2025年1月18日土曜日

10亜由ちゃんちのおばあちゃん

 亜由ちゃんちのおばあちゃん       ―少年少女恐怖館ノ内―

 

 亜由ちゃんちには、おばあちゃんがたくさんいる。最も年寄りのおばあちゃんは、百才をとうに越えているのに、次のおばあちゃんよりも元気だ。

 この前も家の前を歩いていた。そこへ喜美ちゃんのお母さんが通りかかって声をかけた。喜美ちゃんのお母さんは、お年寄りに声をかけるときによくするように、おばあちゃんの耳元で、少し大きな声で言った。

「おばあちゃん、ごきげんいかがですか。」

 おばあちゃんは、耳がよく聞こえるらしく、すぐに振り返って、

「ああ、おかげさんで、元気、元気・・・。」

 とうなづいた。

「ほんに、おばあちゃんを見ていると、長生きの秘訣のひとつやふたつを聞いてみたくなりますよ。」

 喜美ちゃんのお母さんは、さっきよりも少し小さな声でたずねた。

「ははは、秘訣などありゃせん。好きなことをして、よく寝ることぐらいのもんじゃ。」

「また、ご謙遜を・・・。」

 こう言って二人は笑いながら、別れた。

 おばあちゃんは、やや前かがみだが、腰が曲がっているようには見えない。足取りも確かだ。元気なものだ。喜美ちゃんのお母さんでなくても、長生きの秘訣をたずねたくなるだろう。

 長生きの秘訣かどうかはわからないが、亜由ちゃんちの一番年上のこのおばあちゃんは、立派な歯を持っているということだった。そのことは近所の評判だった。どういうわけか、百才になる前にみな新しく生えかわって、次のおばあちゃんや、息子たちよりも丈夫な歯をもっているのだと言っていた。だから、若い人に負けないくらい、肉でも魚でもどんどん食べるそうだ。そのせいか、足腰も強く、家の裏の畑に野菜をとりに行ったりしても平気だった。

 そのおばあちゃんは、亜由ちゃんちの母屋から離れたところにある隠居所に住んでいた。そして、昼間は隣の納屋で機織りをしていた。

 家の裏の畑に野菜を取りに行くほかに、季節によっては、裏山に登って山菜や松茸を採りにいくこともあった。また、夜になると、時々冷たい空気を吸ってくるといって裏山の方に出かけた。なにしろ足腰が強いのだし、それに裏山は若い頃から歩き慣れているので、いつでも登ることができた。普通の人なら月の出ていない夜は、懐中電灯をもって行くのに、亜由ちゃんちのおばあちゃんは、懐中電灯なしでどんどんと山を登って行けたから、目のほうもほとんど衰えていないのだろうという話だった。

 いつか、若い人と山に登ったら、おばあちゃんのほうが速かったということで評判になったこともある。

 ただ、変わっていると言えば、おばあちゃんの生活している隠居所は、誰も覗いてはいけないことになっているということだ。このことは私も、亜由ちゃんから聞いたことがある。機織りは納屋でしていて、誰でも入ることができた。しかし、寝起きしている隠居所のほうは、誰も入ったことがなかった。そして、外出するときや家の裏の畑に行くときも、決して入ってはいけないと言われていたので、家族のものはそれをずっと守ってきたということだった。

 こういう元気なおばあちゃんだから、その長寿にあやかりたいと言って、遠方から訪ねてくる人もあった。

 この前、学校が終わって亜由ちゃんちに喜美ちゃんと遊びに行ったら、よそのおばあちゃんが訪ねてきていた。長寿にあやかりたいと言って訪ねてきたのだと、亜由ちゃんが教えてくれた。

 亜由ちゃんと喜美ちゃんと私は、こっそりと機織りの納屋に入った。おばあちゃんは、お客さんと夢中で話をしていたので、私たちには気づいていないようだった。

 亜由ちゃんのおばあちゃんは、機織りの手を休めて、上機嫌で客の相手をしていた。

「おかげさんで足腰がなんとかなりますから、この年でも裏山へ山菜を採りに行くこともありますよ。」

 こう言っておばあちゃんは立ち上がると、客の前をくるくる回って元気なところを見せた。客もおおいに喜んでおばあちゃんの後ろをついて回って、楽しんだ。こうしているといつもよりもよく体が動くと言って客は喜んだ。

「気は心ですから、年のことは気にせず元気で歩き回るのがいいでしょう。」

 こう言っておばあちゃんが笑うと、客もつられて笑った。

「誰もおらんかいのう。」

 しばらくして、おばあちゃんはこう言って、家族のものを呼んだ。しかし、返事はない。私と亜由ちゃんと喜美ちゃんは、黙って納屋の隅にうずくまっていた。亜由ちゃんが人差し指を口の前に立てて、静かにしているように合図をしたので、喜美ちゃんと私は必死でこらえた。

