2022年2月28日月曜日

重井村四国八十八ケ所霊場 因島重井町公民館だより連載 51〜

重井村四国八十八カ所 いんのしまみち しげいみち 

重井村四国八十八ケ所霊場(51)202203


 青木城跡を右に見ながら山側の歩道を歩くと玉屋の前に出ます。石垣の中に村四国60番横峯寺があります。



ここで青木城跡について説明すべきですが、青木山を取り囲む広大な干拓地の土はどこから持ってきたのだろうかと考えたら、水軍時代の青木山の形を想像することは難しく、意味がないことがわかります。今は頂上に龍王社が祀られ、龍王山とも書かれますが、水軍とは関係はないでしょう。龍王社は八大龍王を祀ったものです。鎌倉三代将軍右大臣実朝の歌に「時によりすぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ」とあるように八大龍王は雨の神様ですから、雨乞いのために祀られたものです。権現山を龍王山と書くのも雨乞いにちなむものです。さて60番横峯寺に話を戻すと、ここから伊浜新開、宮沖新開と目の前に別の干拓地が広がります。現在でも干拓の遺構がいたるところに残っています。






重井村四国八十八ケ所霊場(52)2022年4月

 次は東浜の波止の付け根にある島四国87番長尾寺へ向かいます。島四国の87番と88番大窪寺のあったところは軍用地になり、戦前、現在地へ移転されたということです。平和堂の辺りから北側が軍用地になったと思われますので、87番長尾寺は平和堂の駐車場の近く、88番大窪寺は三和ドックの入り口付近にあったのではないかと思っていますが、よくわかりません。さて、島四国87番長尾寺の中には村四国61番香園寺があります。これは文字から確実に一致します。しかし村四国63番吉祥寺はどこにも見つかりません。仕方なくここの隣に置かせてもらっています。



したがって、62番宝寿寺は後回しにして、ここで61番63番にお参りしておくということになります。島四国長尾寺の周辺には柏原水軒翁築港碑、東浜波止寄附録の石碑や金比羅大権現の石柱などがありますから、ここで休憩しながら眺めるのもよいかと思います。


重井村四国八十八ケ所霊場(53)202205

 次は中学校の手前、平和堂の駐車場にある62番宝寿寺を目指します。水軒翁の石碑の裏を通って、伊浜の土手を歩きましょう。まず樋門の上に木製の伊浜新開の住吉神社があります。JAの南の池が伊浜新開の潮回し(タンポ)です。まもななく県道と合流し、古い路地が北へ伸びます。ゴミステーション(古紙置場)の奥に宮沖新開の住吉神社があります。その東の池が宮沖新開の潮回しです。県道沿いに歩きます。トウビョウガワラを超えて、中学校との中間あたりで左手の畑の向こうの土手を見てください。その下は見えないのですが細口新開の潮回しがあってその上の土手に小さな細口新開の住吉神社が見えます。少し歩くと中学校の手前の右手駐車場に62番宝寿寺があります。(写真)

これがずっとここにあったのか、どこかから移ったのかはわかりませんが、島四国の長尾寺の元の場所の近くにあったものだと思われます。そしてこの辺りから北が戦前、戦中は軍用地となっていたものだと思います。



重井村四国八十八ケ所霊場(54)202206

 重井中学校前の62番宝寿寺とお宮の上、島四国88番大窪寺の後ろにある64番前神寺(写真)の間に63番吉祥寺があるのですが、それがどこにあるのかわかりません。



それで以前は深浦新開潮回しの土手上にあった住吉神社跡辺りではないかと推定したこともあったのですが、現在は東の浜にある島四国87番長尾寺の中に63番吉祥寺の石板を置かせていただいております。伊浜新開か、それより北にあればよいのですが、わかりません。ということで次はお宮の上に行きます。多くの伝承がある八幡神社ですが、確実なことは永禄12(1569)年9月21日に因島村上氏6代の吉充によって中庄八幡神社から勧請されたことです。これは中庄側の資料にもあります。その時から八幡神社になったので、それ以前の呼び名はわかりません。また、山の神社、青木城跡と一直線上にあります。地図を出してみれは確認できます。

