2024年10月14日月曜日

(1)重井町資料編

 (1)重井町資料編


地名

 字名と地域

      因島市各町字別略図 因島市農業員会 昭和47年10月11日





2024年10月2日水曜日

夕凪亭閑話 2024年10月

  クリスタルホーム

2024年10月1日。火曜日。晴れ。2589歩。68.4kg。朝5時に起きる。草取り。古文書。宮城谷昌光、『太公望』、文春文庫、p.238まで。


2024年10月2日。水曜日。雨。3123歩。68.9kg。

5時に起きる。草取り少し。雨になる。医師会病院。内科、皮膚科。午後、買い物。せとうちタイムズ原稿書いて送る。 宮城谷昌光、『太公望』、文春文庫、p.309まで。洞窟の仙人から剣術の手ほどきを受ける。オカルトである。


2024年10月3日。木曜日。雨時々曇り。3141歩。67.5kg。5時に起きる。ほとんど古文書。少しだけ雨のやんでいるとき草取り。


2024年10月4日。金曜日。雨のち曇り。1664歩。朝から福山。午後、古文書学習会。『太公望』、文春文庫、pp.367まで。


2024年10月5日。土曜日。晴れ。1664歩。68.7kg。草取り。古文書入力。「暑往秋収」初校帰る。『太公望』、文春文庫、p.389まで。


2024年10月6日。日曜日。晴れ。5014歩。kg。草取り。買い物。古文書入力。『太公望』、文春文庫、p.490まで。終わる。


2024年10月7日。月曜日。雨。2849歩。4時に起きる。10時より文化財協会役員会。秋一泊旅行中止を決定。古文書入力。午後、旅行代金返金に田熊へ。『太公望』中、p.59まで。


2024年10月8日。火曜日。小雨時々曇り。3492歩。69.5kg。4時に起きる。朝少し草取り。古文書入力。『太公望』中、p.132まで。


2024年10月9日。水曜日。晴れ一時雨。6034歩。70.5kg。5時に起きる。朝少し草取り。買い物。午後、論語の会。四人。夢二、日本住血吸虫。古文書入力。夜、タイムズ原稿送る。


2024年10月10日。木曜日。晴れ。4298歩。71.05kg。4時に起きる。朝少し草取り。古文書入力完了送る。朝来客。秋日和。『太公望』中、p.139まで。


2024年10月11日。金曜日。晴れ。5396歩。71kg。4時に起きる。再び寝る。草取り。午後、散髪。校正、表紙裏表紙の写真検討。『太公望』中、p.166まで。


2024年10月12日。土曜日。晴れ。5019歩。70.4kg。5時に起きる。朝、草取り。初校と言っても、付録の隙間をどうしようかと考える。結局見開き2ページを使って横位置にして道路を色分けした明治43年の地図を掲載するのが良いのではないかと思う。『太公望』中、p.294まで。風呂上がりに小林秀雄を出して読んでみる。面白いのだが、若い日ほどの感激と興奮がないのが寂しい。裏日の家の金木犀が匂う。西には金星が白く輝く。


2024年10月13日。日曜日。晴れ。4789歩。69.5kg。6時に起きる。朝、2時間草取り。買い物。夕方、藤の剪定。古文書。『太公望』中、p.297まで。


2024年10月14日。月曜日。スポーツの日。晴れ。412377歩。70.3kg。4時半に起きる。7時半に出て大島遍路11名。




10月6日

 宮城谷昌光、『太公望』上、文春文庫


memo

建炎4年(1130)9月15日3人目の男児が誕生した。上の二人が生きていたら三男ということで、家人の期待や驚きというよりも、またかという気持ちの方が強かっただろうが、しかし上の二人は夭折して既にない。今度こそはと父・末松は思った。その思いは母の祝の方が夫以上に強かった。今度こそは、と思うのは同じであるが、夫の方は今度こそは大切に育てないと、とこれからの決意に似たものであったが、妻の方はそうではなく、今度こそは何か不思議な力が味方してくれそうな予感がしていた。

 そんな期待を受けた子供は仲晦と名付けられた。





 クリスタルホーム

2024年9月1日日曜日

夕凪亭閑話 2024年9月

  クリスタルホーム

2024年9月1日。日曜日。晴れ。3123歩。67.9kg。4時に起きる。5時半ごろから草取り。9時に買い物。今日はポルノグラフィティのコンサートが運動公園である。朝から音楽が聞こえてきてお祭りのよう。みんな沈みつつある船に乗っているのに、今日だけはそのことを忘れる。


2024年9月2日。月曜日。晴れ。4135歩。68.2kg。5時半から畑の整備。朝食を挟んで8時過ぎまで。10時から公民館で役員会。古文書。夕方、姉を見舞う。


2024年9月3日。火曜日。晴れ。朝ちょっと雨。3329歩。68.2kg。4時半に起きる。5時20分から昨日に続いて畑の整備。大根の種をまく。車のタイヤ交換とエンジンオイル交換依頼。夕方取りに行く。古文書。冊子準備。もう少し集中しないといけないと思うが、今一つ乗らない。10日は最初の原稿を持って行こうと思う。やっと朝夕が涼しくなったという感じ。でも日中はやや暑い。平穏で不満はないが、やはり10年後、20年後の因島のことを思うと、やはり、存在していないと思った方がいい。もちろん私が行きていて生活できないというわけではない。そうなる前に私はとっくに死んでいるのだから、別に考えなくてもいいではないかと言われれば、全くその通りである。しかし、それでも、それは現在に生きている我々の責任である。しかし、そうなるのはわかっていても誰も対策を打てないのだから、結局は誰の責任でもなかった、成るようにしかならなかった、と済まされてしまう。池田勇人の王土経済成長は政治として評価できる。貧しい農村社会であった日本が工業国になり一応文明国、先進国になったのだからその時代を生きてきた自分は幸せだったと思う。そして政治家と官僚はよくやったと評価していいと思う。そのように評価した上で、なおそれでもこれで良かったのだろうかと思う。貧しい社会の方が長続きをしていたと思う。それが急激に良い方向に進んで限界に達したと言うべきかもしれない。