 誰もいないと思ったのか、おばあちゃんは、また客のほうに向き直った。

「ところで、今日はどちらを通って帰りなさるかのう。」

 おばあちゃんの顔が赤々と輝いていた。

「通り谷を越えて帰ろう思うとります。」

「通り谷ですか。あそこは寂しいところじゃ。日が暮れんうちに帰るがええのう。」

 おばあちゃんの親切に客はたいそう満足した。

「それじゃこのへんで。」

 と客が立ち上がると、おばあちゃんは客のほうをじろりと見た。

「それに、最近鬼が出るという噂もありますから、気をつけなされ。」

 こう言っておばあちゃんは口を横に大きく開けて笑った。

「おー、そりゃ怖い、怖い。」

 と言って客は帰途に着いた。

 亜由ちゃんのおばあちゃんは、客が帰ったあともしばらく機織りをしていたが、急にやめて立ち上がると、納屋から出て行った。亜由ちゃんが、私の手を引いて立ち上がったので、私と喜美ちゃんも立った。亜由ちゃんについて、おばあちゃんの後を追うように納屋から出たが、もう亜由ちゃんのおばあちゃんはいなかった。やはり、若い人より速いというのは本当だったのだと思った。どこに行ったのかわからなかった。私たちはおばあちゃんを追いかけるのをやめた。

 喜美ちゃんと私は、亜由ちゃんの部屋で遊んだ。

 

 その日の夕方になっても、おばあちゃんが帰って来ないので、大騒ぎになった。機織りの納屋はもちろん、隠居所のほうにもいない。裏の畑に走って行ってみても、やはりおばあちゃんはいない。とうとう、誰かが、隠居所で寝ているのではないかと言い出した。開けてはならないと言われている隠居所をみんなで開けてみることにした。中は真っ暗だったが、電気をつけて驚いた。白い骨が転がっていた。

「鶏の骨だ。」

「こちらは犬の骨だ。」

「これは、どういうことだ・・・まさか・・・」

 この声は亜由ちゃんのお父さんの声だった。

 亜由ちゃんと喜美ちゃんと私は縁の外で、聞いていた。

「そこは開けるな・・」

 洞窟の中を反響するような声がした。私たちは一斉に振り返った。誰かと思ったら亜由ちゃんのおばあちゃんだ。

「見たな。見たな。もう終わりじゃ。」

 こう言うとおばあちゃんは口を大きく開いて、光る目でみんなをにらみつけた。そして髪の毛を逆立た。

 私の手を強く握っている、喜美ちゃんの手が震えている。私の足もがくがくと震えている。唇をかもうと思っても歯がかちかちとぶつかるだけで、歯を食いしばっていられない。

 亜由ちゃんが私の腕を両手でつかんだので、かろうじて私は震えをとめることができた。しかし、亜由ちゃんも全身で震えていた。

 おばあちゃんは後ろを向くと吠えながら裏山に向かって走り去った。

「ひえ・・。」

「おに・・・。」

 居合わせた人たちが声たかだかに叫んだ。

「鬼だ。いつのまにか、この婆さんが鬼になっていたのだ。」

 私と亜由ちゃんと、喜美ちゃんは、しばらく口もきけなかった。

9 プールに棲むカッパの霊

 プールに棲むカッパの霊   -少年少女恐怖館ノ内-

 

「何か変よ。」と美沙が言った。少し間をおいて、美沙は続けた。

「プールの中を何か、泳いでいたみたい。」

 梅雨の合間の久しぶりの太陽が照りつけている。子供たちにとっては、やはりプールは晴れた日のほうがいい。今日は最高の天気だった。

 美沙は一番に着替えてプールの縁に立って水を眺めていた。泳ぎたくて泳ぎたくてたまらなかったのだ。

 太陽がまぶしいせいか、あるいはその他のことを考えているのか、誰も返事をかえす子はいない。

 やっとまわってきた、楽しみにしていたプールの時間だ。みんな、プールの回って来る時間を心から待ち望んでいる。急に、それに水をさすようなことを言われても、頭に入らないのがあたりまえだ。

 美紗は誰にも相手にされないので、二度とそのことを誰にも言うまいと決心した。決心すると安心したせいか、そのことをけろりと忘れてしまった。日が経つに連れて、記憶も曖昧になり、今となっては、もしそのことを誰かに訊ねられても、それをはっきり答えられるかまったく自信はなかった。

 

 ひばりが丘小学校は、昨年に開校したばかりである。隣の青空山小学校から分離してきてできたため、一年生から六年生まで、揃っている。山の斜面がけずられ団地ができて、急激に町の人口が増えてきたので、小学校はすぐに手狭になる。ひばりが丘小学校も、団地の端の山の斜面を削ってできていた。

 開校した年の一学期、二年生の男の子がプールで溺れて死んだ。先生がちょっと眼をはなしたすきに、深みに落ちて溺れたのだ。

 この不幸な事故のことは、学校の近くに住むケン吉じいさんの耳にも入っていた。ケン吉じいさんは驚いた。と、同時に、やはりという思いもあった。ケン吉じいさんは、あのことを知らせておくべきだろうか、と何日も考えた。しかし、結局ケン吉じいさんは、何も言わないことにした。言っても老人のたわごとだと、笑われるだけだろうと思った。

 ……それから、一年がたった。

 初夏の訪れとともに、水泳の授業がはじまった。子供たちは去年の不幸な事故のことは忘れて、楽しく泳いでいる。プールでの授業がはじまって、一週間ばかりしたときのことだった。一年生が、プールぎわから落ちて溺れて死んだ。

 先生も子供たちも、去年のこともあるので、大騒ぎになった。

 親たちの間でも、プールの話題でもちきりだった。いろいろなうわさが流れていた。 

 だれも泳いでいないのに、プールサイドのコンクリートの上が濡れていたというのもそのひとつだった。教育委員会の人が調査に来て、鍵を開けて入ったときに見つかったのです。鍵がかかっていたのですから、誰も入れません。それに、ずっと晴れていましたから雨が降ったということも考えられません。

