2026年6月3日水曜日

増補版451〜460回

ふるさとの史跡をたずねて(451)

平山画伯スケッチポイント39(今治市大三島上浦町)

 島の生活というものはおもしろいもので、いつも目にしている近くの島々でも、何かの理由がなければめったに訪ねることがない。そして一生訪ねない島の方が多いのである。

 生口島の西北部で育った平山郁夫画伯にとって大三島は対岸の島で夕日の沈む島であった。だから対岸の地は幼い頃から多くの想像をかきたてたことであろう。

 そういう意味では大三島でのスケッチは多いが、このスケッチポイント39「大三島上浦町 盛漁港」には特別の思いが込められたものだと思う。

 しかし、海岸は遠くから見ると多くの夢を誘うが、実際にその場所に行くのは意外に難しい。幸いここまでくると、大久野島経由忠海行きのフェリー桟橋があって海辺に出られる。

 残念ながら貨物船も漁船も停泊していなかったが、かすかに大久野島が見える。その向こうは画伯がかつて戦後通っていた旧制忠海中学校のあったところだから、こちらの方向を描く必然性があったのだろう。




ふるさとの史跡をたずねて(452)

二番札所極楽寺(尾道市因島大浜町一区)

       


 因島八十八ヶ所の二番札所極楽寺は大浜公民館の前にある。一番霊山寺からは海岸道路を南へ歩くのが景色も良いし間違えることもなくて良いと思う。

 この道も所々岬の先端を回った名残の旧道があったりして、島の破壊の歴史を知ることができる。いたるところでこのように自動車道が拡張されるたびに海に面した美しい光景が壊されたことがわかる。

 それはさておき因島大橋の真下を通り速い潮流や遠近の島々をゆっくり眺めるのも楽しい。

 ただ、これが初期の遍路道かというとそうではなく、山道があって、その途中には遺跡やお堂があったようであるが残念ながら現在は通れない。

 さて半島の付け根の大きな堤防が近づいたら右手に二番札所が見えるだろう。公民館の前よりやや東に寄ったところである。

 周辺には235回(『暑往秋収』p.40)で書いた「倉谷新開竣工記念碑」の他、「第弐番大師堂新築寄付者」を記した石碑もある。

 時間があれば、ゴミステーションの横を通って立派な堤防の上を少し歩いてみるのも良いだろう。




ふるさとの史跡をたずねて(453)

三番札所金泉寺(尾道市因島大浜町三区)

       


 因島八十八ヶ所の番札所金泉寺へ向かうには国道まで出て左折する。要するに広い道まで出て南へ向かうのである。少し行くと川があり第三久保田橋がかかっている。さらに南へ行くと、保育所の跡に「週末カフェC0G0」(大浜地域未来交流館)がある。その手前に第二久保田橋がある。橋と言っても川はほとんど見えないので注意が必要だ。元幼稚園の建物が目立つのでその手前だと思えばよい。そこで直角に右折して、まっすぐ進めば間違いなく金泉寺へ着く。ここまでは車を利用しようと歩き遍路をしようと、初心者でも簡単に行けて、島遍路の楽しさを味わうことができるだろう。

 境内には現在のお堂とそれ以前のお堂の建設寄付碑がある。それには大出氏の姓が書かれてあり、重井町に通じる道路に近いから重井村から移住してきた最初の大出氏がこの辺に住んだと想像するのは容易だ。そのせいか、ある案内書に旧姓大出の久保田権四郎氏の生家があると書いてあったが、そうではなかった。久保田記念公園なら近くにある。

 さてその寄付碑の隣の3体の石仏に注目したい。金泉寺のご本尊の釈迦如来が中央にある。右が大日如来、左が薬師如来である。釈迦三尊像としては異例であるが、横一列ではないので釈迦三尊像だと思わない方が良いのではなかろうか。








ふるさとの史跡をたずねて(454)

四番札所大日寺(尾道市因島大浜町七区)

         