2024年9月4日。水曜日。晴れ。3768歩。68.1kg。朝、5時半から草取り。9時から買い物。古文書。瀬戸内タイムズ原稿送る。夜、公民館で文化祭実行委員会。


2024年9月5日。木曜日。晴れ。2308歩。68.8kg。朝、5時半から草取り。午後からクーラーを入れる。冊子の編集。古文書。


2024年9月6日。金曜日。晴れ。2583歩。9時に出て福山へ。午後、古文書学習会。夜、入力。


2024年9月7日。土曜日。晴れ。2913歩。朝m5時におきて草取り。古文書入力。夜一部送る。


2024年9月8日。日曜日。晴れ。3118歩。67.8kg。買い物。古文書入力。午前午後、来客。宮城谷昌光『楽毅』第3巻、新潮文庫、終わる。


2024年9月9日。月曜日。晴れ。2430歩。68.2kg。4時半に起きる。5時半から朝食を挟んで8時まで草取り。大根の種を少し蒔く。古文書。昼前、来客。日中は暑いが5時過ぎになって日が沈み始めると急に気温が下がる。


2024年9月10日。火曜日。晴れ。4235歩。67.8kg。4時半に起きる。5時半から朝食を挟んで7時まで草取り。8時から旅行の受付。午後郵便局。古文書。


2024年9月11日。水曜日。晴れ。3693歩。68.05kg。4時半に起きる。5時半から6時半まで草取り。暑いので朝食後は草取りはしない。買い物。午後、論語を読む会。巻幡氏と重井藤井氏の歴史。夜、瀬戸内タイムズ原稿送る。


2024年9月12日。木曜日。晴れ。3328歩。68.8kg。4時に起きる。5時半から草取り。1時間ほどして朝食。その後暑いのでやめる。古文書。夕方姉の見舞い。帰りにジュンテンドーでセメントと砂を買って帰る。


2024年9月13日。金曜日。晴れ。2350歩。朝から福山。午後、古文書学習会。井原墓参。古文書入力。


2024年9月14日。土曜日。晴れ。3575歩。68.2kg。4時に起きる。古文書。入力。


2024年9月15日。日曜日。晴れ。2528歩。68.6kg。4時に起きる。5時半から野菜へ水やり。墓参。9時から買い物。古文書入力。朝夕は少し気温が下がるが日中は暑い。予報の雨は降らなかった。


2024年9月16日。月曜日。晴れ。1470歩。69.2kg。4時に起きる。5時半から野菜へ水やり。古文書。今日も猛暑。


2024年9月17日。火曜日。晴れ。2466歩。68.2kg。5時に起きる。5時半から野菜へ水やり。朝、定例会17人。今日も猛暑。古文書。


2024年9月18日。水曜日。晴れ。3408歩。68.7kg。5時に起きる。5時半から野菜へ水やり。朝食後、セメント工事。草取り。10時半から文学散歩5人。のち、買い物。せとうちタイムズ原稿書いて送る。夜、公民館で小中学校統合説明会。9時すぎまで。古文書。


2024年9月19日。木曜日。晴れ。4039歩。67.6kg。5時に起きる。5時半から野菜へ水やり。朝食後、セメント工事。草取り。歩いてゴミ捨て。冊子原稿整理。明日には本文写真を印刷所へ持って行きたい。夕方セメント工事。夜、古文書。


2024年9月20日。金曜日。晴れ。3802歩。67.9kg。4時に起きて5時半から水やり。草取り。朝食後セメント工事。冊子編集。


2024年9月21日。土曜日。晴れ。2319歩。68.4kg。5時半から水やり。今日も冊子の準備。少し古文書。


2024年9月22日。日曜日。曇り時々雨。4091歩。68.4kg。5時半から水やり。草取り。買い物。今日も冊子の準備。古文書少し。夕方、姉を見舞う。


2024年9月23日。月曜日。晴れ。2681歩。68.4kg。5時半から水やり。草取り。冊子の準備。写真のトリミング。残り10枚。涼しくなった。夕方金星が綺麗。


2024年9月24日。火曜日。晴れ。3531歩。68.4kg。5時に起きる。水やりだけ。今日は原稿提出に向けて集中。昼前、目次、本文、本文写真の原稿を提出。午後、古文書。


2024年9月25日。水曜日。晴れ。3314歩。68.8kg。5時に起きる。5時半から水やり。9時から買い物。帰って藤井医院。午後昼寝。夜、せとうちタイムズ原稿送る。宮城谷昌光『楽毅』第4巻、新潮文庫終わる。引き続き『太公望』、上巻、文春文庫へ入る。p.23まで。


2024年9月26日。木曜日。晴れ。2441歩。68.6kg。5時に起きる。5時半から水やり。食事、ゴミ捨てを含め8時15分まで草取り。公民館だより原稿送る。『太公望』、上巻、p.85まで。


2024年9月27日。金曜日。晴れ。3558歩。5時に起きる。6時前に水やり。朝、福山へ。午後、福山城へ。展示替えのため休館。1時より古文書学習会。夜、解読文入力。『太公望』、上巻、p.116まで。子供達だけの逃避行は天童荒太さんの『永遠の仔』を思い出した。さて、いつものことながら初対面で相手の長所を見つけるのはこれまでに読んだのと同じである。実際にはこういうことはまずあり得ないのだが、小説の中では主人公同士の長所を読者に与え、それがまた生きる目標や、作者の主張につながり、読者にはわかりやすい。だから複雑な人間関係が時についていけなくても小説は面白く読める。


2024年9月28日。土曜日。晴れ。3638歩。5時に起きる。水やり。古文書。朝、午後来客。夕方、草取り。『太公望』、上巻、p.160まで。


2024年9月29日。日曜日。晴れ。4246歩。68.9kg5時に起きる。朝食後草取り。9時から買い物。午後、古文書入力。昼寝。夕方鯉の餌を買いにいき、ついでに灯油も買ってくる。夕方も草取り。『太公望』、上巻、p.194まで。古文書入力。


2024年9月30日。日曜日。晴れ。3430歩。68.9kg5時に起きる。朝食後草取り。9時半まで。古文書入力。夕方終え送る。夕方も草取り。『太公望』、上巻、p.225まで。古文書入力。