 また、夜学校の近くを通ると、風もないのに、プールのほうから音がしたという話もあった。誰かが泳いでいるような音だったというのだ。

 事故のことはもちろん、このようなうわさも、ケン吉じいさの耳に届いた。

 ケン吉じいさんは、再び、あのことを言おうかと悩んだが、やはり、言わないことにした。二年続いて起こった事故も、単なる偶然だと、笑われるような気がしたからだ。 

 しばらくして、教育委員会の人がケン吉じいさんのところを訪ねてきた。

「小学校のプールのことはご存じでしょうか?」

「ええ、大変なことになりましたね。」

「はい。それで、今日はそのことについて、お願いがあって来ました。」

 ケン吉じいさんは、ははあ、あのことかと思ったが、自分からは言い出すことはなかった。

「と、言いますと? 」

「実は、そのプールの件ですが、誰が言い出したのか、カッパの仕業だといううわさが広まりまして、教育委員会としましても、ほうっておくわけにいかなくなりました。」

「そのような話は聞いたことがあります。」 ケン吉じいさんは、これまで聞いた話を思い出していた。

「それで、いろいろと調べているうちに、小学校の敷地の元の持ち主であった、あなたにお聞きしたら、何かわかるだろうと思ったのです。カッパの棲んでいた池があったとか聞いたものですから。」

 ここまで相手が話すのなら、話してもよかろうとケン吉じいさんは思うようになった。

「確かに小学校の敷地の大部分はわたしのものでした。プールのあるあたりも、私のものでした。」

「それで、そのあたり、ちょうど今プールのあたりが、カッパにゆかりのある池があったとかお聞きしたのですが……

「はあ、確かにカッパにゆかりはありますが、池というほどのものではありません。昔、カッパが棲んでいたと言われていた池があったそうです。その池は祖父が埋めてしまいました。そして私が知っているのは、埋めた跡だけです。」

「やはり、カッパが棲んでいたというのはほんとうなのですね。」         

「いいえ、ほんとうに棲んでいたかどうか……、そこはちょうど、岩が突き出ておりまして、その岩の間から水が流れ出ていました。緑の美しい苔を伝わって細い流れが、ほんのわずかの水量ですがずっと落ちていました。それは夏の日照り続きになっても枯れることがありませんでした。池の跡に水たまりができ、菖蒲に似た植物が生えておりました。井守(イモリ)が棲んでいました。ええ、あの守宮(ヤモリ)と似た、とかげのような生きものです。井守は、動きが緩慢で水の中をくねくねとからだを曲げながら泳いでいました。腹の色が鮮やかな朱色で、今もその色が強く印象に残っています。

 水が流れ出る岩の下に『霊』と彫った石がありました。カッパの霊を祀っているのだと祖母から聞きました。

 小学校ができるとき、そこもいっしょに売ってしまいました。そして、ちょうどそのあたりがプールになったので驚きました。いや、何か悪い予感がしたものです。」

 このような話を聞いて、教育委員会の人は帰って行った。

 数日後、プールの隅に、カッパの霊を祀る小さなお社を作った。

 それからは事故もなく、毎年子供たちは明るい太陽を背中いっぱいに受けて、楽しく泳いでいる。

 でも、そのカッパの霊はどこにいったのでしょうか。ひょっとすると、これを読んでいるあなたの学校のプールへ、もう、移ってしまったのかもしれませんね。もし、夜、学校のそばを通ることがあったら、耳を澄ませて何かプールのほうで物音がしてないか聞いてみてください。

 そして何よりも、プールで泳ぐときはくれぐれも、ご用心、ご用心!

8 パトーリ

 パトーリ


 リカを乗せた飛行機は霧の中をドゴール空港へ着いた。

 ドゴール空港で国内線に乗り換えた。

「リカ、さあ、ここがパリだよ。ここでおりて、もう一度別の飛行機に乗るんだ」

 パトーリは自分の言っていることが、相手に通じているとは思っていない。でも、一人で黙々と事務的に旅をするのはいかにも味気ない。そこで、できるだけこの少女に語りかけながら、旅をしようとしたのである。

 はじめのうちこそ、見知らぬパトーリを黙って見つめるだけだったが、少しずつ笑顔が現われはじめた。それに気をよくしたパトーリは、自分としても最大の明るい表情を作ってやさしく話しかけてきた。

「わかってくれるかい。リカ。リカでいいんだろうね。いい名前だから、違っていてもいいや。本当の名前がわかれば、ニックネームにしてもいいしね」

 国内線の中型機の窓側に二人そろって腰をおろしたときには、リカはどちらかというとはしゃいでいるように見えた。

「リカ」「リカ」

 パトーリはリカの顔を右手の人差し指で指しながら、言うとすぐ同じように自分の顔を指して、

「パトーリ」「パトーリ」

と言って笑った。

 何度こういうやり方を繰り返したことだろう。

「パトーリ」

 リカが突然言った。そして、パトーリの腹を手で突いた。パトーリが振り向くと、リカと目があった。リカは笑いながら右手で窓の外の景色を指してた。

 眼下に、その上を通過している村々の灯が星座のようにチラチラとまたたいている。「きれいだね。どのあたりを飛んでいるのろう」

 パトーリは楽しかった。リカの目が赤々と輝いていた。その澄んだ笑みをふくんだ目は敏捷に右へ左へと動き、パトーリはかしこそうな少女だと思った。

「もうすぐ、マルセイユだよ。マルセイユが気にいってもらえるかな」

 パトーリが言うと、リカは微笑んだ。パトーリは、リカがしゃべらないだけで、自分の言っていることが理解できているのではないかと思った。

「リカ、おじさんの言うことがわかってる? リカは口を開かないから、おじさんはリカがわかっているのか、わかっていないのかが、わからなくなっちゃった。……そうだ、リカ、右手を出してごらん」

