2018年1月29日月曜日

重井村四国八十八ケ所霊場 因島重井町公民館だより連載

重井村四国八十八カ所 いんのしまみち しげいみち       51-
(写真・地図は追加してあります。また、本文も一部変更しております。)








重井村四国八十八ケ所霊場(1)    2018年1月号
 四国八十八ケ所の霊場巡りは長い歴史をもっており、そのミニチュア版が各地に作られていることでも有名です。重井には、因島全体を巡るものの一部と町内で完結するものの二種類があります。四国のものを「本四国」、島内のものを「島四国」、そして町内のものは江戸時代の終わり頃、重井村民により作られたので「村四国」と呼んで区別されてきました。その重井村四国八十八ケ所を紹介します。

 1番霊山寺は山田の島四国一宮寺の中にあり(写真)、そこから町内を時計回りにほぼ一周して一本松の88番大窪寺へ戻ります。一番西は播磨バス停の島四国前にある32番禅師峰寺(ぜんしぶじ)です。

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重井村四国八十八ケ所霊場(2)    2018年2月号
 島四国一宮寺の下の道路は、かつて田熊・土生方面へ行く唯一の道でした。この道を北へ進んで有浜に出たところが半鐘台があったところで、今は道標や道路改修碑が残っています。有浜に出る手前に村四国2番極楽寺と3番金泉寺があります。共に道路の西側にある小さな石のお堂の中にあります。2番極楽寺は奥の観音像に文字が書いてあります。3番金泉寺は「三はん 金泉寺」の文字が読めます。特に朝日が斜めから当たっていると、よくわかります。(写真)
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重井村四国八十八ケ所霊場(3)     2018年3月号
 有浜に出たら重井川に沿って井上橋近くまで下ります。道路の西側に島四国根香寺のお堂があります。その横の石の小さなお堂が村四国4番大日寺です。(写真)「第四番   大日寺 再建 願主 末廣講中 丈平 幼吉 藤三良」などの文字が読めます。次は文化橋の手前で左折して須越奥へ向かうと、すぐに6番安楽寺があります。「六はん 安楽寺 砂田 廿一人組」と書いてあります。5番地蔵寺は駐在所前の島四国国分寺のお堂の中にあります。後でお参りしてもよいでしょう。





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重井村四国八十八ケ所霊場(4)     2018年4月号
 砂田の6番安楽寺の次は島四国白峯寺の前にある7番十楽寺です。ここは善興寺に寺院整理がされる前には無量寺があったところで、現在は荒神社と呼ばれています。また境内には柏原神社が建っています。8番熊谷寺、9番法輪寺は、ここから須越奥池へ降りて行く途中にありますが、道がありませんので、整備が必要です。10番切幡寺は須越奥池から農道(鉢巻道路)を越えた位置にありますが、ここも通れませんので、上坂の権現山登山口から回ります。権現山へ登る登山道で最初に出会う石仏が10番切幡寺です。(写真)。登山口にある11番藤井寺から巡拝路は上坂に入ります。


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重井村四国八十八ケ所霊場(5)     2018年5月号

 勉強堂の前の道を南に上ると権現山登山口があります。登山口前が11番藤井寺です。本四国で12番焼山寺が高いところにあるせいか、重井村四国も上坂を山神の方へ向かって登ったところにあります。そこからは逆戻りして11番を過ぎて右側に13番大日寺、少し下がって、荒神さんへの通路沿いに14番常楽寺があります。さらに下がると左側に石の小堂が2つ並んであります。15番国分寺です。右の薬師如来像には「十五はん 国分寺 願主 貞兵衛」と書かれています。また、左のお堂の内壁には「天保十四年卯年」の文字が見えます。16番観音寺は勉強堂の前を少し東へ後戻りして、荒神社の参道口の前で参拝です。(写真)


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重井村四国八十八ケ所霊場(6)           2018年6月号
 17番井戸寺は勉強堂と公民館の中間あたり、道路の北側にあります。(写真)お堂の裏に井戸があります。「願主 大本屋」の文字が読めます。18番恩山寺は善興寺入口、公民館上の道路端にあります。19番立江寺は善興寺境内の芋地蔵堂の前です。内壁に「安政五午年 三月」と書いてあります。サツマイモを植えるシーズンですから芋地蔵さんにもお参りしましょう。失礼してヨダレかけを上げると、ツルの出た種芋を抱いておられます。20番鶴林寺は重井学園の上、墓地と山の神との間にある細い道のかなり上にあります。かつては閻魔堂と庫裏の間を通っていたと想像されます。21番太龍寺は山の神社の前、道路の西側です。


