昼過ぎから降り出した雨は夕方には止んで西の空には、茜色の夕焼けがかかった。
その夕焼けが消え入ると、それと入れ替わるように夜が訪れた。
雨後の澄んだ夜の空が高く続いている。その下では,岡山駅西口の駐車場の水銀燈の明かりが漏れ、アスファルトの道が輝いていた。黒々と、そして銀色に。
風は吹いていない。あたりの静かさのせいか、秋の気配を感じた。夏だということを忘れそうだ。一ト月前のあの夏の暑さが夢のようだ。
その夜、雨に洗われた夜道を香住田亮輔は、自転車を走らせた。五分も走れば「山の音」に着く。
店の前に自転車が二台ある。いかにも古めかしいタイプのもので、黒っぽい塗装から一目で男物とわかった。その一台が武岡さんのだと、香住田亮輔は思った。子供を載せてもいいように、荷台が広くなっていて、手を掛ける握り棒までついている。もう一台は誰のかわからない。
自転車のすぐ傍を通って、コンクリートの床にピッタリと着いた、堅い木製のドアを押し開けると、酒の匂いに混じって床のコンクリートの匂いが、プーンと広がってきた。
蛍光燈がかぼそくともっているのだが、ちょうどカウンターの上に玉蜀黍が三本束ねて吊りさげてあったり、どこかの土産物屋で買ってきた草鞋や干魚が掛かってあって、店内は薄暗くなっている。
入り口のところに髪の長い、よれよれのジーンズの上着を着た男が一人。ひとつあいて武岡さん。その向こうがカメラマンの橋本さん。入り口の男とは初対面だ。
香住田亮輔はまず武岡輝道にご無沙汰を詫び、ついで橋本良夫のほうを見て頷いた。
橋本さんというのは、額が広くて目が窪んでいて、初対面のときは少し気味のわるい人だと思ったが、童謡亭「山の音」の常連のひとりで、いつのまにか話をするようになった。
以前こんなことがあった。自分の写真が新聞に載ったと言って、新聞を持って来た。よく見ると、甲子園出場の地元代表校を取材している橋本さんが、選手の後ろに小さく写っている。カメラマンが同僚に写されるようになったらシャレにもならない。
香住田亮輔が橋本良夫に挨拶をしている間に、武岡輝道は一つ右に寄り、香住田亮輔が武岡と橋本の間に座った。
香住田亮輔は椅子を引きよせながら、橋本の頭ごしに飾り棚をちらりと見た。いつも見慣れているので取り立てて注意する必要もないのだが、いつもの習慣か、目がひとりでにいくのである。
この飾り棚には馴染みの客がもってきたこけしややら置物やらがところせましと並んでいる。手に載るほどの水車小屋の置物の隣には、備前焼きの十二支のセットがあるという具合だ。雑多といってもよいほどのバラエティの豊富さが、そのまま童謡亭「山の音」の客の幅の広さを示している。古くなったからといって捨てたりはしないから、香住田が「山の音」に来はじめのころにあったものも、後ろのほうに下がって今でもある。
デンマークで買ってきたという、人魚姫のブロンズ像のミニチアが話題になっていた夜のことは、今でもよく覚えている。香住田が武岡に連れられて初めてここに来たときのことである。
その、人魚姫の像もかなり後ろのほうに押しやられて、その前にいろいろな物が付け加えられていて、時の経過をよく表している。
身体を後ろに引くようにして、武岡輝道が、香住田亮輔をよれよれの上着の男に引き合わせた。
「紹介しとこう。こちらが香住田さん。こちらが大神さん、今は、フリーのライター。岡山にもこういう人のいるちゅうことを、覚えておくのもよかろう」
いつもこんな調子だ。少しばかり形式を踏みつつ、半分照れ気味に、薄くなった額を撫でながら笑顔をつくった。これまでにも何人かの人を紹介してもらった。
「はー、それでは週刊誌の記事など書かれるのですか」
大神という人は何も答えない。
「奥さんは元気か」
大神純平でなく、武岡輝道が香住田へ話題を転じた。
「ええ、今、里に帰っていますがね」
「ああ、連休で帰っとんか。井原じゃたかの。……ヒバゴンか何か出たいうて、ずっと前言っとたが……」
「ああ、あれはヤマゴンと言うんです」
「ふーん、そうじゃったか」
「ヒバゴンというのは、広島県のずっと奥のほうですよ。比婆郡というところですよ。
ヤマゴンの方は……広島県と岡山県の境に山野狭という渓谷があるんです。井原から少し北の方へ行ったところです。そこで、井原市の職員が猿か人間かわからんようなものを見たというて、大騒ぎになったんです。それで、観光課の職員が″ヤマゴン″と名付けて、人寄せにでもしようというわけでしょう」
