2025年2月1日土曜日

夕凪亭閑話2025年2月

 クリスタルホーム

2025年2月1日。土曜日。曇りのち雨。2239歩。72.1kg。3時に起きる。朝と昼過ぎ、デコポンを摘む。いつも年内に摘むのだが、今年は1月いっぱい木に残しておこうと試みた。少し苦味があるが甘さは良い。やはり篤農家がよくするように木全体を寒冷紗で覆う、果実に袋掛けをしt防寒対策をしなければいけないようだ。古文書入力。平家物語など。



2025年2月2日。日曜日。雨のち曇り時々晴れ。3946歩。71.1kg。5時に起きる。朝から雨。久しぶりのまとまった雨。こんなに春前に雨が少なかったら筍もでまい。今年も不作だろう。座布団お継当ては亡母の仕業だろう。織り込まれた裏地からとって来たのか絵柄をあわしているのだが、あまり器用ではないが、暇を見てはこんなことをするのが当時の日常だった。午後、畑の整備。特に剪定した枝の片付け。宮城谷昌光、『草原の風 中』、中央公論新社。



2025年2月3日。月曜日。曇り時々晴れ。歩。kg。6時に起きる。





読書の記録

2月2日

宮城谷昌光、『草原の風 中』、中央公論新社。



 クリスタルホーム

2025年1月31日金曜日

赤えんぴつ

 赤えんぴつ  

 

 算数のテストがあった。二けたの足し算だ。25足す17。36足す23。繰り上がりもある。繰り上がりのないものもある。でも、どれも100を越えることはない。……このような問題が20個ある。筆算だ。まず1の位からやる。そして10の位を書いて終わりだ。

「はい、やめて。」

 みな終わって、ぼんやりしていると、先生の合図で鉛筆をおいた。2Bの鉛筆は、やわらかくて好きだ。書いたあと、白いテスト用紙の上に残っている字が、黒く光って気持ちがいい。

「それじゃあ、赤鉛筆を出して。」


 先が丸くなっているが、書けないことはない。一番の答えの上に、テスト用紙から少し浮かせて、先生が答えを言うのを、耳を澄ませて待つ。合っている。やさしい問題だから。でも、先生が答えを言ってくれてから、○をする。なかなか先生は答えを言ってくれない。

 となりを見る。宏美ちゃんは筆箱の中をのぞいたり、カバンの中に手を入れたりしている。それから、黒鉛筆を持った。あきらめたのかなと思ったとき、問題用紙に書いてある宏美ちゃんの答えが見えた。

「これ使えよ。」

 宏美ちゃんだけに聞こえるような声で、赤鉛筆をもっている手を伸ばした。

 首を振るだけで、手を出さない。

「いいよ。使えよ。」

 また、小さな声で言った。今度は手を伸ばしてきたので、わたした。

「一番、42。」

 少し遅れたが、黒鉛筆をもって、さっと○をした。ちょっと左を見ると、宏美ちゃんの手が回った。うれしかった。

「二番、59。」

 先生の声は続いた。20番を○をして100点と書いた。

 黒い鉛筆の○が数字の中に埋もれている。○には違いない。

「これ。」

 宏美ちゃんのほうを向いた。笑っている。嬉しかった。

 喜んでもらえてうれしかった。笑顔がすてきだった。宏美ちゃんに喜んでもらえただけで嬉しかった。

 何と言っていいかわからなかったので、目を反らせた。

 宏美ちゃんは、いつまでも僕のほうを向いていた。

 

「あら、赤鉛筆なくしたの。」

 まずいときに、ママが入ってってきた。

「別に。」

「あるじゃないの。どうしたの。」

「別に。」

 嘘は言えないが、答えないことはできる。

亡霊のくる夜

 


2025年1月28日火曜日

古備前哀歌

 古備前哀歌                                       



 備前警察署で聞いた三年前の「大ケ池女性殺人事件」は女子大生殺しよりもはるかに興味深いもののように思われた。

 それから、はやくも数日がたった。月日のたつのは夙いものだ。その後も、大神さんとは「山の音」で何度も会った。しかし、事件については、はかばかしい話はなかった。

 「山の音」では、例によって武岡さんや橋本さんが、連日のように来ており、よく話した。武岡さんは吉備女子短大の助教授で近世文学を教えている。また同人雑誌「文芸吉備」の主宰者でもある。「文芸吉備」は、最初、吉備女子短大の文芸サークルの機関誌として出発したが、次第に学園以外の執筆者のものも掲載するようになった。また、そうすることによって、ある程度以上のレベルを維持しているともいえた。

 武岡さんが、以前話していたことだが、女子短大で文芸サークルを維持していくことは、大変なことで、まして機関誌などを定期的に出すというのは至難の技で、ややもすると高校の文芸誌程度のものもできなくなる可能性すらあった。それはつきつめて考えれば、文芸サークルに限らず短大教育の問題点に共通したことであった。本質的な問題はともかく、それを回避すると同時に学生へ刺激を与えるだけでも、意味はあるということらしい。そういうわけで、私も頼まれれば短いものを書くことにしていた。もちろん原稿料などはない。

 大神さんは、こういう同人雑誌には一切発表せず、中央の文芸誌に応募していた。


 毎年10月の最初の土曜日と日曜日に,備前陶芸祭りはひらかれる。今年は十月三日が土曜日であるので、十月三日、四日の二日間であった。

 地元の観光協会主催のふるさとの歌コンクールの発表会が盛大に開かれていた。

 この発表会には、地元の「ミス片上」や「ミス焼き物の女王」などはもちろんのこと、毎年多彩なゲストを招待して観客の動員に気を配った。

 岡山県出身のタレントとして若手の歌手や映画評論家なども招かれ会を一層盛り上げていた。

 「テレビシアター」のユニークな解説でおなじみの映画評論家は知名度も高く、抜群の人気であった。中高校生の受けをねらってゲストのひとりに加えれられた若い歌手のほうは、知名度がいまひとつで盛り上がりに欠けた。しかし、映画評論家のほうは小学生から中年の主婦まで広範囲に好評で、昨日の講演会も満員だったということである。今日発表された歌の審査員のひとりでもあった。

 一位は「焼きもののうた」2位は「伊部小唄」、3位が「古備前哀歌」であった。


  片上の港に入日のさすころ

  舟人(かこ)たちは艫(とも)に集いて

  漣(さざなみ)の音も聞こえぬみな底で  いにしえ人の心も静かに眠る

  ああ、古備前の歌は哀しく響くよ



  争いの間(はざま)に骨肉の


 その歌詞を聞いたとき大神純平は、なぜかわからぬが自分がこの歌詞の中に引き込まれていくような気がした。

 この詩は何を暗示しているのだろうか。あるいは何を語ろうとしているのだろうか。

 ここに歌われていることは何なのか。単に情景を綴ったものなのだろうか。いや、決してそうではない。それだけなら、こんなにも自分を引き付けるはずがない。


 この歌詞に興味をもって会場から去りがたい思いで出口のほうへと向かう人の流れにまかせて足をすすめている大神純平の目にさきほど発表されて当選作の題と作詞者名を書いた紙が貼ってある。入場したときには気が付かなかったから、作品の発表後に貼ったものに違いない。それにしても主催者側の細やかな配慮には、先程のゲストの人選とともに恐れ入った感じがしたものである。当選作の「笠岡市神島町 水城弘絵」

電気にでも触れたかのようなショックを受けた。その瞬間には何故このようなショックを受けたのか自分でもわからなかったが、しかし、その訳がすぐに理解できた。

 すべてが笠岡だ。女子大生殺人事件の被害者である黒沢由紀も、大ヶ池女性殺人事件の被害者である村井明美もともに笠岡に関係しているのだ。

 入選作の発表のとき、作者の紹介が簡単に行なわれていたが、この行事そのものにさほど興味をもっていなかったので、そのときは軽く聞き流したものと思う。

神島

 神島   

             

 それから数日して、神島へ行くことになった。

 岡山駅を十時八分にでる、山陽本線の下りに乗って、笠岡まで行った。列車は一時間ほどで笠岡駅に着いた。その日はよく晴れていた。空にわたる薄雲が美しい。

 笠岡まで一時間かかる。駅前でタクシーを拾う予定で改札をでたとき、ふと見上げると駅の時計が十一時半を示していた。お昼ご飯には少し早いと思ったが、ここで食べておくこにした。駅前の商店街をあるいて行くと、食堂があったので、そこで一休みするこにした。喫茶店も何軒かあったが、今日の雰囲気からするとやはり、鄙びた食堂で食べたほうがよい。

 食事後、駅前からタクシーにに乗った。

 タクシーが駅前をでたのが13時半であったから、意外に早く神島にはついたことになる。

 ちょうどっ島の南側に古い旅館が二軒ある。「甲蟹壮(かぶとがにそう)」と「みづき」である。その一つの件かん


 「古備前哀歌」の作詞者の水城弘絵の経営する旅館「みづき」は、ふるい木造でいかにも伝統ある旅館という感じではじめて訪れた者に好感を抱かせるに十分なだけの外観であった。


