるのよ。叫ばないではいられないはずよ。・・・気がついたら、ここに来ていたの」

 彼女と僕は山を越えて岡山のほうに逃げることにした。そうはいっても、要所要所には警察が立っているので、うかつに逃避行を実施するわけにはいかなかった。

 最初の夜は杉木立の下の凹地で過ごした。初夏といっても夜は相当冷え込んだ。寝袋のひとつでももっておればと思ったが、ないものはしかたがない。僕たちは互いに体をくっつけあって暖めながらその夜を過ごした。危険をさけて道路から相当奥まったところに場所をとった。それでも、あたりが十分に静かだったから近くの道路を通過するトラックの音が、遠くの山にこだまして羽虫のうなりのように断続的に僕たちの耳に達した。それらのトラックは夜の闇の中を、ヘッドライトで照らしだされたところだけを目掛けて、突進していったはずだ。空気中のかすかな塵に光はあたり、チンダル現象によって光束がゆっくりと移動する。その光束は遠くの山や、空に流れた。その一部を僕たちは木立の間から眺めた。

「このような山の中で、二人だけで暮らせたらいいわ」

 彼女は静かに囁いた。

「世間とは一切交渉がなくて、自給自足というか、そういう生活というのは現在ではもう不可能なのかしら?」

 そのような生活というものが考える先から非現実的なものとして、僕の頭のなかで消えていくのとは反対に、彼女の言葉は僕に向かって投げ出されていた。

 しかし、せっかく彼女が夢を語っているのに、それを消すのも気の毒なように思った。それに何より、二人の措かれている闇が、さらにその夢を長らえさせた。僕は黙って聞いていた。

「仮に、仮によ。このまま二人が山の中に棲んで、世間と一切の関係を断つことはできないかしら? やがて、二人は戸籍から消え、法律上はこの世に存在しないことになるわ。存在しないのだから、決してその証拠を残したり見せてはいけないことになるの。二人だけで、山間(やまあい)の誰もたづねてこないようなところで、ひっそりと暮らすの。そこにはお金というものもないわ。商品というものもないわ。すべて自分たちで作り、そして自分たちで使うの。そうね、ロビンソン・クルーソーね。陸のロビンソン・クルーソーだわ」

 そんな生活なんてありえない、たった二人の孤独が、彼女にメルヘンを語らせたのである。二人だけのあどけない会話として僕は、うなづいた。

 木の幹を背凭れにして座っている僕に、彼女がさらに凭れていた。僕の指が彼女の髪を梳うように撫でた。

 彼女の胸のあたりに置いた僕の左手を、彼女は両手でやさしく握っていた。彼女は見かけほど細くはなかった。

 雲が動いて、月明かりに頬の輪郭がくっきりと浮かんだ。産毛が月光を反射して銀色に光った。思わず僕は、右手を細い顎のほうへまわした。やわらかい肌はあたたかかった。 ・・・いつの間にか彼女は目を閉じていた。

 一休みした僕たちは再び歩き始めた。国道沿いの潅木の中を進んだ。

 道路添いに山中を歩いた。かなり歩いているはずなのに、彼女は疲れたようには見えなかった。僕も疲れていなかった。遠くへ行く、ただそれだけが目的だった。町から離れるのだ。僕たちが来て、そして出会った町から、今は遠ざかることが必要だった。そこには何の感傷もなかったが、二人でいるということだけで、ずいぶん感傷的だった。国道から少し離れたところを歩いていたから、時々通過する自動車のライトが遠ざかって行くのが見えるだけで、他に何もなかった。だから僕たちが誰かに見られるという心配もなかった。

 しかし、今歩いている道もやがて国道と合流すると、歩いている僕たちは必ず通過する自動車に見られるのではないか。そうすると、僕たちが逃げた方向がわかってしまう。それは避けたかった。

 でも、僕たちにはそちらの方向に行くしか選択肢は残されていなかった。

2025年2月1日土曜日

夕凪亭閑話2025年2月

 クリスタルホーム

2025年2月1日。土曜日。曇りのち雨。2239歩。72.1kg。3時に起きる。朝と昼過ぎ、デコポンを摘む。いつも年内に摘むのだが、今年は1月いっぱい木に残しておこうと試みた。少し苦味があるが甘さは良い。やはり篤農家がよくするように木全体を寒冷紗で覆う、果実に袋掛けをしt防寒対策をしなければいけないようだ。古文書入力。平家物語など。



2025年2月2日。日曜日。雨のち曇り時々晴れ。3946歩。71.1kg。5時に起きる。朝から雨。久しぶりのまとまった雨。こんなに春前に雨が少なかったら筍もでまい。今年も不作だろう。座布団お継当ては亡母の仕業だろう。織り込まれた裏地からとって来たのか絵柄をあわしているのだが、あまり器用ではないが、暇を見てはこんなことをするのが当時の日常だった。午後、畑の整備。特に剪定した枝の片付け。宮城谷昌光、『草原の風 中』、中央公論新社。



2025年2月3日。月曜日。曇り時々晴れ。3383歩。72.6kg。6時に起きる。剪定した小枝を片付ける程度。朝かずっと古文書。



2025年2月4日。火曜日。曇り時々小雪。3673歩。72.2kg。5時に起きる。朝、10時より因島図書館。ずっと古文書。午後、因島文化財協会日帰り旅行案内分作って郵送と持参。午後、古文書。夜も古文書。