周辺案内:こちらもご覧ください。



重井村四国八十八ケ所霊場(55)202207

 先日、福山市新市町の備後一宮吉備津神社に参拝した。たまたま神事が行われており太鼓の音が聞こえてきた。それがなんと重井町の神輿の祭り囃子と同じであったのには驚いた。さて、重井村四国1番は島四国83番一宮寺の中にあり、外には吉備津彦の命を祀った吉備津神社の小祠がある。(写真)



紛らわしいが元々「字一の宮」であるところへ、島四国一宮寺が設置されたのである。重井町の吉備津神社は多くの人にその存在すら忘れられているが、その神事の太鼓は大疫神社の祇園祭に引き継がれたということだろう。一昨年の6月号に書いたように神輿は京都の八坂神社系の大疫神社(祇園さん)の夏祭りの出し物であった。一方、厳島神社の明神祭はよく知られているように管弦祭であったが、それと融合することによって鉦や笛が加わったと思えばよいのかもしれない。


重井村四国八十八ケ所霊場(56)2022年8月

 次は、白滝山に登ります。観音堂前広場の、トイレの横、石垣の下に65番三角寺があります。



これは観音堂前の磨崖仏のある岩の中段にあったものです。寺名を書いた石版を付けるに当たって、元の景観を壊すのもよくないので、この位置に移動しました。本来なら御本尊と弘法大師像とセットになっているべきですが、大師像は元の所に残したままです。何体かあって、どれとセットであったかもわからないので、これでよいでしょう。実は弘法大師像は釈迦三尊像周辺や展望台周辺にも多数あって、大師信仰の人気が伺えます。さて、この際ですので、白滝山の名前について書いておきます。西日本では崖のことを「タキ」と言いました。崖山と言う意味で、それに滝の字を当て滝山と書かれました。のちに岩の表面が白く見えるので白滝山となりました。大雨が降ると岩の上を白い滝のように水が流れるからだという俗説がありますが、最近の大雨でもそのような現象を見た人がいないのは当然でしょう。


重井村四国八十八ケ所霊場(57)202209

 白滝山の話を続けます。伝六さん(写真)


は、仏教、儒教、神道から新しい宗教「一観教」を創った、と多くのところに書かれております。ありえないことですが、キリスト教まで加えて4つの宗教から創ったと書いているものもあります。それでは「一観教」とはどんな宗教で、元の3つあるいは4つの宗教とどう違うのかを知りたいものですが、そのことを書いたものはどこにもありません。おそらく、上記のことを書いた本人もわからないのではないでしょうか。伝六さん生存中も死後も、そして現在も、上記の表現以外は「一観教」という言葉は使われておりません。また、現在も「一観教」の信者だという人を私は知りません。信者の方がおられれば「一観教」とはどんな宗教なのかお聞きしたいものです。以上のことから白滝山の説明に「一観教」と書くのは全く意味のないことです。ただ、一つの可能性として、明治元年(実際には慶応4年)の神仏分離政策に対応し、白滝山を善興寺の奥の院にして、村をあげて新宗教色を消し、白滝山を曹洞宗系の五百羅漢霊場にしてしまったのかもしれません。それは伝六さんに対しては、はなはだ失礼なことをしたことになります。もし、そうであったとしても「一観教」と書く以上は、それがどんなものであったのか説明しないと意味がありません。


重井村四国八十八ケ所霊場(58)202210

 それでは伝六さんは何をした人なのか書いておきましょう。まず翻訳書が発行されていた「功過自知録」を広めました。これは道徳の点数化で良い行為、悪い行為をプラスマイナスで記録し生活を反省するものです。宋末から明にかけて中国で流行りました。伝統宗教である儒教へ外来宗教である仏教、新興宗教である道教が合わさったもので、良いことをすれば運命が開けるという考え方が元になっています。今でも他人よりよく働き無駄使いをしなければ生活は豊かになります。徳川封建社会に反するものではありません。観音菩薩の生まれ代りだと自ら言う伝六さんの言う通りにして生活が良くなったのは、観音信仰の現世ご利益でしょう。さて、白滝山は一番高いところに阿弥陀三尊像があるように極楽浄土を作ろうとしたものです。庶民を極楽浄土に導くのが観音菩薩の役目です。伝六さんは曹洞宗ですから「南無阿弥陀仏」と唱えれば極楽へ行けるとは言わなかったでしょう。善行を積んで羅漢さんになって極楽へ行こうと言ったのだと思いまう。石仏工事に寄進することも善行だということは、言われなくても私でもわかります。ということで来世往生の極楽信仰へと発展しました。展望台側の観音菩薩像が伝六さんを表しますから、その下にある一観夫妻像というのは余分です。伝六さんの心を知らなかった人が作ったのだと私は思います。



