2025年9月16日火曜日

421-430 増補版

ふるさとの史跡をたずねて(421)

小学校史①学制

 有名な「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」と言う宣言は、まさに近代教育のスタートを象徴する言葉であった。

 これは「明治五年壬申七月太政官」の名で公布されたもので、終わりから4行目の所に「右之通被仰出候」とあることから「仰出書」(おおせいでられがき)と呼ばれる文書中の言葉とされる。また「学制」の前書きとか、「学制」に先立って公布された、などと書かれていて、甚だ紛らわしい。

 私は、これらは皆正しいと思う。詳しく見ると次のようになっているからだ。

 まず「学制」本文の方を見てみると巻末の表の前に、「明治五年壬申七月文部省」と記してある。そして冒頭には表題のない前書が2ページあって本文に入る。そしてそれは「仰出書」を踏まえて、「今般被仰出候旨も・・」と始まる。

 またこれらは明治5年8月3日に「仰出書」が公布され、同日「学制」が公布された。

 そして今、我々は文部科学省のホームページで「学制」と言うタイトルの元に、この二書が続けて記された冊子の画像を見ることができる。

 かくして、明治5年に法律的に公立学校が作られることが決まったわけである。明治5年という国家の大部分が未完成な時に教育に踏み出した意義は大きい。幾多の改良を経て近代教育は形をなしていく。やがてそれが国家の力となった・・・。

出典:文部科学省のホームページ(https://www.mext.go.jp/)。引用、並びに加工。







ふるさとの史跡をたずねて(422)

        

小学校史②振徳舎

 明治5年の学制により、いわゆる公教育が始まる訳であるが、それ以前に教育機関がなかった訳ではない。寺小屋という言葉は誰もが知っているように全国的にお寺で庶民教育はなされていた。ただ僧侶だけでなく、地域によっては神主、医師、修験道者などの知識人が私塾を開いていた場合もあった。それらに変わるものとして小学舎を設置したのであるが、しばらくはこれらの私塾も許可されていた。

 第16小区の因島では申請により、明治6年4月に重井、田熊の2箇所に小学舎を設置することが広島県により許可された。同時に舎号(学校名)として「振徳舎」(重井村善興寺)、「研幾舎」(田熊村浄土寺)が定められたが、「研幾舎」は「尚純舎」に変わった。教師は、「振徳舎」が沼田良蔵、「尚純舎」は村上万之助であった。どちらもお寺が使われているので、以前から寺子屋があったことが想像される。と同時に、財政的な面からもお寺をとりあえず教場としたのであろう。

 明治6年10月より10年2月まで使用された「振徳舎」の間取り図では教員室4坪、教室32坪、便所2坪である。




10月が開校でその間は準備期間だったと考えられる。また10月に川口大師堂に「信誠舎」(分教場)を設置した。



ふるさとの史跡をたずねて(423)

       

小学校史③尚純舎

 田熊村では、広島県によって許可された「研幾舎」(田熊村浄土寺)が「尚純舎」に変更になった。この不可思議な出来事は、同地に2箇所以上の私塾があった故に可能であったことであるが、直接の理由は長年(23年間も)寺子屋教育を続けてこられた西田屋13代定兵衛教宗翁が高齢を理由に固辞されたからだと、『田熊町文化財協会資料』(令和6年度)に岡野康氏が記されている。

 かくしてもう一つの私塾「尚純舎」が小学舎として設置された。設置されたと言うものの、場所も教師も名前も、すでにあった私塾のものが使われた。前回の重井村の振徳舎については、新たに振徳舎と命名したものだと理解したが、田熊村の例にならえば、重井村善興寺で行われていた寺小屋の名前が振徳舎だったと言うことになるが、詳しいことはわからない。

 さて「尚純舎」の教師、村上万(萬)之助(介)氏のことはかつて216回で「久敬舎」の開設者として紹介したので、当然「尚純舎」というのは明治6年に県によって許可された小学舎の新しい名前だと思っていたが、そうではなく既にあった塾の名前だったする考えもある。

 この複雑な事情について、『田熊の文化財』第7巻の示唆するところによって述べてみよう。同書には村上萬之介氏自筆の「履歴」(写真・部分)と『弓削町誌』(p.1349)などが掲載されている。これらによるると、萬之介氏は文久3年10月から三原、忠海等に遊学、また小泉村で塾などしており、明治3年8月になって自宅にて開塾している。(これが、「尚純舎」か?) それまで「久敬舎」で教えていたのは弓削の原大岳氏の息子・敬久氏が考えられる。

