2025年6月1日日曜日

夕凪亭閑話2025年6月

 クリスタルホーム

2025年6月1日。日曜日。晴れ。。4517歩。71.4kg。朝、草取り。買い物。昼寝。夕方草取り。


2025年6月2日。月曜日。曇り時々小雨。3756歩。71.8kg。5時過ぎから草取り。暑くなると思ったが曇って小雨が少し。降るようで降らず変なお天気。


2025年6月3日。火曜日。雨のち曇り。5911歩。72.1kg。文化財協会松山旅行。34人。


2025年6月4日。水曜日。晴れ。3814歩。72kg。朝草取り。買い物。散髪。


2025年6月5日。木曜日。晴れ。3830歩。71.5kg。朝草取り。古文書。午後、旅行の写真の焼きまし。一部配布。


2025年6月6日。金曜日。晴れ。3101歩。71kg。朝草取り。11時半に出て福山へ。福山城博物館でコピー。古文書学習会。帰ってタイムズ配布。


2025年6月7日。土曜日。曇り一時小雨。2958歩。71kg。朝、草取り。9時前より運動会。午後、来客。古文書入力。

2025年6月8日。日曜日。曇り時々雨。2511歩。72.1kg。朝草取り。古文書入力終わる。送る。宮城谷昌光『劉邦中』終わる。

瀬戸内の波のしぶきのなつかしさとおき昔の夕焼けの空

対岸は海を隔てて島ありて暮れるるままに見れど飽かぬも

浪寄せる磯の浜辺のおもしろさ今も昔も飽かず眺めて

三小島みをを速みて日は暮れて水面を染める入日は赤し


2025年6月9日。月曜日。曇り時々雨。11254歩。70.9kg。5時過ぎから草取り。8時に出て向島遍路3回目。途中、小雨。濡れるほどではない。


2025年6月10日。火曜日。朝から雨。2593歩。71kg。午後市民病院へ。一日中雨が降っており草取りせず。


2025年6月11日。水曜日。朝から雨。2556歩。71.2kg。朝、草取り。朝買い物。


2025年6月12日。木曜日。小雨のち曇り。2508歩。71.7kg。昼、藤剪定。草取り。


2025年6月13日。金曜日。朝から小雨。1564歩。71.5kg。朝、ゴミ出し。草取り少し。編集。


2025年6月14日。土曜日。曇り時々小雨。2840歩。71.6kg。5時から7時まで草取り。宮城谷昌光、『劉邦(下)』、毎日新聞社、終わる。


2025年6月15日。日曜日。曇り一時雨。2353歩。71.9kg。5時から7時まで草取り。朝、買い物。古文書。


2025年6月16日。月曜日。晴れ。2508歩。72.2kg。急に暑くなった。瀬戸内タイムズ原稿書く。エアコン(冷房)入れる。


2025年6月17日。火曜日。晴れ。3529歩。72.7kg。5時から草取り。9時から定例会。17人。エアコン入れる。午後、原稿完成させておくる。


読書の記録

6月8日

宮城谷昌光、『劉邦(中)』、毎日新聞社

6月14日

宮城谷昌光、『劉邦(下)』、毎日新聞社

クリスタルホーム

2025年5月1日木曜日

夕凪亭閑話2025年5月

クリスタルホーム

2025年5月1日。木曜日。晴れ。夜、雨。4425歩。72.8kg。夜は寒いが日中はまずまず。時々草取り、竹切りと筍とり。


2025年5月2日。金曜日。雨のち晴れ。3976歩。73kg。朝、降っていたが間も無く止む。ゴミ捨て。畑の草取り。

 春寺(平起式、上平一東)

清風情思古禅宮

鳥語欣然仰碧空

老樹春光山木緑

香雲山寺落花紅


2025年5月3日。土曜日。晴れ。4029歩。72.55kg。草取り。山の竹切り。買い物、図書館。

  看花(平起式、上平四支)

新晴春色覚心奇

遠近声々紅一枝

清景黄昏林下道

飛花暮色月相随


2025年5月4日。日曜日。晴れ。5232歩。72.5kg。5時過ぎから畑の草取り。午前も夕方も山の竹切り。かなり進んだ。今年の筍分。

 感偶 (下平五歌)

人間天地白雲多

白日書生一鳥過

才子天涯今昔感

故人万里去来波


2025年5月5日。月曜日。晴れ。夜から雨。3365歩。73kg。4時に起きる。5時から畑の草取り。6時20分まで。朝食後、山の竹切り。今年の筍分。かなり進んだ。午後久しぶりに上の畑の石垣のセメント工事。

 閑居  (下平一先)