重井村四国八十八ケ所霊場(59)202211

 白滝山の鐘楼の手前に重井村四国66番雲辺寺があります。目をあげると大きな弘法大師立像があります。白滝山の主たる石仏が北を向いているのにこの立像だけが南を向いています。空海の故郷・四国の方を見せてあげていると言う説がありますが、悪い冗談です。弘法大師空海のライフワークは高野山に真言道場を作ることだった訳ですから、四国より紀州の方を見せてあげなくてはなりません。・・違うのです。そう言う問題ではなく、白滝山の頂上に四国88ケ所の聖地を作った時、正面を南側としただけです。(白滝山五百羅漢の正面は北側です。)弘法大師立像の東側に小さな石堂があって、これも南を正面としています。



(写真)これが四国88ケ所御本尊と呼ばれているものです。ご存知のように四国には、番外寺を除いて88ケ寺があり、それぞれに御本尊がある訳です。どういうマジックを使えばその88体の御本尊を1つにすることができるのか、私にはわかりませんが、1つお参りすれば88ケ寺お参りしたことになる、ありがたいのやら、ありがたくないのやらわからなお堂なのです。この御本尊は雲辺寺のところからは見えませんので、展望台の下に回ってご参拝してください。



重井村四国八十八ケ所霊場(60)202212

 白滝山から下山する前にぜひ、島四国番外札所白滝観音寺にもお参りしましょう。そして下山は、登ってきた時とは反対の参道を降りるのがよいでしょう。八合目駐車場からの参道と表参道との合流点付近は馬の背になっています。まっすぐ西へ降れば大日如来、左(南面)へ降れば島四国85番八栗寺があります。今回はこちらへ向かいます。八栗寺の周辺には石の小祠が3つあります。道了大権現、愛宕神社、秋葉神社です。明智光秀ゆかりの京都の愛宕神社は火伏せの護符で有名なところです。修験道の道場であった歴史もあります。また、防火用の空き地へ火伏せの秋葉明神を祀ったところが東京の秋葉原です。道了大権現は修験者だと考えられます。ここから奥の院と呼ばれている方を見ると修験道の修行をするのに適した絶壁がよく見えます。


(写真)「火の用心」の護符は修験者が配っていたという歴史がありますから、ここの三祠がまったく無関係ということはないとないと思われます。急な石段を降りて、くぐり岩の下を抜けるとまもなく表参道と合流します。


重井村四国八十八ケ所霊場(61)20231

 表参道とくぐり岩・八栗寺方面との三叉路より少し下の北側(登り時では左側、下り時には右側)の脇道の先に岩の上に石仏があります。



(写真)今は周辺の手入れが行き届いていますが、やがて草木が茂って見えなくなると思います。作られた時には周囲の草木がなく、登り時に三叉路から左へ回った表参道からよく見えたのかも知れませんが、なぜこのようなところにあるのか不思議な感じがします。六地蔵周辺の石仏を作った余勢で作り、ちょうど良い大きな岩があったのでその上に載せたのかもしれないし、あるいは上の方から落ちてきたのを載せたのかもしれない。または、自ら彫って奉納するのに、頂上まで上がるのを控えてこの辺りで彫ったとも考えられます。左2体は明らかに素人の作品だと思われます。


重井村四国八十八ケ所霊場(62)20232

 今回は仁王像について書きます。ただ、写真は仁王門の屋根の影になって良いのが撮れません。また、囲いの中なので全体像も撮れないのが残念ですが、そのおかげで風化を免れ、綺麗なままで保存されています。

足の先から頭の上までが、177cm。足が接している板は幅57cn、奥行47cm(左は46cm)、厚さ16cmで、ここまでが一つの岩からできています。腹部の横幅は60cm(左は64cm)です。囲いの中で大きくて正確には測れませんのでおよその値だと思ってください。作者は尾道石工太兵衛で白滝山石仏工事に関わった職人の中心だった人だと思われます。しかし、これは白滝山とは関係なく、天保5年に八幡神社に作られたもので、明治元年にここに移されました。同じ作者による善興寺の仁王像と同様、最高傑作の石造物です。