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重井村四国八十八ケ所霊場(7)     2018年7月号
 山の神から少し坂を登ってから西へ向かいます。藤井神社、島四国甲山寺のある辺りを片山というのは船奉行片山数馬が住んだ天秀庵城があったからです。江戸時代には重井四廃寺の一つ天秀庵となり、最近では丸福公園がありました。ここから明神さん(厳島神社)の方へ下っていくと、23番薬王寺、24番最御崎寺(ほつみさきじ)があります。明神さん前の明神井戸隣に35番清滝寺、北側の八大庭に25番津照寺、26番金剛頂寺、西へ坂を登って米十屋上に27番神峯寺(こうのみねじ)、米十屋入口に29番国分寺、30番善楽寺(写真)があります。番号順に並んでいないのは道路改修などで移動したからでしょうか。28番大日寺は東浜の島四国志度寺(郵便局隣)内にあります。


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重井村四国八十八ケ所霊場(8)     2018年8月号
 前回の「祇園さん」は「明神さん」の間違いです。訂正してお詫び申し上げます。読み変えてください。(修正済み)

 さて次は、明神さんを離れて、県道を西に向かいます。南側に写真のような新しい石仏と古い弘法さまがあります。31番竹林寺の御詠歌に「南無文殊三世(みよ)の仏の母と聞く 我も子なれば乳(ち)こそ欲(ほ)しけれ」とあります。この御詠歌から乳児を抱いている文殊菩薩さまだと思えばよいのでしょう。ここは「くぐり橋」と呼ばれています。かつて橋の下を通っていたのでしょうか。32番禅師峰寺(ぜんしぶじ)は播磨バス停近くの島四国弥谷寺の前にあります。重井町内の島四国はここから始まり、明神、片山、お寺へと村四国と逆に周ります。


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重井村四国八十八ケ所霊場(9)     2018年9月号
 長崎の32番禅師峰寺が西の端ですから、ここで引き返します。再び明神さん(厳島神社)の所まで戻ると、バス停と花壇があります。その右端の小さな階段から花壇の上に上がります。おそらく道路拡張に伴い、ここに集められたのでしょう。横一列に並んでいます。33番雪蹊寺、34番種間寺です。(写真)隣には木製の祠が二つあります。左端が玉浦明神、その右が黄幡さんを祀っています。
 次は藤井医院の西側の路地を北へ入ります。右に45番岩屋寺、左に46番浄瑠璃寺があります。引き返して東へ進みます。再びバス通りの南側へ戻り、大出材木店と因島調剤薬局の間を南に向くと36番青龍寺が見えています。

 現状維持を基本に、番号や寺名の明らかなものを基準にして、不明のものを割り振ってみました。元の位置からかなり動いているようです。



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重井村四国八十八ケ所霊場(10)     2018年10月号

 次は北の浜道へ入ります。海岸道路ではなく、古くからある中の道です。バス通りから入るとすぐに左手にありますが、これは帰りにお参りすることにしてどんどん進みます。右手に写真のように2つ並んであります。右のお堂が37番岩本寺です。左の小祠は月読社で、月読命を祀っています。ツクヨミノミコトは天照大神の弟神で穀物神です。ここから食物神となり大浜町では「いも神社」に祀られています。次は島四国77番道隆寺の隣を通って馬神農道へ上がります。そこから左手先端を目指します。正面に海を見て右へ曲がる手前の左下に38番金剛福寺があります。お堂の内壁に「天保四癸巳三月」と書いてあります。本四国では足摺岬にあります。来た道を戻って、バス通りに出る前にある、最初に出会ったのが39番延光寺です。内壁に書いてある「寺山院」は院号です。


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重井村四国八十八ケ所霊場(11)     2018年11月号

 北の浜から久保へ入ります。どこから入ってもよいのですが、説明の都合上バス通りにある島四国76番金倉寺のところから案内します。この辺の島四国は順路と番号が複雑で、ある意味では「難所」です。村四国も同様です。金倉寺の隣が48番西林寺です。坂を下りてから右へ少し行くと、40番観自在寺。引き返して坂の下まで戻って井戸のあるところを右へ曲がって南の路地へ移ります。角恵屋の前に41番龍光寺があります。そこから東を向き南へ出る小径を探して進みます。近くに珍しい長門明神がありますが、説明は省略します。ちょうど大小路から入ってくる道と出会う辺りに42番仏木寺、反対側の家の前に43番明石寺があります。以上で久保は終わりです。大小路へ出て左に進むと塀沿いにあるのが44番大宝寺です。次は南小路のミチフク前に行って49番浄土寺(写真)になります。