2025年2月5日。水曜日。曇り時々小雪。2150歩。72.4kg。3時に起きる。朝、1買い物。午後来客。瀬戸内タイムズ原稿送る・。古文書。



2025年2月6日。木曜日。曇り時々小雪。2037歩。72.5kg。4時に起きる。古文書。この冬一番の寒さ。池に全面氷が貼っている。



2025年2月7日。金曜日。曇り時々小雪。夜大荒れ。歩。72.5kg。5時に起きる。古文書。朝、向島へ。午後、藤井医院へ。今日は雪の為、福山の古文書学習会は中止。その雪は夜になって激しく降っ

た。宮城谷昌光、『草原の風 下』、中央公論新社、終わる。



2025年2月8日。土曜日。曇り時々小雪。夜大荒れ。4106歩。72.5kg。6時に起きる。宮城谷昌光、『孔丘』、文芸春秋社、読み始める。夜明けは寒かったが日中は風もなく穏やか。ただ気温が低い。少しでも体を動かさないと行けないと思い、草を取ったり松の剪定をする。また、みかんの枝を捨てる。明日ぐらいから少し寒さも和らぐだろう。書庫(夕凪亭)の方も片付けたいと思ったが寒いのでやめる。瀬戸内タイムズに書く原稿は資料に書いてないことが次から次へ浮かぶので面白いのだが、あまりこんなのばかり書いていると少し自己嫌悪になる。実証主義、医療主義に戻ろうかと思うが、その資料が怪しいのだから、私の推定も50歩100歩ということになる。とにかく資料を読んでなおかつ考えることだ。そして語りえないことは沈黙するのみだろう。



2025年2月9日。日曜日。晴れ時々曇り。2859歩。72.5kg。5時45分に起きる。いつものように寒いが8時過ぎになると陽が照り出し、今までより暖かい。朝、目の調子が悪い。この歳になると何処に変調が起こってもおかしくはない。むしろ完全に健康というのは異常で怪物と言うべきであろう。朝、買い物。明日のキャラメルと昼ごはん用のパンと、それから猫の餌。これはマムシガード用猫ちゃんの餌である。イノシシ柵の外ではイノシシのおかげで蛇は減ったが、柵の中に逃げ込んだ蛇はその恐れがなくなって我が世の春を謳歌している。我が家の周辺にはマムシも棲息する。かつて農業の盛んな時はどの畑もよく手入れされていたのでマムシの生息域もかなり後退していたと思う。それが農薬の使用の激減とともに耕作放棄地が増え始めると再びマムシの生息域が広がった。そして人家の周辺にまで至っていることは周知の事実だ。そしてまた、そのマムシを退治する動物はイタチと猫である。イタチはいることはいるのだが数が限られているので、おそらく一番貢献しているのは飼い猫だろう。その飼い猫が我が家にも訪ねてくるので、マムシが遠慮していると言う構図が成り立つ。だから時々ご褒美をやる必要があるのだ。越境猫の糞害はよく言われるが、完全にクリーンな社会など望まない方が良いし、期待する方が間違っている。


2025年2月10日。月曜日。晴れ時々曇り。7550歩。72.1kg。5時45時に起きる。9時に出て、生口島遍路2巡目1回目。13人。1番から19番まで。生口島の東部の人口の大里畑の多さには感心した。これに対して西部は家が少ないのではないか。夜、古文書。



2025年2月11日。火曜日。晴れ時々曇り。2850歩。72.2kg。5時に起きる。古文書。畑の草取り。



2025年2月12日。水曜日。晴れ時々雪。3922歩。73.6kg。6時に起きる。買い物。図書館。古文書。午後論語の会。4人。



2025年2月13日。木曜日。晴れ時々曇り。2505歩。73.6kg。6時に起きる。古文書。午後、買い物。一日中風の冷たい日。畑の草取りもすぐにやめる。



2025年2月14日。金曜日。晴れ時々曇り。2561歩。73.5kg。6時に起きる。午後、福山で古文書学習会。夜、海渡文送る。



2025年2月15日。土曜日。晴れ時々曇り。2844歩。73.3kg。5時に起きる。古文書。午後、少し畑の整備。セメント工事。


2025年2月16日。日曜日。晴れ時々曇り。2469歩。73.1kg。6時に起きる。朝、買い物。暖かい。午後、セメント工事。古文書。



2025年2月17日。月曜日。晴れ。風強し。1506歩。72.5kg。4時に起きる。強く冷たい風が吹いている。宮城谷昌光、『孔丘』、文藝春秋、終わる。


2025年2月18日。火曜日。晴れ。寒風。1925歩。72.9kg。4時に起きる。9時から公民館で定例会。14人。寒い1日。午後、大根抜く。



2025年2月19日。水曜日。晴れ。風強し。2570歩。72.6kg。朝買い物。文学散歩は図書館臨時休館のため中止。

宮城谷昌光、『公孫龍 巻一』、新潮社、終わる。


2025年2月20日。木曜日。晴れのち曇り。2088歩。72.8kg。朝、ゴミ捨て。重井小学校、中学校2027年春閉校、尾道市議会へ上程。あと2年で重井小学校、中学校が消えると言うこと。午前中は暖かかったが午後曇る。



2025年2月21日。金曜日。晴れ。2314歩。73.3kg。6時に起きる。昼前に出て福山で古文書学習会。少し寒波が遠ざかったという感じ。夜、宮城谷昌光、『公孫龍 巻二』、新潮社、終わる。



2025年2月22日。土曜日。晴れ。1894歩。63.3kg。6時に起きる。今日も寒い。ますます寒く成る。一日中家の中にいる。朝から古文書解読文の入力。午後終わり送る。