 以上のことから田熊小学校初代の校長村上萬之介氏の在任期間を慶応元年からとするには、萬之介氏の実家(大田熊)にあった「久敬舎」の名目上の塾頭が萬之介氏で、萬之介氏が帰省するまでの教師が原敬久氏だったと考えるのが良いかもしれない。

 これら一連の歴史をどう捉えるかによって「尚純舎」が塾の名前を踏襲したものか、小学舎として新たに命名したものか、という解釈も別れるわけである。

 *前回の「村上万之助」は『因島市史』p.892記載の資料による表記。今回の「村上萬ノ介」は自筆「履歴」の表記。




ふるさとの史跡をたずねて(424)

         


小学校史④その他の村々

 明治5年8月に公布された「学制」は、明治12年9月に「教育令」が発布されて改正される。それまでに因島内各村でも次第に小学舎が設置される。しかし、『因島市史』では重井村と田熊村のことだけで、その後のことは書かれていない。書けなかったのではなかろうか。それぞれの学校には学校史があるのだが、それを見てもどこで寺小屋・私塾から「学制」による公教育になったのかわからない。

 その公教育の学校の一般的な名前も、私は小学舎と書いたがいつまで一般的であったかわからない。公立学校という概念もなかったはずである。だから学校名だけから私塾と区別できない。その私塾を前身として学校の歴史に入れる所も入れない所もある。さらにまた、多くの学校が「学校沿革史」を典拠に記してあるのだが、その沿革史も、しばらく後に書かれているだろうし、用語も変わる。そんな状況で場所・名前・教師も同じままで私塾から公教育に変わった場合もある。また、それを記録する人はおそらく江戸時代に生まれ育った人である。学制公布以降も私塾ができたところもあるだろう。

 その混乱の様子を示すのが椋浦村の場合である。小学校になるのが学制公布より5か月早く「不可解である」と『椋浦学校史』p.18に記されているが、今風に解釈すればたとえ形が揃っていても法律施行前は私塾とすべきで、最初に記録した人の誤りであろう。



 ・・だから『因島市史』がそれ以上書かなかったのは賢明であった。参考までに、各村の状況を示す。

 大浜村。 明治6年酒井教蔵宅に「養生舎」設置。明治8年見性寺に小学校を置く。

 中庄村。明治6年1月6日小林敬哉宅に「久敬舎」創設。3月19日成願寺に「温和舎」創設。      

 外浦村。明治7年3月15日小学校設置。

 鏡浦村。明治5年鏡浦学校が設置され「開郷舎」と称す。 

 椋浦村。明治5年3月15日「明分舎」が小学校になる。

 三庄村。明治8年8月1日創立、「六行舎」と称す。(明治11年12月まで)。

 土生村。明治6年3月1日対潮院に創立、土生学校と称す。

*参考にした文献を略記する。

 『大浜小学校閉校記念誌』、『中庄村史(昭和40年)』、『椋浦学校史』、『ふるさと三庄』』、『土生小学校創立120周年記念誌』



ふるさとの史跡をたずねて(425)

         

小学校史⑤教育令・改正教育令

 記録者が混乱するほどであるから、分かりにくい制度であったのは確かである。

 それでも重井村の場合には、明治8年8月振徳学舎を重井小学校と改称し、信誠舎(大師堂)を分教場と位置づけ、同時に細島にも分教場を設けた。明治10年2月に校舎を山の神に新築し5月に移った。これに伴い信誠舎(大師堂)分教場を廃した。大小の2教室(土間付き)があり、教室34.25坪、土間5.25坪である。「小学教則」(明治6年)によると、下等は6歳より9歳、上等は10歳より13歳で合計在学8年、授業日数は32週以上であった。

 国家の創業期であり、学校制度が目まぐるしく変わるのも当然であった。明治12年9月29日太政官布告40(「教育令」)が発布された。「学制」がフランスを手本としたのに対して「教育令」ではアメリカを倣った。しかし自由主義的すぎて廃校などが相次いだので、翌明治13年12月28日に「改正教育令」が公布された。

 重井小学校では明治15年2月に校舎を字・須越(元藪の下)酒庫に移し、5月学校の等位を中等科と定めた。これは同年4月28日に公布された「広島県小学校教則」の初等科3年、中等科3年、高等科3年の区分による。初等科3年で卒業しても良いし、さらに3年学ぶこともできるということである。それぞれ6ヶ月の級を6級修業した。紛らわしいので現在流の学年で言うと初等科1年は1日4時間、1週24時間、2年生以上は1日5時間、1週30時間であった。