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重井村四国八十八ケ所霊場(12)     2018年12月号

 砂原道を東へ進み、祇園さんの手前で北の山の方へ上がると島四国78番郷照寺です。お堂の中に50番繁多寺があります。戻って東へ進んで、岡崎医院を過ぎると左折します。崖下にあるのが51番石手寺です。そのまま北へ道なりに進み、右折して歩くとトラヤの庭先に52番太山寺があります。馬神島が陸続きとなり、重井川に沿って土手を作り郷新開が造成されます。海に近く難工事だったことでしょう。山側に道を作り、徐々に畑地へ変えて行ったと思われます。そのまま東へ進んで出たところが島四国79番高照院です。横の常楽院家墓地に47番八坂寺、高照院の中の左に53番円明寺、右に54番延命寺があります。次は、東西橋の信号のところを回って、駐在所前の島四国80番国分寺へ行きます。外に郷新開住吉神社があります。その隣のお堂には「須」「圓明」の文字が見えますから53番須賀山  円明寺のことでしょうか。国分寺の中には5番地蔵寺がありますので、ここでお参りすることにしましょう。

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重井村四国八十八ケ所霊場(13)     2019年1月号

 次は重井川を渡って青木へ入ります。重井川の橋は下流から、明治橋、東西橋(信号のあるところ)、大正橋(駐在所の隣)、昭和橋・・と続きます。その昭和橋の東に55番別宮山南光坊があります(写真)。別宮山参りが盛んだったせいでしょうか、重井村四国でも最も立派なお堂で、たくさんの文字が彫られています。嘉永3年(1850)6月に二百人の寄付で再建されたこと、尾道石工の作品であることなどがわかります。隣に開化橋の石碑があります。青木道路へと続く道路の右手(南)が長右衛門新開、左手は郵便局までが青木沖新開、JAからさらに北側が本郷沖新開です。青木城跡の方向へ進みます。青木道路との三叉路の所で立ち止まります。アパートのブロック塀の内側に12丁の丁石がありますから、白滝山の表参道が東浜まで続いていたことがわかります。次は青木道路を少し南東へ進み左へ入って金比羅神社へお参りしましょう。石段の途中に56番泰山寺があります。

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重井村四国八十八ケ所霊場(14)  2019年2月号

 青木の金比羅神社から青木道路へ戻ると、川口方面、すなわち南東へ青木道路を進みます。タツミ自動車前の交差点を過ぎると、やがて大師堂山の西崖の中に小さなお堂があります。57番栄福寺です(写真)。ここで引き返し郵便局を目指します。長右衛門新開から青木沖新開に入って、大正橋線(新青木道路)との三叉路を過ぎると青木道路改修碑の隣に58番仙遊寺があります。さらに進んで郵便局の隣にある石段を上がると島四国志度寺です。お堂の中に59番国分寺と28番大日寺があります。沖に出ても県道を渡らず南側の歩道を右に歩きます。玉屋前まで来たら石垣の中に60番横峰寺があります。次は県道を渡って島四国長尾寺へ行きます。お堂の中へ61番香園寺、63番吉祥寺があります。次は中学校前の平和堂駐車場に62番宝寿寺があります。64番前神寺はお宮の上の島四国大窪寺の裏にあります。


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重井村四国八十八ケ所霊場(15)  2019年3月号
 次は白滝山に登ります。山門を抜けてすぐ右に石段がありますが、その左、トイレとの間に65番三角寺が あります。本四国でも一番高いところにある66番雲辺寺は鐘楼近くの弘法大師立像や四国八十八ケ所ご本尊近くの北西の角にあります(写真)。次は表参道を下って、仁王門下の墓所(通称・伝六さん)の仁王門寄りに67番大興寺があります。さらに下って西洋館(因島ペンション白滝山荘)の下の家の前に68番神恵寺があります。右端は山門から七丁の丁石です。ここから、フラワーセンターの方ではなく、南側の川口方面への道を下ります。交差点で伝六ロードと出会います。ここに80番国分寺とその真向かいに八丁の丁石があります。ここで、伝六ロードを南へ向かいます。かしはら電気の裏で右折して西へ下ります。溝沿いに69番観音寺、さらに三叉路まで行くと70番本山寺があります。さらに進んで右手の急な石段を登ります。島四国屋島寺の大師堂です。中に71番弥谷寺、外に72番曼荼羅寺があります。