 パトーリは言葉だけでリカに通じているのだろうかと思い、表情や手振りに意味をこめないで言った。しかし、急にリカをこわがらせてもいけないので、笑顔だけはたやさなかった。

 リカはパトーリのほうを見ているだけだった。

「リカ、それじゃあ左手を上げてごらん」

 同じようにパトーリは言った。しかし、リカの態度にも変化はなかった。こんなばかなことをしても仕方がないじゃないかと、パトーリは自己嫌悪に陥る寸前だったが、もう一つだけ試みてみることにした。

「リカ、立ってごらん」

 結果は同じことだった。やはり、リカにはパトーリのいうことは聞こえても、言葉はわからないのだ。さっきまでと、同じようにできるだけジェスチャーもまじえて話せば、感のいい子だから、こちらが驚くような理解ができるのだろうとパトーリは思った。そのほかにも、この子がどんな能力をもっているかは、想像もできない。しかし、今はとりあえずここま理解できたことにしておこう、とパトーリは納得した。

 急いではいけない。相手は子供なのだ。

7 救助

 救助

 

 海岸には嵐が運んだ漂流物が乱雑に堆積していた。

「ひどい嵐だったんだ。こんなにたくさん流れてくることはめずらしい」

 男が言った。これから漁に出るところである。

「ずっと遠くで嵐があったのだわ。それにしても……。ねえ、あれ」

 男は妻の指差すほうをみた。

「おい、子供だ」

 男は走りだすと同時にそれが人間の子であるのがわかった。

「女の子だ」

 男は顔を覆っているの髪の毛を、日に焼けた手で払ってから、右の耳を心臓に近づけた。そのとき、麦藁帽子がじゃまになるのでとって砂浜に置いた。男の顔は茶色に日焼けしていた。

「生きてる。生きてる」

 茶色い顔に笑みが浮かび、男は手をあわせて天お仰ぎ、砂浜にぬかづいた。

「ああ、生きている。生きている」

 男は膝をついたまま、まるで小躍りするように叫んだ。

 その時には、妻も隣にきていた。

 男は、子供の足をもってうつぶせにした。子供の口から海水が出た。男が上向きに寝かすと、子供は大きく息をした。

「よし、もうだいじょうぶだ。服を着替えて寝かせてやろう」

 男は子供を抱いて、もときたほうへ引き返した。妻は男の麦藁帽子をもって、男のあとからしたがった。

 すぐに家に着いた。男は家に入ると、木でできた高さが膝ほどの台の上に子供を寝かせた。そして濡れた服を脱がせた。

 妻は隣に布団をしいて、乾いたタオルをもってきた。乾いたタオルで躰を拭いてから、隣へ寝かせた。タオルを躰にかけた。

 屋根のすき間から、日が入ってタオルの一部にあたった。

 子供はときどき咳をした。しかし、起きなかった。

 男と妻はじっとそばで見ていた。

 太陽が動いて、日のあたっている部分が移動して、顔のほうまでくると、子供は首を回転させて、横を向いた。

 男は妻の顔を見た。妻は男と同じように茶色い顔を男のほうに向けて微笑んだ。

「もう少しだ。おなかがすいているだろう。何か食べるものを作っておけ」

 男は言った。妻は黙ってうなずくと外へ出た。

 別の穴から差し込んだ日がまた子供の顔のところまできた。子供は今度は寝返りをうった。少し目が開いたように見えた。

「おい、おい、だいじょうぶか」

 男が言った。肩をゆさぶった。

 妻は食物の入った容器をもって立っていた。

 

「さあ、これをお飲み」

 妻は少女にスープの入った容器を示した。 少女は何も言わずその容器を両手でつかみ口の近くまでもってくると、手を止めて、妻のほうを見た。目と目が合った。少女は、見たこともない人だと思った。ママじゃない。ここはどこだろう、と思った。

 少女は妻の目をじっと見つめた。

「さあ、お飲み」

 妻は笑顔で言った。目は愛らしく輝いていた。その表情から妻の気持ちが通じたのか、少女は容器を少し持ちあげ、中のスープを一口というよりも、ごくわずか口に含んだ。そしてごくんと飲みこんだ。妻は口に合うだろうかと心配そうに見つめた。次を飲んでくれなかったら、どうしよう・・・。

「だいじょうぶよ。さあ、お飲み」

 妻は言った。じっと目を見つめるだけで何も言わない少女の表情から、妻は言葉が通じないのだろうか、と思った。しかし、言葉ではなく仕草で理解してもらえるかもしれないと思って、手で促すようにした。すなわち手のひらを上にして上へ移動する仕草を二、三回してみた。

 少女は軽く微笑んで続けて飲んだ。

「ああよかった。どう、おいしい?」

 妻の顔には安堵の色があふれた。

「おお飲んだか。飲めば元気が出る」

 傍で妻と少女とのやりとりを見ていた夫も茶色い顔をほころばせて、うれしそうに言った。

「お腹すいているんでしょ、何か食べる?」 妻が少女に言った。  

 しかし、少女は答えない。言葉が通じないのかもしれない、と妻はまた思った。そして、奥に入って別の容器に入った食物をもってきた。ご飯が木製の器に入っていた。木製のスプーンのようなものももってきた。