読書の記録

9月8日

宮城谷昌光『楽毅』第3巻、新潮文庫

9月25

宮城谷昌光『楽毅』第4巻、新潮文庫

 クリスタルホーム

2024年8月7日水曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 371-380回 増補版

 



ふるさとの史跡をたずねて(371)

 法華塔(尾道市因島重井町郷善興寺)

 曹洞宗の禅宗寺院である重井町の善興寺の参道に、曹洞宗の開祖道元禅師のお言葉でなく、「観音経」の語句が参拝者がまず目にする位置に掲げられていることは、ある種の驚異である。なぜならば道元禅師には著作物がなかったかというと、全くその逆であって『正法眼蔵』という百巻にも及ぶ膨大な著作が残されていて、それは我が国の宗教史・哲学史を代表する極めて優れたものなのであるから。

 そんなことを考えて境内に上がると、さらに驚くべきことに、そこには法華塔があった。法華塔は『法華経』を供養する塔である。あの、「南無妙法蓮華経」の『法華経』である。『正法眼蔵』の供養塔ではなく、『法華経』なのである。ならば善興寺は元日蓮宗寺院だったのかというと、そんな話はどこにも書いていない。

 大雑把に割り切って考えれば、道元禅師よりも『法華経』の方が大切だということになる。

 道元だけでなく、法然、親鸞、日蓮など鎌倉新仏教の開祖たちが学んだ比叡山延暦寺が、中国の天台智顗が『法華経』を基に確立した天台宗の道場であったことを考えれば、『法華経』が重んじられるのは当然のことである。

 さて、「観音経」はそのようなお経があるのではなく、『法華経』の第25章「観世音菩薩普門品」のことである。あるいは略して後半の詩の部分(偈と呼ばれる)だけがよく唱えられる。

 だから、200年ほど前に重井村の柏原伝六が白滝山に観音信仰の霊場を作ったからと言って、曹洞宗に反旗を翻したわけではなく、表面的には曹洞宗の熱心な在家信者だった、ということになる。








ふるさとの史跡をたずねて(372)

観音菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂の最高部に阿弥陀三尊像があることは、白滝山が西方極楽浄土をイメージしたものであると思って間違いなかろう。阿弥陀如来の左側、すなわち向かって右側(西側)は観音菩薩像である。

 白滝山の観音霊場の開祖柏原伝六は両親が西国巡礼で祈願して生まれたということから、自分は観音菩薩の生まれ代りだと信じ、「観音道一観」と名乗った。それにちなんで、伝六は仏教、儒教、神道、さらに人によってはキリスト教まで加えて新しい宗教「一観教」を作ったと書く人がいる。それが意味のない言説であることは以前にも書いた。

 伝六の教養はキリスト教でなく、むしろ道教を加えるのが良いと私は思う。しかし、これらを折衷して新しい思想なり宗教を生み出すには相当強靭な思考力を要する。単純なところだけを折衷して提示すれば大衆受けはするかもしれないが、二宮尊徳や石門心学の石田梅岩のように道徳家か啓蒙家になるだろう。

 また、キリスト教や仏教がそれぞれイエス、シャカ個人によって作られたと思っている人が多いが、そうではなく弟子たちの創作であった。同様に「一観教」なるものがあったとしたら、それは弟子たちの創作であった可能性の方が高い。

 さらに鎌倉新仏教を起こした高僧は、仏教の総合大学に喩えられる比叡山延暦寺を相当に優秀な成績で卒業しながら、道元は座禅に、法然は浄土三部経に、親鸞はさらに悪人正機に、日蓮は「法華経」にという具合に特化している。

 このように足し算でなく引き算で、そして弟子の観点から、「一観教」を主張する人たちには「一観教」とはどんな宗教なのか再考していただきたい。

 その際、伝六が観音菩薩の生まれ代わりであること、すなわち阿弥陀三尊像の左脇侍の観音菩薩が伝六であると信じる宗教であることは欠かせないと、私は思う。









ふるさとの史跡をたずねて(373)

一観像(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂の最高部の阿弥陀三尊像の前、すなわち少し下には一観夫妻像があり、当然の事ながらそのまん中に一観像、すなわち柏原伝六の座像がある。そして、その大きさは阿弥陀如来の隣の観音菩薩像よりも、はるかに大きい。

 伝六の寄進と書いてあるが、このようなものを伝六自身が生存中に作ることは、まずありえないから、伝六の子供によって建立されたものであろう。

 しかしこれでは、白滝山が観音信仰の山でなく伝六信仰の山になってしまう。そして前回記した、阿弥陀如来の隣の観音菩薩が伝六その人であるという考え方を否定することになる。すなわち「観音道一観」という伝六の宣言をも無にしてしまう。まさに親の心子知らず、ということだ。

 重井幼稚園のクリスマス劇の知識の上に、イエスがキリスト教を作り、布教したので十字架刑にあったという誤解のイメージで、伝六が一観教を作り、広島藩によって毒殺されたという妄想が生じたのだと私は思う。だからキリスト教を例にして考えてみよう。

 イエスの母マリアがイエスを身ごもった時処女であったということは、科学的問題でもなければ医学的問題でもなかった。信じるか信じないかだけの問題であった。そして、多くの人が、それも世界中の多くの人が信じた。その結果、キリスト教は世界宗教になった。

 一観教が成立するためには、伝六が観音菩薩の生まれ代り、すなわち伝六が観音菩薩であると信じることが必要であった、と私は思う。上記の2つの像の関係を、伝六が一観教を作ったと思う人たちはどう考えるのだろうか。説明してほしいものである。







ふるさとの史跡をたずねて(374)

日本大小神祇(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂から東側へ少し下がったところに将棋の駒のように先が尖った岩があり「日本大小神祇」と書かれてる。台座には「奉寄進」と両はしに「柏原」「林蔵」と彫られている。

 白滝山五百羅漢の開祖柏原伝六が、仏教・儒教・神道、それに人によってはキリスト教まで合わせて「一観教」なる新しい宗教を作ったと言う言説が妄説に過ぎないことは度々書いてきた。

 その妄説の観点に立てば、この「日本大小神祇」は神道的要素だと思う人がいるかもしれない。しかし、間違ってはいけない。「神道的要素」どころか、神道そのものではないか。