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重井村四国八十八ケ所霊場(16)  2019年4月号
 川口大師堂(島四国八島寺)から再び、かしはら電気のところまで戻って、伝六ロードを一本松の方へ向かいます。すぐに防災尾道の拡声器があります。その下が73番出釈迦寺です。少し行くと交差点です。伝六ロードから離れて、左の山側へ登ります。突き当たりに74番甲山寺。右へ曲がってすぐに左奥へ入ると75番善通寺。戻って先ほどの坂道を登ります。右手に76番金倉寺、左手前方に77番道隆寺です(写真)。ここは峰松神社参道入口です。また、宇治市でシンポl工業(現・日本電産シンポ)を設立し、リングコーン無段変速機などを発明した柏原学・正兄弟の生家(トウス屋)跡です。さらに書けば、この坂道は高等科が重井尋常小学校にはあったが大浜村にはなかった時代に大浜から子供たちが通った通学路です。ここで大師堂下の変形四つ辻の整理をしておきましょう。東へ登るのが白滝山表参道です。時計回りに、先ほどの大浜往還(古道)、西へ縄手の土手、そして青木道路が郵便局までです。青木道路を長右衛門ロードと重井文化財マップには書いてあります。

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重井村四国八十八ケ所霊場(17)  2019年5月号
 前回のところから再度伝六ロードへ戻ります。大浜往還(古道)と交わるところです。この辺りに重井峰松氏の祖が住んでいました。450年前の永禄12年(1569)に因島村上氏6代吉充が青木城に来た時には、峰松家4代で初めて分家した常楽院家と2軒になっていました。南へ進んで78番郷照寺は白滝山五百羅漢の開祖伝六さんの元生家と、伝六家の本家である重井柏原氏の祖・川本家の境界にあります。川本家の南がイ区・川口とロ区・丸山の境界です。ここでまた東側へ曲がり、川本家の上の道へ回り込みます。81番白峯寺と82番根来寺があります。またまた伝六ロードへ戻ってロ区・丸山を南へ歩きましょう。左側に83番一宮寺、電柱の隣に84番屋島寺があります。ここから東側の山を越えるのですが、現在は通れませんので少し戻ってコンクリート塀の道を通って反対側に回り込みます。85番八栗寺(写真)があります。このまま南へ道なりに進めば右側に87番長尾寺、一本松へ出たところが、88番大窪寺です。86番志度寺は87番長尾寺の少し手前で左へ直角に進むとあります。


重井村四国八十八ケ所霊場(18)  2019年6月
 一本松の88番大窪寺から北へ伝六ロードを90m進むと、79番高照院である。(写真)御本尊の一つに「崇徳天王 八人組」と彫ってある。だから、ここを79番天皇寺(高照院)とした。前回書いたような村四国の遍路道は、その当時の主要道であった。この付近は川口大師堂下の「脇田舟原道路改修記念碑」によると明治27年の改修、明治44年の再改修の時にできたものだろう。このように地形はどんどん変わっているので、昔のことを考えるには注意が必要である。例えば、年配の方々の記憶にある立派な松が初代の一本松だとすると、その由来は最近言われているほど、古くはない。88番大窪寺の南に今は暗渠になっているが、かつて砂川があった。丸山川と呼んでおこう。これを上流に遡ると「ひこし」の裏の大浜往還(古道)のところに出る。すなわち、まっすぐ西に流れると一町田(川口新開)に流れ込むので、南へ迂回させて重井川へ注ぐように作られたものである。その丸山川の北側に初代一本松は植えられていたから、一町田の干拓より前からあったとは考えられない。


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重井村四国八十八ケ所霊場(19)  2019年7月号
 駆け足で八十八ケ所を紹介している間に、それを追いかけるような形で、「重井村四国○○番 ○○○寺」と書いた石板が設置され、年度内に完了しました。このことを記念した石碑が3月31日に、4番大日寺の隣に設置されました。(写真)有浜の島四国82番根香寺(ねごろじ)の隣で、県道沿いです。多くの方が重井川の土手を散歩されておられます。ご覧いただければ幸いです。さて、2巡目の紹介は番号より巡礼ルートを中心に書きましょう。村四国の1番は島四国83番一宮寺の中にあります。そこから北へ、島四国とは逆に進んでここまで来ます。次はフラワセンターへと続く文化橋の手前で左折して、須越奥へと入っていくと左手に6番安楽寺があります。その次の7番十楽寺は島四国81番白峰寺の隣ですから、先ほど飛ばした5番同様あと回しにして、さらに直進して須越奥池を目指します。かつては6番から7番へ行く山道があり、さらに下って須越奥池へと行く道があったと考えられますが、今は通れませんので7番十楽寺(島四国81番白峰寺)は巡礼ルートから外れことになります。