閑庭啼鳥月嬋娟

塵事相忘人未眠

独坐林亭千古意

青苔隣舎竹窓前


2025年5月6日。火曜日。朝から雨。2708歩。73kg。来客。午後雨が少し止むので草とり。夕方再び小雨。やや寒い。

宮城谷昌光、『劉邦 上」、毎日新聞社、おわる。

 書感(上平四支)

江湖一曲古人期

忠業丈夫書巻随

世事不沈真歴史

悠々志業旧相知


2025年5月7日。水曜日。晴。3810歩。73.6kg。朝買い物。午後、畑の草とり。

 春日 (平起 上平四支)

閑日麗日鳥先知

歩遂行人花信遅

村郊樹陰潮水碧

鐘声遠寺日西移


2025年5月8日。木曜日。晴。5982歩。72.6kg。畑の草取り。山の竹切り。今年最後の筍取り。古文書。夜、藤井忠三氏の孫に当たる方が来られ、ペンションで歓談。


2025年5月9日。金曜日。雨。2349歩。72.8kg。昼前に出て福山へ。古文書学習会。

夜、入力。

 懐古  (平起式、下平五歌)

浮雲百年夢空多

感慨仰天歳月過

月日万里遊子意

孤灯百代白雲波


2025年5月10日。土曜日。晴れ。3010歩。72.75kg。朝から古文書入力。午後終わる。草取り。

  述懐 (平起式、上平十一真)

小児半世眼光新

久闊相逢過一春

一去別来何日会

行人難忘一灯親


2025年5月11日。日曜日。晴れのち雨。5074歩。73.15kg。朝、文化財環境整備。午後、雨。

 遊行  (平起式、上平一東)

行人一路仰蒼穹

百里千峰曲路通

四顧茫々詩未就

鐘声寂寞夕陽紅


2025年5月12日。月曜日。晴れ。9095歩。72.9kg。朝8時に出て向島遍路2巡目1回目。25番+87番。9人。帰って畑の草取り。

 余光(平起式、上平一東)

風流天地曙光紅
万里海渡度恵風
四里風流閑日月
春光山色寸心忠

島遍路海を見ながら初夏の風
日暮れても春のひととき風ぬるし
人減りて春の夕暮れ犬の声
ホトトギス鳴くや満月西の空
人減りて子らの声せぬ夕暮れは静かなれども悲しかりけり
遍路道難所を写す山道は草刈る人の思い込めたり

遍路道海風渡る其の崎は母の逝きし施設なりけり


2025年5月13日。火曜日。晴れ。3790歩。73.15kg。5時から草取り。昼前、夕方草取り。午後市民病院。

 山寺(平起式、上平二冬)

春風山寺午時鐘

仰看仏陀花影濃

古殿清遊人不見

香雲鳥語一庭松

しらたきの かんのんやまの かねのねは やまこえのこえ ながれゆきけり

せきぶつの ほそめにこもる やさしさは

くおんのじょうど まねきよすなり

ホトトギス 朝早くから 深夜まで  


2025年5月14日。水曜日。晴れ。3425歩。73.4kg。

少し日中が熱くなった。朝、畑の草取り。午後、論語の会。3人。

 送春   (平起式、上平四支)

香煙何処一鵑悲

空老春愁花落時

影緑茶煙春又去

緑陰残日独相思

雑草も枯れて肥料になりにけり

農作業父の背中を見て育ち

父母の作る畑に春はゆく

野を山を白く染めにし初夏の頃

書いて消し消しては書けよホトトギス

山茶花も椿も去りて皐月咲く

急発進劉邦息を吹き返し張良の声背に聞き残し

傾斜地の畑の土を上に寄す父母の姿の懐かしきかな

初めての大量になる梨の実に半信半疑ぬか喜びと

快不快繰り返しつつ人は老ゆ七十四の誕生日前

活字追う朝のひととき薄日さす人の世からも遠ざかりつつ

咲き誇る白き花びら風に揺れ収穫されぬ春は行きけり


2025年5月15日。木曜日。晴れ。3048歩。73.1kg。朝から古文書。

 初夏(平起式、下平一先)

新風午夢緑陰前

林下南薫五月天

松影雨声山館夕

山居静坐気如仙

来たれども軒も借さねばツバメ去る

つばくらめお宿貸してよとホバーリング

薫風や午睡の夢の子守唄

野良猫も大あくびする五月かな

うすべにの桜を植えしふるさとの古城の山に春は来にけり

背戸やまの白き岩尾の静けさを海にうつせし我が魂をこえ

岩へんじ仏となりぬいにしへの石工の心ここにねむれり


2025年5月16日。金曜日。曇り、夜小雨。3279歩。73.3kg。11時過ぎに出て福山へ。古文書学習会。

 初夏(平紀式、下平十一尤)