 四番札所大日寺については、65回福泉寺(『温故逍遥』65)、181回不動明王(『空手還郷』81)と同じ場所を目指せば良いのであるが、前回の3番金泉寺からの順路を記したいと思う。

 車の場合は、駐車場がないので見性寺に駐めてから戻るのが良いだろう。歩き遍路の場合は地図の通り細い道を南下する。



斎島神社の前を過ぎて右折し、旧久保田邸の前で左折するとゴミステーションの前に細い路地がある。ここを右折して登れば良い。正面が福泉寺、左奥が大日寺である。








 狭い登り道の左下の畑地が旧大浜小学校のあったところである。平地だけでは狭く見えるが、今は民有地になっているこの辺りに校舎、講堂、校庭などがあった。大浜町文化財協会発行『ふるさと』の昭和2年ごろの写真では、左上の三角形の屋根が福泉寺である。





久保田権四郎氏の生家は左中央付近。電柱の真上に大出先祖碑。

ふるさとの史跡をたずねて(455)

               

旧大浜小学校跡(尾道市因島大浜町八区)

 前回地図を載せたため、古い大浜小学校の写真を載せられなかったので、再度書いておきたい。

 旧久保田邸の前で左折する。その後旧久保田邸に沿ってそのまま右折して狭い狭い路地を登るのである。その左手は畑地で小さな段はついているが平地で、だんだんとその畑地から高い位置へ登っていくのである。その畑地のところに旧大浜小学校があった。旧と言っても元と言っても良いのであるが、どちらにしても紛らわしい。

 大浜小学校はこの位置からさらに3番札所金泉寺の西に移転するのであるが、そこもすでになく今は尾道特別支援学校しまなみ分校となっている。だから、そちらも元大浜小学校跡とか旧大浜小学校跡とか呼んでも誤りではない。

 さて大浜小学校の校舎の変遷は、明治6年の酒井氏宅から8年に見性寺に移り、15年に酒井氏の宅地を購入して移り、さらに明治28年に移転し、昭和2年に本稿で言及している地に旧校舎2棟を移転するとともに、新築校舎と講堂ができた。その後昭和60年に、後にしまなみ分校となる所へ新築移転した。そして平成19年に因北小学校へ統合された。

 昭和2年頃の写真には左奥の丘の上に三角屋根の福泉寺が見える。手前の右2棟が旧校舎を移築したもので、左の山側にあるのが新校舎とその向こうが講堂であろう。現在の畑地は講堂のあったあたりであろうか。

 



            写真は大浜町文化財協会発行『ふるさと』による。


ふるさとの史跡をたずねて(456)

 五番札所地蔵寺(尾道市因島大浜町五区)

                


 大日寺の次は五番札所地蔵寺である。車を見性寺に駐めておられる方は、見性寺の方へ帰って行くのではあるが、もう一つ寄り道をして帰る。来た道を少し後帰って、東の方へ寄って帰るのである。と言っても路地の間を縫うように歩くので、やはり地図を見ながら歩くのが良いと思う。



 4番大日寺から元の登り口まで出たら、南下し、楢原家先祖碑のある四角(よつかど)で左折して海の方へ向かう。郵便局を過ぎたら最初の路地を右折する。2軒目の個人宅の一部である。

 あるいは海側から説明すると、海岸通りの国道317号線の、民宿布刈と天理教教会との中間あたりの路地を入ったところ、と言うことになろうか。

 時間があれば海岸通りに出て備後灘を眺めるのも良いだろう。




ふるさとの史跡をたずねて(457)

 六番札所安楽寺(尾道市因島大浜町六区)



 六番札所安楽寺は見性寺の境内にある。だから誰に尋ねても、お寺の場所は教えてもらえる。そうしなくても南西の方角の山の方を見れば墓地の墓石かあるいは山門などが目に飛び込むだろうから、そちらの方向を目指せばよい。具体的に言えば、五番地蔵寺から南へ歩き、突き当たれば右へ、という動作を繰り返す。その時右を向いた時西の方を注意すれば、ほどなく見性寺を見つけることができるだろう。