司馬遼太郎、『街道をゆく10 羽州街道、佐渡のみち』(朝日文庫)終わる。


2025年2月23日。日曜日。晴れ時々曇り。2072歩。74.1kg。6時に起きる。朝、買い物。寒いので草取りをしない。体重が増えてよくない。利重忠、『元就と毛利両川』、海鳥社終わる。



2025年2月24日。月曜日。晴れ時々曇り、小雪。10017歩。73.4kg。6時に起きる。9時に出て、生口島遍路2回目。11人。帰って昼寝。



2025年2月25日。火曜日。晴れ。5041歩。73.15kg。6時に起きる。やっと暖かくなった。庭木の選定。山の草かり。



2025年2月26日。水曜日。晴れ。3933歩。73.4kg。7時に起きる。朝、買い物。午後、論語の会。4人。お寺探訪。夜、瀬戸内タイムズ原稿送る。



2025年2月27日。木曜日。晴れ。4117歩。73.35kg。6時に起きる。午後,セメント工事。山の草刈り。古文書。公民館だより原稿送る。江宮隆之、『小早川隆景』、学研M文庫、終わる。



2025年2月28日。金曜日。晴れ。4311歩。72.9kg。5時に起きる。確定申告を済ます。夕方、庭の整備、剪定。結局2月中に鶯の鳴き声を聞くことはなかった。




読書の記録

2月2日

宮城谷昌光、『草原の風 中』、中央公論新社。

2月7日

宮城谷昌光、『草原の風 下』、中央公論新社。

2月17日
宮城谷昌光、『孔丘』、文藝春秋
2月19
宮城谷昌光、『公孫龍 巻一』、新潮社
2月21
宮城谷昌光、『公孫龍 巻二』、新潮社
2月22
司馬遼太郎、『街道をゆく10 羽州街道、佐渡のみち』(朝日文庫)
2月23
利重忠、『元就と毛利両川』、海鳥社
2月27日
江宮隆之、『小早川隆景』、学研M文庫


 クリスタルホーム

2025年1月31日金曜日

赤えんぴつ

 赤えんぴつ  

 

 算数のテストがあった。二けたの足し算だ。25足す17。36足す23。繰り上がりもある。繰り上がりのないものもある。でも、どれも100を越えることはない。……このような問題が20個ある。筆算だ。まず1の位からやる。そして10の位を書いて終わりだ。

「はい、やめて。」

 みな終わって、ぼんやりしていると、先生の合図で鉛筆をおいた。2Bの鉛筆は、やわらかくて好きだ。書いたあと、白いテスト用紙の上に残っている字が、黒く光って気持ちがいい。

「それじゃあ、赤鉛筆を出して。」


 先が丸くなっているが、書けないことはない。一番の答えの上に、テスト用紙から少し浮かせて、先生が答えを言うのを、耳を澄ませて待つ。合っている。やさしい問題だから。でも、先生が答えを言ってくれてから、○をする。なかなか先生は答えを言ってくれない。

 となりを見る。宏美ちゃんは筆箱の中をのぞいたり、カバンの中に手を入れたりしている。それから、黒鉛筆を持った。あきらめたのかなと思ったとき、問題用紙に書いてある宏美ちゃんの答えが見えた。

「これ使えよ。」

 宏美ちゃんだけに聞こえるような声で、赤鉛筆をもっている手を伸ばした。

 首を振るだけで、手を出さない。

「いいよ。使えよ。」

 また、小さな声で言った。今度は手を伸ばしてきたので、わたした。

「一番、42。」

 少し遅れたが、黒鉛筆をもって、さっと○をした。ちょっと左を見ると、宏美ちゃんの手が回った。うれしかった。

「二番、59。」

 先生の声は続いた。20番を○をして100点と書いた。

 黒い鉛筆の○が数字の中に埋もれている。○には違いない。

「これ。」

 宏美ちゃんのほうを向いた。笑っている。嬉しかった。

 喜んでもらえてうれしかった。笑顔がすてきだった。宏美ちゃんに喜んでもらえただけで嬉しかった。

 何と言っていいかわからなかったので、目を反らせた。

 宏美ちゃんは、いつまでも僕のほうを向いていた。

 

「あら、赤鉛筆なくしたの。」

 まずいときに、ママが入ってってきた。

「別に。」

「あるじゃないの。どうしたの。」

「別に。」

 嘘は言えないが、答えないことはできる。

亡霊のくる夜

 


2025年1月28日火曜日

古備前哀歌

 古備前哀歌                                       



 備前警察署で聞いた三年前の「大ケ池女性殺人事件」は女子大生殺しよりもはるかに興味深いもののように思われた。

 それから、はやくも数日がたった。月日のたつのは夙いものだ。その後も、大神さんとは「山の音」で何度も会った。しかし、事件については、はかばかしい話はなかった。

 「山の音」では、例によって武岡さんや橋本さんが、連日のように来ており、よく話した。武岡さんは吉備女子短大の助教授で近世文学を教えている。また同人雑誌「文芸吉備」の主宰者でもある。「文芸吉備」は、最初、吉備女子短大の文芸サークルの機関誌として出発したが、次第に学園以外の執筆者のものも掲載するようになった。また、そうすることによって、ある程度以上のレベルを維持しているともいえた。

 武岡さんが、以前話していたことだが、女子短大で文芸サークルを維持していくことは、大変なことで、まして機関誌などを定期的に出すというのは至難の技で、ややもすると高校の文芸誌程度のものもできなくなる可能性すらあった。それはつきつめて考えれば、文芸サークルに限らず短大教育の問題点に共通したことであった。本質的な問題はともかく、それを回避すると同時に学生へ刺激を与えるだけでも、意味はあるということらしい。そういうわけで、私も頼まれれば短いものを書くことにしていた。もちろん原稿料などはない。