閑人一雨坐書楼

林下少年鳥語柔

夏景緑陰春已去

眼前花落白雲愁

石狩の川原に遊ぶ孫娘夏よ来い来い海越えて

JAの病院行きのバスの窓空ゆく雲は遠き日の夢

汽車降りて来る人を待つかの時の君の瞳の懐かしきかな

オリンピック電話の声の懐かしき初秋の夜のバイト先かな

もう少しもう少しだけはしごする窓の外には秋の日の午後

今はなきたんぼの上に雲雀鳴き

人減りて雉は喜び巣を作り

紫陽花の緑の茎の頼もしさ

マルベリー赤は鑑賞黒食用

もうこれだけ出したのだから、思い残す事なく死ねるでしょう、と言ってくれる人がいた。でも、別にそれがなくても思い残すことは何もない。死んでしまえば皆同じだ。生きていることを思うこともない。


2025年5月17日。土曜日。小雨のち曇り。2070歩。73.6kg。

朝から小雨。やむ。一日中、古文書入力。夕方草取り。

 憶君 (平起 上平四支)

而来追憶与君離

況是無情歳月移

難忘風姿何日会

江山茫々夢魂馳

梅雨前の雲れる空に入りひ射す

ゾウムシの餌食になりし枇杷ひとつ

缶詰の空き缶を捨てようとして遠き日を思い出した。使わずに捨てることが悪いことのように思われて来た。昔はこの缶一つが貴重品であった。缶蹴りという遊びがあった。二つをそれぞれ長い紐で結んで、缶下駄を作って遊んだ。ドジョウを取るのにもちょうどよかった。それから猫に餌を与えるのにも適していた。・・そんなことを思いながらポイと捨てた。こんなことをしている文明は長くないな、と預言者でない私は思った。


2025年5月18日。日曜日。晴れときどき曇り。3622歩。73.3kg。

 緑陰読書(平起 上平六魚)

陽光倚奇読詩書

午睡幽窓花落餘

新緑庭樹農事急

薫風首夏坐山居


2025年5月19日。月曜日。晴れときどき曇り。3393歩。73.3kg。

朝、文化財協会役員会。

畑の草取り。

 午雨 (平起式 上平四支)

柳煙清景出門時

一路江山暮色遅

山寺香塵花落尽

春光美景更清寄

梅雨前の半月の朝霧の朝

2025年5月20日。火曜日。晴れ。4869歩。73.2kg。暑くなった。定例会第110回、15人。

 書憶 (平起式 上平一東)
小斎黙坐柘榴紅

声裡愁人細雨中

連日園中新竹緑

天空午夢夕日空


2025年5月21日。水曜日。晴れのち雨。2882歩。73.1kg。朝、因島図書館で文学散歩。7人。午後雨が降り出した。いよいよ梅雨入りか。

 雨中 (平起 上平四支)

詩人一叫憶郷里

半夜旅情客枕欹

小雨子規山月冷

幾年傷別遠相思

また一つ齢重ねるつゆの雨我は夏至の子我は海の子

子規白滝山にこだまして消えゆく町の行方知らずや

年おいてなおも買い物ゆく夫婦隠居の日々はついにいたらず

枇杷の葉に卵を産みし昆虫の命みじかしなおとりのぞく

何もかもマイナカードになりぬるを風呂の時にも我が身離さず


2025年5月22日。木曜日。曇り時々晴れ。2442歩。72.8kg。

朝、来客。午後、草取り。梅雨に入ったような曇り空であったがほとんど雨は降らなかった。

2025年5月23日。金曜日。晴れ時々曇り。4169歩。72.8kg。朝、中庄公民館で因島文化財協会総会。二人参加。午後、草取り。古文書。『講座日本荘園史1』届く。


2025年5月24日。土曜日。雨。2216歩。73kg。梅雨を思わせる天気。


2025年5月25日。日曜日。曇り。3956歩。73.2kg。朝草取り。買い物。資料作り。


2025年5月26日。月曜日。晴れ。10899歩。73.2kg。8時に出て向島遍路2回目。50番まで。8人。


2025年5月27日。火曜日。晴れ時々曇り。2862歩。72.8kg。朝、草取り。公民館だより原稿送る。


2025年5月28日。水曜日。曇り。2461歩。72.5kg。朝が寒い。少し草取り。タイムズ原稿を書く。


2025年5月29日。木曜日。曇り。3042歩。72.6kg。朝5時から草取りをしようと思ったら寒いのでやめ、再び寝た。古文書。


2025年5月30日。金曜日。曇り時々晴れ。3420歩。71.6kg。9時に出て福山の家へ。草取り。13時から古文書学習会。夕方瀬戸内タイムズ配る。


2025年5月31日。土曜日。晴れ。4355歩。71.5kg。久しぶりの晴天。暑いぐらい。と思いきや、午後になって風が出てきて曇りがち。今年の天気はどうなっているのか。夏が思いやられる。地球も日本もこの先よくならないのだろうか。