 それでも見性寺にたどり着くことができなければ、もはや島遍路は断念するか、適当な先達を頼むほかはあるまい。

 見性寺、正確に書けば見性禅寺の山門をくぐれば、左折して突き当たりまで進めば、境内というよりも境内の外に近いところに六番安楽寺がある。隣に無縁墓地があるので、やはり境内と書くのが良いのだろう。

 すぐに安楽寺を目指すのも良いが、ここは山門をはじめ久保田権四郎さんの多大な寄進の跡を留める寄付石がたくさんあるので、それらを探しながら散策するのも良いだろう。そのいくつかについては以前にも書いたことがあるので、今回は触れない。

 安楽寺の堂内には立派な阿弥陀如来像がある。彩色木像である。





ふるさとの史跡をたずねて(458)

 七番札所十楽寺(尾道市因島大浜町十区)

           



 大浜町最後となる七番十楽寺は、遍路道がかつて峠道を越えていたために、かなり高いところにあった。最近では、その峠道が通れなくなったので、わざわざ高いところを遠回りすることになっていた。そのことを考慮して低いところに移して新築された。令和七年四月のことである。そのことは本紙でも報じられた。(四月十二日号)

 本堂前の石柱に書いてあるように地元出身の大黒信治さんが寄進され、地元の大工木本日出夫さんが建てた。

 六番札所安楽寺からは地図を頼りに路地を進むのも良いが、国道へ出て、少し南下して、集会所の手前にある大楠山の登山口から舗装された車道をまっすぐ上ると正面に見えてくる。なお、このお堂の前を左のほうへ入ると土井城跡(連載63回)へ至るので、土井城跡入口の格好の目印にもなった。








ふるさとの史跡をたずねて(459)

 旧七番札所十楽寺(尾道市因島大浜町十区)

              

 せっかくなので、かつての七番札所十楽寺について書いておきたい。耕作する人がいなくなった畑は草に覆われ、いつの間にか樹木も生えて自然に戻ってしまう。平地の耕作放棄地ですらそうであるのだから、かつて耕して山頂に至ると言われた段々畑においても、山林・竹藪に戻ってしまう。

 以前の七番札所十楽寺も、元は竹藪の中ではなかったと思われるのだが、私の記憶にある札所は周囲を竹藪で覆われ、かろうじて入口のところが残っているような雰囲気であった。

 さらに歩き遍路道であった大楠山へ至る農道もイノシシが掘り返した土や小石の間に草が生えていて、消失寸前であった。大楠山へ登る人以外が通らなくなったら大浜側の峠道も無くなる。

 そして今後はこの旧札所も竹藪に覆われてしまうことだろう。入口近くにあった遍路道標も。

 これまで管理されてきた方々への、感謝の気持ちを込めて古い写真を載せておく。










ふるさとの史跡をたずねて(460)

 十番札所熊谷寺(尾道市因島中庄町新開)

            

 いよいよ中庄町に入る。場所は簡単だ。丸池の隣の集会所の隣と書けばわかりやすい。丸池についても、その隣にある道路改修碑についても以前書いたので場所は説明するまでもないと思うが、丸池と言っても広いので、そのどの辺りかと言うと、北東である。

 因島八十八箇所霊場が出来た時には、海沿いの道は無かったので、船でお参りするか、峠超えの山道を通るしかなかった。でも、現在と違い峠道の周囲は畑で、遍路道といっても畑道であったので心配する必要はなかった。そして降りたところもまだ大浜町で、一面干拓地であった。  我々がその当時のことを想像できないように、初期の参拝者には現在のような舗装道など想像の埒外であっただろう。

 ただ、我々は注意して見れば、まだまだ至る所に干拓地の痕跡があり、初期の干拓地は想像できなくても、その面影を感じることはできる。













( 写真・文 柏原林造)