 だから、この「日本大小神祇」を「一観教」の一部と考えるならば、「一観教」は新しい宗教ではなく仏教と神道を単に折衷したものに過ぎないと言うことになる。新しい宗教というには新しい概念を「日本大小神祇」に盛り込まなければならないが、そんなものは聞いたことがない。

 江戸時代の民衆の当たり前のことを、東側、すなわち伊勢神宮の方を拝んで、日本の大小の様々な神を敬うことで示した。台石に刻まれている様に柏原林蔵が寄進した。注意すべきは林蔵は伝六から依頼された工事責任者であった。すなわち寄付する側ではなく寄付を集める側の人だったということである。実際の経理は林蔵の家のすぐ前に住む峰松初五郎がした。彼は林蔵と違い伝六よりも若く、いわば弟子であった。

 だから、我々は神道を否定しているわけではないから、まあこういうのも一緒に拝もうと、単なる善意から建てた、と私は思う。

 ただ不思議なことに、春分の日の太陽は日本大小神祇と一観像を結ぶ直線上を通る。すなわち、日本大小神祇の背後から日没を見ると、中心と一観像の真ん中、左端と一観像の背がピッタリと重なる。

 伝六の向きから私は宗教的なものとは考えない。伝六が直角方向を向いていることに宗教的な意義があると説明できる方がいらっしゃれば、ぜひご教示願いたい。



ふるさとの史跡をたずねて(375)


十六羅漢(尾道市因島重井町白滝山)

 仏教の世界は平等社会かと思っていたら、如来、菩薩、羅漢という厳然たる差別がある。そのせいか各宗派の組織においても、名称は異なるものの各階層があり、より上位を目指す意志と究極の目標である「悟り」との関係は門外漢には理解しがたい。

 さて白滝山の石仏群とその場所は、昔から「白滝山五百羅漢」と呼ばれ、「伝六浄土」とか「白滝山観音霊場」などど呼ばれたことはない。「白滝山如来」でも「白滝山菩薩」ではないところに深い意義があるのであろう。

 しかし、十六羅漢は釈迦三尊像の前に8人が向かいあっているが、他の484名はどれかわからない。

 二八尊者と言って、偉人の石仏を28になるよう列挙した人がいた。三五夜が35夜の月が無いのと同様、白滝山の石仏には28名も著名な方はいない。

 また、例の千手観音の持物を十字架だと言う妄想に上乗せして、羅漢像のいくつかを異国の宣教師だと妄想された方がいた。別に「仏像鑑賞の手引き」を述べるつもりはないが、そういう妄想を抱かないために、羅漢像の表情にはエキゾチックなものが多い、と書いておこう。

 さらに、これが一番重要なものだが、羅漢は修行僧のイメージに合うのか禅宗と相性がよく、曹洞宗禅寺の多くは、ご本尊の左右の天井に近い棚に羅漢像を安置しているところが多い。重井村には曹洞宗善興寺があり、白滝山が善興寺に反旗を翻がえしたのではないことがわかる。

 さて、多弁を弄したが、十六羅漢をよく見て欲しい。一つ一つが実に丁寧に個性的に彫られており、まさに尾道石工の芸術家魂の競作となっている。向かって左側(東側)は一度崩落して持ち上げたのか、順番が違っているが、8番まである。









ふるさとの史跡をたずねて(376)


十大弟子(尾道市因島重井町白滝山)

 十六羅漢の次は十大弟子ということになる。なぜか。よくセットで語られるからである。それ以上に白滝山では十六羅漢の隣にあるからである。

 しかし、知名度では格段に十六羅漢より劣る。そして全国には羅漢寺と呼ばれるものがあるほど羅漢さんは前回記したように曹洞宗寺院を中心にある程度ポピュラーなものである。しかし、十大弟子がここにあるということは、像や配置が何を手本にしたのかということを含めて謎である。

 謎といえば「十字架」「一観教」「毒殺説」「恋し岩」を思い浮かべる人が多いと思うが、これらは謎ではく妄説と創作に過ぎない。むしろこれらが50年以上に渡って書かれ続けられていることの方が謎である。

(ただし、「恋し岩」は元は観音石でそんなに長く語られてはない。)

 中央の石組みで高く造られたところに釈迦三尊像があり、それを取り巻くように四隅に四天王が立つ。ここまでは写真集などで見ることもできる。だが、その両側に十大弟子の立像を5人ずつ配置するというのは、全く独創的なものか、それとも他に手本があったのかわからない。あったとしても出版物も旅行も現代とは比べものにならない200年ぐらい前の話なのであり参考にするのは稀であったと思う。

 実はさらにその両端からコの字形に8人ずつの十六羅漢像が内側を向いて立っているのである。そして気になるのは、釈迦三尊像、四天王、並びにその基台と十六羅漢像の見事な尾道石工よる完成度の高さに対して、十大弟子とその基台、そして十六羅漢の基台の素人っぽい仕上がりの開きである。後者は林蔵が作ったものであろうが、彼と尾道石工の関係が悪く不干渉であったというのならわかるが、仁王像のところで述べたように悪い関係ではなかったはずである。アドバイスはしても、その素人ぽさは残すという尾道石工のちょっと理解しがたい「寛容さ」の結果なのかもしれない。





ふるさとの史跡をたずねて(377)


十大弟子基台(尾道市因島重井町白滝山)

 十大弟子が設置されている石の台のことである。その左側の5人の台石の下に小枠があり、その中に寄進者林蔵が自ら記した文字がある。現存する白滝山関係文書の中には、白滝山石仏群の由来を記したものはないので、短文ながらはなはだ貴重なものと思われる。

 文字は右から左へ縦書きで次のように記されている。空白は改行である。「吾郷居士一観 者世興以修善 而自利自他人 所知識矣又 相値其勝因 願而造立於二 八尊者五百聖 者永今人住一 念不退地爾 六十一歳発願六 十四歳願成就 柏原林蔵」

 あまりに短すぎて理解に苦しむが、およそ次のように解釈できる。

 我が郷土の一観居士は善を修めることによって人の世を豊かにしようとした。自分や他人がもつ知識を増やし、それが世を興す元になるよう、十六羅漢、五百羅漢像を造ることを61歳で発願し64歳で達成した。