 少女は今度は手にとらなかった。そして、再び横になった。

「まだ、眠いのだろうか」

 男が言った。

「そうね、静かにしておきましょう」

と、妻は言ってまたうすいタオルのような布を少女にかけた。

 男と妻は、しずかに外へ出た。家をでてしばらく歩くと、砂浜から少し離れたところに土でかこった池があった。そこで、男と妻とは、養殖している海老に餌をまいた。

 水面に小さな輪ができた。それが済むと、男は隣の池に移り、同じように餌をやった。男はつぎつぎと餌をやって移動した。

 妻は餌を置いているところで、容器をかたずけていた。

 日が暮れかかった頃、二人はまたもとの道を帰った。家に着くと、少女はまで寝ていた。二人はそのままにして、夕食をとった。

 翌朝、二人が少女のところへいってみると、既に起きていた。

 少女は口をきかなかった臥、それでも、二人がするのと同じことをした。しかし、家の外に出ても、強い日差しに驚いてすぐに家の中に入った。

 その日は家の中にいたが、翌日は妻から麦藁帽子を貸してもらうと、二人について、海老を養殖しているのを見にきた。妻がすることを少しずつ手伝った。

 

 こうして、少女はこの夫婦のもとで徐々に元気を回復し、生活していた。  この海老は三日に一度、回収にきたトラックで空港まで運ばれる。そしてときどき、海老の稚魚や餌もやはりトラックで運ばれてくる。この少女がこの夫婦とともに生活するようになって二ヵ月がたったころ、この夫婦のところへ一人のフランス人がやってきた。

「自分はこの少女を自分の養女にするから譲り受けたい」

 フランス人は二人に言った。

 二人は驚いたが、すぐに気をとりなおして考えた。

「ここにいるのと、この紳士が連れていくのと、この子はどちらが幸せかしら」

 妻が男に言った。男は茶色い顔の中の目を細めて、妻に言った。

「わたしたちが、この子にしてやれることは、いままでしてきたことくらいだ。浜辺に打ち上げれていたのを助けてやり、本当の親が現われるまで面倒を見るぐらいだろう。しかし、その親も生きているやら……。いまこんな紳士が引き取ろうというだから、お任せするのがいいのかもしれん」

「ええ、私もそう思います、でも、せっかくなついて、かわいい子なのに……

 妻は目に涙を浮かべて言った。

 二人はフランス人のところへ戻った。フランス人は懐から紙幣をだして、男へ渡した。

 妻は少女を表へ連れて出た。フランス人が少女を見て、両手を差し出した。少女は何のことかわからなくてきょとんとしていた。

 男は少女を抱いた。男は寂しくなったがじっと少女の顔を見つめた。

「このおじさんと、フランスへ行くんだよ。元気でな」

 と言いながら少女の髪を撫でてやった。妻も近づいて、抱きとり、言った。

「短いあいだだったけど、楽しかったわ。でもフランスのほうがいいにきまってるわ」  

 少女は妻の首を強く抱き締めた。妻の目から涙がでて少女のブロンドの髪の上に落ちた。

 少女はトラックの助手席に乗ったフランス人の膝にだかれて、いつまでも夫婦のほう見ながら手を振った。少女は目に涙をいっぱいためていた。

 トラックが小さくなるまで、男と妻はじっと立ったままで見送った。

6 難破

 難破

 

 着水した救命ボートには乗員が二名ずつ乗っており、両側で懸命にオールを漕いだ。

「とにかく、できるだけ離れるんだ」

 乗員の一人が言った。

「ベルサイユが沈んだとき近くにいたら、渦に飲み込まれてしまう」

 もう一人の乗員が言った。二人は自分たちで、確かめるとともに、乗客たちにも聞こえたほうがいいと思って、できるだけ大声で話した。

「視界が悪い。他のボートとの間を充分とるんだ」

 ベルサイユからどんどん離れて行く。

 風は激しく舞っている。波も高い。

 乗客は震えながら、じっと海を見ていた。

「乗客の方も周囲をよく見ておいてください。近くにボートが見えたらすぐに報せてください」

 ベルサイユからの距離がとれて、余裕ができたのか、一人の乗員が客に向かって叫んだ。

「わかりました。……みんな、船員さんが言われたとおりだ。みんなで周囲を見張ろう」


 年配の男が言った。この紳士は船首に近いところで、進行方向を向いていたので、自分が重要な役目を担っていることを自覚していた。

「そうだ、ただ座っているだけでは、申し訳ない。みんなで、周囲に注意しよう」

 別の男が言った。

 その男のとなりにいるイギリス人に抱かれて和彦は眠っていた。

「ありがとう。みんなお願いしますよ」

「ベルサイユから遠ざかるのだ。もう少しだ。まだ充分ではない」

 二人の乗員は必死だった。せっかく救命ボートで脱出しても、ベルサイユに衝突したり、沈んだとき生じる渦に飲み込まれたら、その甲斐がない。   

 その次に危険なのは、他のボートとの接触だ。波が高い上に、接触でもしようものなら、ともに転倒してしまうだろう。これは当面、お客さんに任せて、二人のの船員はとにかく、ベルサイユから離れることに全力を注いだ。

 風はますます強くなった。雨もいっこうに止む気配はない。

 空には黒い雲が厚くおおっている。波にゆれる海面は黒々と光っている。風や波の音で、近くのボートの音は聞こえない。夜は暗くて、近くにいたボートも少し離れるとすぐに見えなくなった。しかし、ベルサイユの両側から降ろされたボートは、それぞれできるだけベルサイユから離れる方向へ漕ぎだしたから、半分は同じ方向へ向かっているはずだった。