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重井村四国八十八ケ所霊場(20)  2019年8月
 6番安楽寺の次は、そのまま権現山の方へ進みます。土砂で半分埋まった須越奥池の堤が見えます。右側に8番熊谷寺と9番法輪寺があります。(写真)これらは、このたび石板を設置するにあたり移設しました。熊谷寺は島四国白峯寺のある柏原神社(荒神社)と須越奥池を結ぶ道沿いにありました。今は雑木林になって通れませんが、かつては子供達が小学校の登下校にも利用していたそうです。法輪寺は須越奥池の山側の畑の中に埋もれていました。(有)マルサンの清水さんに重機で掘り出し運んでいただきました。「天保十二年丑六月」と彫ってあるお堂の壁板を、隣によく見えるように置きました。次の10番切幡寺は権現山登山道になります。ここから2つのルートがあります。1つは、このまま鶏舎の間を登ると、八巻道路へ出ますので、右折して上坂へ回ります。もう1つはここで引き返して、勉強堂まで進むと権現山登山口への案内板があるので、それに従います。

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重井村四国八十八ケ所霊場(21)  2019年9月号 
 権現山竜王山と書かれますから、雨乞いの山だったことがわかります。その登山道は方々にあったのですが、現在整備されているのは勉強堂前の上坂から登る登山道だけです。上坂(かみざこ)は元は上迫と書かれており、迫は「はざま」と読むように谷間のことです。右に善興寺墓地、左に荒神社があり、その谷間の坂を登ると権現山登山口があります。(写真)登山道は写真の左方向です。少し登ると10番切幡寺があります。引き返して写真の右側が11番藤井寺です。12番焼山寺は、写真の右上です。そこから引き返して坂道を下ります。11番を通り越して東側(右手)に13番大日寺、少し下がって14番常楽寺があります。ここから荒神社へ行くこともできます。荒神社へ行かず、坂を下ると左手に15番国分寺があります。そして勉強堂の前に戻ります。ここで東へ1軒分進むと荒神社への参道があります。また真後ろには16番観音寺があります。荒神社には7番十楽寺がありますので、ここで登ります。これで5番地蔵寺を除いて16番まで参拝しました。
********* 重井村四国八十八ケ所霊場(22)  2019年10月号

 荒神社への参道を詳しく説明しましょう。写真は三笠堂から公民館の方へ行く道の、勉強堂の手前です。「ふくとくはり治療院」の看板が見えます。その先の右手に16番観音寺があります。その反対に坂道があります。これが荒神社の参道です。気をつけて登ると、柏原神社があります。まっすぐ進むと島四国81番白峯寺です。その隣に村四国7番十楽寺があります。柏原神社の背後から上坂へ降りる道もありますが、複雑です。さて、写真の位置に戻ると左手奥が権現山への登山道へと続く、前回説明したところです。そこを右に公民館方向へ進むと、右手に17番井戸寺があります。さて、写真左手前の写っていない家について話しておきましょう。ご年配の方には、小学校に大きなワニの剥製があったことを覚えておられるかもしれません。そのワニの剥製を寄付された故柏原達象氏のお住まいです。戦前フィリピンのダバオで旅館を経営されていました。それで屋号が「ダバオ」なのです。

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重井村四国八十八ケ所霊場(23)  2019年11月号
前回は17番井戸寺まで書きました。その裏に井戸があります。これが共同井戸だったのか、個人宅の井戸だったのかはわかりませんが、何となくこの井戸に合わせて、ここに井戸寺をってきたのではないかと思います。時間があれば御本尊さまをよく見てください。「願主 大本屋」と読めます。重井の村上氏はいくつかの講があるように、先祖を異にしています。もちろん村上水軍から出ているのでしょうが、その最も古いのが大本屋系で、その本家です。江戸時代の後期には重井村の庄屋をされていて、この近くに住んでおられたのでしょう。では、さらに進んでお寺の入り口まで行きます。右側の、葬式の案内板の前に18番恩山寺があります。(写真)
道路からお参りする形になります。せっかくですから、お寺にある石造物をゆっくり見ておきましょう。隣が大阪の峰松倉太郎さん寄進の門柱です。恩山寺の裏にあるのは先祖代々の供養碑です。
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重井村四国八十八ケ所霊場(24)  2019年12月号