 やはり、十六羅漢を含む五百羅漢を造ることが目的で成就した、ということである。また、伝六の真意は善を修めることで世を興すことであった、というのが林蔵の解釈である。

 また、「一念不退地」というのは羅漢像を造ることを願ってから一度も山から降りなかった、ということを記していると思う。

 この文だけから考えると「白滝山五百羅漢」と呼ばれるのが間違ってなく、伝六の最大のねらいが「善を修めて世を興す」ということであったことであろう。この文字が書かれた時には既に伝六は亡くなっている。だからその後伝六の思想が発展したということはありえない。もしそれ以上の主願が伝六にあったとしたら、それは後人の考えたことであろう。








ふるさとの史跡をたずねて(378)

普賢菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)

 左右5人ずつの十大弟子に囲まれて釈迦三尊像があり、向かって左(東)側が普賢菩薩である。

 島原半島の噴火で有名な雲仙岳の主峰普賢岳の名から、いかにも力強い菩薩が想像されるが、漢字を素直に読めば、普(あまね)く賢いということである。

 それでも石像をよく見れば象の上に乗っているので、勇ましく見える。釈迦三尊像は普通、反対側に文殊菩薩を配しており、二人とも智者で、釈迦の次に悟るという解釈になる。ということでこの配置は珍しいものではなく定型に従ったと思ってもよいようだ。

 もちろん、象に乗り、また周囲に四天王を配するのも、同様である。象については『法華経』の最後の章「普賢菩薩観発品第二十八」に「この経を読誦せば、われはその時、六牙の白象王に乗り・・」とある。もちろん石仏であるので、ここでは白く見えないが仕方がない。

 像の下の台座には11名の寄進者の名前が彫られている。文政十年の寄進帳からその名を写すと。「八良兵衛、多門、吉蔵、三郎兵衛、重兵衛、増五郎、三四郎、初五郎、向田村新兵衛、同源吉、同熊八」で、合計730匁と記されている。向田村は佐木島である。村名を書いてない8名は重井村である。

 銀1匁を4000円とすれば約300万円である。設置場所のことはひとまず考えないとして、300万円で作ってもらえるだろうか?







ふるさとの史跡をたずねて(379)


文殊菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)

 釈迦三尊像の向かって右(西)側が文殊菩薩である。文殊菩薩は普賢菩薩よりはるかに有名で「3人寄れば文殊の知恵」と言って、子供でも知っている。その人気の凄さは例えば天の橋立に行っても、何を見に行ったのかと疑うほどの盛況ぶりである。親は子に「知恵の神様だから」とか「知恵の観音様だから」しっかり拝んでおきなさい、というような変な日本語で説明する。それでも、見向きもせずに通りすぎるよりは、良しとしておこう。

 普賢菩薩は象に乗っていたが文殊菩薩は獅子である。200年の時差を考えることは難しい。何が難しいかと言うと、200年前の人たちは象も獅子も見たことがなかった、と言うことを理解するのが難しい。それでも尾道石工たちは作らねばならない。どこどこへ行って見て来い!と親方に言われて・・と言うよりも、誰かが入手した薄墨のスケッチを手本に想像力で補ったと、私は思う。

 象の方は鼻を少し長くしておけば(あまり長くすると折れる)済むが、獅子の場合は難しい。イノシシをイメージすれば百獣の王に笑われる。屏風絵などで唐獅子ぐらいは見ていたかもしれない。今でこそ獅子と言えばライオンであるがインドや中国にライオンはいなかっただろうから、これは想像上の動物である。

 獅子の載っている台座には伝六を含む16名の寄付者の名前が彫られている。文政十年の寄進帳によると、「又三郎、長八、勘助、清三郎、藤四郎、有助、直吉、虎八、理八、増五郎、辰次郎、與左ヱ門、傳六、向田村信兵衛、向田村源吉、同熊八」で、合計730匁と記されている。文殊菩薩と同額である。


ふるさとの史跡をたずねて(380)

四天王(尾道市因島重井町白滝山)

 徳川四天王というのは酒井、本多、榊原、井伊の四武将を言うようだが4という数字は東西南北の四方を守るのが戦の原則だろうから戦国武将を呼ぶのに無理がない。釈迦三尊像の四囲を囲む四天王も武具を持ったりして戦いのイメージがつきまとうが、間違ってならないのは釈迦、普賢、文殊の三人を守るのではないということである。

 三人が据えられているところを須弥壇と呼ぶがこれは須弥山に因む。須弥山の四囲に配置して国家を守るのが四天王である。これが須弥壇の周囲に来た訳である。

 しかし、こうして釈迦三尊像を取り囲む四天王を見ていると、三人寄れば文殊の知恵どころか、四人揃えば鬼に金棒と言った安心感がある。またその安心感を見る人に与えなければ単なる石像に過ぎない。このような観点から見れば、この白滝山の四天王は誠にありがたい。参拝者の一番大切なものをきっと守ってくれるであろう。あれも好き、これも大事と一番大切なものなどいつもは考えないことを、意識するのも宗教に向きある心のあり方の一つである。

 ・・・こう書くと、その四人の守り人の紹介など蛇足に過ぎないが書いておこう。東が持国天、南が増長天、西が広目天、北が多聞天である。なお、多聞天だけを飾る時は毘沙門天となる。







           写真・文 柏原林造


➡️ブーメランのように(文学散歩)

2024年8月1日木曜日

夕凪亭閑話 2024年8月

 クリスタルホーム

2024年8月1日。木曜日。晴れ。2419歩。67.9kg。5時すぎに起きる。1時間ほど草取り。食事後、ゴミ出し。トマトの収穫。30分ほど草取り。暑い。古文書。


2024年8月2日。金曜日。晴れ。1984歩。5時前に起きて草取り。福山へ。福山城で勉強会資料コピー。1時から古文書学習会。今日は難しくて、あまり進まず。連日34℃。


2024年8月3日。土曜日。晴れ。2048歩。68kg。4時半に起きる。朝から解読文の入力。夕方送る。暑い日だった、古文書は読めば読むだけ力がつく。あとはどれだけ力を注げるか、という問題だけ。