「あ、ボートだ。あそこだ。右前方だ」

 船首にいる男が大声で言った。

「見えたわ。たしかに見えたわ」

 すぐうしろの婦人が言った。

 和彦は目を開けた。さっきの男の声で目が醒めたのだ。

「ママ、ママ……

 和彦はすぐには、ここがどこだかわからなかった。しかし、美紀がいないことは確からしい。

 見る見るうちにボートは近づい来た。

「左だ。左へ避けろ」

 乗員が叫んだ。和彦の乗っているボートは大きく左へと旋回して、接触を避けた。

「おおい!」

 乗客の一人が手を振った。しかし、相手のボートの声は聞こえなかった。手を振っているのは見えた。

 和彦も騒ぎの中心になっているそのボートを見ていた。互いにゆられているし、雨の中だから顔まではわからない。

 激しく風が吹いた。多くの人が顔を背けた。また、ボートが近づき、乗員が必死で漕いで再び離れた。

「リカー」

 その、もっとも近づいたとき、和彦はそのボートの中に美紀ではない大人に抱かれたリカを見たように思った。

「リカー、リカー」

 和彦は声をかぎりに叫んだ。しかし、その声はボートの接近にあわてて騒ぐ客たちの声に消されて、ほどんどの人に聞こえなかった。乗員の見事なオールさばきで再びそのボートは遠ざかっていった。

「わぁー」「わぁー」

「倒れた。ボートが倒れた」

 遠ざかって、今にも視界から消え去ろうとするとき、そのボートは転覆したのである。

「おにーちゃーん……、おにーちゃーん」 

「リカー、リカー」

 和彦はそのとき、風の音にまじってリカの呼ぶ声が聞こえたと思った。

 和彦も叫んでだいた。しかし、あっというまにそのボートは視界から消えた。

 風が激しく吹いた。大波に激しくゆれ、乗客の何人かの悲鳴が聞かれた。

 しかし、転覆したボートを救援するだけの余裕がなかった。自分たちのボートをいかに波に対して守るかに乗員は必死になっていた。

 

 一方、乗員たちを乗せて最後に脱出した救命ボートの一つでは、気を失った美紀は横に寝かされていた。

「リカ! リカ! 待ってリカ」

 突然美紀は起き上がり、ボートの縁に駆けよって海に飛び込もうとした。

 驚いたのは乗員たちであった。さきほどまで、死んだように眠っていた美紀が、突然起きて、乗員が気がついたときには、ふなべりに立っていたのである。

「危ないじゃないか」

 かろうじて美紀をつかんだ乗員はしばらくものもいえなかったが、やっとこれだけのことをいうと、大きく息をした。

「リカ! リカ! ママよ、リカ!」

「海の上だよ、ここは」

 他の乗員が言った。

「離して、離して。リカがいるのよ。リカがいるのよ」

 乗員に取り押さえられて、ボートの真ん中に座らされていた美紀は泣きながら叫んだ。顔には雨と波がかかっており、涙もすぐにそれらに混ざった。

「夢でも見ていたんじゃないか」

 離れたところの乗員たちが話していた。

「ああ、リカ!リカ! ごめんなさいね。リカ……

 美紀は顔を両手で覆って泣きじゃくった。雨も風も依然として激しかった。美紀の長い髪に向かって雨は横なぐりに吹き着けていた。雨や海水で濡れ衣服の上を風が通り過ぎた。

 黒い雲の下を救命ボートは激しく蹂躙されながら、木の葉のように舞っていた。

5 嵐

 

 

 船上から見る夕日は美しかった。はるか西の水平線に沈む夕日はいつもより小さく見えるが、あたりを真っ赤に染めて静かに沈んでいく。昼間はあんなに青かった海も色を失って小波にゆれている。しかし、西の海だけは赤く燃えていた。水平線にかかる雲のせいか太陽は緋色になり、周囲の一面が赤い炎のようにゆらめいていた。ベルサイユが南へ進むほど、夕日が雄大になっていくのだろうか、と美紀は思った。

 しかし、それにしても今日の夕日は特別にすばらしい。じっと見つめていると、吸い込まれてしまいそうだ。もし、この見ているのが船の上ではなくて、どこかの島の海岸なら、そのまま海の中へ入って行きそうに思われた。それを阻んでいるのは、この船の囲いと、静かに伝わるエンジン音のせいではないかと思った。


 大自然というのは私などが知らない、偉大で神秘的なものをもっともっともっているのだろうと思った。そして、こんな素晴らしい夕日を見ると人生の最大の感動を経験してしまったような気持ちになった。それはまた、もういつ死んでもいいという気持ちでもあった。

「和彦、リカ。いらっしゃい」

 船室の中で本を読んでいる二人を促して、美紀はデッキに登った。

「きれいな夕日よ。ご覧なさい。もうじき、お日さまが沈んでしまうわ」

「わあ、すごい夕焼け。お兄ちゃん見て」

 和彦はリカに言われなくても、もうさっきからじっと夕日を目で追っていた。

 リカは、兄が何も言わないのも気にせず、母と兄と同じようにじっと夕日を眺めていた。美紀は、二人の後からしゃがむと、二人の頭の間ぐらいのところへ自分の顔をもっていき、両手でふたりを抱いた。