 大神さんは、こういう同人雑誌には一切発表せず、中央の文芸誌に応募していた。


 毎年10月の最初の土曜日と日曜日に,備前陶芸祭りはひらかれる。今年は十月三日が土曜日であるので、十月三日、四日の二日間であった。

 地元の観光協会主催のふるさとの歌コンクールの発表会が盛大に開かれていた。

 この発表会には、地元の「ミス片上」や「ミス焼き物の女王」などはもちろんのこと、毎年多彩なゲストを招待して観客の動員に気を配った。

 岡山県出身のタレントとして若手の歌手や映画評論家なども招かれ会を一層盛り上げていた。

 「テレビシアター」のユニークな解説でおなじみの映画評論家は知名度も高く、抜群の人気であった。中高校生の受けをねらってゲストのひとりに加えれられた若い歌手のほうは、知名度がいまひとつで盛り上がりに欠けた。しかし、映画評論家のほうは小学生から中年の主婦まで広範囲に好評で、昨日の講演会も満員だったということである。今日発表された歌の審査員のひとりでもあった。

 一位は「焼きもののうた」2位は「伊部小唄」、3位が「古備前哀歌」であった。


  片上の港に入日のさすころ

  舟人(かこ)たちは艫(とも)に集いて

  漣(さざなみ)の音も聞こえぬみな底で  いにしえ人の心も静かに眠る

  ああ、古備前の歌は哀しく響くよ



  争いの間(はざま)に骨肉の


 その歌詞を聞いたとき大神純平は、なぜかわからぬが自分がこの歌詞の中に引き込まれていくような気がした。

 この詩は何を暗示しているのだろうか。あるいは何を語ろうとしているのだろうか。

 ここに歌われていることは何なのか。単に情景を綴ったものなのだろうか。いや、決してそうではない。それだけなら、こんなにも自分を引き付けるはずがない。


 この歌詞に興味をもって会場から去りがたい思いで出口のほうへと向かう人の流れにまかせて足をすすめている大神純平の目にさきほど発表されて当選作の題と作詞者名を書いた紙が貼ってある。入場したときには気が付かなかったから、作品の発表後に貼ったものに違いない。それにしても主催者側の細やかな配慮には、先程のゲストの人選とともに恐れ入った感じがしたものである。当選作の「笠岡市神島町 水城弘絵」

電気にでも触れたかのようなショックを受けた。その瞬間には何故このようなショックを受けたのか自分でもわからなかったが、しかし、その訳がすぐに理解できた。

 すべてが笠岡だ。女子大生殺人事件の被害者である黒沢由紀も、大ヶ池女性殺人事件の被害者である村井明美もともに笠岡に関係しているのだ。

 入選作の発表のとき、作者の紹介が簡単に行なわれていたが、この行事そのものにさほど興味をもっていなかったので、そのときは軽く聞き流したものと思う。

神島

 神島   

             

 それから数日して、神島へ行くことになった。

 岡山駅を十時八分にでる、山陽本線の下りに乗って、笠岡まで行った。列車は一時間ほどで笠岡駅に着いた。その日はよく晴れていた。空にわたる薄雲が美しい。

 笠岡まで一時間かかる。駅前でタクシーを拾う予定で改札をでたとき、ふと見上げると駅の時計が十一時半を示していた。お昼ご飯には少し早いと思ったが、ここで食べておくこにした。駅前の商店街をあるいて行くと、食堂があったので、そこで一休みするこにした。喫茶店も何軒かあったが、今日の雰囲気からするとやはり、鄙びた食堂で食べたほうがよい。

 食事後、駅前からタクシーにに乗った。

 タクシーが駅前をでたのが13時半であったから、意外に早く神島にはついたことになる。

 ちょうどっ島の南側に古い旅館が二軒ある。「甲蟹壮(かぶとがにそう)」と「みづき」である。その一つの件かん


 「古備前哀歌」の作詞者の水城弘絵の経営する旅館「みづき」は、ふるい木造でいかにも伝統ある旅館という感じではじめて訪れた者に好感を抱かせるに十分なだけの外観であった。


 南向きの明るい客間で私は水城弘絵から話を聞いた。

「もうあれはずっと前のことになります。この沖で貨物船が沈んだときのことですよ。島の潜水夫がそのとき事故で死んだ。……表向きは事故で死んだけれど、後で変な噂が流れた。その噂が流れる前に関係者が引っ越ししたので、結局結末はかわらなんだが、この島にとっては後味のわるい事件でございました。今から思うと、あの噂のほうが正しくて警察がだした結論のほうがまちがっているような気になることのほうが多いのです。といっても何ら証拠のようなものがあるわけではなく、ただそんな感じがしております。

これを神島事件と呼んでおこう。

 神島事件は20年前に起きた殺人事件である。地元の人々には幾分かの不満と何かふっっきれない後味のよくないものを残したが、当時の操作としては審理を尽くして一応結論をだして事件は解決されたいる。

 しかし、きけばきくほど不可解な事件である。


  事件は秋風の吹く頃、備前片上港から熊本へと備前焼き輸送していた貨物船第二穂浪が神島沖で沈没したことにはじまる。


  20年前の話を聞く

   台風のとき、古備前を積んだ貨物船が島の沖で沈没した。それを引き上げる技術は当時はなかった。しかし、島に新しい潜水漁法が導入されると、それをもって沈没船の遺物探しを行う者が出て来だした。はじめは、ごく限られた者だけが、少しずつ潜っては引き上げていたが、中には相当高価に売れる物があり、噂はいつとはなしに広まり先を争って、沈没船に向かった。当然のことながら、争いが起こる。殺人事件が起こる。こうしてタイラギ漁師は離散し、神島のタイラギ漁は全潰した。