読書の記録

5月6日

宮城谷昌光、『劉邦 上」、毎日新聞社



クリスタルホーム

2025年4月29日火曜日

瀬戸内抄2

1、大学へ入ってから読書をすれば良いというが、それは間違いである。確かに大学になって自分で本を選んで今まで読んだことのなかった小説を読んだりする人は多い。しかし、それでは手遅れである。高校生のうちに読むようになっていないと、大学に入って読む本は大したものではない。二十歳近くなってしまえば感性などというのは、若い頃に比べれば枯れたようなものだから 、枯れた感性に響くようなものしか読まないことになる。それは勉学のためであったり、実用のための本に限られてくる。真の人格を形成するための本を読もうと思ったら高校生の頃に乱読すべきである。

2025年4月9日水曜日

401ー410回 増補版

ふるさとの史跡をたずねて(401)

     

伝六①伝六墓(尾道市因島重井町善興寺)

 重井町の教育について語るには、まず柏原伝六のことから話すのが良いだろう。こう書くと多くの方が意外な感じを持たれるであろう。

 それでは伝六が広めた、あるいは新しく作った(私はそうは思わないが・・)という宗教を信仰している人が現在重井町に何人いるか考えてみてほしい。重井町内は元より因島中を探しても一人もいないであろう。意外なことに事実はそうなのだ。では重井中学校の中島忠由氏がかつて書かれた社会科副読本「宗教界の偉人柏原伝六の話」という表題は悪い冗談だったのだろうか・・・。

 だから、宗教界の偉人というのも、重井町の教育者伝六というのも意外性においては大して変わらないと思う。

 伝六の墓は白滝山中腹の仁王門と因島ペンション白滝山荘の間の墓所にあるが、善興寺の墓地にもある。

 明治以降の公教育も、それ以前の寺小屋も文字通り善興寺から始まっているので、ここの墓地から話を始めるのが良いだろう。

 伝六の墓と言っても、伝六家は今対象としている伝六の死後、数代にして絶家した。伝六家の墓は、分家の川姫家の隣にあり、川姫家によって守られたきた。こういう事情であるから、伝六の遺品はごくわずかしかない。そのことで伝六について誤解が生じた。と同時に教育者的一面が忘れ去られた。そして我がふるさとの偉人として尊敬されてきた。だから突き詰めて考えればなぜ偉人かわからなくなる。単純に考えると白滝山の石仏を作った人ということになる。しかし実際に伝六が寄付したものは多宝塔と釈迦像と一観夫妻像(これは子息の寄付ではないかと私は思う)で、石仏工事開始後1年3ヶ月で亡くなっている。だから正確には、五百羅漢を作ろうと提唱した人ということになる。・・それでも偉人なのである。なぜか? 教育者だったからである。それは子供というよりも大人への教育であるから社会教育というべきものかもしれない。すなわち、社会教育家柏原伝六である。



ふるさとの史跡をたずねて(402)

伝六②「万時簿」

 遠回りである・・・。

 ここに『私の万時簿』(風間書房)という奇妙な表題の本がある。著者は三好信浩氏。昭和7年大分県生まれ。昨年、福山市で亡くなられた。

 この「万時簿」について三好氏は次のように記されている。「自分の研究に使った時間数を毎日記録するだけのことである。大学での講義や会議などの時間は除き、いわば自分の職業としての学問に費やした時間数を記し、その単純計算で何年何か月で一万時間に達したかを楽しむのである。」(同書p.6)

 同書には「いかにスローな私でも、五千時間かければ一冊の研究書がまとまることがわかった」などという貴重な体験が記されているが、それらを紹介するのが本稿の目的ではないので省略する。

 興味深いのは、その発想の原点が大分県日田市の小学校にあったということである。当時の小学校の校長が「万善簿」を小学生に習慣づけようと努力され一日一善、善行の内容を記すよう指導された。「かなり苦痛だったことを覚えている」程度でそのことは忘れていたが、学者生活を始めた時、「万善簿」ならぬ「万時簿」をふと思いつかれたということである。

 それでは、その「万善簿」とは何か? その校長先生は江戸時代の郷土の教育者広瀬淡窓の研究家で、広瀬淡窓が実践したのが「万善簿」であった、ということである。

 なお、三好信浩氏はイギリス教育史の分野で高名な方であるが、のちに我が国の産業教育史の分野で多くの研究書を公表された。一般書として『明治のエンジニア教育』(中公新書)などがある。