お寺の入口の先祖代々の供養碑の次には左右に石柱が建っています。右側には「観音妙智力」左側に「能救世間苦」と彫ってあります。これは観音菩薩様の妙なる智力はよく世間苦を救うということで、觀音経の一節です。觀音経は法華経の25章「観世音菩薩普門品」にあります。さて、山門をくぐって左へ進み、芋地蔵堂の前に19番立江寺があります。(写真)

安政5年(1858)の文字が読めます。時間があれば芋地蔵さんにもお参りしましょう。よだれ掛けで見えませんが、両手で抱いているのは種芋です。よく見ると蔓のようなものが出ています。鐘楼の前にあるのは上に載せた子安地蔵さんとセットで六十六部廻国供養塔です。芋地蔵さんの下見吉十郎さんも六十六部廻国行者として鹿児島まで行って、薩摩芋を持ち帰って広めたわけです。次の20番鶴林寺へは、かつては閻魔堂と庫裏の間を通って山の神の方へ上がったものと思われますが、道が狭いので引き返して、公民館の西側駐車場と(元)丸福旅館との間の路地を上へ上がります。

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重井村四国八十八ケ所霊場(25)  2020年1月
 20番鶴林寺は上の幼稚園の上にあります。重井学園の園庭の外を通る小道を墓地には上がらずにひたすら上に進んでください。その時、右手にあります。(写真)
生垣の陰になって直前でないと気がつきませんので、注意が必要です。その次の21番大龍寺は山の神社の隣、道を挟んで反対側にあります。20番、21番は距離的には近くにあるのですが、近くを通る道がありませんので、引き返して、大出酒店の前を上がってください。少し道が広くなります。山の神と言っている山の神社が左手にあります。初めてこの辺りを通る人にもわかるでしょう。右手には21番太龍寺があります。地図が近くにあれば、山の神社、青木城跡、八幡神社を線で結んでください。青木城跡から見れば、八幡神社は北東、すなわち艮(うしとら)の方向で、鬼門になります。逆に山の神社は裏鬼門となりますから、それぞれの押さえの意味があったのでしょう。青木城へ村上吉充が移ってきたのは450年前の永禄12年(1569)頃です。


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重井村四国八十八ケ所霊場(26)  2020年2月

 山の神の21番太龍寺の次は、このまま少し上に登りごみステーションの次で右へVターンします、竹やぶの下を通って見晴らしの良いところへ出たら、藤井神社があります。山側に島四国74番甲山寺があり、その隣に22番平等寺があります。(写真)
これは番号順にするため明神から移しました。この辺りを片山というのは、村上水軍時代に船奉行片山数馬が住んでいたからです。三庄町の百凡山周辺も同じような話があり片山と呼ばれています。当時は馬神は島で、ここの崖下まで潮が来ていたはずです。藤井神社の隣から見る景色は今でも素晴らしいのですが、当時はもっと見事だったと思われます。土生村の大西屋嘉平太(巻幡氏)の子が重井に住んで藤井姓橋本屋を名乗ります。寛文4年(1664)には油屋茂平が分家して2軒になり、どんどん増えていきます。大西屋は後に、土生大山神社の神官になります。これが重井藤井氏の由来です。
 重井村四国八十八ケ所全札所を地図と写真で紹介した冊子ができました。関心をお持ちの方は公民館でお求めください。千円です。

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重井村四国八十八ケ所霊場(27)  2020年3月
 島四国74番甲山寺を過ぎて西へ下ります。ちょうど南小路へ降りる道のあるところの左手に23番薬王寺があります。反対側には南無妙法蓮華経の碑があります。日蓮宗の方が建てられたものでしょうが、法華経は多くの宗派で重んじられています。観音経は法華経の25品、すなわち25章のことです。さらに西に下ります。本四国では阿波から土佐へ入ります。ここまでで4分の1です。重井町では片山から伊手樋に変わります。樋口と同様水に関係ある地名だとわかります。井手(いで)は川をせきとめたところです。地方によっては小さな溝のこともイデと呼ぶそうです。樋は水を導くものでトイや樋口、樋の口などの意味もあります。そのようなものがかつては見えていたのかもしれません。さて、伊手樋に入ると有名な24番最御崎寺(ほつみさきじ)があります。(写真)こちらが東寺で26番金剛頂寺が西寺となります。漢字では半分で済むので、どちらも御本尊には、そのように彫られています。