 この「改正教育令」で特記すべきは、学習すべき学科(教科)に修身を第一に置いたこと(写真)、政府が干渉統制する方針をとり県令の指示に従い各町村が小学校を設置することを厳重に要求したことである。




*写真は『法令全書明治13年』p.325(国立国会図書館デジタルアーカイブによる。)



ふるさとの史跡をたずねて(426)

        

小学校史⑥尋常小学校

 戦前の小学校の名称としては国民学校とか尋常小学校と呼ばれるものが一般的である。その尋常小学校も時代と共に制度がころころと変わるので実態が理解しにくい。

 明治19年の小学校令で、それぞれ修業年数4年の尋常小学校と高等小学校とされた。そのうちの尋常小学校が義務教育とされた。

 それが明治23年の改正小学校令では修業年数が3年または4年と後退した。

 明治33年の再改定(第三次)で修業年数が4年と統一され、さらに高等科2年が推奨された。(高等科を設置した学校は尋常高等小学校と呼ばれた。)

 重井村では明治21年4月に、学校の等位を尋常科と定め、重井尋常小学校と改称した。しかし、分教場を5月に善興寺、7月に峰松次郎七邸内に置いてあるので、入学者が増えたと言うことであろう。そのためか翌年1月に郷新開に校舎を新築し3月30日に竣工式を行っている。教員室、玄関、校具室、宿直室などがあり初めて学校らしい建物ができたことになる。(配置図)



 重井村では、明治26年12月1日に高等科(3ケ年)の入学式を行った。これは28年5月に4ケ年に改められた。

 昭和16年に国民学校となるまで続く尋常小学校6年、高等小学校2年となるのは、明治40年のことであるから、それまでの制度の変遷を記述するのは複雑であるし、さらに個々の村の対応も多様であった。学校も大変だっただろうし、保護者も子供の年齢に応じて制度が異なるのだから困惑したことだろう。


ふるさとの史跡をたずねて(427)

       

小学校史⑦大浜小学校

 大浜村では、明治6年酒井教蔵宅に「養生舎」が設置された。明治8年「養生舎」を「大浜小学校」と改称、校舎を見性寺に置いた。明治15年酒井教蔵宅地を購入して、校舎を見性寺から移した。また、学校の資格を初等科と定めた。明治19年学校の資格を小学教場とする。

 明治19年の小学校令第15条によって「地方の状況によっては、簡単な初等教育を施す制度として小学校簡易科を設置して、尋常小学校に代用することを認めた。」(第十五条)。大浜村では明治20年学校の資格を大浜簡易科と改称、単式学級に編成、甲乙丙組と組織した。しかし簡易科は改正小学校令(明治23年)により廃止され、名称を「大浜小学校」と改称。そして明治24年に尋常小学校(修業三ケ年)となり、明治29年に修業4ケ年に改められた。さらに明治41年に5年生を置き3学級に編成するとともに、学校を8区に移転した。

 明治33年の第三次小学校令は明治40年に改正され尋常小学校が6年の義務教育となった。すなわち、これ以降尋常小学校といえば6年制を指し、高等科はそれ以上ということになる。明治40年より前は高等科と言っても小学校の修業年数がまちまちだったのであるから、それ以上が高等科であったので、年齢は尋常科の修業年数によって異なることに注意が必要である。

 大浜村では、その後大正2年に高等科設置、農業科も加設された。

 この高等科の設置が各村で異なり、高等科のないところでは隣の高等科のある村の小学校へ通うという例が見られた。すなわち大浜村では明治43年から大正2年まで重井尋常高等小学校の高等科へ山を越えて通う子供たちがいた。山越えと言っても当時はそのあたりまで畑で山道は整備され人もいたことだろう。しかし現在はその道の大部分は山に戻っている。




 図は明治30年測量の地図。A~Fが通学路。Cが村境で白滝山登山道と接する。


ふるさとの史跡をたずねて(428)

           

小学校史⑧土生小学校

 土生村では明治6年3月1日に對潮院に「土生学校」が創立された。翌年土生町字中畝に移転され明治12年「土生小学校」と改称された。明治20年に「土生簡易小学校」(3ケ年)と改称され、翌年「土生尋常小学校」(4ケ年)と改称された。明治33年の第三次小学校令は明治40年に改正され、尋常小学校が6年の義務教育となった。それを受け、明治41年に5学年を設け、翌明治42年に6学年を設けた。そして大正7年高等科が設置され「土生尋常高等小学校」と改称した。

 前回大浜村から重井尋常高等小学校へ通った例を紹介したが、土生村から重井村まで通った例が土生小学校の『創立120周年記念』誌に紹介されている。それも修業証書の写真があって誠に貴重な資料である。