一ト月程前の夕刊に取り上げられたが、中国山地のまっ只中のヒバゴン騒動と違って、おもしろみはない。それでも新聞が書き立て、少しでも観光客が多くなれば、という腹らしかった。
「ヤマゴンか。おもしろい名前じゃ。ヒバゴンの方は結局どうなったんかの」
「あれは、東京のほうから,大学の探検部なんかも来たそうですが、結局手掛りなしですよ。でも、新聞には書かれるし、人は来るしで、地元としちゃあいい宣伝になったんと違いますか」
「ふうん、そうか。でも、小説にはならんな」
「ええ、話が単純すぎて…………」と香住田亮輔はそっけなく言った。
「やはり、ミステリーはトリックが第一だから、話になりませんね」
武岡輝道との会話を黙って聞いていた大神純平のほうを向いて、武岡輝道大が口を開いた。そして、手元にあった銚子でお酒を一杯口の中に流しこんだ。
「ところで、岡山にはミステリークラブがないでしょう。香住田さんいかがですか」
「いやぁー、僕は、ミステリーが専門という方じゃないし……、だめですよ。トリックもほとんど知らないんだから」
香住田亮輔は、他人とミステリーについて話すほど研究したことはなかった。ここはお断りするしかあるまい、と思った。
「先程、あなたが来られる前に、先生から伺ったのですが、相当書かれているということでしたが……。ねえ、先生」
「ふん」
「そんなことはありませんよ」
「ところで、香住田さんの原稿をひとついただきたいのじゃが」
うまい具合に武岡さんが話題を変えてくれた。ミステリークラブに,いまのところ興味はない。かといってこちらの話題がいいというものでもない,と香住田は思った。
「そのうちにひとつくらいはと,思ってますが,まだ調査が済んでませんからね」
「そういう論文でなくて,エッセーの類でいいから,できるだけ早くひとつを頼みたいんじゃが」
ああ,またあの話かと香住田は思った。武岡が,勤務する女子大から,学生サークルの同人誌のようなものを任されているという話は以前伺ったことがある。学外からも寄稿してもらい,より一般受けのするものをつくるようんというのが,大学の要望で,武岡が編集を任されているらしい。
「今晩は! おっ、相変わらず景気がいいね」
「お晩です」
すでに、何処かで一杯やってきたらしい。顔に赤みが浮かんで、蛍光灯の日にあたって光っている。それに、入ってくるなり、アルコールの芳香が、ついて来た。
「いらっしゃい」
威勢のいい声に連れられたように、童謡亭「山の音」のマスターとお上さんが迎えた。 このマスターは「山の音」を始めるまでは、小学校の教員をしていたということだ。長年子供たちに接してきたせいか、その物腰の柔らかさが、奇妙な魅力となっていた。また、頑固一徹な面があって、その風貌からも伺えた。
お上さんーーもちろんマスターの奥さんのことであるが、ここではこう呼んでおこうーーは、丸顔で日本髪のよく似合う人である。関西の方の育ちだそうで、柔らかい言葉の端ばしにその名残をとどめていた。
「ほんに、久しぶりで。皆さんお元気でしたか」
「久しぶり言っても、この前も来たけどな。あ、お母さん、いなかったんじゃない」
四人のうち、最初に入って来た男がよく通る声で言った。
「そうじゃ、そうじゃ。あんたがおらん時じゃったわ。この前も来てもろうた」
童謡亭「山の音」の主人夫婦は、岡山駅に近い店の方には住んでいないらしい。たいてい、マスターが一人でやっていて、遅くなってからお上さんがやって来る。時々、女子大生のアルバイトが手伝っているが、その日はいなっかた。
「そうでしたか。そりゃ、すまんことでしたな。あら、もうできあがってお出なさったん?」と言いながら、煮ものの入った小鉢を四人の前に置いた。
「ちょっと、卓囲んでる時に、喉を潤ませた程度だけど、そんな風に見えますかね」
と濃紺の背広を着た男が言った。どうやらこの男が一番年長らしく、「山の音」にも最も馴染みの客らしい。一番最初に入ってきたが、三人を奥の方に座らせて自分は戸口に近いところに座った。四人は麻雀をやっての帰りらしい。
香住田亮輔の方は、最近ではずっと「山の音」にご無沙汰していたから、この四人を見るのは初めてだった。マスターやお上さんとの話しぶりから、彼らも常連客のようだ。
「備前市で通り魔が出たそうだけど、夕刊ないかな」