2024年8月4日。日曜日。晴れ。2536歩。68.1kg。4時半に起きる。5時から草取り。朝食後も。買い物。昼寝。古文書といつものパターンである。


2024年8月5日。月曜日。晴れ。2556歩。67.8kg。4時半に起きる。5時から草取り。朝食後も。宮城谷昌光、『孟嘗君』(4)、講談社文庫終わる。


2024年8月6日。火曜日。晴れ。2924歩。67.9kg。4時半に起きる。5時から草取り。朝食後、ゴミ出し。さらに草取り。夕方姉の見舞い。


2024年8月7日。水曜日。晴れ。4055歩。67.8kg。4時に起きる。5時から草取り。朝食後、さらに草取り。8月資料(最終回)完成。公民館へ印刷依頼。夜、瀬戸内タイムズ原稿書いて送る。


2024年8月8日。木曜日。晴れ。3536歩。3時半に起きる。5時から草取り。朝食後、さらに草取り。午後、昼寝。多少朝夕の暑さが減ったが、相変わらずの猛暑が続く。


2024年8月9日。金曜日。晴れ。一時雨。3282歩。4時に起きる。5時から草取り。9時から福山へ。午後、古文書学習会。福山市長選期日前投票へ行く。夜、解読文入力。


2024年8月10日。土曜日。晴れ。2257歩。4時に起きる。朝、草取り。午後、歯科医院。終わる。夕方古文書。宮城谷昌光、『孟嘗君』(5)、講談社文庫終わる。


2024年8月11日。日曜日。晴れ。3230歩。68.3kg 。4時に起きる。少し草取り。

八月の太陽強く恨めしも孫ら来たりて気温下がるか

ビッグバンインフレーションの後にくる孫の話に若き日思う


2024年8月12日。月曜日。晴れ。4208歩。67.8kg 。4時に起きる。

竹やぶの麓の草は熱を吸い目に優しき緑に光る

古文書を写す手首をふと見れば熱き血潮の引いて行くなり 

潮風が夏風に負け渚はう青き波間に白波の立つ

夏の日は落ちて三日月雲の上暑さは少し弱まりにけり


2024年8月13日。火曜日。晴れ。4359歩。68.1kg 。5時に起きる。草取り少し。朝食後ゴミ捨て、墓参。『楽毅』届く。読み始める。朝は涼しいが、日中は相変わらず暑い。今日も古文書。


2024年8月14日。水曜日。晴れ。4418歩。68.3kg 。4時に起きる。5時から草取り。朝食。9時まで草取り。古文書。『楽毅』。


2024年8月15日。木曜日。晴れ。2743歩。68.3kg 。4時に起きる。5時から草取り。朝食後ゴミ捨て。9時まで草取り。公民館、資料印刷できる。午後、孫たち帰る。


2024年8月16日。金曜日。晴れ。2211歩。68.kg 。3時に起きる。再び寝て6時半に起きて朝食。


2024年8月17日。土曜日。晴れ。2425歩。68.3kg 。3時半に起きる。5時半から草取り。朝食後8時まで草取り。やはり日中は暑いが、夜になるとさすがに盆を過ぎたという感じになる。朝5時では薄暗く、夕暮れも少しずつ早くなっていく。


2024年8月18日。日曜日。晴れ。3194歩。68.3kg 。6時に起きる。草取り7時半まで。9時から買い物。暑い。朝夕は少し気温が下がった感じ。


2024年8月19日。月曜日。曇り時々雨。2267歩。67.8kg 。4時に起きる。5時過ぎから草取りをしていたら小雨。やめて、ゴミ捨てへ。その後も小雨で作業はしない。


2024年8月20日。火曜日。晴れ。1555歩。67.9kg 。4時に起きる。昨夜の雨で草が濡れているので、草取りはしない。9時過ぎから定例会。19人。午後、昼寝。宮城谷昌光、『楽毅』第1部、新潮文庫、終わる。


2024年8月21日。水曜日。晴れ。3475歩。68kg 。4時に起きる。5時過ぎから草取り。10時半から因島図書館。文学散歩。7人。はしない。夜、瀬戸内タイムズ原稿送る。


2024年8月22日。木曜日。晴れ。5777歩。67.3kg 。4時に起きる。明るくなる5時20分ごろから草取り。古文書。


2024年8月23日。金曜日。晴れ。2491歩。2時に起きる。明け方再び寝る。9時過ぎに出て、福山へ。イズミで買い物。午後、古文書学習会。夜、解読文入力。大変暑い日。


2024年8月24日。土曜日。晴れ。2046歩。67.3kg。5時に起きる。少し草取り。今日は一日中解読文の入力。定例会の資料作りがないだけ、福山藩の事を少しずつ調べてみようと思う。


2024年8月25日。日曜日。晴れ。一時雨。2530歩。67.3kg。4時半に起きる。5時半より草取り。雨が降り出しすぐにやめる。その後猛暑。古文書解読文入力。午後完成送る。来客。


2024年8月26日。月曜日。晴れ。夕方一時雨。3401歩。67.1kg。4時に起きる。5時半より草取り。朝食を挟んで8時まで。午後、宅急便。肥料を買ってくる。古文書。


2024年8月27日。火曜日。晴れ。4030歩。67.55kg。4時に起きる。朝食後草取り。公民館だより原稿書いて送る。古文書。戦争ではなく、平和なままである地域が消滅するというのは奇妙なことだ。こんなことは不便なところで時々起こっていたが、それが全国的な規模で起こるということがあったであろうか?・・・ないと思っていたが、あった。農村の消滅があった。あれは昭和恐慌の時だったと思う。その時は農村の貧しさから都会へと流れた。しかし今のは豊かな農村でもどんどん減って、いやすでに農村ではなくなっていても人口が減ろうとしている。


2024年8月28日。水曜日。曇り時々雨。2873歩。68.3kg。4時に起きる。5時半から8時まで草取り。朝買い物。瀬戸内タイムズ原稿書く。夜、送る。台風10号の影響で風強し。かなり大型。