 南向きの明るい客間で私は水城弘絵から話を聞いた。

「もうあれはずっと前のことになります。この沖で貨物船が沈んだときのことですよ。島の潜水夫がそのとき事故で死んだ。……表向きは事故で死んだけれど、後で変な噂が流れた。その噂が流れる前に関係者が引っ越ししたので、結局結末はかわらなんだが、この島にとっては後味のわるい事件でございました。今から思うと、あの噂のほうが正しくて警察がだした結論のほうがまちがっているような気になることのほうが多いのです。といっても何ら証拠のようなものがあるわけではなく、ただそんな感じがしております。

これを神島事件と呼んでおこう。

 神島事件は20年前に起きた殺人事件である。地元の人々には幾分かの不満と何かふっっきれない後味のよくないものを残したが、当時の操作としては審理を尽くして一応結論をだして事件は解決されたいる。

 しかし、きけばきくほど不可解な事件である。


  事件は秋風の吹く頃、備前片上港から熊本へと備前焼き輸送していた貨物船第二穂浪が神島沖で沈没したことにはじまる。


  20年前の話を聞く

   台風のとき、古備前を積んだ貨物船が島の沖で沈没した。それを引き上げる技術は当時はなかった。しかし、島に新しい潜水漁法が導入されると、それをもって沈没船の遺物探しを行う者が出て来だした。はじめは、ごく限られた者だけが、少しずつ潜っては引き上げていたが、中には相当高価に売れる物があり、噂はいつとはなしに広まり先を争って、沈没船に向かった。当然のことながら、争いが起こる。殺人事件が起こる。こうしてタイラギ漁師は離散し、神島のタイラギ漁は全潰した。

  鴻野島のタヒラギ漁  郷土史資料に土地の古老が書いている。

  鴻野島の南側の流れの速い淵には、タイラギがよくとれた。タイラギ漁をする漁師は多くなかったが、鴻野島の特産になっていた。戦後プラスチック製品により漁具の発展はタイラギ漁にも大きな影響を与えた。潜水具が新しくなるにつれて、漁場も拡大していった。またそれに合わせて水揚げも上がった。しかし、だからと言って、漁師の生活が楽になったわけではなかった。漁船や、潜水具の出費が高く着いたからである。

 しかし、その鴻野島のタイラギ漁も、事故死以来完全に潰えた。漁業者たちは廃業し離散した。

 




  三人の潜水夫がいる。

                     梶文夫とその妻友子

 山田良一とその妻和子(旧姓・橋本)

 村井宏介とその妻佐和


  山田良一は死体で発見

  梶文夫は傷だらけで生還

  村井宏介は行方不明

********************


梶文夫の証言

 「村井が山田を殺した。さらに自分をも殺そうとした。双方傷つき、村井は逃げた。」

 事実は梶文夫が山田を殺した。それを村井に見られたので、村井も殺した。

                     山田の妻・和子は事件当時妊娠していた。  これは、梶文夫との間にできた子である 梶はこのことが山田に気付かれたと思い殺害を計画。

                     事件後、和子は男子を出産。旧姓に戻り、この子供を育てる。これがカメラマンの橋本である。本籍は岡山市となっているから、橋本の表面からは笠岡に結びつくものはない。

 事件当時、村井夫婦には女の子が一人いた。長女が村井明美である。事件当時村井佐和は妊娠しており、事件後女の子が生まれる。由紀である。由紀はまもなく、黒沢夫婦にもらわれる。黒沢夫婦は由紀という子供を亡くしたばっかりであったので、そのまま由紀を自分の子供としたので、由紀の戸籍からは、そのことはわからない。由紀が養子だというこになれば、実子の葬儀の件にまで触れないといけなくなるので、黒沢夫婦は由紀の出生の秘密については最後まで、語らない。

 村井明美は村井宏介とその妻佐和の間にできた子供。由紀は村井佐和と山田良一との間にできた子。                                   由紀はその後他の夫婦にもらわれていく。 その新聞を手がかりに、 母(由紀の生みの)から手紙  由紀の実父CはB殺しの犯人だということで、cはずいぶんつらい思いをしましたが、そうではなく被害者だということがわかりました。それだけが、気がかりだったものですから、これだけはぜひともお伝えしておかなければという気持ちになりました。


 私たちは貧しくて、最初の娘が咳き込んだとき、医者に見せるお金もなくただ家族三人で寒い路頭をさまようしかなかったのです。 広島県との県境あたりで、最初の娘は死にました。海の見える丘に埋めました。寒い冬の日でした。海岸のほうから冷たい風がヒュウヒュウと吹き付けてきておりました。小雪が舞い海が白く霞んで見えたことを覚えております。

 今でもそのときのことを思うと、涙が溢れて止まりません。……しかし、その時の私たちは冷たくなった娘をそこに埋め、小さな石ころを拾ってきて、卒塔婆代わりにのせて、ただ手をあわせるほかは、何もできませんでした。


 信号のある交差点の角っこにはお好焼きやが一軒あるきりだった。看板には「お好焼き・焼きそば」と簡単にかかれていたが、外から見てもお好焼きを店の中で食べている人などなくて、店の主人とおぼしき中年の背の低い男性が、両手をせわしげに動かしているのが見えた。焼きそばを作っているようだ。たぶん出前かなにかのだろう。それを助けるように奥さんが主人の後を右へ行ったり左へ行ったり甲斐甲斐しく動いている。その二人が見える窓ガラスの端の入り口に近いほうに「タコ焼き」と書いた赤ちょうちんが釣り下げてあった。これは帰宅を急ぐ主婦の目にとまりやすく結構売れるのではないかと思われた。



義士祭

 義士祭                                             



 井上刑事が、容疑者桜木真を尾行しはじめて三日たったが、いっこうに敵は尻尾をつかませない。

 ……が、昼前になって急に家を出た。しめたと井上は思った。桜木は家を出たとき、周囲を警戒するように、注意深く眺めてから、急ぎ足で駅のほうに向かって歩きだした。幸い井上の存在には気がついていないようだった。

 街は閑散として、誰もいない。澄んだ青空の下、秋風が静かに流れているだけである。もう少し、道路に人がいれば尾行しやすいのに、と井上は思った。


 桜は赤穂線登り普通列車「播州赤穂行き」に乗った。井上と相棒の中村刑事の二人が赤穂線に乗った。すぐにパトカーの応援を頼んだ。赤穂線の後方を覆面パトカーが追尾した。

 大神警部は西大寺署からの連絡を受けて吉井川の川土手で待機することにした。国道二号線は岡山のほうからゆるやかに北上して吉井川を跨ぐ。吉井川の東側で道は大きく廻り北に向かって堤防に沿って走る。このあたりは備前長船の北部にあたる。

 尾行の中村刑事と援護のパトカーとの無線はさっきから傍受しているが、特別変わったことはない。桜木はずっと座ったままで、スポーツ新聞を読んでいるという連絡を聞いてから、その後の動きについての会話はないから、同じ動作がつづいているものと思われた。


  列車は岡山県から兵庫県へ入った。播州赤穂。車窓に入る日が温かい。途中から増えだした人の波は,赤穂駅が近づくに連れて倍増し,溢れるばかりになった。このように人混みの中では,容疑者との距離を近づけるしかない。じわりじわりと詰めていた距離を更に詰めて,いつ相手が行動を起こしてもよいようにしてある。

 しかし,あまり近すぎると危険だ。相手に気づかれるというよりも,外部との連絡が取れなくなるからだ。


山野狭

 山野狭          


 雪が降ると峠の道は車では越せない。歩いてみるとそんなに急な峠ではないが、所々に驚くほどの勾配があり、さらにその上に雪でも降ろうものなら、これはこれで相当な難所になるのは仕方がない。うねうねと続く山道は右へいったり左へいったりと、めまぐるしく方向を変える。それだけ山の入りくんだところに作られた道である。方向を変えるとともに、高度も急速に増していく。まるで麓の村から逃げるかのように、道は険しくなり、山へ山へと木立の中を昇っていく。

 また、足が滑った。雪が半ば凍り、さながらガラスのように光っている。凍ってない雪は、ガラスの上に敷かれた無数の砂粒のように靴の裏の摩擦を限りなく小さいものにしている。それでも、歩ける限り歩いて、できるだけ深く山懐に潜りこみたい。そこで人知れず暮らすことができれば、そうしてみたいと思う。

 ふと、あのなつかしい交響曲のメロディーが脳裏をこだまする。全編を流れる主旋律が繰り返し繰り返しよみがえって自分を勇気づける。クラッシック音楽というものがこんなにも切実に感じられたことは今までない。こんな逃避行の場で、自分の胸の奥底まで響く感動が、人生のひとつのありようをを示しているように思えた。

 人生とはそれにしても奇妙なものではないかという思いが意識の中で反芻する。いいのだ、いいのだ、これでいいのだと自分に言い聞かせる。いまさら後悔しても仕方がない。

 雪道で足がまた滑った。谷の急斜面に生える杉の小枝から積もっていた雪が一塊下に向かって滑った。真下に連なる木々を揺さ振る音がするほうを見ると、小枝が上下に揺れていた。

 高校を卒業して、勤め始めた頃のことが無性に懐かしく思い出される。小さな薬品問屋であったが、仕事は単調で、まじめにやっておれば、まず間違えることはなかった。営業部であったが最初の一年はたいてい倉庫をやることになっていた。外勤の営業部員がとってきた注文に従い、荷だし伝票が廻ってくると顧客ごとに商品をまとめ担当者に渡すというのが主な仕事である。その仕事が済み外勤部員が出払ってしまうと、倉庫の管理のほうにまわる。