  鴻野島のタヒラギ漁  郷土史資料に土地の古老が書いている。

  鴻野島の南側の流れの速い淵には、タイラギがよくとれた。タイラギ漁をする漁師は多くなかったが、鴻野島の特産になっていた。戦後プラスチック製品により漁具の発展はタイラギ漁にも大きな影響を与えた。潜水具が新しくなるにつれて、漁場も拡大していった。またそれに合わせて水揚げも上がった。しかし、だからと言って、漁師の生活が楽になったわけではなかった。漁船や、潜水具の出費が高く着いたからである。

 しかし、その鴻野島のタイラギ漁も、事故死以来完全に潰えた。漁業者たちは廃業し離散した。

 




  三人の潜水夫がいる。

                     梶文夫とその妻友子

 山田良一とその妻和子(旧姓・橋本)

 村井宏介とその妻佐和


  山田良一は死体で発見

  梶文夫は傷だらけで生還

  村井宏介は行方不明

********************


梶文夫の証言

 「村井が山田を殺した。さらに自分をも殺そうとした。双方傷つき、村井は逃げた。」

 事実は梶文夫が山田を殺した。それを村井に見られたので、村井も殺した。

                     山田の妻・和子は事件当時妊娠していた。  これは、梶文夫との間にできた子である 梶はこのことが山田に気付かれたと思い殺害を計画。

                     事件後、和子は男子を出産。旧姓に戻り、この子供を育てる。これがカメラマンの橋本である。本籍は岡山市となっているから、橋本の表面からは笠岡に結びつくものはない。

 事件当時、村井夫婦には女の子が一人いた。長女が村井明美である。事件当時村井佐和は妊娠しており、事件後女の子が生まれる。由紀である。由紀はまもなく、黒沢夫婦にもらわれる。黒沢夫婦は由紀という子供を亡くしたばっかりであったので、そのまま由紀を自分の子供としたので、由紀の戸籍からは、そのことはわからない。由紀が養子だというこになれば、実子の葬儀の件にまで触れないといけなくなるので、黒沢夫婦は由紀の出生の秘密については最後まで、語らない。

 村井明美は村井宏介とその妻佐和の間にできた子供。由紀は村井佐和と山田良一との間にできた子。                                   由紀はその後他の夫婦にもらわれていく。 その新聞を手がかりに、 母(由紀の生みの)から手紙  由紀の実父CはB殺しの犯人だということで、cはずいぶんつらい思いをしましたが、そうではなく被害者だということがわかりました。それだけが、気がかりだったものですから、これだけはぜひともお伝えしておかなければという気持ちになりました。


 私たちは貧しくて、最初の娘が咳き込んだとき、医者に見せるお金もなくただ家族三人で寒い路頭をさまようしかなかったのです。 広島県との県境あたりで、最初の娘は死にました。海の見える丘に埋めました。寒い冬の日でした。海岸のほうから冷たい風がヒュウヒュウと吹き付けてきておりました。小雪が舞い海が白く霞んで見えたことを覚えております。

 今でもそのときのことを思うと、涙が溢れて止まりません。……しかし、その時の私たちは冷たくなった娘をそこに埋め、小さな石ころを拾ってきて、卒塔婆代わりにのせて、ただ手をあわせるほかは、何もできませんでした。


 信号のある交差点の角っこにはお好焼きやが一軒あるきりだった。看板には「お好焼き・焼きそば」と簡単にかかれていたが、外から見てもお好焼きを店の中で食べている人などなくて、店の主人とおぼしき中年の背の低い男性が、両手をせわしげに動かしているのが見えた。焼きそばを作っているようだ。たぶん出前かなにかのだろう。それを助けるように奥さんが主人の後を右へ行ったり左へ行ったり甲斐甲斐しく動いている。その二人が見える窓ガラスの端の入り口に近いほうに「タコ焼き」と書いた赤ちょうちんが釣り下げてあった。これは帰宅を急ぐ主婦の目にとまりやすく結構売れるのではないかと思われた。



義士祭

 義士祭                                             



 井上刑事が、容疑者桜木真を尾行しはじめて三日たったが、いっこうに敵は尻尾をつかませない。

 ……が、昼前になって急に家を出た。しめたと井上は思った。桜木は家を出たとき、周囲を警戒するように、注意深く眺めてから、急ぎ足で駅のほうに向かって歩きだした。幸い井上の存在には気がついていないようだった。

 街は閑散として、誰もいない。澄んだ青空の下、秋風が静かに流れているだけである。もう少し、道路に人がいれば尾行しやすいのに、と井上は思った。


 桜は赤穂線登り普通列車「播州赤穂行き」に乗った。井上と相棒の中村刑事の二人が赤穂線に乗った。すぐにパトカーの応援を頼んだ。赤穂線の後方を覆面パトカーが追尾した。

 大神警部は西大寺署からの連絡を受けて吉井川の川土手で待機することにした。国道二号線は岡山のほうからゆるやかに北上して吉井川を跨ぐ。吉井川の東側で道は大きく廻り北に向かって堤防に沿って走る。このあたりは備前長船の北部にあたる。