ふるさとの史跡をたずねて(403)

伝六③「万善簿」



 ・・ということで、江戸時代の天領・日田に話は飛ぶ。

 天領というのは幕府直轄地で、その支配者を代官と呼ぶ。映画やテレビでは庶民を苦しめている悪代官を主人公が懲らしめるというパターンが多かったが、実際にはそうでもなかったようだ。むしろ大名領よりもおおらかで独自の文化が育ったのではなかろうか。日田もその一つで広瀬淡窓の漢学塾・咸宜園は全国に名を馳せた。淡窓には有名な漢詩「桂林荘雑詠 諸生ニ示ス」がある。 

 休道他郷多苦辛

 同袍有友自相親

 柴扉曉出霜如雪

 君汲川流我拾薪

   道(い)ふこと休(や)めよ 他郷苦辛(くしん)多しと

   同袍(どうほう)友有り 自(おのづか)ら相(あひ)親しむ

   柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜雪の如し

   君は川流(せんりう)を汲め 我は薪(たきぎ)を拾はん




 厳しさと愛情のこもった名詩で、淡窓塾の雰囲気の一端を感得できるだろう。

 さて、広瀬淡窓は、善行をプラス、悪行をマイナスとして毎日加算して1万点になるのを目指した。自らも実践し、塾生にも勧めたのではなかろうか。これが「万善簿」で生涯に一度一万点に達している。



ふるさとの史跡をたずねて(404)

伝六④好善法師墓(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山表参道の仁王門下の伝六の墓については175回で記した。その広場山側(東側)には堂守の墓が並んでいる。中には伝六の秘書役ともいうべき初五郎夫妻の墓もあるので、必ずしも堂守の墓とは言えないが、伝六の思想に帰依した人たちの墓であると言ってよいだろう。写真の右奥には、私が子供の頃には小屋のようなものがあったから、おそらく伝六の死後そこに住んで、墓守のようなことをしていたのであろう。後に観音堂の隣に庫裏ができて、こちらで生活し、白滝山の管理に当たったものと思われる。

 右から2番目が好善法師の墓で、正面には「心哉好善首座」、右面(南面)には「文久三年亥八月」、左面(北面)には「善興寺十三世弟子」と書かれている。また基台には、「高根洲産」とあるから、高根島の出身だと思われる。好善法師は二代目で、初代が大三島の出身であったから伝六の人気の程が伺える。








ふるさとの史跡をたずねて(405)

伝六⑤功過自知録

 以前書いたように伝六家は絶家したので、伝六の事跡を伝える文書はほとんどない。そのような状況であるから、好善法師が残した伝六関係の書類は貴重である。それらは綴じられており末尾に「白瀧山好善法師」と記されている。(写真1)

 この中で特に注目されるのは「善」と「悪」を天秤に掛けた絵で始まる「和字功過自知録叙抄」である。(写真2)。

 これについてはかつて重井町文化財協会会長の柏原舒延氏が「伝六遺編自知録」(「反省のいずみ」第187号、昭和43年)、「功過自知録は彼(伝六のこと)が二五才から四二才の十七年間に自得したものであり、その博学から抽出されて、よくまとまり多分にその指導精神が含まれています」(反省のいずみ」第199号、昭和44年)と紹介されたものである。

 さらに、『因島市史』では青木茂氏が「彼の書いたものを見ると、心学的道徳的ものの概念が、かなり深いようである」(p.913、昭和43年)と感想を述べられた。心学というのは石田梅岩が始めた石門心学のことである。

 さらに、青木氏の説を敷衍されたのか、中島忠由氏は「心学から出発して観音信仰を中心においた新宗派『一貫教』を瀬戸内の島の一角から起こしたのが、重井村の川口屋柏原伝六であった」(『写真集明治大正昭和因島』、昭和57年)と展開するのである。

 *『一貫教』は原文のまま。




るさとの史跡をたずねて(406)

伝六⑥功過自知録刊行本

 さて、写真①をご覧いただきたい。前回のものが手元にあれば比べてもらいたい。多少の細部の違いがあるものの、ほぼ同じようなものだと了解していただけたと思う。

 今回示したものは、私が古書店から求めたもので伝六とは全く関係がない。江戸時代に刊行されたもので、安永5年の原刻、寛政12年の再刻と記されている。

 結論から言うと、前回あたかも伝六のオリジナルな著作のような印象を受けたと思うが、そうではなく刊行本(市販本)を写したものだということがわかる。もちろん多少の異動のある多数の版が刊行されたのであろうから、伝六が見たものと全く同じであるということはありえないだろう。