重井村四国八十八ケ所霊場(63)20233

3月19日に別記のように、権現山(竜王山)へ登りますので、今回はちょっと脱線して、公民館から権現山までの村四国札所を紹介します。まず、お寺の入り口に18番恩山寺があります。道路に面していますので、車に気をつけてください。さて、東へ歩きます。最初に左手に17番井戸寺があります。共同井戸があったのでしょう。勉強堂の前で右折しますが、少し東に16番観音寺があります。坂を登ると右手に15番国分寺、左へ向かう細い道に14番常楽寺があります。次は坂道の左手に13番大日寺が畑の中にあります。そして権現山登山口看板のところでは、右手・お寺側に11番藤井寺があります。そこから山の神の方に向かう坂の上を見ると右手に12番焼山寺が見えます。そして山道に入ったらすぐに右手に10番切幡寺があります。逆順になりましたが須越奥からこちらへ廻るのが巡拝路だったのでしょう。詳しい地図と写真は冊子『末広講の夢 -重井村八十八ケ所-』をご覧ください。



重井公民館でお求めください。1冊1000円です。見本を大会議室前の廊下に掛けてあります。



重井村四国八十八ケ所霊場(64)202304

 仁王門の下には墓所と呼ばれる平坦地があります。伝六さんや白滝山の堂守や伝六さんの弟子で秘書的な役割をした初五郎夫妻の墓があります。西向きの一列の墓石群の左端に67番大興寺があります。その隣の石仏から白滝山の石仏群の個数を数えるのだと記した板片がいつの頃からか置いてありました。山頂の65番66番の後、下山して、ここから川口、丸山を経て一本松の88番大窪寺で終わります。68番神恵院は西洋館(因島ペンション白滝山荘)の下、フラワーセンター方向へ右折する手前にあります。ここでフラワーセンターの方に行かず、まっすぐおりて行くと伝六ロードと交差するところに80番国分寺があります。(写真)。ここからは必ずしも番号通りには並んでいないので、途中、行きつ戻りつしながら、近いところから回ります。80番からは坂を下り、途中70番本山寺を経て島四国84番屋島寺へ向かいます。お堂の中に71番弥谷寺、お堂の前に72番曼荼羅寺があります。そこから70番まで引き返し右に進路をとると69番観音寺があります。

  

 今回の80番から69番までのルートYAMAP


重井村四国八十八ケ所霊場(65)20235

 69番観音寺からさらに坂を登ると伝六ロードに戻ります。かしはら電気の下を南へ進むと73番出釈迦寺があります。ここから一本松の88番までは、伝六ロード沿いの左側と、さらに左の路地にあり、複雑です。文字で説明するのは難しく、詳しくは『末広講の夢』をご覧下さい。地図の一部を掲載しておきます。



73番から南を見ると、かすかに78番が見えていますが、その前に十字路を左へ曲がると74番75番76番77番があります。そこで引き返し、十字路を左折して南に向かいます。最近ではスマホの地図を見ながら探される方が多いようです。位置情報を取得しながら歩いてみました。「YAMAP 23299465」で検索してください。文字入力の場合は数字の前にスペースを、音声入力の場合は一息に発声してください。






重井村四国八十八ケ所霊場(66)20236

 前回の77番道隆寺のところが峯松神社の参道入口です。竹藪の中を休まずに登れば5分で着きます。大きな岩に、「峯松元祖 豊安大権現 天保十己亥年二月」などと彫られています。



この年に先祖を祀ったということで峰松氏の重井来住はもっと古く、足利尊氏の家来が尾道で宿所の娘さんと一緒になり重井に来たという話は有名です。九州下向の時と、九州から東上の時の2つが伝わっています。峰松姓が佐賀県鹿島市に多いことを考えると、東上の時と考えるのが自然です。さて、元祖碑の大岩の前には清水寺の舞台のような休憩所が崖の上にあったのですが、今は瓦が少し残っていてその名残を留めているだけです。灯籠や注連石などと共に昭和6年頃に整備されたものと思われます。昭和6年の寄付石があったのですが、薮の中に消えてしまいました。なお、峯と峰は同じ漢字の異体字です。各家によって戸籍に書いてある字体が使われるのは「さいとう」さんや「わたなべ」さんの場合と同様です。


