2025年7月1日火曜日

411-420 増補版

 ふるさとの史跡をたずねて(411)

       

伝六⑪袁了凡その1

 伝六が広めたと思われる『功過自知録』は中国・明代の袁了凡が書いた『陰騭録』の付録として出版されたものであり、翻訳本の複雑な出版事情は以前書いた。伝六が『陰騭録』の本編の方を読んだかどうかは検証できないが、好善法師が写したその付録の附録に袁了凡の名前が出てくるのだから、次は袁了凡と『陰騭録』について考えたい。

 ところで、袁了凡の『陰騭録』は知らなくても『菜根譚』は聞いたことがある読者は多いと思う。多くの文庫本が発行されており、その人気が伺われる。写真はそのうちの2書。(岩波文庫、講談社学術文庫)






 最良の処世訓として著名人の愛読書として話題になったこともある。著者の洪自誠は儒仏道の三教に通じ、前半で交際術、後半で隠居術を述べたようだが、間違ってならないのは果報は寝て待て式に座っていれば良いのではなく、それ相応の努力を慫慂しているのは、他の啓発書と同じである。そして驚くべきことに洪自誠は袁了凡に師事した。すなわち洪自誠は袁了凡の弟子であった。だから、『菜根譚』を読まれたことのある人にとってはこれまでくどくどと述べてきた『功過自知録』の話に既視感のようなものを持たれたことだと思う。と言っても『功過自知録』は具体例、『菜根譚』はやや抽象的に書かれているが目標は同じである。あえて言えば向上への意欲の喚起であろう。

 さらに慧眼な読者にとっては、何も『功過自知録』など出さなくても、江戸時代以来、多くの日本人にとって神仏を拝み、儒教道徳に従うのは当たり前ではないか、と思われているに違いない。まったくその通りである。伝六がそれらを熱心に説いたからと言って新しくも何でもない。それを新しい宗教を作ったなどと言う誤解を書き写す人がいるだけである。その誤解の原因が『功過自知録』の珍しい表現にあったと私は思う。

 さて、『菜根譚』の洪自誠の先生であった袁了凡に話を戻そう。一言で言うと中国明代の陽明学者で陽明学左派に属する。左派と言うのは、より過激な人たちで後に禅宗に変わる人たちもいた。また、袁了凡が儒教、仏教、道教を修めた三教主義者だった。すなわち、大雑把に言えば、中国の伝統宗教である儒教と、外来宗教である仏教に加えて後発民俗宗教である道教をも学んだ人である。洪自誠がその袁了凡から道教を学んだようである。



ふるさとの史跡をたずねて(412)

        

伝六⑫袁了凡その2

 袁了凡の『陰騭録』の翻訳本は伝六の時代のみならず、明治、昭和の時代にも出版された。現在では、石川梅次郎『陰騭録』、明徳出版、中国古典新書、に原文、翻訳を解説とともに見ることができる。天が陰ながらこの世のことを定め(騭)た法則を、人間が変えていこうという考え方である。その手段が善行である。儒教、仏教ともに道徳的要素は多い。しかしそれらは儒者や僧侶を対象にしたものでやや高踏的である。それが民間習俗と関わりの深い道教と融合することで、より庶民的な道徳ができた。その一つが功過格(功過自知録)であると言える。

 熱心な観音信仰の信者であった伝六が注目したのは、この辺りの事情ではなかったかと思われる。

 袁了凡は自分の運命は決まっているという消極的な運命論者であった。それが、自分の運命は変えられるという積極的な運命論者に変わる。功過格によって善行を積むことで運命を変えることができると実証されたので、それを自分の子供に伝えるために書いたと言う。

 結論を言えば、善行により自分の運命を切り開くことができると言うわけである。言い換えれば、「積善の家には余慶あり」と言われる。これは宗教的な努力が社会的に成功する、と飛躍させてもも良いだろう。

 ここで私はアメリカのB.フランクリンを思い出す。あの雷雨の中で凧を揚げて雷が電気だと証明した人である。時は金なり、の禁欲・勤勉はプロテスタントに由来し、初期資本主義社会の理念に合致したと、ドイツの社会学者が指摘した。

 伝六が広めたこの運動は、我が国の農村社会においても小作農から自作農へ変わり、あるいは明治になってから商品経済が押し寄せる中で、自らを律するものが富めると言う、今なら当たり前のような考えを育てる素因になったことだと思われる。