 しかし、伝六が持っていたものか、伝六が写して持っていたものを弟子の好善法師が写したものであったのだから、伝六の思想に近づくには誠に格好の資料と考えてよいだろう。

 原本の著者や時代背景については追い追い考察していくとして、今回は好善法師本にはないが、刊行本の末尾4ページに渡って書かれている表を紹介しておこう(写真②③)。1日の善と過の数を記す1年分の表である。すなわち、この功過自知録というのは道徳の点数化でありその実践の手引き書であるということがわかる。

 九州日田(現大分県日田市)の広瀬淡窓は、善から過を引いた数を日々加算して、1万点を目指して、その記録簿を「万善簿」と呼んだのである。伝六が何と呼んだのかはわからない。

 だが同じ時代を生きた二人である。九州の物流の中心地、天領日田の漢学者広瀬淡窓(1782生まれ)と同じようなものを、広島藩の端の端の離島の農村で伝六(1781生まれ)が読んでいたということは、やはり驚嘆に値する。








ふるさとの史跡をたずねて(407)         

伝六⑦陰騭録

 伝六が書いたと思われる功過自知録が市販本であるとわかった。その出版事情について記す。結論を単純に記すと、中国の明の時代に袁了凡(えんりょうぼん)が書いた『陰騭録』(いんしつろく)についていた付録の翻訳書であった、ということになる。しかし実際の話はもっと複雑である。

 実は同じ頃に出版された『陰騭録』は2種ある。すなわち他に伯仕宋(はくしそう)のものがある。これらは「善書」と呼ばれる。今で言えば啓発書の類であろうか。

 袁了凡の『陰騭録』には「功過格欵(かん)」(雲谷禅師伝)が付き、伯仕宋の『陰騭録』には雲棲袾宏の「自知録」「功過格」が付いていた。

 中国では袁了凡の『陰騭録』の方がよく読まれた。そのせいか我が国でも元禄14年にこちらの翻訳本が出版された。その時、「功過格欵」ではなく、袾宏の「自知録」が一緒に収められた。 

 袁了凡の『陰騭録』(A+a)、伯仕宋の『陰騭録』(B+b)とするとわが国の翻訳書では「A+b」が袁了凡の『陰騭録』として出版された。理論編と実践編のうち実践編が入れ替わった訳である。のちにそれらが独立にA、bとして出版された。おそらくbの人気が高かったのだろう。前回のがbであり今回Aの写真を載せる。(これも伝六とは関係なく入手したものである。)

 このような変なことがわが国で可能であったのは、両者が似ていたから不自然でなかったということであり、実践編の方は袾宏のものがより優れていたので入れ替えたということであろう。

 手元にある伝六関係のものと一致するのはbで、AもBも伝六関係のものはない。しかし実践編の方には項目と点数があるだけで思想的なものは理論編の方にあるだろう。伝六がAまたはBを見たという証拠はないが、bの思想的背景を探るのにはAを調べるのが良いだろう。したがって、袁了凡と彼の『陰騭録』に伝六の思想的背景を探ることは意義があるだろう。

 *『陰騭録』については、『岩波哲学・思想事典』による。




ふるさとの史跡をたずねて(408)

伝六⑧功過自知録好善法師本

 ここで405回で紹介した白滝山好善法師が書き写した功過自知録の内容を紹介する。繰り返しになるが、これは伝六が持っていた本か、書き写したものを好善法師が書き写したものだと思われる。また、伝六のオリジナルな著作ではないということである。

 しかし、量から考えても伝六の活動の大きな部分を占めていたことは十分に考えられる。

 まず前書きがあって、「善をすすめて天の福(さいわ)いを受けしめ、悪を戒めて禍(わざわ)ひをのがれしめんが為に記せり」と書かれ、上下巻のはじめに「古抗雲棲寺 袾宏輯」とある。(写真は上巻の末尾と下巻の巻首)。『輯(あつむ)」と言うことから、類似のものが出回っていたことが伺える。各巻には次のような項目がある。



 上巻善門、忠孝類 仁慈類 三宝功徳類 雑善類 補遺

 下巻過門、不忠孝類 不仁慈類 三宝罪業類 雑不善類 補遺 

 附録、功過自知録大意 

 上巻善門では、「父母に仕え敬いてよく養う一日一善」(忠孝類)、「棄子を養う一命八十善」「牛馬等の命を救う一命二十善」(仁慈類)、「仏、菩薩、祖師の像を建立する入用二百銭一善」(三宝功徳類)、「家業に油断なくよく勤め妻子を厳しく教え導く一事一善」(雑善類)など。