井村四国八十八ケ所霊場(67)20237

 伝六ロードを一本松の方へ向いて歩きます。太陽光発電パネルのある丸小山の下の電柱の隣に84番屋島寺があります。



隣のスロープが登り口です。登ると村上神社があり、丸本屋系の村上氏の先祖を祀っています。実は屋島寺はそこにあって、さらに東側に降りるというのが昔の遍路道だったと思われます。しかし東側へ降りる道はなくなっているし、こちら側を登る道も危ないので、下に降ろし、ここを84番屋島寺にしました。それ以前にここにあった83番一宮寺は少し北側に移しました。85番八栗寺は83番と84番の間の坂道を東へ行くと、小丸山の東側にあります。その南へ下る道路沿いに87番長尾寺があって一本松に出ますと88番大窪寺があります。86番志度寺は複雑で、85番87番の中間辺りで細い路地を左折した突き当たりにあります。現在の山下屋のところに丸上本家の丸本屋があり、その前の山が丸本山で、略して丸山。今は丸小山と呼ばれていますから川口新開一町田ができた時に、削られて小さくなったのでしょう。既に峰松氏がおり、少し南へ村上氏が住み、その間に柏原氏が上坂から移るのが慶長5年(1600)です。




重井村四国八十八ケ所霊場(68)20238

 88番結願寺は一本松の伝六ロードの東側、白滝アパートの駐車場にある大窪寺です。(写真)

東の山側から降りてきたところです。江戸時代にはまだ伝六ロードの南端はできてなくて、小丸山の東を廻っていたのでしょう。さて、88番大窪寺については謎があります。ここが88番であることはすぐ前に87番、さらに前に86番がありますから間違いはないと思われます。しかし、石堂の中にある御本尊には石手寺の文字が見えます。もちろん、順序、それに石堂の壁面には「八十八番」とありますから間違いはないでしょう。51番石手寺は元岡崎医院の東、ぎおんさんの南東の崖下ですから、道路工事などで移動させるのとは、異なります。そこで、私は色々と考えたのですが、重井村四国には完成はされていないけれど、もう一つ別の系統があったのではないか、という想像です。複雑な話なので、私個人の妄想としておきますが、興味をお持ちの方はそのような視点で再考されるのも面白いと思います。


重井村四国八十八ケ所霊場(69)20239

 79番高照院は崇徳上皇崩御ののち、その処置を都へ問い合わせ令旨を仰ぐまでの14日間安置されたところで、天皇寺とも呼ばれます。重井村四国の高照院は88番大窪寺から伝六ロードの北の方を見ると、太陽光発電パネルで覆われた丸小山の手前に見えています。



遍路道が丸小山を登り東側を巡るようになっていたように、かつてはこの道はほとんどなく、明治27年に脇田・舟原の道路改修が行われ、さらに明治44年に再改修されたことが川口大師堂下の道路改修碑に書かれております。そののちに村四国の移動が見られたものと思われます。

 ここには79番の御本尊の他、他の御本尊もあります。80番国分寺も大きく移動しており、79番高照院の元の場所がわかりませんので、遍路道から外れますが、この位置にしておきました。従いまして、前回記したように廻り、あとで79番高照院にお参りするという順序になります。




重井村四国八十八ケ所霊場(70)202310 

一本松の三角形の安全地帯(花壇)には村四国の石碑が建っていますから、ここがスタートとも取れるし結願所と考えても良いでしょう。この場所の初代と呼ばれている一本松の写真があります。昭和53年(1978)のものです。道路はまだアスファルトで舗装されていません。その松の南側に砂川がありました。今は暗渠になっていますが、その跡を辿ることができます。上流に向かうと西に向かっていた川が大きく南に人工的に変えられています。まっすぐ西に流れれば、イ区とロ区の間を流れて一町田へ注ぐことになります。だから、イ区が「川口」と呼ばれたことがわかります。それではなぜ南に方向を変えたのかというと、干拓してできた一町田へ水を入れないためです。そして今も重井川に注ぐようになっています。また、重井川から逆流しないためには高い位置に作る必要から相当地上げされたことでしょう。写真とほぼ変わらない現在の高さから考えても船着場としては高過ぎますから、一町田干拓以前はもっと低い位置に堤防はあったと思われます。ですから、一町田干拓以前からもし松が植えられていたとしてもかなり離れた所に移されたことでしょう。このようなことから写真の初代の一本松は、江戸時代に一町田が干拓された後に植えられたものだと、私は考えています。