 尾行の中村刑事と援護のパトカーとの無線はさっきから傍受しているが、特別変わったことはない。桜木はずっと座ったままで、スポーツ新聞を読んでいるという連絡を聞いてから、その後の動きについての会話はないから、同じ動作がつづいているものと思われた。


  列車は岡山県から兵庫県へ入った。播州赤穂。車窓に入る日が温かい。途中から増えだした人の波は,赤穂駅が近づくに連れて倍増し,溢れるばかりになった。このように人混みの中では,容疑者との距離を近づけるしかない。じわりじわりと詰めていた距離を更に詰めて,いつ相手が行動を起こしてもよいようにしてある。

 しかし,あまり近すぎると危険だ。相手に気づかれるというよりも,外部との連絡が取れなくなるからだ。


山野狭

 山野狭          


 雪が降ると峠の道は車では越せない。歩いてみるとそんなに急な峠ではないが、所々に驚くほどの勾配があり、さらにその上に雪でも降ろうものなら、これはこれで相当な難所になるのは仕方がない。うねうねと続く山道は右へいったり左へいったりと、めまぐるしく方向を変える。それだけ山の入りくんだところに作られた道である。方向を変えるとともに、高度も急速に増していく。まるで麓の村から逃げるかのように、道は険しくなり、山へ山へと木立の中を昇っていく。

 また、足が滑った。雪が半ば凍り、さながらガラスのように光っている。凍ってない雪は、ガラスの上に敷かれた無数の砂粒のように靴の裏の摩擦を限りなく小さいものにしている。それでも、歩ける限り歩いて、できるだけ深く山懐に潜りこみたい。そこで人知れず暮らすことができれば、そうしてみたいと思う。

 ふと、あのなつかしい交響曲のメロディーが脳裏をこだまする。全編を流れる主旋律が繰り返し繰り返しよみがえって自分を勇気づける。クラッシック音楽というものがこんなにも切実に感じられたことは今までない。こんな逃避行の場で、自分の胸の奥底まで響く感動が、人生のひとつのありようをを示しているように思えた。

 人生とはそれにしても奇妙なものではないかという思いが意識の中で反芻する。いいのだ、いいのだ、これでいいのだと自分に言い聞かせる。いまさら後悔しても仕方がない。

 雪道で足がまた滑った。谷の急斜面に生える杉の小枝から積もっていた雪が一塊下に向かって滑った。真下に連なる木々を揺さ振る音がするほうを見ると、小枝が上下に揺れていた。

 高校を卒業して、勤め始めた頃のことが無性に懐かしく思い出される。小さな薬品問屋であったが、仕事は単調で、まじめにやっておれば、まず間違えることはなかった。営業部であったが最初の一年はたいてい倉庫をやることになっていた。外勤の営業部員がとってきた注文に従い、荷だし伝票が廻ってくると顧客ごとに商品をまとめ担当者に渡すというのが主な仕事である。その仕事が済み外勤部員が出払ってしまうと、倉庫の管理のほうにまわる。



 このまま進んでもよいのだろうか。このまま進んでいるとやがては体力がつき、登山者がよくするように遭難するのではないかという不安に襲われる。その都度、このまま死んでしまえばそれでもいいではないかと思ったりする。でも、もっと進み、手ごろな場所をみつけて隠れていたいと思う。その隠れ家で誰にも会わずひっそりと暮らせるだろうか。やれるだけやってみるだけだ。

 実は、橋本にとってこの地を最終的な逃亡先に選んだのには理由があった。実は父が隠れていたのも、この先の山懐なのだ。



 そこにたどりついた橋本はそこでひっそりと暮らす。

 


2025年1月24日金曜日

夏雲

  夏雲


 グランドを軽くランニングしたりすると、今でもあの日のことが思い出される。別に強いて思い出すことを拒否しているわけではないし、さりとて思い出したからといって感傷に耽るわけでもない。

 父が亡くなってから、半年が過ぎた。あの日のことが今だに夢のように感じられる。本当に夢であればよかった、といつも思う。あの春先の雷で、父が亡くなるなんて、そんなことがあっていいものだろうか。誰も悪いことはしていない。まじめに、そして平凡に生活している私たちが、なぜこのような酷い運命を引き受けなければならないのか。裕美にはわからなかった。

 もし、神というものがいるとしたら、自分は神を呪うだろう。働きざかりの父を一瞬で奪うというようなことを、神が果たして行なうだろうか。              

 一学期の期末考査の時間割りが発表された日も、いつものように蒸し暑かった。夏休みが近付いてくるにつれて、日に日に気温が上昇していった。そして日本の初夏独特の多湿で、不愉快な毎日が続いた。

 七月の半ばになって、梅雨あけが広島地方気象台によって発表されたが、それよりも一週間くらい前から、雨は降らなくなって、気温が連日三十度を越した。気温は九時頃から急激に上昇して、いつも四限と五限が猛烈に蒸し暑い。六限になると、多少和らぐが、それでも夕刻まで蒸し蒸ししている。

 六限の体育終了後、教室の掃除をしてから、美術教室にやってきた。三週間ほど前から果物の静物を描いている。果物といっても、机の上に置いてあるのは精巧に出来たレプリカで、はじめて見ると本物かと思ってしまう。相当近付いて、やっと粘土か何かでできたデッサン用の置物だとわかる。

 一つが梨で、ふたつが林檎である。それをステンレスの皿の上に無造作に置いてある。誰が置いたのか、もう三ヵ月もこの配置はくずされていない。

 普通なら、こんな置き方はすまいと思われるほど三つの果物は勝手な方に向かって個を主張しているようだった。その配置は、一見何の意味もないように最初は思っていたが、それでありながら静物画にしてみると、妙に安定するとともに、何かを象徴しているようで魅力的であった。