 このまま進んでもよいのだろうか。このまま進んでいるとやがては体力がつき、登山者がよくするように遭難するのではないかという不安に襲われる。その都度、このまま死んでしまえばそれでもいいではないかと思ったりする。でも、もっと進み、手ごろな場所をみつけて隠れていたいと思う。その隠れ家で誰にも会わずひっそりと暮らせるだろうか。やれるだけやってみるだけだ。

 実は、橋本にとってこの地を最終的な逃亡先に選んだのには理由があった。実は父が隠れていたのも、この先の山懐なのだ。



 そこにたどりついた橋本はそこでひっそりと暮らす。

 


2025年1月24日金曜日

夏雲

  夏雲


 グランドを軽くランニングしたりすると、今でもあの日のことが思い出される。別に強いて思い出すことを拒否しているわけではないし、さりとて思い出したからといって感傷に耽るわけでもない。

 父が亡くなってから、半年が過ぎた。あの日のことが今だに夢のように感じられる。本当に夢であればよかった、といつも思う。あの春先の雷で、父が亡くなるなんて、そんなことがあっていいものだろうか。誰も悪いことはしていない。まじめに、そして平凡に生活している私たちが、なぜこのような酷い運命を引き受けなければならないのか。裕美にはわからなかった。

 もし、神というものがいるとしたら、自分は神を呪うだろう。働きざかりの父を一瞬で奪うというようなことを、神が果たして行なうだろうか。              

 一学期の期末考査の時間割りが発表された日も、いつものように蒸し暑かった。夏休みが近付いてくるにつれて、日に日に気温が上昇していった。そして日本の初夏独特の多湿で、不愉快な毎日が続いた。

 七月の半ばになって、梅雨あけが広島地方気象台によって発表されたが、それよりも一週間くらい前から、雨は降らなくなって、気温が連日三十度を越した。気温は九時頃から急激に上昇して、いつも四限と五限が猛烈に蒸し暑い。六限になると、多少和らぐが、それでも夕刻まで蒸し蒸ししている。

 六限の体育終了後、教室の掃除をしてから、美術教室にやってきた。三週間ほど前から果物の静物を描いている。果物といっても、机の上に置いてあるのは精巧に出来たレプリカで、はじめて見ると本物かと思ってしまう。相当近付いて、やっと粘土か何かでできたデッサン用の置物だとわかる。

 一つが梨で、ふたつが林檎である。それをステンレスの皿の上に無造作に置いてある。誰が置いたのか、もう三ヵ月もこの配置はくずされていない。

 普通なら、こんな置き方はすまいと思われるほど三つの果物は勝手な方に向かって個を主張しているようだった。その配置は、一見何の意味もないように最初は思っていたが、それでありながら静物画にしてみると、妙に安定するとともに、何かを象徴しているようで魅力的であった。

 しかし、それが何の象徴であるかは、裕美は思いつかなかった。ただ、初夏のさわやかさに見えたり、自分の心の空洞のように思ったりして、それらの象徴だと、自分で勝手に決めたりした。今日見ればまたこの配置が、この蒸し暑い梅雨時の人間の気持ちをうったえているように見えて、心がなごむのであった。

 あと、一週間もすれば、一学期の期末考査が始まる。そしてそれが終わると、夏休みである。中学生の頃は、夏休みが来るのがいつも楽しみだった。六月になって若葉の色がしだいに目になれ、昨日よりも今日が、一昨日よりも昨日のほうが暑いように感じられて、今年もまた夏が来たのかと思うと、すぐに夏休みのことを考えてしまう。確かに日中は暑いけれど、日が落ちたあとの、夕涼みのすがすがしさ、早朝の、夜露が乾く前の町並みのさわやかさが、裕美にはこの上なく貴重なものに思えるのだった。冬は寒いし、夏は暑いけれども、ふたつの季節にはさまれているからこそ、春の陽気や、秋の寂寥が心の奥底まで感じられるのだと思う。

 しかしまた、考えてみれば、夏の日中だって暑い暑いと言いながらも、その暑さの汗を思い切り出すことによって、身体のバランスをとっているのかもしれないから、万更暑さを厭う理由もない。また、日中でも木陰のすがすがしさや、川面に流れる冷気の爽快さは、やはり夏があるからこそ感じられるものだと思う。

 だから裕美は夏が好きだった。夏休みが毎年待遠しかった。そう思うと、梅雨時の暑気も蒸し暑さも、裕美にはさして気にはならなかった。梅雨が開ける。夏が来る。完全な夏が来ると思うと、裕美は、新しく生まれでた生命のように身も心も躍動を始めるのが感じられるのであった。

 ……やがて高校生になって最初に迎える夏がやってこようとしている。最初の夏休みがすぐそこまで来ている。しかし、今年は違う。今年の夏休みは、裕美にとってまったくはじめて経験するものであった。裕美にとってはある種の恐怖に似た感情が、次第に自分をとりまいて来るのを感じないではいられなかった。

 高校になってからのはじめての夏休みである。それはまた、今までのように絵を思い切って描いてきた夏休みとは違って、小説も読んでみたいと思い始めた最初の夏休みである。人生というものをー今はほんのわずかしかわからないけれどー生まれてはじめて意識し、少しずつわかりかけてきた最初の夏休みなのである。自分が成長するとともに、母の本を読み終えることに、少しずつ、ほんとうに少しずつ人生というものが、見えてくるような気がする。そういう自分が迎える夏休みであるから、今までのものとは明らかに異なるのである。

 考えてみるまでもなく、子供だって、少しずつ成長しているのだから、毎年迎える夏休みには、前の年とは違った感慨をもつのは当然のことである。ある人にとって、小学校四年生の夏休みは、三年生のときとはまったく異なる夏休みだし、五年生のときの夏休みも、四年生のときと、大きく異なるであろう。

 だから、裕美が高校生になって迎える最初の夏休みが、以前の夏休みと異なるように思えても不思議なことではない。

 それでもやはり、今年の夏休みは違う。なぜなら、父がいなくなってはじめて迎える夏休みだからである。

 今までは、絵を描いたり、水泳に行ったり、キャンプに行ったり、比較的好きなように、夏休みを送った。楽しく送った。退屈で困ったということもなければ、ただ遊ぶだけで、夏休みが終わって後悔と失望しか残らなかった、というようなこともなかった。楽しみが多いのと同じ程度に実りも多かった。充実していたと、いつも自分で思っていた。

 しかし、父のいない夏休みが、どのようなものになるかは、裕美にはまったく考えてみることもできなかった。

 ……しかし、確実に夏休みは近づいてくる。裕美の夏休みへの思いがどのようなものであろうとも、梅雨が開けて、入道雲が銀色の堆積を、濃い青空に浮かべて、そのコントラストが日に日に鮮やかになっていくにつれて、季節は初夏から盛夏へと、転じていく。習慣というものは恐ろしい。心の奥深いところでは、執拗に夏休みの到来を拒否している不安の根がありながら、それでもこの時期になると、いつものように、夏休みを待ってしまう。条件反射のように、梅雨が半ば過ぎると、考えようとしなくても、心がそう欲していることに気づく。習慣であろうか、と思う。いや、習慣というよりも、むしろ性格、それも裕美自身の体にしみついた性格といったほうがいいのかも知れなかった。

 お皿の上にのった果物の静物をデッサンする手を少しやすめて、裕美はもの思いに耽る。ほんとうは次をどのように描こうかと果物の模型を見たまま、手を止めると、どうしても次が描けなくて、そのままの姿勢で別のことに思いが移っていくのである。描いている途中で絵筆を止めて、次をどのように描こうかと思案することは、誰にでもよくあることだから、裕美が、手を止めて、じっと対象を凝視しても、だれも声をかけたりはしない。 われに返った裕美がふと目をあげると、北西の三滝の山の上に、真っ白い入道雲が、午後の陽に燦然と輝いているのが見える。ちょうど千一夜物語にでも出てくるような、少しおどけた感じに盛り上がり、黒みがかった灰色のもとの部分と、あたかも次々と成長しているような感じを抱かせる先端の純白が相拮抗しながらも互いに協力して、青空の透明の中に広がっていっているようであった。

 やはり夏が来たんだと、裕美は思った。そう思うと手がひとりでに次の部分へと移った。夏休みはまでは、この静物を描いていようと思う。今日の分はもう少しで終わりだ。昨日よりも今日のがいいとは思わない。しかし、高校に入学したときの曲線と、今日描いた曲線の違いが、自分でもわかるような気がする。確かに三ヵ月で、自分は成長したと思う。それは今日の自分がうまくなったというのではなく、今までの自分の技術があまりにも拙劣であったと思うのである。曲線だけでなく、何十本という直線が、そして無限の空間を紡いでいく陰影が、少しずつ豊かになっていっているのだと思う。

 一本一本の線に、どれだけ自分の心を重ねることができるかが勝負です、と母が以前言ったことがある。そんなことが小学生の裕美に理解できるはずがなかった。しかし、それでも、その言葉は、裕美の心の中に宿り、時々自分より他人のほうが、楽しそうに絵を描いていると思えたときなど、この言葉を思い出したものである。そして、今では、裕美の目標にすらなっている。