重井村四国八十八ケ所霊場(71)202311

今回から3巡目になりますから1番霊山寺からスタートです。ここは、島四国83番一宮寺の中にあります。ここで再度言葉の説明をいたします。八十八ケ所といえば四国4県を徳島、高知、愛媛、香川と、弘法大師空海ゆかりの霊場を巡るお遍路さんが有名です。あまりに有名で人気があり、いつしか各地にその小型版ができ、身近に四国遍路の追体験ができるようになりました。こういうのを一般的には「写(うつ)し霊場」と呼びますが、個別に場所名を添えて○○四国八十八ケ所と呼ばれることが多いようです。そういうものの因島だけで完結するものが因島四国八十八ケ所霊場です。略して島四国と呼びます。新四国などとも呼ばれたことがあったようですが、今ではあまり使われません。島四国に対して四国の本場のものを本四国と呼びます。そして、さらに複雑なことに、重井村だけで完結したものが作られ、これを重井村四国八十八ケ所、略して村四国と呼んでいるわけです。ですから村四国1番霊山寺が島四国83番一宮寺の中にあるということです。


重井村四国八十八ケ所霊場(72)202312

四国にある八十八箇所の札所のミニチュア版を作るということはどういうことでしょうか。まず本四国が阿波徳島から高知、愛媛、香川と四県を時計回りに回っているように、設置場所を時計回りに配置するのが多くの例で共通しているようです。広さは1箇所にまとめたものから、ある地域を巡るものまで色々です。重井村四国は中間的な広さだと思われます。次に四国では、本堂と大師堂で「般若心経」を読経奉納するのがお参りの基本です。本堂では札所ごとに異なるご本尊があり、大師堂には弘法大師空海の像があります。このことは重要なことで、四国八十八箇所の写し霊場を作るということは、ご本尊と弘法大師像のセットを設置するということになるわけです。ご本尊は全て異なるというものではありませんが、各札所固有のものです。ですから番号とご本尊には正確な対応が必要です。すなわち、番号、寺名、ご本尊で1つの札所が確定するのです。さらに札所ごとにご詠歌が対応しています。全体図は小さくて見えにくいと思います。詳しくは『末広講の夢』(1000円、公民館にて販売中)をご覧ください。




          

重井村四国八十八ケ所霊場(73)202401

昨年、因島大橋開通40年ということでしたが、その建設工事とともに一本松付近の光景は様変わりしました。一本松付近まで海だった、と想像することは容易ですが、さらにそれより南も海だったと想像することは難しいでしょう。島四国73番一の宮寺付近を写した写真があります。一の宮寺下の道を少し南へ行ったところです。写真の道はこの位置に残っています。電柱と白滝山の稜線が交わるところが峯松神社です。荷車の後方の一段低くなったところが田んぼでその向こうは重井川の土手です。土手と家の間の左右に走っている道が中庄町へ向かう道です。これらの位置は、現在と同じです。今は、しまなみ海道を作るために山を削った土砂で埋められ平地になっていますが、右側がやや高くなっています。牛が写っている道がかつての海岸線だったと想像できます。

















重井村四国八十八ケ所霊場(74)202402

みつばちの裏は蛍の名所であるが、ヒバリも鳴くし亀もいる。亀に出会ったら、剥製(はくせい)になって金の容器に入れて飾ってもらうのと、泥の中で遊んでいるのとどちらが良いか尋ねてみるがよい。さて、村四国1番霊山寺のある島四国一宮寺の下には、金の容器にたとえるにはおこがましい倉庫であるが、「だんじり」の剥製がある。いや、剥製でなく本物である。しかし、永久に使われることはなかろうから剥製と変わらない。だんじりそのものも、作った人も、こんなところで保管されるされるよりは、傷ついたり、壊れたりしてでも、町民の前でひきまわしてほしいと思っているに違いない。しかし、重井の伝統文化の名残として保管されているだけである。すなわち伝統は絶えたのである。今、地方の急激な人口減は、伝統文化を含めてあらゆる場面で危機にひんしている。状況に合わせて大胆に変えていかないと同じ運命をたどると、だんじりの剥製は語っている。