香住田亮輔が振り返ると一番奥のメタルフレームの眼鏡の男だった。香住田亮輔が振り返るより早く大神純平は、顔を少し上下に振った。
大神純平も初めて聞いたらしく、興味深くそちらに視線を移した。
「夕刊ならここにありますけど、載っておりまへんわ。……ほんに、かわいそうなことでしたなあ。器量のええ子で、よう気がつく娘さんやした」
「えっ! 殺された娘知ってたの?」
「ええ、ちょっと前のことですが、このお店手伝ってもらってたことあるんです。半年ぐらい前になりましょうかなあ。あの娘が女子大に入った年の夏休みからでしたから……」
お上さんの知ってる女子大生、それも山の音で働いていた女性が殺されたということで、香住田亮輔たちの会話は完全に止まって、武岡輝道も彼らの方を向いた。香住田亮輔は隣に座っているカメラマンの橋本さんに声をかけた。
「一体何があったんですか」
橋本さんは既に知っていたらしく、かいつまんで話してくれた。
岡山県の東部、備前市伊部で瀬戸内女子大の学生が殺された。死体が発見されたのは午後四時前後で、夕刊には間に合わなかったらしい。テレビは現場の状況から通り魔による犯行ではないかと伝えたそうである。
「それにしても、伊部なんかに、何しに行ったんでしょう。確か、住所は岡山だと聞いたが……」
奥から二人目の一番若そうな男の発言で、「山の音」にいた皆の話題が一つになった。
「僕が見たのは、山陽放送だったかな。地域研究というのが、三年生になるとあるのだそうですよ。それで、今年は備前市を調べることになっていて、調査に行っていたということだったそうです」
橋本さんという人は、毎晩のように「山の音」に来ている人だから、かねてより相当の暇人だと思っていたが、その期待にたがわず、さすがに夕方のテレビなどもよく見ているものだと、香住田亮輔は感心した。
「そしたら、殺されに行ったようなものですね。……通り魔か。岡山県も物騒になったな」
今度は奥から三人目の男が言った。真ん中の二人が若く、社会人一年生という感じだ。 通り魔というのは、以前は変質者が夜陰に隠れていて、女性に刃物で切りつけたりしていたものであるのに、最近では麻薬中毒患者の妄想による犯罪が、白昼堂々と行われるようになった。それは、大都市といわず地方都市や田舎でも、徐々に増えている傾向にあった。
最近では、岡山市や周辺部でも麻薬常習者の摘発や、妄想にもとづく暴力事件が、時々新聞を賑わせるようになったから、こういう事件が起こっても不思議ではなかった。
「しかし、目撃者はおろか犯人さえ捕まっていないというのに、すぐに通り魔だと断定するのはどうでしょうか。それとも何か決定的なものがあるんでしょうか」
これが香住田亮輔の素直な感想だった。そう思ったのは、香住田亮輔だけでなく大神純平もほば同じように考えていたようだ。
「そう、あらゆる可能性を検討してみなくては……」
フリーのライターだけあって、やはり現実の事件にもかなりの関心を抱いているようである。そんな大神純平や香住田亮輔の気持ちを察したのか、武岡輝道は黙って備前焼きの銚子を口に運んでいるだけである。どうやら武岡輝道は大神純平や香住田亮輔ほど、この事件に関心はないようであった。
「詳しいことは知らないけど、土地の人間でないものが昼間刃物で刺されれば、誰でも通り魔かと考えるのではないかな。それにまだ通り魔と決まったわけではないでしょう。確か、通り魔的犯行と言ってただけだと思いますよ」と最初にこの話題を出した眼鏡をかけた男が言葉使いを正した。
確かにその通りであろう。犯人が逮捕されていないのだから、断定的なことは言えない。しかし、ほとんどの人が通り魔が出たと信じたのであるから、テレビというものの力の大きさに、香住田亮輔はあらためて驚いた。
夕刊には間に合わなくて、皆の判断もテレビのニュースに頼るしかないのであるから、それ以上話が進展するはずはなかった。明日になって朝刊で詳しいことを知るしかあるまい、というのが誰からともなく言いだされたその場の結論であった。
そして結果としてはここでの話が、はからずも大神純平と香住田亮輔の関心が現実に起こった事件にあるということがはっきりしたのであった。
その後、三人で取りとめのない話をして別れた。別れ際に大神純平は、今度電話させて頂くかもしれませんからと、香住田亮輔の電話番号を尋ねた。