 そう思うことによって、絵を描く自分というものを新しく発見することができた。今までの自分は、いわばできるだけ実物に忠実に描こうとしていた。しかしそれだけでは、単なる手作業と変わらないかもしれない。自分の目に対して正直になったところで、やはり、対象の忠実な再現であったような気がする。しかし、一本の線に自分の心を重ねて描こうと努力するとき、裕美は、いつも自然や対象がいかに豊かであるかということを知ることができるのであった。

 ……自分でも進歩のあとが感じられるようになることほど、何事かを学ぶ上において励みになることはない。

 裕美にとって戸外で写生をすることは好きであった。そして一生、絵を描き続ければ、これほどいいことはないと思った。ある日、そのことを母に打ち明けたとき、母は即座に「それじゃ、基礎からまなばなくちゃ。絵の場合でも同じよ。基礎がしっかりしていなくては長続きしないわ。まして、一生絵を描き続けるつもりがあるのだったら、多少は回り道でも、基礎をしっかりやっておかなくてはいけないわ」と母は言った。

 だから、高校に入って美術部に入ったのはもちろん、絵がすきだからそうしたのには違いないが、母が言ったように基礎からしっかりと勉強したかったのである。正直なところ写生は好きだが、デッサンはあまり好きではなかった。慣れるにつれて、はじめの頃ほど苦にはならなくなったが、それでも時々、デッサンをしている最中に、別のことを考えたり、投げ出して、野山を描きに出掛けたくなることもあった。そんな裕美は少しでもたくさん自分の心を画用紙の上に描こうと必死になってやってきた。一本の線にできるだけ多くの自分の心をこめようと思うと、ひとりでに鉛筆をもつ右手に力が入るのであった。


「裕美、そろそろおしまいにしない」

 同じ一年生の伊藤ますみが、遠慮がちに声をかけた。同じ、美術部の中でも、伊藤とはよく話があった。


 ・・・・・・あれから三年の歳月が過ぎた。

 裕美は大学生になっていた。

 その年は4月から新しい生活が始まったので、何もかも慌ただしかった。しかし、その慌ただしさは日常の生活の上のことで、祐美の心の中は逆にクールで着実であった。表面の慌ただしさに、心の中が侵略されるということは微塵もなかった。

 父の死に比べたら、衝撃は少なく感じたものの、日が経つにつれてじわりじわりと、母の死という事実が自分の全身を包んでいることに気づいた。

 母の遺書を整理した。私あての長い手紙があった。

 わたしには、お父さんの他に愛した人がいました。その人とは互いに深く愛し合い結婚する予定でした。しかし、どうしたことか二人の間にふとした行き違いから、二人は別れ、それぞれ別の人と結婚しました。

 しばらくして、男の子が生まれました。

 重夫です。重夫を保育園に預けて仕事を続けました。その頃、ふとした偶然で、かつて愛した人と出会ったのです。こんなことを言うと、いい大人が、とあなたには笑われそうですが、二人はかつての愛を確かめるように、何度か逢瀬を繰り返しました。そして身篭もりました。今のおとうさんが嫌いになったわけではありません。

 二人とも同じように愛していたのです。ですから、わたしは、二人に内緒にして生むことにしました。女の子が生まれました。それがあなたです。

 ですから、兄の重夫とあなたは父親が異なる兄妹です。

 腹がたって腹がたって仕方がなかった。そんなの母のエゴイズムよ。生まれてきた私はどうなるの。自分の子供だと信じて育て慈しんでくれてる父に対して、ずっと騙し続けることになるわ。それも私が生きている限り。

 母の遺書と言ってもいいような母の手紙をはじめて読んだときには、頭がかっーとなって身体一杯に怒りを漲らせていた。今から考えると不思議なほと、私の身体には母への怒りが溢れた。

 しかししばらくすると、不思議なことだが、母を半ば許している自分に気づいた。母を許すだけではなく母の生き方を肯定しようとしている自分を発見した。

 しかし、その理由は、自分でもわからない。自分が今まで人を愛したことがないからかもしれない。人を愛するって、どういうことだろうか。

 壁のほうを向いているが、何も見ていなかった。

 今は肯定できないけど、ひょっとしたら、母を許せるようになるかもしれない、と思った。もし、誰かを愛することができれば……


  何日かたって、日々薄れていく感情の中でもう一度反芻してみようと思った。そう思うと、これまでと違った見方ができるように思った。

 これが母の青春である。こんなにも母は生きるということに執念を燃やしたのだ。それだけでも素晴らしい。

 反面、今から思うと、父の影が薄かったような気がする。

童謡亭山の音

童謡亭山の音


 昼過ぎから降り出した雨は夕方には止んで西の空には、茜色の夕焼けがかかった。

 その夕焼けが消え入ると、それと入れ替わるように夜が訪れた。   

 雨後の澄んだ夜の空が高く続いている。その下では,岡山駅西口の駐車場の水銀燈の明かりが漏れ、アスファルトの道が輝いていた。黒々と、そして銀色に。

 風は吹いていない。あたりの静かさのせいか、秋の気配を感じた。夏だということを忘れそうだ。一ト月前のあの夏の暑さが夢のようだ。

 その夜、雨に洗われた夜道を香住田亮輔は、自転車を走らせた。五分も走れば「山の音」に着く。

 店の前に自転車が二台ある。いかにも古めかしいタイプのもので、黒っぽい塗装から一目で男物とわかった。その一台が武岡さんのだと、香住田亮輔は思った。子供を載せてもいいように、荷台が広くなっていて、手を掛ける握り棒までついている。もう一台は誰のかわからない。

 自転車のすぐ傍を通って、コンクリートの床にピッタリと着いた、堅い木製のドアを押し開けると、酒の匂いに混じって床のコンクリートの匂いが、プーンと広がってきた。

 蛍光燈がかぼそくともっているのだが、ちょうどカウンターの上に玉蜀黍が三本束ねて吊りさげてあったり、どこかの土産物屋で買ってきた草鞋や干魚が掛かってあって、店内は薄暗くなっている。

 入り口のところに髪の長い、よれよれのジーンズの上着を着た男が一人。ひとつあいて武岡さん。その向こうがカメラマンの橋本さん。入り口の男とは初対面だ。

 香住田亮輔はまず武岡輝道にご無沙汰を詫び、ついで橋本良夫のほうを見て頷いた。

 橋本さんというのは、額が広くて目が窪んでいて、初対面のときは少し気味のわるい人だと思ったが、童謡亭「山の音」の常連のひとりで、いつのまにか話をするようになった。

 以前こんなことがあった。自分の写真が新聞に載ったと言って、新聞を持って来た。よく見ると、甲子園出場の地元代表校を取材している橋本さんが、選手の後ろに小さく写っている。カメラマンが同僚に写されるようになったらシャレにもならない。

 香住田亮輔が橋本良夫に挨拶をしている間に、武岡輝道は一つ右に寄り、香住田亮輔が武岡と橋本の間に座った。

 香住田亮輔は椅子を引きよせながら、橋本の頭ごしに飾り棚をちらりと見た。いつも見慣れているので取り立てて注意する必要もないのだが、いつもの習慣か、目がひとりでにいくのである。

 この飾り棚には馴染みの客がもってきたこけしややら置物やらがところせましと並んでいる。手に載るほどの水車小屋の置物の隣には、備前焼きの十二支のセットがあるという具合だ。雑多といってもよいほどのバラエティの豊富さが、そのまま童謡亭「山の音」の客の幅の広さを示している。古くなったからといって捨てたりはしないから、香住田が「山の音」に来はじめのころにあったものも、後ろのほうに下がって今でもある。

 デンマークで買ってきたという、人魚姫のブロンズ像のミニチアが話題になっていた夜のことは、今でもよく覚えている。香住田が武岡に連れられて初めてここに来たときのことである。

 その、人魚姫の像もかなり後ろのほうに押しやられて、その前にいろいろな物が付け加えられていて、時の経過をよく表している。

 身体を後ろに引くようにして、武岡輝道が、香住田亮輔をよれよれの上着の男に引き合わせた。

「紹介しとこう。こちらが香住田さん。こちらが大神さん、今は、フリーのライター。岡山にもこういう人のいるちゅうことを、覚えておくのもよかろう」

 いつもこんな調子だ。少しばかり形式を踏みつつ、半分照れ気味に、薄くなった額を撫でながら笑顔をつくった。これまでにも何人かの人を紹介してもらった。

「はー、それでは週刊誌の記事など書かれるのですか」

 大神という人は何も答えない。

「奥さんは元気か」

 大神純平でなく、武岡輝道が香住田へ話題を転じた。

「ええ、今、里に帰っていますがね」

「ああ、連休で帰っとんか。井原じゃたかの。……ヒバゴンか何か出たいうて、ずっと前言っとたが……」

「ああ、あれはヤマゴンと言うんです」

「ふーん、そうじゃったか」

「ヒバゴンというのは、広島県のずっと奥のほうですよ。比婆郡というところですよ。

 ヤマゴンの方は……広島県と岡山県の境に山野狭という渓谷があるんです。井原から少し北の方へ行ったところです。そこで、井原市の職員が猿か人間かわからんようなものを見たというて、大騒ぎになったんです。それで、観光課の職員が″ヤマゴン″と名付けて、人寄せにでもしようというわけでしょう」