 また、下巻過門では、「父母の葬いをせず一度十過」(不忠孝類)、「牛馬等を殺す一命二十過、誤りて殺す五過」(不仁慈類)、「悪を見てその所を去らず五過」(雑不善類)のような具体例が細かく記されている。(一部大意のみ記す)

 善の数の総計から過の数の総計を引くという集計を毎日続けるための指針である。




ふるさとの史跡をたずねて(409)


伝六⑨功過自知録附録その1 

 功過自知録というのは道徳を点数化したもので、いわばゲームの配点表のようなものだと思えばよい。しかし、内容が道徳的なものである以上、項目の選択と配点は選者によって当然異なる。すなわち選者の思想が反映されるだろう。その思想を伺うには全文を見ていただくのが一番良いのだが、「附録功過自知録大意」というのが付いているので、それを見ることにしよう。  

 刊行本より4ページ少ないが、好善法師本を見る。「願い事あらばこの功過格を受持して善を積むこと一万にも満たせば禍い除き福(さいわ)い来たりていかなる願い望みも成就せずと言うことなし」「この功過格を修せん人は我常々信仰する仏神の御前にて悪事を懺悔し一心に祈請をかけ祈るべし」「その報恩には三千の善をなして神仏の御恩に報ぜんと誓いをなすべし」「毎月一日に神仏の御前にて前月の善悪を偽りなく算用すべし」(一部文字省略)などとある。

 この辺りに「万善簿」発想のヒントがあるのだが、それは九州の話で重井村では、「万善簿」という言葉は使われない。

 また、これまで紹介してきた万善簿に連なる功過自知録という道徳の点数化が単に道徳的善行の実践を勧めたものではなく、神仏の篤い信仰に立った、あるいはそれと一体となった実践活動の勧めであることがわかった。

 ここで、これまでよく言われて来た「伝六が神儒仏から(人によってはキリスト教まで加えて)新しい宗教・一観教を創始した」という珍説を思い出しておこう。

 点数化された道徳を儒教と読み替えれば、まさに三役揃い踏みではないか。そしてこの好善法師本を伝六のオリジナルな著書だと信じた人にとっては、功過自知録が「伝六が創始した一観教」に見えたに違いない。

 この附録の部分も市販本と変わらないということがわかるように該当のところを写真で示す。(神仏のところに傍線を引いておく。)右:好善法師本、左:市販本。

 そして神も仏も一緒に拝むというのは特定の仏教の宗派や神道の熱心な信者を除けは、現代でもそうであるように、多くの日本人に行われている慣習で、伝六が特別なことをしたわけではない。

 しかし、およそ200年ほど前に重井村で伝六が神や仏を拝むことと併せて、この功過自知録の道徳実践活動を強力に推し進めたことは事実であろう。







2025年4月4日金曜日

資料目録

 末広講

 講箱(トタン製 本体+蓋)83cm ×43cm ×27cm  2018.2.24.初見

 規約及人別帖➡️一冊 

大師講

 

柏原講

大脇田文書

  家譜(非公開

  柏原舒延『霊峯白滝山の沿革』(「反省ノ泉」連載)➡️画像

    『白滝山資料集2018』所収。

  『末廣講 写し昭和六一年一月』2018.2.23.初見 ➡️資料

   末広講宿本世話人一覧表(メモ)➡️画像 

   奉納四国霊場明治2年➡️写真

  修験道

   山上護摩御札➡️画像 

   不動護摩御札➡️画像  

  絵葉書

   昭和41年➡️画像

  断簡零墨

   書簡1       ➡️画像(非公開) 

   墨書1楽悦➡️画像   

   

2025年4月1日火曜日

夕凪亭閑話2025年4月

クリスタルホーム

2025年4月1日。火曜日。曇り。2821歩。73.6kg。6時に起きる。朝食後ゴミ出し。昼前に尾道市民病院。午後、散髪。昼寝。相変わらず寒い。東京も真冬なみ。夏モードに切り替えるために当面不要な本を夕凪亭の方に移す。宮城谷昌光、『湖底の城 第五巻』、講談社、終わる。 


2025年4月2日。水曜日。雨のち晴れ5261歩。73.3kg。朝買い物。図書館。午後、山へ。その後来客。夜タイムズ原稿書いて送る。


2025年4月3日。木曜日。晴れ。4681歩。73.4kg。朝、11時から公民館、監査。午後、山へ。竹切り。古文書。


2025年4月4日。金曜日。晴れ。3743歩。73.3kg。午後、福山へ。福山城と古文書学習会。夜、公民館運営協議会総会。閉校記念行事実行委員会のようなものができる。小学校史、中学校史の依頼があったので、その方向で検討する。