重井村四国八十八ケ所霊場(75)202403

重井村四国1番霊山寺のある島四国一宮寺の下にだんじりが保管されていることを前回紹介したが、その隣に「重井町民具館」がある。「館」というほど立派なものではなく、単なる倉庫である。しかし、中にはかつて町内で使われていて、今は見向きもされない、貴重な物がある。しかしそれらを保存管理することが大変ことは、ここより物の多い瀬戸田町の塩の資料館や伯方島の城山公園にある資料館があいついで公開をやめていることからもわかる。椋浦町の船の資料館も、閉館になった訳ではないが似た様な事情であるから同じである。これらのことから、こういう施設を地域で維持することがいかに難しいかがわかる。思うに県レベル以上の施設と予算があって初めて保管と維持ができるのではないだろうか。もちろん、地方のものが中央で保管されるという弊害もあるが。では、古い民具がなぜ貴重かというと、2度と作られることのない品々が当時の知恵を集めて作られ、使われたという人々の歴史を留めているからである。しかし、それを使ったり見たこともない人にはその価値の半分もわからないかもしれない。問題はそんなところにあるのかもしれない。


重井村四国八十八ケ所霊場(76)202404

前回、重井民具館について述べたが中の物を紹介しないと意味がないとのご指摘があったので1点だけ紹介しよう。お急ぎの方は『末広講の夢』を見ていただきたい。(なお峯松神社の参道は村四国77番道隆寺から登る。地図と写真を掲載。)さて、民具館には「縄をなう機械」がある。手前の左右から藁(わら)束を数本ずつ入れると向こう側から縄になって出てくるという珍しいものである。子供の頃農業祭で一度見たことがあるが、同じようなものを購入された方がいたとは意外だった。それにここで遭遇したのは更に意外だった。2組の稲藁はよじられながら奥へ入り、その先で更によじられるという仕組みである。縄は「あむ」ものではない。「なう」のである。正確には「稲藁をなうと縄になる」と書くべきだろう。すなわち数本の稲藁を2組それぞれよじり、その2組を編(あ)むのである。これが「縄をなう」ということである。できた縄は元に戻ろうとする(弾性)。2組の藁束もそれぞれ戻ろうとする。2組が戻ろうとするのと各束が戻ろうとする方向が逆になっていて、藁の摩擦で打ち消しあうので縄は安定する。藁の強度に加えて弾性と摩擦がちょうど良いのだろう。麦藁ではこういうわけにいかない。








重井村四国八十八ケ所霊場(77)202405

除虫菊の古い写真を見ていると、所有者ごとにきれいに区分けされた段々畑が見事である。このような重井町の光景を見て、周防大島出身の民俗学者宮本常一氏は中世荘園の面影を留めていると語った。荘園が順次払い下げられた名残であろう。このことは友貞、和貞などの荘園に関係したものと推定される字名のあることからわかる。重井の名はまず重井浦として記され、のちに重井庄となる。これは中庄町の東西に外浦、西浦があるように、荘園・中庄の北側の山を越えて求められた港であった。一本松の周辺に舟原という字名が残っているのはそのためであろう。塩の荘園であるから製塩の最終工程で大量の火力が要求され樹木伐採は山を畑に干潟を塩田へ変え、港も遠ざかった。その重井庄発祥の面影の大部分は、棚子山の開削、しまなみ海道造成の残土による地上げ、さらに圃場整備により今は古い写真でしか見ることはできない。