 一ト月程前の夕刊に取り上げられたが、中国山地のまっ只中のヒバゴン騒動と違って、おもしろみはない。それでも新聞が書き立て、少しでも観光客が多くなれば、という腹らしかった。

「ヤマゴンか。おもしろい名前じゃ。ヒバゴンの方は結局どうなったんかの」

「あれは、東京のほうから,大学の探検部なんかも来たそうですが、結局手掛りなしですよ。でも、新聞には書かれるし、人は来るしで、地元としちゃあいい宣伝になったんと違いますか」

「ふうん、そうか。でも、小説にはならんな」

「ええ、話が単純すぎて…………」と香住田亮輔はそっけなく言った。

「やはり、ミステリーはトリックが第一だから、話になりませんね」

 武岡輝道との会話を黙って聞いていた大神純平のほうを向いて、武岡輝道大が口を開いた。そして、手元にあった銚子でお酒を一杯口の中に流しこんだ。

「ところで、岡山にはミステリークラブがないでしょう。香住田さんいかがですか」

「いやぁー、僕は、ミステリーが専門という方じゃないし……、だめですよ。トリックもほとんど知らないんだから」

 香住田亮輔は、他人とミステリーについて話すほど研究したことはなかった。ここはお断りするしかあるまい、と思った。

 「先程、あなたが来られる前に、先生から伺ったのですが、相当書かれているということでしたが……。ねえ、先生」

「ふん」

「そんなことはありませんよ」

「ところで、香住田さんの原稿をひとついただきたいのじゃが」

 うまい具合に武岡さんが話題を変えてくれた。ミステリークラブに,いまのところ興味はない。かといってこちらの話題がいいというものでもない,と香住田は思った。

「そのうちにひとつくらいはと,思ってますが,まだ調査が済んでませんからね」

「そういう論文でなくて,エッセーの類でいいから,できるだけ早くひとつを頼みたいんじゃが」

  ああ,またあの話かと香住田は思った。武岡が,勤務する女子大から,学生サークルの同人誌のようなものを任されているという話は以前伺ったことがある。学外からも寄稿してもらい,より一般受けのするものをつくるようんというのが,大学の要望で,武岡が編集を任されているらしい。


「今晩は! おっ、相変わらず景気がいいね」

「お晩です」

 すでに、何処かで一杯やってきたらしい。顔に赤みが浮かんで、蛍光灯の日にあたって光っている。それに、入ってくるなり、アルコールの芳香が、ついて来た。

「いらっしゃい」

 威勢のいい声に連れられたように、童謡亭「山の音」のマスターとお上さんが迎えた。 このマスターは「山の音」を始めるまでは、小学校の教員をしていたということだ。長年子供たちに接してきたせいか、その物腰の柔らかさが、奇妙な魅力となっていた。また、頑固一徹な面があって、その風貌からも伺えた。

 お上さんーーもちろんマスターの奥さんのことであるが、ここではこう呼んでおこうーーは、丸顔で日本髪のよく似合う人である。関西の方の育ちだそうで、柔らかい言葉の端ばしにその名残をとどめていた。

「ほんに、久しぶりで。皆さんお元気でしたか」

「久しぶり言っても、この前も来たけどな。あ、お母さん、いなかったんじゃない」

 四人のうち、最初に入って来た男がよく通る声で言った。

「そうじゃ、そうじゃ。あんたがおらん時じゃったわ。この前も来てもろうた」

 童謡亭「山の音」の主人夫婦は、岡山駅に近い店の方には住んでいないらしい。たいてい、マスターが一人でやっていて、遅くなってからお上さんがやって来る。時々、女子大生のアルバイトが手伝っているが、その日はいなっかた。

「そうでしたか。そりゃ、すまんことでしたな。あら、もうできあがってお出なさったん?」と言いながら、煮ものの入った小鉢を四人の前に置いた。

「ちょっと、卓囲んでる時に、喉を潤ませた程度だけど、そんな風に見えますかね」

 と濃紺の背広を着た男が言った。どうやらこの男が一番年長らしく、「山の音」にも最も馴染みの客らしい。一番最初に入ってきたが、三人を奥の方に座らせて自分は戸口に近いところに座った。四人は麻雀をやっての帰りらしい。

 香住田亮輔の方は、最近ではずっと「山の音」にご無沙汰していたから、この四人を見るのは初めてだった。マスターやお上さんとの話しぶりから、彼らも常連客のようだ。

「備前市で通り魔が出たそうだけど、夕刊ないかな」

 香住田亮輔が振り返ると一番奥のメタルフレームの眼鏡の男だった。香住田亮輔が振り返るより早く大神純平は、顔を少し上下に振った。

 大神純平も初めて聞いたらしく、興味深くそちらに視線を移した。

「夕刊ならここにありますけど、載っておりまへんわ。……ほんに、かわいそうなことでしたなあ。器量のええ子で、よう気がつく娘さんやした」

「えっ! 殺された娘知ってたの?」

「ええ、ちょっと前のことですが、このお店手伝ってもらってたことあるんです。半年ぐらい前になりましょうかなあ。あの娘が女子大に入った年の夏休みからでしたから……」

 お上さんの知ってる女子大生、それも山の音で働いていた女性が殺されたということで、香住田亮輔たちの会話は完全に止まって、武岡輝道も彼らの方を向いた。香住田亮輔は隣に座っているカメラマンの橋本さんに声をかけた。

「一体何があったんですか」

 橋本さんは既に知っていたらしく、かいつまんで話してくれた。

 岡山県の東部、備前市伊部で瀬戸内女子大の学生が殺された。死体が発見されたのは午後四時前後で、夕刊には間に合わなかったらしい。テレビは現場の状況から通り魔による犯行ではないかと伝えたそうである。

「それにしても、伊部なんかに、何しに行ったんでしょう。確か、住所は岡山だと聞いたが……」

 奥から二人目の一番若そうな男の発言で、「山の音」にいた皆の話題が一つになった。

「僕が見たのは、山陽放送だったかな。地域研究というのが、三年生になるとあるのだそうですよ。それで、今年は備前市を調べることになっていて、調査に行っていたということだったそうです」

 橋本さんという人は、毎晩のように「山の音」に来ている人だから、かねてより相当の暇人だと思っていたが、その期待にたがわず、さすがに夕方のテレビなどもよく見ているものだと、香住田亮輔は感心した。

「そしたら、殺されに行ったようなものですね。……通り魔か。岡山県も物騒になったな」

 今度は奥から三人目の男が言った。真ん中の二人が若く、社会人一年生という感じだ。 通り魔というのは、以前は変質者が夜陰に隠れていて、女性に刃物で切りつけたりしていたものであるのに、最近では麻薬中毒患者の妄想による犯罪が、白昼堂々と行われるようになった。それは、大都市といわず地方都市や田舎でも、徐々に増えている傾向にあった。

 最近では、岡山市や周辺部でも麻薬常習者の摘発や、妄想にもとづく暴力事件が、時々新聞を賑わせるようになったから、こういう事件が起こっても不思議ではなかった。

「しかし、目撃者はおろか犯人さえ捕まっていないというのに、すぐに通り魔だと断定するのはどうでしょうか。それとも何か決定的なものがあるんでしょうか」

 これが香住田亮輔の素直な感想だった。そう思ったのは、香住田亮輔だけでなく大神純平もほば同じように考えていたようだ。

「そう、あらゆる可能性を検討してみなくては……」

 フリーのライターだけあって、やはり現実の事件にもかなりの関心を抱いているようである。そんな大神純平や香住田亮輔の気持ちを察したのか、武岡輝道は黙って備前焼きの銚子を口に運んでいるだけである。どうやら武岡輝道は大神純平や香住田亮輔ほど、この事件に関心はないようであった。

「詳しいことは知らないけど、土地の人間でないものが昼間刃物で刺されれば、誰でも通り魔かと考えるのではないかな。それにまだ通り魔と決まったわけではないでしょう。確か、通り魔的犯行と言ってただけだと思いますよ」と最初にこの話題を出した眼鏡をかけた男が言葉使いを正した。

 確かにその通りであろう。犯人が逮捕されていないのだから、断定的なことは言えない。しかし、ほとんどの人が通り魔が出たと信じたのであるから、テレビというものの力の大きさに、香住田亮輔はあらためて驚いた。

 夕刊には間に合わなくて、皆の判断もテレビのニュースに頼るしかないのであるから、それ以上話が進展するはずはなかった。明日になって朝刊で詳しいことを知るしかあるまい、というのが誰からともなく言いだされたその場の結論であった。

 そして結果としてはここでの話が、はからずも大神純平と香住田亮輔の関心が現実に起こった事件にあるということがはっきりしたのであった。

 その後、三人で取りとめのない話をして別れた。別れ際に大神純平は、今度電話させて頂くかもしれませんからと、香住田亮輔の電話番号を尋ねた。

 

2025年1月23日木曜日

重井町

 重井町


 私の生まれたところは,因島市重井町である。生まれた時は,広島県御調郡重井村であったが,いわゆる昭和の大合併で,因島市重井町になっていたから,幼児から因島市重井町生まれだと思っていた。このことを知ったのは,平成の大合併の頃,市制50周年とかいう記載を見てからのことである。