2025年4月5日。土曜日。晴れ。4806歩。73.2kg。朝から古文書入力。夜遅く終わる。


2025年4月6日。日曜日。晴れ。5650歩。73.4kg。朝、買い物。図書館。午後山へ。瀬戸内タイムズ配る。


2025年4月7日。月曜日。晴れ。6785歩。73.4kg。午後、尾道総合病院へ。


2025年4月8日。火曜日。晴れ。9438歩。72.4kg。朝5時半に起きる。パンを食べて出る。因島文化財協会の旅行。53名。岩国錦帯橋、下瀬美術館、妹背の滝、速谷神社。


2025年4月9日。水曜日。晴れ。4151歩。73.6kg。朝、妻の免許の更新。メガネ21でメガネの修理。買い物。午後、旅行の写真の手配。


2025年4月10日。木曜日。晴れ。夕方1時雨。4964歩。74.4kg。朝、山へ。午後、三庄へ。夏野菜買ってきて植える。宮城谷昌光、『湖底の城 第六巻』、講談社終わる。


2025年4月11日。金曜日。雨のち晴れ。4877歩。73.8kg。6時半に起きる。午後公民館で文化財役員会。藤井医院。草取り。夏モードへ切り替えるため夕凪亭への移動を開始。


2025年4月12日。土曜日。晴れ。夜雨。4650歩。72.7kg。6時半に起きる。筍取り。野菜の苗を買いに行き植える。草取り。夏モードにするため荷物を夕凪亭へ移動。


2025年4月13日。日曜日。雨。3548歩。73.9kg。4時半に起きる。朝、買い物。午後来客。


2025年4月14日。月曜日。雨のち晴れ。3117歩。73.4kg。


2025年4月15日。火曜日。晴れ時々雨。3183歩。73.7kg。公民館で定例会。13人。


2025年4月16日。水曜日。晴れ。2895歩。73.3kg。文学散歩の会。6人。午後、昼寝。夜タイムズ原稿送る。宮城谷昌光、『湖底の城 第七巻』、講談社、終わる。


2025年4月17日。木曜日。晴れ。3113歩。73.25kg。庭と畑の草取り。古文書。郵便局。


2025年4月18日。金曜日。晴れ。3009歩。72.95kg。福山で古文書。暑いので帰りにクーラーを入れる。


2025年4月19日。土曜日。晴れ。3581歩。72.9kg。図書館。買い物。夜、古文書入力。送る。宮城谷昌光、『湖底の城 第八巻』、講談社、終わる。


2025年4月20日。日曜日。曇り時々雨。4954歩。72.9kg。七時に出て宇和島へ。


2025年4月21日。月曜日。晴れ。4293歩。72.7kg。朝、JA総合病院へ。午後、昼寝。夕方草取り。夜、社協総会。


2025年4月22日。火曜日。曇り夕方雨。4176歩。72.7kg。畑の草とり。古文書。


2025年4月23日。水曜日。晴れ。3148歩。72.7kg。朝買い物。図書館。宮城谷昌光、『湖底の城 第九巻』、講談社、終わる。午後、論語の会。3人。夜、古文書。


2025年4月24日。木曜日。晴れ。歩。 73.2kg。少し暖かいが夜になると寒くなる。畑の草取り。朝、来客。夕方、たけのこ取り。今年は筍が凄い。皆竹になり、あっという間に竹藪になるだろう。


2025年4月25日。金曜日。晴れ。3676歩。 72.8kg。福山で古文書学習会。夜、公民館で閉校事業実行委員会。支援する会が成立。思っていた状況から大きく後退。これでは何もできないだろう。静かに閉校ということか。記念誌だけは組織がなくてもできることだから、それなりのものを残しておこう。


2025年4月26日。土曜日。晴れ。3091歩。草取りと、古文書の入力。 


2025年4月27日。日曜日。晴れ。3575歩。 72.7kg。朝、買い物。自転車が多い。GWに入ったのだ。


2025年4月28日。月曜日。雨のち晴れ。3978歩。72.3 kg。朝小雨の中生口島遍路結願。15人。

2025年4月29日。火曜日。晴れ。2643歩。 73.6kg。草取り。夜が寒い。


2025年4月30日。水曜日。晴れ。4176歩。 73.4kg。朝、医師会病院。午後、買い物。草取り。夜が寒い。



読書の記録

4月1日

宮城谷昌光、『湖底の城 第五巻』、講談社

4月10日

宮城谷昌光、『湖底の城 第六巻』、講談社

4月16日

宮城谷昌光、『湖底の城 第七巻』、講談社

4月19日

宮城谷昌光、『湖底の城 第八巻』、講談社

4月23日

宮城谷昌光、『湖底の城 第九巻』、講談社




 クリスタルホーム