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重井村四国八十八ケ所霊場(28)  2020年4月
 24番最御崎寺からそのまま道なりに進むと明神さん(厳島神社)の前に出ます。視界が広くなったところの左手に明神井戸があって、そこに35番清滝寺があります。そこをひとまず考えないで、まっすぐ進み右手に路地が分かれるところの庭に25番津照寺、26番金剛頂寺(西寺)があって、ここまでは何とか番号順に来ました。しかし、これ以降は番号通りというわけにはいきません。道路拡張や家の増改築等で移動されたものと思われます。ここで休憩し、厳島神社を拝みましょう。拝殿で手を合わせた後、左手を見てください。道路の向こうに見えています。29番国分寺と30番安楽寺です。(写真)安楽寺は善楽寺とも書かれたり、両方表記の場合もあります。どちらでもよいようです。そこから、さらに西へ坂道を上がると左手に27番神峯寺があります。ここで引き返し、バス通りへ出て、さらに西へ向かいます。

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重井村四国八十八ケ所霊場(29)  2020年5月
 明神さんを過ぎると、大幅に番号と位置がずれてきます。村四国の札所は一寺当たりご本尊と大師像のセットが基本です。札所を決める根拠となる文字の多くはご本尊の方に刻まれており、これからわかったものを「文字確定」とし、その間にあるものを「位置推定」として順次決めていきました。それでも、この周辺は寺番が飛び飛びで不自然です。これは道路拡張等により移転されたものが多かったということと同時に、村四国の存在そのものが忘れられていたのではないかと思われます。くぐり橋のところにある31番竹林寺は文字はありませんが乳児を抱いたま新しいご本尊は御詠歌の「我も子なれば乳こそ欲しけれ」と合います。そうすると次の長崎の32番に続きます。西浦から来た島四国はここから重井町に入ります。その前にある村四国には「禅師峰寺」(ぜんじぶじ)の文字が見えますから、32番となります。(写真)

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重井村四国八十八ケ所霊場(30)  2020年6月
 長崎まで行ったら、そこが村四国の西端ですから、バス通りを引き返して明神さん下のバス停にある花壇に登ります。ここには33番雪渓寺、34番種間寺があります。(写真)さて、明神さんというのは厳島神社のことですから、その大祭は旧暦6月17日に催される管弦祭です。一方、砂原の祇園さんは大疫神社です。では、なぜ大疫神社が祇園さんと呼ばれるかというと京都祇園の八坂神社の分祀だからです。では八坂神社となぜ呼ばないのかというと、八坂神社という名称には明治以降になったからで、それ以前から重井にはあったことがわかります。その祭りは神輿(みこし)を荒々しく巡行し疫病を押さえるためであったのですが、夏祭りの最後を飾るせいか、厳島神社の祭りの方に合わさり、賑やかになりました。祭囃子が管弦祭の面影をとどめていると思えばよいでしょう。本来なら例年以上に町内をくまなく神輿を巡行すべきですが、神輿ではコロナウィルスに勝てないと思っているなら、自粛も仕方がありません。

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重井村四国八十八ケ所霊場(31)  2020年7月
 明神さん(厳島神社)横の花壇の次にどう進むかは難しい問題です。バス通りから直角に北へ入る路地はたくさんあります。西港へ行く海沿いの道があります。そこから西には、まず藤井医院の駐車場を横切る路地。そして、もう一つ西側の路地を北に入ります。一軒目の裏にあります。北を向いて、左が46番浄瑠璃寺(文字が読めます)、右に45番岩屋寺があります。そして、再びバス通りに戻り、南側に渡って因島調剤薬局と大出材木との間の道を南に入ります。明神さんへの参道は右に曲がりますが、その手前の正面に36番青龍寺があります。(写真)ここにきますと、遠い昔に聞いた工場の音を思い出します。江戸時代の備後地方の産業として木綿が取り上げられ、その後に「特に重井木綿」と書かれるのは『芸藩通志』に記載されているからでしょう。関連産業は戦後まで続き、おそらく最後の紡績工場だったのではないかと思います。


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重井村四国八十八ケ所霊場(32)  2020年8月

 次は北の浜へ行きます。海岸道を通らずに、バス通りから中道を行きます。すると39番、37番、38番となり、また戻ってきます。写真は戦時中の除虫菊の出荷風景で、北の浜の入口が写っています。そこから39番のところを通らず少し北へ行ってから右へ曲がって中道に出たのではないかと思います。そして帰りは39番延光寺の前を通って久保へ入るということになります。これが古い写真を見ながらの私の推定です。39番金剛福寺へは、畑の中の道を上がったのでしょう。37番岩本寺の隣は月読社で食べ物の神様を祀っています。