 だから戸籍上は,広島県御調郡重井村生まれということになるのであるが,そういう意識は50才ぐらいまでなかったのである。このことは,作家の年譜などを見るときに注意すべきことではないかと思う。歴史家は正確を期すために,生まれた時の正式名称を記すが,その後地名変更が起こった場合,本人は正式名称のことを知らない場合も起こり得るのである。

 さて因島市重井町は,生まれたときの正式名称が重井村であるからという訳ではないが,風土的には農村である。それも離れ小島の農村である。ただ,家と家はかなり近づいており,我々が思い描く山里の家が数件,少し離れてまた数件・・という風景とはやや異なる。それから,家の前はすぐ海というような,離れ小島とも異なる。かなり広くて,海は見えない。勿論,海の見えるところに家もあったが,我が家からは見えなかった。要するに重井町というところは小島の中ではあるがかなり,広かった。とはいえ,島は島である。少し行けばすぐに海は見えた。このような事情であるから,離れ小島の農村には違いなかったが,かなり広いところだったと書くのが妥当だろう。

  農村というのには,また次のような事実がある。たいていの家の職業が農家であり,農家でない家も先代までは農家であるから,大部分の家に畑があった。

 勿論,島には造船所があり,その下請け会社が幾社かあったから,そこに勤めている人もいくらかはいたであろう。しかし,それが顕著になるのは,ずっと後である。

 それまでに農業以外にどんな仕事があっただろうか。

生命の誕生と進化

 生命の誕生と進化


  いろいろな問題があるが,結局はここに至る。どこで,どのように誕生したのか,そしてどのように進化したのか。

  未来のことは問うまい。考えても際限のないことだから。そして,人知のよくするところではないから。・・考えることはできる。そこから思索することもできる。しかし・・そのようになるかは誰にも予想はできぬ。いわば,永遠のフィクションに留まるしかないのだ。

  ならば,過去のこと。過去の始まりのこと,すなわち生命の誕生のことが,本当にわかるのか,と問われると,未来のことと事情は似たりよったりかも知れない。それでも,過去のことについては,語る意味がある。

 どのように誕生し,どのように進化したのか。誕生というのは生命の誕生で,まだ人間とは遙かに遠い存在である。進化とはそれから長い道のりを経て,ヒトになる過程である。なぜ,生命をもつもののうち,人類だけがこのような形になったのだろうか。もっと劣る人類。もっと優れた動物はなぜ存在しないのだろうか。

毛皮の静電気

 毛皮の静電気


 静電気の実験に使う毛皮

「キャアー」

 女生徒のかん高い声に、教室は一瞬にして、静寂の淵に沈んでしまった。

 近くの者はその生徒の周囲に原因を見付けようとし、遠くのほうの生徒は立ち上がって、その方角を確認するだけだった。

 次に起こったざわめきは、ひとつの理由を複数の者が発見したという経過を語っていた。

 騒ぎはますます大きくなった。

「先生! 毛皮に血がついてます」

 つかの間の静寂、そしてさきほどより大きな声。教師は走った。

 そんなことがあるものか……。毛皮はいつもと同じだ。教師は心の中で叫んでいた。

  信じられない。こんなに鮮やかな血痕をかつて見たことがあるだろうか。そこに行って教師は改めて驚いた。

 血は禍々しいものだ。しかし、今日の血の美しいこと。驚いたはずの自分がその鮮やかな血に見とれてしまうとは。

  毎年同じころに、物理の実験を行う。電気のはじめには、エボナイト棒を猫の毛皮で擦らせ、静電気の実験をする。まち針を軸にして作った回転台いつもと変わらない。

 静電気の実験をすると校舎の裏で動物の泣き声が聞こえる。

  こんな怖い噂が立つのは毎年のことではない。しかし、確実に何年おきかにその手のうわさ話は広がった。先生、あの声・・・と、今日もまた、一人の少女が叫んだ。一瞬、全員が耳を澄ませた。しかし、何も聞こえない。確かに変な声が・・・、先ほどの少女が、怖そうな顔をして言った。震えていた。

 気のせいに違いない。さあ、みんな、実験再開、再開。若やいだ雰囲気が、先ほどの静寂を押しやった。

秘密

秘密


 美鈴さん,突然こんなことをしてしまったごめんなさいね。

 あなたも,安男も麻紀子も三人とも立派でやさしくて,そしてパパとでこんなに立派な家庭を作れたことを感謝しているわ。    

 家族のひとりひとりの美しさが外面のみならず,いや外面以上に素晴らしい人たちだということを,私が一番よく知っているわ。みんなほんとうに良い子に育ってくれてありがとう。

 そして,あなたが選んだ保さんも,安男の婚約者の礼子さんも,ほんとうに良い方でみんなが益々幸せになっているようで,こんなにうれしいことはないわ。

 あなたも保さんと一緒に立派な家庭を築いてね。貴女ならできるわ。

 でも,でも,みんなが幸せになっていくのに,私だけはついていけないの。

  私にはパパと結婚する前に大切な人の子どもを堕したことがあるの。その大切な人は哲っちゃんと言ってママの同級生なの。哲っちゃんには二度もママは助けられたの。でも,その大切な哲ちゃんとの子どもの命をママは守ることができなかったの。あの子のことは,ママだけの秘密にして,パパには話してないわ。だって,ママだけの問題ですもの。ママだけが背負って生きなければならなかった十字架なの。 

2025年1月22日水曜日

ふるさとの史跡をたずねて391〜400回 増補版

 ふるさとの史跡をたずねて(391)

藤井神社(尾道市因島重井町片山)


 重井町の藤井氏の先祖碑は52回で紹介した、船奉行片山数馬氏の居城跡だと伝わる天秀庵城跡の横にある。あるいは島四国74番甲山寺の前だと書けばわかり安い。これまでのように藤井土廟と書くのが正しいのだろうが、どこにもそう書かれていないので、藤井神社としておく。

 重井町藤井氏は、土生町巻幡氏の分家である。すなわち大西屋嘉平太(巻幡氏)の子が寛永年間に重井村に住み姓を藤井とし橋本孫兵衛(橋本屋)と称した。その子は寛文4年に油屋茂平(茂平屋)として分家した。

 巻幡氏については16回で記したが、その後例の釣島箱崎浦の合戦の時

来島したと書いてあるものを知った。岡本氏や楠見氏の先祖伝承では、村上師清が和歌山県雑賀から伊予大島へ来たときに来たと書いてあるが、巻幡氏もそうなのであろうか。對潮院にある先祖碑や大山神社にある耳明神社が共に市民会館周辺にあったという話とは符合する。

 だから藤井氏の先祖の流れを平泉、津軽牧畑、京都、雑賀、伊予大島、土生、そして重井と素描しても悪くはないだろう。しかし、サザエの殻に米と日本酒を入れるという耳明(みみご、耳護?)神社に伝わる風習や、土生町の一部にあったという、鯉幟を上げない風習(全国のいわゆる負け組の集落によく見られる風習)は、重井には伝わらなかった。あるいは初期にはあったのかも知れないが、私の知る限りでは重井町では聞かれない。




ふるさとの史跡をたずねて(392)

大出神社(尾道市因島重井町片青木上)

 大出神社は重井川に沿って散歩していると見える。文化橋の少し上の辺りから見えるが逆方向になるので、上流から下流に向かって歩くと良い。一本松から下流に向かって重井川の土手を歩くと、やがて右手に島四国84番屋島寺である川口大師堂とその特徴である石段が見える。しばらく歩くと大師堂の左手に視界が開けてくるので、少し低いところを見ると石でできた灯篭と小さな祠が見える。

 ここに行くには文化橋を通ってフラワーセンターに向かう道路脇である。青木山の山裾のみかん畑の中である。登り口はバス通りが大きくカーブしていて、見通しの悪いところなので注意が必要である。

 さて、重井町大出家のことについては231回の大浜町の大出家先祖碑のところで簡単に触れた。永享元年(1429)に北面に勤仕した大出左衛門太夫藤原清宗の嫡男大出太郎太夫藤原宗高と弟の次郎太夫は諸国歴訪ののち因島に来た。兄は重井に住み、弟は南部に住むも、北部に移る。兄の方を重井大出氏の初代とする、と。

 因島村上水軍の時代である。その関係については系図の中には書かれていないが、水軍との関係があったとしてもおかしくはない。また、大出というのは、元は大江だったが武運下降の際、世を忍んで大出にしたという話がある。勿論、因島ではなく関東で。大江氏というのは宮地氏の姓である。全くの私の邪推であるが、因島宮地氏の分家の一部に大出氏を名乗った人たちがいたと考えられないであろうか。 











  写真・文 柏原林造

2125年

 2125年


 西暦2125年。人類はあまり進化しなかった。ただし,科学技術だけは悪魔的に進歩し,ややもすると人類が進化したかのように見えるところに,この社会の問題があった。

 人類の能力は,百年前も二百年前も,千年前も,あまり変わっていない。なぜなら進化の速度は遅々たるものだから。むしろ,体力や,反射神経などについてみると,むしろ低下していると言ったほうがよかった。

 あまりにも科学技術に頼り過ぎて,人体のあらゆる機能が低下した。しかし,それを補って余りあるだけのものを人類は獲得したので,あたかも神の如くに進化したように見える。