 しかし、それが何の象徴であるかは、裕美は思いつかなかった。ただ、初夏のさわやかさに見えたり、自分の心の空洞のように思ったりして、それらの象徴だと、自分で勝手に決めたりした。今日見ればまたこの配置が、この蒸し暑い梅雨時の人間の気持ちをうったえているように見えて、心がなごむのであった。

 あと、一週間もすれば、一学期の期末考査が始まる。そしてそれが終わると、夏休みである。中学生の頃は、夏休みが来るのがいつも楽しみだった。六月になって若葉の色がしだいに目になれ、昨日よりも今日が、一昨日よりも昨日のほうが暑いように感じられて、今年もまた夏が来たのかと思うと、すぐに夏休みのことを考えてしまう。確かに日中は暑いけれど、日が落ちたあとの、夕涼みのすがすがしさ、早朝の、夜露が乾く前の町並みのさわやかさが、裕美にはこの上なく貴重なものに思えるのだった。冬は寒いし、夏は暑いけれども、ふたつの季節にはさまれているからこそ、春の陽気や、秋の寂寥が心の奥底まで感じられるのだと思う。

 しかしまた、考えてみれば、夏の日中だって暑い暑いと言いながらも、その暑さの汗を思い切り出すことによって、身体のバランスをとっているのかもしれないから、万更暑さを厭う理由もない。また、日中でも木陰のすがすがしさや、川面に流れる冷気の爽快さは、やはり夏があるからこそ感じられるものだと思う。

 だから裕美は夏が好きだった。夏休みが毎年待遠しかった。そう思うと、梅雨時の暑気も蒸し暑さも、裕美にはさして気にはならなかった。梅雨が開ける。夏が来る。完全な夏が来ると思うと、裕美は、新しく生まれでた生命のように身も心も躍動を始めるのが感じられるのであった。

 ……やがて高校生になって最初に迎える夏がやってこようとしている。最初の夏休みがすぐそこまで来ている。しかし、今年は違う。今年の夏休みは、裕美にとってまったくはじめて経験するものであった。裕美にとってはある種の恐怖に似た感情が、次第に自分をとりまいて来るのを感じないではいられなかった。

 高校になってからのはじめての夏休みである。それはまた、今までのように絵を思い切って描いてきた夏休みとは違って、小説も読んでみたいと思い始めた最初の夏休みである。人生というものをー今はほんのわずかしかわからないけれどー生まれてはじめて意識し、少しずつわかりかけてきた最初の夏休みなのである。自分が成長するとともに、母の本を読み終えることに、少しずつ、ほんとうに少しずつ人生というものが、見えてくるような気がする。そういう自分が迎える夏休みであるから、今までのものとは明らかに異なるのである。

 考えてみるまでもなく、子供だって、少しずつ成長しているのだから、毎年迎える夏休みには、前の年とは違った感慨をもつのは当然のことである。ある人にとって、小学校四年生の夏休みは、三年生のときとはまったく異なる夏休みだし、五年生のときの夏休みも、四年生のときと、大きく異なるであろう。

 だから、裕美が高校生になって迎える最初の夏休みが、以前の夏休みと異なるように思えても不思議なことではない。

 それでもやはり、今年の夏休みは違う。なぜなら、父がいなくなってはじめて迎える夏休みだからである。

 今までは、絵を描いたり、水泳に行ったり、キャンプに行ったり、比較的好きなように、夏休みを送った。楽しく送った。退屈で困ったということもなければ、ただ遊ぶだけで、夏休みが終わって後悔と失望しか残らなかった、というようなこともなかった。楽しみが多いのと同じ程度に実りも多かった。充実していたと、いつも自分で思っていた。

 しかし、父のいない夏休みが、どのようなものになるかは、裕美にはまったく考えてみることもできなかった。

 ……しかし、確実に夏休みは近づいてくる。裕美の夏休みへの思いがどのようなものであろうとも、梅雨が開けて、入道雲が銀色の堆積を、濃い青空に浮かべて、そのコントラストが日に日に鮮やかになっていくにつれて、季節は初夏から盛夏へと、転じていく。習慣というものは恐ろしい。心の奥深いところでは、執拗に夏休みの到来を拒否している不安の根がありながら、それでもこの時期になると、いつものように、夏休みを待ってしまう。条件反射のように、梅雨が半ば過ぎると、考えようとしなくても、心がそう欲していることに気づく。習慣であろうか、と思う。いや、習慣というよりも、むしろ性格、それも裕美自身の体にしみついた性格といったほうがいいのかも知れなかった。

 お皿の上にのった果物の静物をデッサンする手を少しやすめて、裕美はもの思いに耽る。ほんとうは次をどのように描こうかと果物の模型を見たまま、手を止めると、どうしても次が描けなくて、そのままの姿勢で別のことに思いが移っていくのである。描いている途中で絵筆を止めて、次をどのように描こうかと思案することは、誰にでもよくあることだから、裕美が、手を止めて、じっと対象を凝視しても、だれも声をかけたりはしない。 われに返った裕美がふと目をあげると、北西の三滝の山の上に、真っ白い入道雲が、午後の陽に燦然と輝いているのが見える。ちょうど千一夜物語にでも出てくるような、少しおどけた感じに盛り上がり、黒みがかった灰色のもとの部分と、あたかも次々と成長しているような感じを抱かせる先端の純白が相拮抗しながらも互いに協力して、青空の透明の中に広がっていっているようであった。