2024年8月29日。木曜日。雨。2891歩。67.8kg。3時に起きる。そして一日中、古文書をやったりうつらうつらしたりして、まるで夢の中の様な生活をしている。朝食後、しばらく雨が止んでいたのでゴミを歩いて出してきた。いつもなら車で行くところだが、途中が道路工事中で車は通行できないので歩いていく。昨日もそうしたが、そんなに遠いわけではない。台風の雨や風は近いところにいる割には強くない。九州上陸後どんどん勢力は衰えている。

 台風の過ぎるを待って家におり

 猛暑去れ願い聞こえし雨の音

 読むよりも昼寝の部屋となり変わり


2024年8月30日。金曜日。雨。2643歩。67.5kg。5時に起きる。本日の古文書学習会は中止。宮城谷昌光、『楽毅』、第二巻、新潮文庫、終わる。時々大都会の群立する高層ビルの写真をみて不思議な思いに捉えられることがある。あそこにいるあの人たちは一体何をしているのだろうかと思う。食糧である米や小麦を作っていることはまずありえない。それでは肉となる豚や牛を飼っているのかというとそうでもない。もちろんビジネスをやっているわけだ。それが地球上で必要なわけであるが、そもそも人間は何のために生きているのだろうか。


2024年8月31日。土曜日。晴れ。1623歩。67.9kg。4時に起きる。台風一過である。午後、来客。また暑さが戻ってきた。今日はそれほどでもないが明日は暑そうである。









読書の記録

8月5日

宮城谷昌光、『孟嘗君』(4)、講談社文庫

8月10日

宮城谷昌光、『孟嘗君』(5)、講談社文庫 

8月20日

宮城谷昌光、『楽毅』、第一巻、新潮文庫

8月30日

宮城谷昌光、『楽毅』、第二巻、新潮文庫

クリスタルホーム





2024年7月17日水曜日

20240725

因島ロータリークラブ 講演     @ホテル因島


積善の家に余慶あり 

       白滝山五百羅漢と柏原伝六


                   柏原林造

                   1951年6月御調郡重井村生まれ 

序 (概略)伝六と観音信仰

1。青木茂『因島市史』

2。功過自知録

3。陰隲録(いんしつろく)  

4。五百羅漢

5。白滝山とは何か?



序(概略) 伝六と観音信仰

     伝六1781-1828.3.15 48歳  石仏工事開始の半年後逝去。 1830石仏工事(3年3ヶ月)終了


  子のできない親が西国巡礼をして生まれたので、自分を観音菩薩の生まれ代わりと信じ「観音道一観」と称する。

  観音菩薩の功徳。現世御利益と来世往生の2つ。 

    現世御利益・・功過自知録(道徳の点数化)による生活改善。

    来世往生・・白滝山上に極楽世界を築き、羅漢となって往生する。


1。青木茂『因島市史』

 「彼の書いたものをみると、心学的道徳的なものの概念が、かなり深いようである」(p.913)

 『観音和讃その他』(好善法師本)の項目の紹介があり、「仏、儒、神道など道徳教的な具体語意を多く収録す」(p.915)と記されている。好善法師(高根島出身、2代目白滝山堂守)

心学:石田梅岩が始めた石門心学、すなわち商人道徳のこと。

   石田梅岩1685-1744

日本思想大系42『石門心学』、岩波書店。

日本の名著18 『富永仲基 石田梅岩』、中央公論社 

R.N.ペラー『徳川時代の宗教』、岩波文庫

及川大渓『広島の心学』、国書刊行会

            「思想は当時あった儒仏、老荘もいくらか入っているんでしょうけれども、儒仏と神道です。朱子学を中心にして、神仏を入れた折衷主義でしょう。思想的にみて独創的なところはほとんどないが、だれにでもわかりやすい。」(加藤周一月報対談p.2 

 パンフレット、WEB等に書かれている、「仏教、儒教、神道、(それに人によってはキリスト教を)加えて新しい宗教・一観教を作った」と言うのとそっくりではないか!

 一観教についての説明がどこにも無いということは、「独創的なところはほとんどない」というのに酷似している。そういう皮肉を言ったのではないと思うが、青木茂氏の指摘は冴えている。



        

それでは、石門心学と似ていたのは何か?  「功過格ー功過自知録」ではないか?青木茂氏が見た資料には、このような図入りの説明がある。

 



『陰騭録』には明の伯仕宋のものと、明の袁了凡のものの2種があり、前者は雲棲袾宏の「自知録」「功過格」を収め、後者には雲谷禅師伝の「功過格款」を収めている。袁了凡の『陰騭録』はわが国では袾宏『自知録』と1冊に収められて元禄14年(1701)に和刻本が出版された。(『岩波 哲学・思想事典』p.566)

写真下の右ページ左下に袾宏の文字が見える。



功過格ー功過自知録」とは何か?

中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273-274)

 羅漢の黄檗様式に儒仏道三教の混在がみられるという説明の次に

「そのような素地の上に、知識人の間にはさらに王学左派的な学問・思想が新知識として与えられ、次第に林兆恩や袁了凡の伝や著者にも接し『太上感応篇』や『功過格』『隠隲文(いんしつぶん)』などといった善書の類も次々と刊行されて(中略)身近に用いられるような風潮が生じてきた」。また、「『功過格』などはその後は我が儒生の間にすっかり根づいて、有名なところでは日田(ひた)の淡窓塾の例の如く、日常徳目の成績表として普段に用いられるに至る。ともあれ一八世紀中葉のかかる道教的思想・学問の風の瀰漫は、これまた明儒の、それも王学左派的三教一致思想の波及するところであったことは確言できるように思う。」

さらに興味深いのは、「明儒の学の流行は、(中略)また新しい庶民倫理としての石門心学を生む」とあり、青木茂氏の「心学的道徳的なものの概念」というのも「功過格」の影響と考えていいだろう。

 王学左派:陽明学左派  右派より過激で仏教、禅と接近

 三教一致思想:伝統宗教の儒教、外来宗教の仏教、新興宗教の道教の一致 

 日田(ひた)の淡窓塾:  現在の大分県日田市にあった広瀬淡窓の桂林荘・咸宜園のことである。「桂林荘雑詠諸生に示す」という漢詩があるのでその一部・「休道」を記しておく。