 美紀は、その夜のディナーでワインを少し飲みすぎた。そして自分たちの部屋に帰るとすぐに横になった。夕日のせいだわ、と小さく言って笑った。モンマルトルの丘で見た夕日を思い出した。夕日はやはり美しかったが、夕日をまともに取り上げる自信はなかった。夕日に映る白い家並みを描くのがやっとだった。

 子供たちはいつの間にか眠っている。パジャマの胸元から揃いの小さなロケットがだらりとたれ下がっている。どこかから揃いのロケットを買ってきたシュノン。シュノンとの出会いも、モンマルトルの丘だった。あの頃のことが思い出されて無性に懐かしい。感傷的な気持ちになるのは、ワインのせいだろうか、いや夕日のせいに違いない、と思った。いつしか美紀も眠りについていた。

 美紀が目覚めとき、船が大きく揺れたように感じたのと、船内がいつになく慌ただしいように思ったのは同時だった。何事だろうか。船室に備えつけられている船内放送のスピーカーが何か言っているようだが、咄嗟のことでよくわからない。

 室外では汽笛もなっている。バタンバタンという音。人の動く音。激しい揺れ。何があったのだろうか。衝突だろうか。そうこうしているうちに、船内放送の声が聞き取れた。救命胴衣を着用するように言っている。

 急がなければ、と美紀は思った。

「和彦、リカ起きて、起きて」

 美紀は必死で叫んだ。この子らを守のは自分しかいない。しっかりしなければ。美紀は自分を励ますように、声を上げた。

「和彦はやくして。リカを起こして。大変なの」

 何が大変なのかは自分にもわからない。とにかく大変なことが起こったということだけがわかるのである。美紀は救命胴衣を棚から引っ張りだした。

「和彦、これを着るのよ、自分で着て。ママはリカに着せるから」

 救命胴衣の一つを和彦に渡したが、和彦もまごついている。外の騒ぎはますます大きくなる。船が少し傾いているのだろうか。揺れが大きくてよくわからないが、そんな気がする。

「リカ、しっかりして。ここに掴まっていてね。和彦、着れた?」

「うん、着れたよ」

 美紀は和彦の救命胴衣を固く結んでから、自分のを着けた。

「二人とも靴をはいて。急いで」

 またしても、美紀はリカの手伝いをしながら、自分も一番近くにあったローヒールを履いた。和彦は自分で履いていた。その間にも船内放送は繰り返していた。救命ボートで脱出するように指示を出していた。

「さあ、いい。外へ出るわよ。ママの手を離さないようにするのよ」

 子供に言っているのか自分に言っているのかわからなくなった。

 

 美紀が和彦とリカに救命胴衣を着せて室外に出たときには、激しい風にベルサイユは木の葉のように揺れていた。大粒の雨が横殴りに降っていた。通路もドアも壁も濡れて、夜の闇に黒々と光っている。

 波の音、風の音、そして人間の叫び声。そういったものが一緒になって襲ってくる。何かが壊れる音。甲板を転がる音。きれいに閉じられてないドアが壁をうつ音。

 人はなすすべもなく、傾いた船上を右往左往する。やっと部屋からでてきた者のみが乾いた服を着ていた。しかし、それも五分とたたぬうちに、濡れてしまう。雨のせいもある。強風に運ばれた波のせいもある。しかし、濡れたからといって新しいのに着替えるわけにもいかず、濡れた衣服の中で震えているほかはなかった。

 耳にするもの、目にするもの、恐怖をもたらさないものはなかった。

「おーい。みんな急いで。甲板からボートに乗ってください」

 乗客を誘導しているのは乗務員である。乗務員も急なことで、制服を着る余裕もなかったのだろう。当直の者以外は思い思いの服装で乗客の誘導に努めていた。

「あっちだ。急げ、急げ」

「船が沈むぞ。早くボートに乗ろう」

 美紀は雑踏のような叫び声の中から、たしかに船が沈没しかけているということを、何度も聞いて、もはや疑いようのない事実だと認識した。そう思って、まわりを見ると、船は傾いたままで、大きく揺れているのだった。

「和彦、リカ、行くわよ」

 リカは二人に聞こえるように大きな声で叫ぶと、返事も待たずに歩き始めた。自分一人なら、走ることもできようが、今は両手に二人の子供の手を引いていた。特に右手でつかんでいるリカはまだ三才の女の子であるから、普通の道でも歩くのが遅いのに、ましてこのように嵐の中を傾いた船の上を歩いているのだから、気持ちばかりあせって、なかなか進みはしなかった。

「急げー。みんな急げー」

 甲板で叫ぶ声はますます激しくなる。風も雨も、ますます強くなる。

「さあ、リカ。元気をだして。和彦も頑張って」

 美紀も必死だった。船が揺れ、風に吹かれて何かにつかまらなければ、転げてしまいそうだった。

「和彦、手を離すわよ。ママの服をつかんで。離さないで」

 とにかくこの二人を救けなくては、と美紀は思った。空いた左手で手摺りやフェンスにつかまりながら、美紀はすこしずつ移動した。リカは雨にぬれて今にも泣きそうな顔をしていたが、だまってついてきている。和彦も険しい顔をして従った。

「はやく、ボートへ乗って」

 次から次へと救命ボートの方へ人は走っているが、雨と風の中で思うようにすすまず、互いにぶつかったり、斜めに走ったりしている。

 やっとボートが見えたとき、ふと見ると和彦がいない。美紀は頭がくらくらした。しかし、ここまできたのに、と思うと元気を出すしかなかった。うしろを振りかえると、少しうしろで転げている。