  それでも科学技術という言葉は無限の可能性を秘めた甘い誘惑だった。その一つが宇宙だった。

 だから宇宙への進出は一部の人間にとって当然のことであった。しかし、あくまでも一部であって、地球上のほとんどの人は地球の上で生活することに満足していた。いや、正確に言えば満足はしていなくても、それを宇宙に出ることによって代えようとは思っていなかった。

 それでも、極めて少数ながらも宇宙へ出ようと考えている人は常にいた。

 さらに驚くことには、長い宇宙空間の移動のためには、人工冬眠の技術も開発されていた。すなわち、未来に向かって人類を送り出すことであった。そして、設定された時に目覚め宇宙開発を行うという計画であった。

 この計画は当初は無人で完全なロボットによるものであった。すなわちより人間に近いロボットによるものであった。それが、もう一つ逆の方向すなわち、人間を機械に近づける技術(サイボーク化)も進歩したので、両タイプの推進となったのだ。

出立

 出立


 空を見上げれば、一面星空である。月は出ていないが、小さく瞬く星がこんなにも多いと、星明かりで夜の風景が白く浮き上がって見える。幻想的な風景というほどではない。しかし、そのなかには喩とえようもないほどの平安と、澄みきった空気のもたらす健康が溢れていた。

 むこうに小さな島影が見える。そして右手の彼方にさらに小さな島影である。その間を潮が流れて、暗やみの中で鈍く光って見える。夜明けにはまだ間があるのに、東のかなたが、うすく白んで見えるのは気のせいであろうか。島影と、潮の流れの織り成す幻影であろうか。

 夏だというのに冷気が肌に接してくる。昼間の暑さが嘘のようだ。しかし、それも束の間のことだ。日中の暑さを想像するだけで、首のまわりに油汗が浮いてくるような気持ちに襲われる。何度も使い、すでに黄ばんだ手ぬぐいを鉢巻きにした坊主頭を軽く二三度ふって、その想像を追い払った。今、この時だけでも、この冷気に浸っていたいと思った。 暗いうちに家を出て、ゆっくりと坂道を上がる。細い道が星明かりで微かに見えるものの、陰になったところはほとんど暗くなって見えない。しかし、毎日通い慣れた道である。少々見えなくても足を踏み誤ることはまったくといっていいほどない。まもなく段々畑に出る。

 そこからさらに丘の頂に出るまでにはもう少し歩かなければならない。

 振り返っては海のほうを眺めた。黒い闇の中でも島影と海原の違いは明瞭にわかる。一足一足と、草の生い茂った山道を登っては、振り向いて、黒々と広がる海の影を眺めた。いつものことだから、格別の感慨があるわけではない。しかし、振り返らないではいられない。この見慣れた景色であるのに、何度も何度も見ておきたいと思う。最近、なぜだかその思いがしきりである。

 ちょうど、目的のところに着いた頃からあたりは静かに明るくなっていき、草の一つひとつが見えるようになった。

 ……それからどれくらい働いたことであろう。ふと目をあげると、辺りはすっかり明るくなり、海にかかる横雲の隙間から今しも出て来ようとする日の出が上がってきた。東の空を朱に染めた日は次第にその染色を四囲に広めるとともに、その色は希薄になっていった。

  その希薄になっていく朱色の空を眺めながら,幸太郎は決意を固めた。

 同じ年ごろの友人たちは、頭はいらない、ただ体力だ,と言う。そして,来る日も来る日も草とりである。これが百姓だと言う。

 ただ働くことだけを考える。その他のことを考えてはいけない。たとえば、どうすれば、楽になるかとか、どうすれば他人より少ない労働で済むか、というようなことは考えてはいけない。ひたすら働くことだけを考えておればよい。もし、そういうことが頭の中を巡りだしたら、それは、そもそも百姓という仕事にむいているのではなくて、他の別の、もっと頭を使う仕事のほうに傾いているという証拠だ。したがって別のそれにあった仕事を探さねばならぬ。このように幸太郎は、考えた。だから,出奔しかなかった。しかし、先祖代々の土地をすてて、この村をでていくことに、こだわりがないわけではなかった。かといって、このまま,この村で朝から晩まで働くわけにはいかぬ。そのように頭がもはや働きだしたのだから。

 百姓というのは、自給自足しているのならいい。しかし、商品経済に組み込まれてしまうと、結局割りがあわなくなる、と思った。

 子供が成人したら、上の学校にやらず、ともに働く。早く適当な嫁をもらい、一緒に働く。可能であれば、三代ともに働く。この繰り返しなら、百姓も悪くはない。しかし、子供がたくさんおり、学歴をつけなければと考えだすと、とたんに百姓という職業の不利が出てくる。

 今、日本は大きく変わろうとしている。明治の文明開花の浪は、ごく一部の都の賑わいで、東京から遠く隔たったこの村には無縁のような存在であったが、それでも社会が急激きな速さで動いているのがわかった。

 それは金銭の移り変りにも如実に表れている。自分が子供の頃、お金というものが生活の中で頻繁に表れることをあまり経験しなかった。お金というものがなくても、日常の暮らしに困ることはそんなになかった。まして子供の自分にはお金というものは無縁の存在といってよかった。しかし、長ずるに及んで、幸太郎のまわりにけっこう金銭が動き回っているのがわかるようになった。それは年齢が上がって、経験する世界が広くなったということもあるが、それ以上に、社会が変化してきたということのほうが大きいように思われた。金銭の回転が日々早くなっているのだ。        

 毎年毎年が,ぎりぎりである。これ以上収穫増が望めないのならこのへんで諦めるしかあるまい。そうこうしているうちに、人の噂で、隣村から大阪へ行って、商いに成功した人の話を聞いた。

 町ならなんとかなるのではないかと思った。大阪ならなんとかなるような気がした。


 その夜、幸太郎は,妻に相談した。

「ひとつ、話があるんだが」

 夕餉の膳を半分以上食べた頃、幸太郎は閑かに話題を転じた。

「何でしょう」

 妻は,おだやかに言った。

「こんな生活がいやになったわけではないが、街に出てみたい。日本の国が、これからどんどん発展していくように、何か、仕事をしてみたい。百姓を続けても、これ以上のことはできないように、思う」

 幸太郎は、重々しく言った。

 妻は驚いた。今の生活に不満があるわけではない。しかし、あんたの行くところならどこまでもついて行くという。

 妻は目を輝かせた。来るものが来た、という気持ちが表情に表れていた。


 幸太郎は島を出るとき先生に会って行こうか行くまいかとしきりに迷った。先生というのは尋常小学校の訓導だった藤島先生のことである。先生とは僅かばかりしか歳が違わないが、先生がはじめて教員になったときの児童が自分たちだということで随分とかわいがってもらっらものである。先生は十七才のとき三原の青年研修所に入り、そこを終了して、幸太郎たちの尋常小学校へ赴任して来られたのが十九才のときだったという。先生は国語の指導が好きと見えられて、私たちにに郷土の昔話をよくしてくださった。

 夜逃げ同様の形で村を出ていく自分は、どうみても負け犬だ。このような、無様なところをできることなら誰にも見せたくなかった。

 でも、自分が大阪にに出るのは、この村で生活できなかったからではない。負けたからではない。今の生活を捨てて、より新しい生活を作り出す事だ。だから自分は島を後にする。

 先生だけには自分の気持ちが理解してもらえるのではないか、と思った。しかし、心の底には、失敗してどうしようもなくなった時、激励してもらえる人を残しておきたいような、ある種の甘えが自分にあったことも否定はしない。

「先生だけには、御挨拶をと思いまして・・・」と幸太郎が顔をさげると、先生は笑っていわれた。

「驚きませんよ。というよりも、やっとそのつもりになったかと、思いました。」

「ええ?」幸太郎は怪訝な顔をして、顔を上げるた。

「以前、綴り方に書いてましたね。百姓は、家族のものを食わせるのが精一杯だ。これでは、自分のためだけに生まれてきたようなもので、人の役にたっていない。もっと人の役に立てる大きな仕事はないだろうか。こんな事を綴り方に書いていたではありませんか。」

  このことは、今の幸太郎の心の中にあることと同じであるが、そんなことを綴り方に書いたということをすっかり忘れていた。しかし、藤島先生にそうおっしゃていただいてやっと思い出した。幸太郎はうれしかった。そう書いた当の本人が、とっくに忘れていることを先生が覚えていてくれたことがうれしかった。


2025年1月21日火曜日

悲しみの大地

悲しみの大地

 

レストランうたせ船であなたがたの会話を聞き、パラグアイのことを調べているとわかりました。祖母から聞いたことや、まだ知らないことを洩れ聞くにつけ、詳しく聞いてみたいと何度も思いました。しかし、僕が名乗り出ると、パラダイス瀬戸のことを白状しないといけないので、じっと我慢しておりました。

 

祖母はほんとうは筆まめで、パラグアイのことが大学ノートに何冊にも書かれていました。時の流れにやがて忘れられて、ほんとうにあったことなのか、頭の中で想像したことのかの、やがては区別できなくなるので、若いうちに書きためたと、いつか話していました。そしてそれを、死期が迫ると全て燃やしてあの世に行ってしまいました。ですから、手紙を書かなかったのは、自分が書いたことが残るのを避けたからだと思います。返事こそもらえませんでしたが、僕が書く葉書にはいつも喜んでくれて、会ったときには、その答えが大学ノート一杯に書かれており、読むのにずんぶん時間がかかったものです。