 間違ってならないのは、新しい時代にあった道徳を作ったのではなく、庶民道徳が新しい時代の生き方を支えたわけである。

 さて、石川梅次郎氏が「あとがき」で「昔は大変よく読まれたが、今日はあまり読まれない本がある。陰騭録もその一つである」と書いてあるように、忘れられた書物である。が、安岡正篤、「立命の書『陰騭録』を読む」、竹井出版、が出版されているように、知っている人もいるのである。



ふるさとの史跡をたずねて(413)


伝六⑬三教主義か神儒仏折衷か

 伝六の教えとも言える好善法師本で功過自知録を見れば儒仏道の三教主義が現れ、他の部分では神儒仏の折衷主義が窺われる。これではまるで鏡の中のカレイがヒラメに見えるのと同じで甚だ理解に苦しむ。

  (儒仏道:儒教、仏教、道教、神儒仏:神道、儒教、仏教)

 しかし、それが日本思想史の典型で、儒仏道の三教主義は伝わらず、かすかに功過自知録を通して伝わったに過ぎない。一方、神儒仏の折衷主義は石田梅岩の石門心学から二宮尊徳まで多くの知識人は元より庶民まで、我が国の風土と言っても良いほどに定着した。

 それは日本の国民宗教だと言っても良いほどだ。専門宗教者を除いてごく当たり前のことになっている。専門宗教者も立場上他教の礼賛はしないものの、それらのことを知らずして日本文化を論ずることはできないだろう。

 生後一ヶ月にお宮参りをし、七五三があり、結婚式はチャペルでして葬式は仏式でするという、現代の流儀は、一つも珍しくも異様でもなく、ごく当たり前のことだと思う国民は多い。

 これは現代の見方であり、伝六の生きた200年ほど前の江戸時代はどうであったのだろうか。キリスト教は禁じられており、朱子学による儒教道徳は幕府の各種の施策の基本方針であり、神仏習合の時代であった。だから、伝六が神儒仏を唱えたからと言って珍しいことではなかった。ただ、寺子屋があったかどうかわからないようなところで、庶民に説いたことは、熱心な観音信仰に基づくとは言え、特別なことであったに違いない。

 358回で述べたように、明治以降の神仏分離政策で移動させられた仁王像を、柏原林蔵らが白滝山石仏工事完成の勢いで八幡神社へ寄進したことは特別なことではなく当たり前のことであった。

 それでは、なぜ後世、伝六が神儒仏から新しい宗教を作ったと言われたのかと言えば、儒仏道の三教主義に基づく功過自知録の目新しさに幻惑されたからに違いない。そしてそれはこれまで述べてきたように、伝六のオリジナルな著作ではなく市販本の転載に過ぎなかった。

 また、伝六が石田梅岩の石門心学を学んだというのも根拠のない誤解に近いことが明らかである。

(図は好善法師本の一部)





ふるさとの史跡をたずねて(414)


伝六⑭伝六百回忌

 さて、ここで時代は変わって伝六死後のことを記そう。それも昭和2年の伝六百回忌の記録を見てみよう。伝六命日の旧暦3月15日に伝六百回忌は盛大に行われた。

 その来賓名簿を見よう。和尚7人。これは地元重井村2人、中庄村3人、大浜村1人、外浦1人で、いずれも曹洞宗である。役場10人.村長以下職員だろう。村会議員12人。組長9人。尋常・高等小学校長、郵便局長、宮司、巡査、分団長、医師、前村長など。また稚児6人、花持6人などを入れて総勢89人であった。

 当日は、小学校は午後から休みになり、まさに村を挙げての大行事であった。

 そこで注意すべきは因北6ヶ寺の僧侶が招待され参集していることである。各寺の宗派はいずれも重井村と同じ曹洞宗である。このことを単純に解釈すれば、伝六については熱心な曹洞宗の在家信者であり、曹洞宗から外れて新しい宗教を起こした人であるという認識はなかったと思われる。

 次に村を挙げての盛大な行事を行っていることから、伝六の考え方・行動が広く村人の間に浸透し、賛同されかつ尊敬されていたものだと考えられる。そのことはまた、重井村尋常小学校・高等小学校の教育理念に反するものでなかったということを表している。

 死後100年経っても伝六の人気は衰えなかった。伝六が他の宗教家と一番大きく違うところは功過自知録を実践指導したことである。




ふるさとの史跡をたずねて(415)

    