「リカ、ここにいて」

 美紀はリカを残して、和彦のほうをめがけて走りだした。ちょうどまんなかあたりにきたとき、また強い風が吹いた。

「キャアー!」

 激しい悲鳴が救命ボートのほうで響いた。足が滑った。美紀もよろめいた。

「ママ、恐いよ!」

 同じとき、リカも転倒し、甲板を滑っていた。しかし、美紀にはその声は聞こえなかった。

「和彦、和彦」

 和彦の手をとると、美紀は狂ったように、リカのところへと走った。長い髪は乱れて、顔を半分隠している。髪を伝った水滴は先端から滴れていた。

「リカ! リカ! どこにいるの?」

 まだリカを置いてきたところに近寄っていないのに、美紀は叫んだ。リカが見えない。見えないのは雨のせいかと思った。もう少し行けば、そこにいると思いながらも、美紀は胸が締めつけられるような気がした。和彦のことなどかまっていられなかった。和彦を引っ張るようにして、美紀は走った。

「リカ! リカ! どこなの?」

 リカを置いてきた位置に戻ったのに、リカはいない。美紀は自分が戻った位置がまちがったのではないかと思った。

「リカ! リカ! リカ! どこ? どこ? お願い返事をして」

「リカー! リカー! リカー!」

    

 和彦も必死で叫んだ。美紀は和彦の手を引いて動きながら叫んだ。しかし、リカはどこにも見えなかった。

「さあ早くボートに乗って」

 乗員が客をボートに誘導している。

「こちらですよ。急いで」

 近くにいた乗員が美紀と和彦を支えてボートのほうへ誘導した。

 救命ボートに近づくと、つい先程着水したボートがどんどんベルサイユから離れて行った。波が高く、その波にあわせてボートは激しく上下しながら揺れていた。

「さあ、急いで、急いで」

 あとからあとから甲板に出てきた乗客がうしろから押す。ロープに吊された救命ボートに、別の乗員が客をどんどんと乗せている。風でボートも揺れている。美紀は恐怖で頭がボーとした。乗員に誘導されるままに、和彦が乗った。

「さあ、奥さんどうぞ」

 次が美紀の番になった。

「リカ……。待って、娘がまだなのよ。リカがまだなのよ。私は乗れないわ。三才の娘がまだ残っているのよ」

 美紀は乗員の手を振りほどくようにして離した。美紀の後からイギリス人の男が続いていた。

「あの子をお願いします」

 美紀は涙をためた目を精一杯開いて、イギリス人に言った。

「和彦、先に行ってて。リカを捜してくるから」

 これだけ言うのがやっとだった。美紀はもう一度さっきの場所へ行ってみようと思った。さっき、リカを置いてきたところを目指して最後の力を出した。

「リカ! リカ! リカ! どこなの? どこなの?」

 美紀はよろめきながらも叫び続けた。雨は激しく降っている。髪を水滴が流れる。風に髪が舞う。美紀は絶望的な気持ちだった。

 リカを置いた場所に戻ってもやはり、リカはいない。

「リカー……

 美紀は泣きながらしゃがみ込んでしまった。しかし、長くは続かなかった。強い風が頬に雨滴をたたきつけたからである。

「ああ、リカもずぶぬれだわ」

 涙をぬぐうと、美紀は甲板をもう一度捜した。しかし、いない。船室のほうへ引き返したのだろうか。行ってみよう。美紀はどこでもいいとにかく行くほかに捜しようがなかったのだ。

 甲板へ向かう乗客とぶつかりそうになった。どんどんと船室から出てくるのだ。少し進めばかわし、少し進んではかわした。

「女の子を、三歳の女の子を知りませんか。女の子です」

 はじめのうちは出会う人に聞いていたが、だんだんと声がでなくなった。とにかく船室まで行ってみよう。それからもう一度もどればいい。美紀は大急ぎで船室に戻った。ベッドの上で震えているのではないかと思ったりしたが、すぐにありえないとも思った。

……リカ!」

 鍵をかけずに出てきた船室のドアを開けた。……しかし、やはり、リカはいなかった。 それからどのようにして再び甲板に出たのか美紀は覚えていなかった。すぐに甲板に引き返し、ボートの前を捜した。乗客を誘導している乗員にも聞いてみたが、覚えている者はいなかった。

 それでも、リカは甲板の上をを捜しながら、乗員に尋ねることをやめなかった。

「さあ、急いで。急いで」

 何度このことばを聞いたことだろう。

「奥さん、さあ早く」

 乗員が声をかけた。

「いえ、まだ娘がまだですから、……乗れません」 

 美紀は泣きながら、そう答えるしかなかった。

「もう奥さんだけです。みんな乗りました。お客さんはだれも残っていません。さあ早く。われわれも脱出します。さあ、急がないとベルサイユもまもなく沈みます」

「リカが、リカがまだなんです……

「もうだれも残ってはいません。お嬢さんもきっとボートで脱出しているでしょう」

 美紀は両腕をつかまれて、乗員に無理やりボートに乗せられた。

「リカー リカー リカー 」

 海面を向かって下りていくボートの中からベルサイユを見ながら、美紀は叫び続けていた。そして、ボートが着水するとともに、美紀は気を失った。

 美紀と乗員を乗せた最後の救命ボートが着水して間もなく、ベルサイユの巨体は黒い海の中へ沈んだ。嵐はおさまる気配はなかった。