重井村四国八十八ケ所霊場(78)202406

重井村四国1番霊山寺のあるところが、なぜ「一の宮」なのか考えてみたい。全国に一宮という地名は多い。それはその国の1番目に権威のあるお宮があったからである。国といっても今でいう県レベルの話であるが。そして高松市に讃岐国の一宮があったことによって本四国83番一宮寺がある。それで島四国の一宮寺がここに来た。だからここが「字(あざ)・一宮」かというとそうではない。それは島四国が明治45年の創立であるのに、隣にある石造の小祠には「吉備津彦命」「イロ組中」の他「明治二十六年」の文字が刻まれているからである。「二十六年」は読みにくく、もっと前かもしれないが、ともかく島四国よりは早い。だから、「字・一宮」の地へ島四国一宮寺を持ってきたのは間違いなかろう。それでは「吉備津彦命」の小祠が建立されて、「字・一宮」になったのか、それとも「字・一宮」にこの石の小祠が建てられたのかは、わからない。重井荘がこのあたりから発祥し、近くに一宮が立てられていた、と考えたいが、しかし私の記憶ではここより南に人が住んでいたとは思われない。だから明治の神仏分離令以来の神道復権の流れの中で現・福山市新市町にある備後一宮吉備津神社より勧請されたと考える。その時、祭典音楽も伝えられた。「馬神太鼓」や「十七夜」で聞く太鼓と同じリズムを新市町の吉備津神社の神事で聞くことができる。





重井村四国八十八ケ所霊場(79)202407

そろそろ次に移ろうかと思ったら、なぜここが1番なのか、疑問に思った。四国八十八ケ所の写し霊場は有名な小豆島をはじめとして全国各地に数多くあり、ある地域を回るものから、1箇所にまとまったものまで、その形態も多様である。そして必ずといっていいほど四国に合わせて右回り(時計回り)であり、それに地域の地形の制約を受けたものとなっている。また可能であれば88番結願所は1番に近いところに戻って来る。さらに可能であれば高い山とか岬の先端などの本四国の地形と似たところがあれば利用するというのが、よくあるパターンである。江戸時代の地形の記録がないので明治30年測量の地図を示す。建物のあるところが黒くなっている。家のあるところには道があり、復元した村四国のルートとよく重なっていると思われる。こうに考えると、ここを1番として一本松を88番とするのはよく考えられた配置であることがわかる。特別にここを1番にする理由があったのかもしれないが、やはり配置上の理由からだと思う。そうすると重井村の一宮社があったからだとも言えないから、村四国以前から一宮社があったとは必ずしも言えないことになる。




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重井村四国2番へは、1番がある島四国83番一宮寺の下の道路を北上します。地図の上で北上ですが、は重井川と同じ方向ですから、少しずつ下がって行きます。山田口で有浜の県道と合流します。そこはかつて半鐘台(警鐘台)があったところで、道路改修碑と道路標識が残っています。そこまでに村四国2番極楽寺、3番金泉寺があります。山田、鄕山田、、有浜という地名が土地の形態をよく表しています。2番3番は道路沿いにあって背後は山側の傾斜地、道路の東側はさらに低い平地ということで、この道路沿いが、遠い昔、海との境に近かったのだと思われます。ただ、道路は時とともに次第に直線になって行きますから、元の海岸線のままであることはないでしょうが、大雑把に言えばそういうことになります。3番金泉寺のあたりは小山がせり出していますからもっと複雑だったと思われます。それから村四国のお堂そのものも長い間に移動されたものがあるでしょう。道端のものは道路拡張にともない奥へ移動されるのは当然として、民家に接したり個人の敷地内にあるものは家の建て替え等で動かされることはよくあることだと思われます。そんなことを考えならが想像力を働かせてください。





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3番金泉寺から少し北へ行くと県道に出ます。その複雑な三叉路から権現山の方へ向かう道の北側は一段低くなっていて、かつては田んぼだった雰囲気があります。ここが「和貞」で、少し上の溜池が「和貞池」です。「友貞」と同様の荘園時代の文字通り名残である。永禄12年(1569)に因島村上氏六代吉充の命で八幡神社を中庄から勧請した柏原忠安の子供は、慶長5年(1600)上坂土居から次男が川口へ移り、三男は和貞に移ります。川口にはすでに峰松氏が住んでいた。丸本屋系の村上氏も前後してやってくる。この頃はまだ一本松より南まで海であった。しまなみ海道造成の残土で覆われる前の光景を覚えておられる方は少なくなりましたが、今でも一本松から北を眺めればわかる通り、一本松付近から北側を干拓するには、長右衛門家の人々の出現を待つ必要があった。当時の重井村には村上水軍を除いて、そのような人材はいなかった。水軍は基本的には干拓はしない。忠安の長男は村上氏に従い長州へ行きます。上坂には弓瀬氏、大元屋系村上氏がおり、そこへ長右衛門家が戻ってくる。1603年から江戸時代ですから、その少し前のことです。





(因島重井町文化財協会・柏原林造)