 


それらは、あの年の秋のよく晴れた日、庭に出てすべて自分で燃やしてしまいました。その年の暮れ、祖母は静かに息を引き取りました。その顔はやすらかで、パラグアイで亡くなった祖父のもとに行ける喜びで溢れていたように、自分には思われました。

 

というわけで、祖母の記したものは何もありませんが、時々歌っていた歌は、祖母が作ったもので、よく覚えていますので、記しておきましょう。

 

 海を越えて 河を渡り

 はるばる来ました

 赤い大地

 テール・ラッシャ

 テール・ラッシャ 

 希望の大地

 

 あなたと二人で 力を合わせ

 命吹き込む

 赤い大地

 テール・ラッシャ 

 テール・ラッシャ

 喜びの大地

 

 私を残し 逝ったあなた

 一人さまよう 

 赤い大地

 テール・ラッシャ 

 テール・ラッシャ

 悲しみの大地

 

確かに、祖母にとっては、パラグアイは悲しみの大地だったのですが、あのときが最も楽しく最も充実していたと、言っておりました。だから、祖父の死は無念だったでしょうが、若い祖父と一緒にパラグアイに渡ったことは決して後悔はしていなと思いました。

 

そのせいか、僕も祖母の話を聞いてずっとパラグアイに憧れていました。もし、そのまま祖母がパラグアイに居れば、僕はパラグアイ人です。ちょうど、日本で活躍中のプロ野球選手とパラグアイで同じ時代を生きたと思います。だから、ホンダには不似合いな中日のワッペンを貼っていたのです。プロ野球にあまり興味をもたない僕がそうするのを不思議がっている人もいましたが・・・

 

祖母はやはり自分の夫の死を自殺とは思っていませんでした。あるとき、このことには一切話さなかった祖母が、僕に言ったのです。夫が自殺するわけがない。なぜならば、あのとき私は妊娠していてそのことを夫も知っていたのだから、と。

 

父の死のあと、祖母一人になって開拓農家としてやっていけるわけがなく、祖母の窮状を知った元町長が私費で帰国させてくれたのです。その後、町長をやめて経営している造船所の寮に働き口を世話してくれて、女手ひとつで子どもを育てました。それが私の父です。

ただ、祖母が語らなかったのは、祖父の死のことです。僕は祖母に内緒で帰国した人たちに会って自分なりに推理しました。そして、パラダイス瀬戸の酒本亮社長のことを聞き出したのです。

 

僕はあの日、酒本社長に電話しました。すると社長は「沼南病院のことは知らん」とやや大きな声で言いました。これで、何かあるな、と直観しました。しかし、知らないと言っているものを喋らす訳にいきません。そこで、僕は祖母の名前を出してあなたに伝えてほしいと頼まれていると言うと、すぐに会うことを承諾しました。

 

酒本社長は事務所からキーを持ち出し、大観覧車のほうへ移動しました。それに僕はついていきました。操作室を開け、操作盤の上にキーを置きました。そして足下からロープと形の変わった工具のようなものを取り出しました。とっさにそれが僕を捕まえる用具だと判断しました。しかし柵で囲まれており逃げられません。殺意をむき出しにして追いかけてくるので大観覧車の支柱に登りました。社長はロープと工具をもって追いかけてきました。もう少しでその工具で僕が叩かれようとしたとき、社長はバランスをくずして落ちました。観覧車のゴンドラの屋根の上に落ちました。僕はおそるおそる支柱をおりて逃げようとすると、こんどは男が三四人入ってきたので逃げられなくなって、影の部分に潜みました。しばらくすると男たちは、そのときになって五人だとわかりましたが、操作室に入ってキーを入れて動かしはじめました。すると社長が屋根の上に落ちているゴンドラが社長を載せたまま上がり始めました。

 

それから、祖母が亡くなってから求めたものですが、アルパのCDがあります。祖父と祖母が生きたフラムの赤い土が目に浮かぶようです。うたせ船の棚にあります。よろしかったら差し上げます。 

レストランうたせ船

 レストランうたせ船

 

「そこのレストランに入って」

「うたせ船だね」

 小山から続いて下降してきた緑の尾根は、道路に面した断崖で切れ、その道路の海側にレストランがある。朝、田島屋ホテルを出てまもなく目に入ったので、よく覚えている。敷地が広い。少し高くなっていて、入り口へ両側から階段がついている。その背後に漁網とマストがあっていかにも観光客が好みそうな飾りである。ちょうど集落の端に当たるのか、周囲には家はなく、西の道路の先に家並みが隠見されるだけである。

「脇見注意! あぶない、あぶない!」


 千恵が首を回してみると、ホースとブラシを持った若者がオートバイを洗っていた。ポリバケツの青い色が空の青さに少し勝っている。しかし、見事な初夏の青空だ。水に濡れたステンの泥よけが空を写している。水滴が光を散乱させる。前輪のカバーにマスコットのシールが密かに貼られているのが奥ゆかしい。若者のスポーツ刈りの額に汗が光っている。

「どこでもいいですよ」

 レストランうたせ船と描いた大きな看板の下から若者が近寄ってきた。小野寺がどこにとめようかと逡巡していたので、ホースを投げ出して近寄ってきたのである。ゴム手袋をしたまま、階段の下に近いところを指した。

 四時過ぎだ。田島屋ホテルに帰るには、時間がありすぎる。

 窓側の席に着いた。窓の下は海である。潮は引いていて、窓の下には護岸ブロックが乱雑に置かれている。その先には、海藻の付着した岩がまばらにあって、波に洗われて鮮やかな緑の藻が優雅に揺れた。流れはほとんどない。

「コーヒーでいいか。夕食までもちそうにないけど」

「うん。今食べると、中途半端」

「夕刊、どうぞ」

 ウエイターをやっているおばさんがコップを真鍮の盆に載せて立っていた。家族以外の者を雇うほど繁盛していそうにないから、多分主人の奥さんだろう。夕刊を差し出した。誰もまだ見ていないのか、真新しいのが清潔そうで気持ちよかった。調度は古ぼけている。周囲の雰囲気が相応の経年変化を示しているのと対照的に、夕刊が新しいのが、おかしかった。

 おばさんは、水の入ったコップと夕刊を置いて、奥のほうへ下がった。

「僕たちのことも書かれてる。第一発見者の東京の大学院生、括弧年齢括弧らから、事情を聞いている。大学院生らは、福山市内海町(うつみちょう)の郷土史の研究をしており、休日を利用して・・・」

「ちょっと」

と、言って千恵がのぞき込んだ。少し読んで、千恵が口を曲げた。

「こんないい加減な記事書くなんて、なかなか勇敢ね」

「雉も鳴かずば、撃たれまい、さ」

「郷土史じゃないよ、それを言うなら地方史よね。郷土史と地方史はその地の人から見れば同じかも。でも研究してる人から見ればまったく反対。そのへんのところが地方紙の記者にはわかってない」

「そうだね」

「ここは広島県の内海町。私の故郷じゃないわ」

「うん」

「敢えて言えば、単なる旅人というべきか・・・。とかく、故郷とか郷土とかいうのは曖昧なところがあるから難しいのよ。例えば故郷というのは他所に移住した人が使う言葉で、旅行中の人が自分の住んでいるところに対して使う言葉ではないと言ったのは宣長さんでしょう。まして、私などこちらの人間でもないのだから、郷土史なんかじゃないわ」

「ポニーテールの根元の・・・?」

「そう。いや、あれはモトドリ。私が言ってるのはモトオリ」

「元折りを切って、出家するとか・・・」

「違うよ。もとどりを切って出家する、と言うのよ」

「それに、私の調べてるのはマニラへの漁業移民よ。何で郷土史に変わるの?」

「さあ?」

「新聞記者にとっては同じことなのかも知れないよ。それとも警察がそう発表したのかもしれない。」

「そんなものかな」

「ところで、これじゃあ、まるで僕たちが容疑者扱いじゃないか。」

「だいじょうぶよ。刑事さんも死体の位置が変わって最初の状態がわからないので、何度も尋ねるかもしれないが、私たちを疑っているわけじゃあないと言ってたでしょ」

「ミッドナイトイクスプレスになったらどうするんだ?」

「オールナイトニッポン。徹夜するしかないじゃない。真夜中は別の顔よ」

「たった少しの阿片で、何十年もトルコから出してもらえないんだぞ」

「飛んでイスタンブールよ。だったら何故、彼女が心配だからもうしばらくこちらにいます、なんて言ったの。警察が怖かったら、授業がありますとか言ってさっさと帰ればよかったのよ」

「千恵があまりに、沈んでいたから・・・」

「まあね。あの時は。あー、いやっ。思い出したくないわ。記憶喪失になりそう」

「なれば。記憶が戻ってみれば、たちまち白髪の浦島花子」

「だめよ。ここは丹後半島じゃあないんだから」

「花よりタンゴ」

「南米にも行ってみたいね」

「あっ、紫外線強いからね。よく焼けるよ」

 千恵は腕を見ながら、驚いたように言った。

UVカット、ナノ粒子含んでるんだろう。皮膚から入っていたずらしないのかな」

「ミクロの決死圏、やってみたいね」

「抗体に襲われるの嫌だな」

 ・・・・