 それには「高等小学校第弐学年の課程を終業セシムコトヲ證ス 明治丗一年三月丗一日 廣島懸御調郡重井村立重井尋常高等小学校」と記されている。また冒頭に番号が「第九五號」とある。1年に95人もの高等科の修業生がいるとも考えられないので、高等科開設以来の通し番号だと考えると、高等科は28年5月に4ケ年に改められており、また高等科2年に定着するのは明治40年であるから、これは4年課程のうち2年課程でも修了できたということで、その95人目だと考えられる。

 さて、その通学路であるが、明治30年の測量地図で考えると田熊村をどう越えるかが問題となる。海岸沿いは全て全通しているとは考えられない。すると山伏山と竜王山の間を通って西浦に出、小田浦から現在の運動公園横を通って一本松よりやや西の山田口へ出るルートが考えられる。しかし土生重井間を毎日1往復するのは、体力気力共並みのことではできないと思う。


ふるさとの史跡をたずねて(429)

          

小学校史⑨三庄小学校、田熊小学校

 三庄村では、明治8年8月1日に「六行舎」を創立した。名称、所在地とも数度変更ののち、明治19年4月「広島県御調郡小学校区公立三庄小学校」とした。翌年4月には「広島県御調郡三庄村立三庄尋常小学校」と称し、学級を上下に分けた。明治26年に修業年限が3年から4年に改められた。また明治33年9月「広島県御調郡三庄村立三庄尋常高等小学校」と称した。しかし37年3月に高等科を廃止した。

 明治41年の「小学校令」の改正により義務教育6年となったので、この年第5学年を置き、翌年第6学年を置いた。そして大正7年4月に「広島県御調郡三庄尋常高等小学校」と改称したので高等科を復活したことがわかる。これ以降、国民学校になるまで、尋常科6年高等科2年が続いたものと思われる。

 一方、田熊村では明治10年に「尚純舎」を「田熊学校」と改称する。さらに明治12年に「公立田熊小学校」と改称する。明治16年には、初等科(3年)と中等科(3年)を設置した。しかし、明治19年に田熊尋常小学校(4年)の義務教育となった。その後、明治40年に義務教育は6年に延長された。そして大正7年に高等科が設置され田熊尋常高等小学校となった。

 明治国家の成長とともに小学校の形態が統一されていく様子がよくわかる。多くの記述は両校の閉校記念誌によるがあえて表現の統一はしなかった。

 当然のことながらこの頃の写真は多くはない。『尾道市立三庄小学校閉校記念誌』に、明治43年頃の小学校全景の写真が載っている。誠に貴重な写真だと思う。転載させていただく。




ふるさとの史跡をたずねて(430)

           文 柏原林造

小学校史⑩中庄村・三浦村

 残った中庄村、外浦村、鏡浦村、椋浦村について見てみよう。『中庄村史』と『椋浦学校史』から関連のところを書き出す。なお、外浦村、鏡浦村、椋浦村は明治22年に合併して三浦村となる。昭和23年に三浦村が廃止されるまでこの体制は続くので、この間の外浦村、鏡浦村でも椋浦村と同様の校名変更などが行われたと思われる。

 明治5年鏡浦村に鏡浦学校が設置され「開郷舎」と称す。

 明治6年1月6日中庄村では、小林敬哉宅に「久敬舎」が設置される。3月19日成願寺に「温和舎」が設置される。

 明治7年3月15日外浦村に小学校を設置する。

 明治11年椋浦村では明分舎を椋浦学校と改称する。

 明治15年椋浦小学校と称する。

 明治19年椋浦小学教場と称する。

 明治20年中庄小学校開校する。

同年、椋浦簡易小学校(三年制)となる。

 明治21年公立椋浦簡易小学校と稱す。 

 明治22年三浦村発足。(昭和23年廃止まで)。三浦村立椋浦小学校となる。

 明治24年三浦村立椋浦尋常小学校となる。

 明治25年椋浦尋常小学校、修業年限4年となる。

 明治31年中庄小学校高等科を設置する。

 明治41年椋浦尋常小学校、修業年限6年となる。

 大正7年外浦尋常小学校が三浦村立外浦尋常高等小学校と改称した。

 以上が、昭和16年に国民学校となるまでの経過である。

 『椋浦学校史』によると、明治23年9月に教場20坪の校舎が新築され、昭和15年まで使用された。(写真)。村費を主としたが、「椋浦主体で建設したと思われる」と同書には記されている。鏡浦地区、外浦地区でも事情は似たようなものだったと思われる。







   文 柏原林造