 やはり夏が来たんだと、裕美は思った。そう思うと手がひとりでに次の部分へと移った。夏休みはまでは、この静物を描いていようと思う。今日の分はもう少しで終わりだ。昨日よりも今日のがいいとは思わない。しかし、高校に入学したときの曲線と、今日描いた曲線の違いが、自分でもわかるような気がする。確かに三ヵ月で、自分は成長したと思う。それは今日の自分がうまくなったというのではなく、今までの自分の技術があまりにも拙劣であったと思うのである。曲線だけでなく、何十本という直線が、そして無限の空間を紡いでいく陰影が、少しずつ豊かになっていっているのだと思う。

 一本一本の線に、どれだけ自分の心を重ねることができるかが勝負です、と母が以前言ったことがある。そんなことが小学生の裕美に理解できるはずがなかった。しかし、それでも、その言葉は、裕美の心の中に宿り、時々自分より他人のほうが、楽しそうに絵を描いていると思えたときなど、この言葉を思い出したものである。そして、今では、裕美の目標にすらなっている。

 そう思うことによって、絵を描く自分というものを新しく発見することができた。今までの自分は、いわばできるだけ実物に忠実に描こうとしていた。しかしそれだけでは、単なる手作業と変わらないかもしれない。自分の目に対して正直になったところで、やはり、対象の忠実な再現であったような気がする。しかし、一本の線に自分の心を重ねて描こうと努力するとき、裕美は、いつも自然や対象がいかに豊かであるかということを知ることができるのであった。

 ……自分でも進歩のあとが感じられるようになることほど、何事かを学ぶ上において励みになることはない。

 裕美にとって戸外で写生をすることは好きであった。そして一生、絵を描き続ければ、これほどいいことはないと思った。ある日、そのことを母に打ち明けたとき、母は即座に「それじゃ、基礎からまなばなくちゃ。絵の場合でも同じよ。基礎がしっかりしていなくては長続きしないわ。まして、一生絵を描き続けるつもりがあるのだったら、多少は回り道でも、基礎をしっかりやっておかなくてはいけないわ」と母は言った。

 だから、高校に入って美術部に入ったのはもちろん、絵がすきだからそうしたのには違いないが、母が言ったように基礎からしっかりと勉強したかったのである。正直なところ写生は好きだが、デッサンはあまり好きではなかった。慣れるにつれて、はじめの頃ほど苦にはならなくなったが、それでも時々、デッサンをしている最中に、別のことを考えたり、投げ出して、野山を描きに出掛けたくなることもあった。そんな裕美は少しでもたくさん自分の心を画用紙の上に描こうと必死になってやってきた。一本の線にできるだけ多くの自分の心をこめようと思うと、ひとりでに鉛筆をもつ右手に力が入るのであった。


「裕美、そろそろおしまいにしない」

 同じ一年生の伊藤ますみが、遠慮がちに声をかけた。同じ、美術部の中でも、伊藤とはよく話があった。


 ・・・・・・あれから三年の歳月が過ぎた。

 裕美は大学生になっていた。

 その年は4月から新しい生活が始まったので、何もかも慌ただしかった。しかし、その慌ただしさは日常の生活の上のことで、祐美の心の中は逆にクールで着実であった。表面の慌ただしさに、心の中が侵略されるということは微塵もなかった。

 父の死に比べたら、衝撃は少なく感じたものの、日が経つにつれてじわりじわりと、母の死という事実が自分の全身を包んでいることに気づいた。

 母の遺書を整理した。私あての長い手紙があった。

 わたしには、お父さんの他に愛した人がいました。その人とは互いに深く愛し合い結婚する予定でした。しかし、どうしたことか二人の間にふとした行き違いから、二人は別れ、それぞれ別の人と結婚しました。

 しばらくして、男の子が生まれました。

 重夫です。重夫を保育園に預けて仕事を続けました。その頃、ふとした偶然で、かつて愛した人と出会ったのです。こんなことを言うと、いい大人が、とあなたには笑われそうですが、二人はかつての愛を確かめるように、何度か逢瀬を繰り返しました。そして身篭もりました。今のおとうさんが嫌いになったわけではありません。

 二人とも同じように愛していたのです。ですから、わたしは、二人に内緒にして生むことにしました。女の子が生まれました。それがあなたです。

 ですから、兄の重夫とあなたは父親が異なる兄妹です。

 腹がたって腹がたって仕方がなかった。そんなの母のエゴイズムよ。生まれてきた私はどうなるの。自分の子供だと信じて育て慈しんでくれてる父に対して、ずっと騙し続けることになるわ。それも私が生きている限り。

 母の遺書と言ってもいいような母の手紙をはじめて読んだときには、頭がかっーとなって身体一杯に怒りを漲らせていた。今から考えると不思議なほと、私の身体には母への怒りが溢れた。

 しかししばらくすると、不思議なことだが、母を半ば許している自分に気づいた。母を許すだけではなく母の生き方を肯定しようとしている自分を発見した。

 しかし、その理由は、自分でもわからない。自分が今まで人を愛したことがないからかもしれない。人を愛するって、どういうことだろうか。

 壁のほうを向いているが、何も見ていなかった。

 今は肯定できないけど、ひょっとしたら、母を許せるようになるかもしれない、と思った。もし、誰かを愛することができれば……


  何日かたって、日々薄れていく感情の中でもう一度反芻してみようと思った。そう思うと、これまでと違った見方ができるように思った。

 これが母の青春である。こんなにも母は生きるということに執念を燃やしたのだ。それだけでも素晴らしい。

 反面、今から思うと、父の影が薄かったような気がする。