伝六⑮修養団俸誠会

 伝六百回忌が村を挙げて行われたことから想像すれば宗教的に熱心な町民性が想像される。しかし、私の印象では、宗教的には極めて淡白な所だと思うが、百花繚乱だ。

 町内には、バブテスト教会、金光教教会があり、今は無くなったが天理教教会があった。それに因島ペンション白滝山荘は宣教師の住居として建てられた。日蓮上人の供養碑とも呼ばれる南無妙法蓮華経の碑は町内に3箇所もある。村四国もあるし、江戸時代には末広講という代参講があった。数人程度の大師講もたくさんある。

 また、「重井町史年表」には、昭和27年に新興宗教(俸誠会、生長の家)伝来、と記されている。

 今回は、修養団俸誠会について記す。俸誠会については173回「平和一神碑」で少し述べた。当時の話として、「俸誠会へ行けば重井町の名士に一度に会える」と言われたように、各界のリーダーが揃って会員だったのだろう。写真は昭和34年9月23日に平和一神和石を設置した時のもので太鼓が写っている。太鼓を叩きながら「豊年だー、万作だー、よーかったね」と囃しながら登った。まさに瀬戸内の農村にピッタリの光景であった。出居総裁の帰京を多くの人が西港の桟橋へ見送った。尾道駅まで送った人たちもかなりいた。「重井町史年表」には新興宗教と書かれてはいるが、「修養団」であって各自の家の宗教、例えば曹洞宗善興寺の檀家であり八幡神社の氏子であることには、変わりはなかった。

 伝六への民衆の熱狂も似たようなものだったと想像する。なお、伝六への崇拝と白滝山の多数の石仏は別物である。伝六は文政11年3月15日に亡くなるが、2月に阿弥陀三尊像が完成し、前年11月に釈迦三尊像が完成ししていることからも、それはわかる。それ以前から崇拝されていたわけである。

 さて、俸誠会との関わりで重要なことは、全国の会員宛に郵送された、因島支部発行の「反省ノ泉」(月刊)に昭和43年3月から50回に渡り、重井町文化財協会初代会長柏原舒延氏(因島支部理事)によって「霊峰白滝山の沿革」が連載されたことである。その22回には「この功過自知録中には、俸誠会のみ教えに通じるものがありますからその濃い部分を今一度掲載してみたいと思います」と記されている。





ふるさとの史跡をたずねて(416)

        

伝六⑯生長の家

 生長の家については俸誠会ほど書く材料はない。それなのに取り上げるのは、俸誠会・生長の家・伝六と三題噺のようにまとめて考えると便利だからである。お題の決まりに従えば、伝六・新興宗教・重井とすべきであるが・・・。ついでにサゲ(落ち)を考えると「OFF 宗教」と言うことになる。

 さて、生長の家の記憶と言えば、子供の頃「白鳩」という雑誌を近所のおばさんが置いて行った。母親が興味を示さなかったのか、二、三回で終わった。成長してから、それが生長の家の婦人部の機関紙であったことを知った。それだけである。

 しかし、調べて見ると誠に興味深い。まず、創始者の谷口雅春氏が大本教の出口王仁三郎氏の口述筆記などをしていたこと。谷口氏の著書がベストセラーになったこと。また、書かれている奇跡のようなことが読者の周囲で何件も起こったこと。(これは壊れた時計がテレビを見ながら念じたら動き出したと言うスプーン曲げ騒動と似ている。)ここまでは生長の家以前のこと。

 生長の家としては、早くから環境問題に取り組んできたことなど、社会的活動は活発である。宗教的には、神道、仏教にキリスト教、イスラム教、ユダヤ教などを融合させたものであり、万教帰一(ばんきょうきいつ)で、全ての宗教を認める立場を取っている。

 一般的にはシンクレティズム(混合、融合、折衷)と言えるかもしれないが程度によるので単純に割り切るわけにいかない。しかし、多民族多文化社会の増えるこれからの地球では有効であると思う。ただ、元の宗教の希薄化は免れない。

 生長の家で講演活動をされた村上利位氏の本があった。重井町のこととして、お寺は一カ寺で「大きな寺ではあるが、お説教はあまりない」、「お寺のお祭りらしきものがあまりないせいもあって」接待講ができている、と記している。

 このようなところで、昭和27年頃俸誠会と生長の家が伝わり、重井町史に記録されるほどの盛況を示した。しかし、一カ寺の曹洞宗から改宗する人はいなかったのではないか。

 それより130年ほど前に、伝六は功過自知録を村民に指導した。そこにどれだけの宗教的意義があったのだろうか。

*写真は村上利位、『釈迦が喜ぶ般若心経』、新人物往来社、1994




    写真・文 柏原林造