 休道他郷多苦辛  いうことやめよ他郷苦辛多しと    

 同袍有友自相親  同袍友あり自ら相親しむ   

 柴扉暁出霜如雪  柴扉暁に出づれば霜雪の如し  

 君汲川流我拾薪  君は川流を汲め我は薪を拾はん

  広瀬淡窓自身も「万善簿」というのをつけていた。良いことをしたら白丸1つ、悪いことをしたら黒丸1つをつけ白丸から黒丸を引いて1万になるのに何日かかるか記録したものである。1度だけ1847年、67歳で達成したということである。(享年75歳)。 

 広瀬淡窓1782-1856

 これは江戸時代の話であるが、現代の話を書いておこう。三好信浩『私の万時簿–広島大学最終講義–』(風間書房、平成8年)に載っている。三好信浩氏は日田市の小学校の時、校長が「淡窓の実践した万善簿を、われわれ小学生に習慣づけようと努力された。一日一善、その善行の内容を簡単に記すだけのことであるが、毎日つけるのはかなり苦痛だったことを覚えている」(p.6)という経験から、研究者になってから研究に費やした時間数が何年何か月で1万時間に達するか万時簿として記録されたということである。他に、『明治のエンジニア教育』(中公新書)。     三好信浩1932-2024














3。陰隲録(いんしつろく)  


しかし、伝六の「功過格」は地元因島では伝承されたという記録は、まだ見つかっていない。伝六の死後途絶えたのか? あるいは、白滝山五百羅漢ができて役目を終えていたのか?

 さて、形式としては現在まで継続性は見ることができるが、その考え方の背景については『隠隲文(いんしつぶん)』について見るのが良いだろう。


 石川梅次郎氏は『陰隲録(いんしつろく)』(明徳出版社)のあとがきで、述べている。「昔は大変よく読まれたが、今日はあまり読まれない本がある。陰隲録もそのひとつである」と。この本は明の学者袁了凡(えん りょうぼん)が書いたもので、ふつう「善書」と呼ばれる。「善書」「袁了凡」『陰隲録』と言っても、極めて限られた人しか聞いたことがない言葉であろう。

 いろいろ探してみたら、安岡正篤氏の『立命の書「陰隲録」を読む』(竹井出版、平成2年)というのがあった。過日、細木数子さんの訃報に接して安岡正篤氏の名前を思い出した方もおられるかもしれない。また、以前話題になった『菜根譚』の著者洪自誠は袁了凡の弟子であったと言われているので、こんなところにも、その考え方は現在にまで引き継がれているのかもしれない。

 道教

   道教と道家は違う。(幸田露伴)『露伴全集』18巻p.256

   道家・・老子、荘子   諸子百家の1

 (老子の思想の)ながれのひとつは、のちに呪術や神仙思想などをふくんで「道教」という宗教を形成した。宮城谷昌光『孟嘗君2:』p.11

石川梅次郎『陰隲録(いんしつろく)』(明徳出版社)、p.100 以下事例が続く。あたかも今昔物語の仏教説話の如し。

(自分の運命は決まっているという)運命論を脱して努力して自分の運命を変える、というのがその趣旨である。運命を変える努力の一つが積善である。

そしてて、積善の家に余慶あり  ということになる。
 儒教では、善は自分のためにし、仁を目指す。
 仏教の因果応報と似ているが、仏教は悟りを目指す。
 道教は努力して仙人を目指す。

積善の家に余慶あり  は、目的か?、結果か?

日々反省し善を増やせば、生活は向上する。これこそ伝六=観音菩薩の現世御利益であった。


  



4。五百羅漢

  羅漢と観音菩薩 と禅宗

禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」

松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196

  

5。白滝山とは何か?   

「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)

 同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。


 白滝山の4大誤謬

 1 白い滝の山ではない。「タキ」は西日本では崖を表す。

 2 隠れキリシタン遺跡。妄想に過ぎない。勉強不足。

 3 一観教。伝六生存中も死後も現在も一観教を名乗る集団は存在しないし、個人信者もいない。

 4 恋し岩伝説。 岩は観音岩、山上のもの。力士・白滝 地名語源説話で話は逆。これらが合体した創作民話。



付録

「また、観世音菩薩には三十三応身といって、必要に応じて三十三に変身して衆生を救済する融通無碍の性格があります。このいわば円通自在の心が、禅者にとっては必要なわけで、刻々として移りゆく事象の変化に応ずる心境が要求されるわけです。観音信仰が特に禅宗において重要視されるわけです。」(松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196) 

 話はそれるが同書に松下氏はまた次のようにも記している。「地蔵菩薩は一所に滞在せず、常に遊行して人びとの霊を救う役割をもっています。禅僧が修行のためあるいは布教のため常に師を求めて江湖を行脚する姿にも似ているわけです。」「この地蔵信仰に関連して禅林でとりあげられたものに十王信仰があります。」「禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」と。ここまで書けば、白滝山が一時、曹洞宗善興寺の奥の院になっていたことが不思議ではないということがわかるであろう。そして白滝山五百羅漢が伝六にとっては、曹洞宗からはみ出たものでなかったことがわかる。すなわち、伝六が「観音道一観」と名乗ったからといって、曹洞宗から飛び出したものではないことがわかる。同様に白滝山が曹洞宗に異を唱える聖地を目指そうとしたものではなかったことがわかる。

 さて、伝六が自ら観音菩薩の生まれ代わりだと言ったのであるから、さらに観音菩薩とは何かと考えてみたい。それは白滝山の最頂部、展望台の東側にある阿弥陀三尊像を見ればよくわかる。中央が阿弥陀如来、阿弥陀如来の右側が勢至菩薩、左側が観音菩薩である。この位置に阿弥陀三尊像を置くというのが伝六の意志によるのであれば、その観音菩薩は伝六自身でなければならないだろう。観音菩薩の生まれ代りで「観音道一観」と名乗る以上はそうであろう。そうでなければ言行不一致になるではないか。余談ながら、そうであるならば、阿弥陀三尊像より少し下にある一観夫婦像というのは余分である。私は必要ないと思う。ではなぜ、あそこに一観夫婦像があるのか。伝六寄進にはなっているが、伝六の子息の寄進ではなかろうか。そして、親の心子知らずで、頂上の観音菩薩が伝六であるという認識に達していなかったのだと思う。

 「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)

 同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。