重井村四国八十八ケ所霊場(33)  2020年09月

 38番金剛福寺は馬神農道のガード下にあります。島四国77番道隆寺のところから農道へ上がります。あるいは小林の元老人ホームの入口のところから行くのがよいでしょう。さて、文化財協会へ寄贈された資料を整理していたら『常会必携』という手帳のような冊子が出てきました。(写真)


その中に「愛郷の歌(重井村歌)」というのがあって、馬神は3番に出てきます。「通玄山に鎮まれる 祖霊は吾等を見守りつ 馬神山に照る月も 昔ながらに映ゆるなり 尊き歴史をうけつぎて つくすぞ吾等の使名なる」というもので、何と6番までありました。昭和15年から20年までの出席票がついていますから昭和14年に印刷されたものでしょう。





重井村四国八十八ケ所霊場(34)  2020年10月

 お近くの皆様には日頃より村四国札所を丁寧に管理していただきありがとうございます。最近も新しいよだれかけを多数着けていただき、秋空の下に映えております。感謝いたします。さて、北の浜道路は、昭和5年に改修されたもので大工事だったと思います。その北の浜道路から久保へ向かいます。バス通りを横切ると島四国の道標がありますから左折します。40番観自在寺を過ぎで、さらに左折するとバス通りに面した島四国76番金倉寺があり、その前が48番西林寺です。(写真)


引き返して坂の下まで戻ってさらに南の道へ行くと41番龍光寺があり、さらにもう一つ南の道に42番仏木寺と43番明石寺があります。さらに南の道が大小路です。ということで大変複雑です。詳細は、『末広講の夢』の地図と周辺の写真をご覧くださいというしか書きようがありません。まだ在庫はありますので重井公民館あるいは文化財協会へお問い合わせください。1冊千円です。




重井村四国八十八ケ所霊場(35)  2020年11月

 大小路へ出ます。かつて田中医院のあったところに44番大宝寺があります。よく見ると別の番号のものもあります。大小路は重井町で最初に舗装された道です。でもその時はアスファルトではなくコンクリートでした。次は南小路をミチフクまで行きます。49番浄土寺があります。そこから戻りましょう。左手に映画館の建物があります。樋口の交差点には道路改修碑と防火用水池があります。山の神池を出た水が大出酒店の前で北と西に分かれ、西側の到達点でした。次は砂原道を行きます。祇園さんの少し手前の路地から北へ入って石段を上がると島四国78番郷照寺があります。お堂の中に50番繁多寺があります。(写真)


「五十ばん 繁多寺 七人組」と読めます。「五十だん」のように見えます。「者」の草書が「む」のようになり濁点がついています。「者」は変体仮名で「は」。それに濁点がついて「ば」となります。だから「五十だん」ではなく「五十ばん」と読みます。このような文字は他でもよく見られます。


重井村四国八十八ケ所霊場(36)  2020年12月

 島四国78番郷照寺で50番繁多寺にお参りしたら、せっかくですから祇園さんへお参りしましょう。なぜなら写真


のように祇園さんの正式名は「大疫神社」で、疫病を鎮めたり追い払うのが目的の神社です。だから、「大疫神社」と印刷した護符とコロナ予防の対策を適当にコピーしたものをセットにして氏子に配るべきだと、神社費を毎年払っている私は思います。そんなのは迷信に決まっているという人もいるでしょうが、神社側がそれを認めてはいけない。そうでないと他の神事も全て迷信ということになって神社の存在自体を否定することになるからです。さて、次は砂原通りを東に向かいますが、岡崎医院を過ぎたらすぐに左折します。すると左手の崖下に51番石手寺があります。ここは重要です。必ず確認してください。そして道なりに奥へ進み、右へカーブし東へ進むと、左手に52番太山寺があります。これらがわからなかったら冊子の写真を見てください。それでもわからなかったら近所の方に尋ねるか、私に電話してください。


重井村四国八十八ケ所霊場(37)  2021年1月

 前回の52番太山寺の次は、道なりに進むと島四国79番高照院のある広場に出ます。本四国の高照院は、崇徳上皇の死を都に伝え令旨を仰ぐまでの間、遺体を安置したところで天皇寺とも呼ばれます。その隣に六地蔵があり、かつて馬神にあった正光寺(焼香寺)の関連が伺われます。また左側が常楽院家の墓地で7代大越家前常楽院金龍法印、8代大教院隆光優婆塞の墓碑、初代常楽院静金大徳の三百大遠忌の碑がありその隣が村四国47番八坂寺です。(写真)高照院の中には左側に村四国53番円明寺、右側に54番延命寺があります。村四国53番円明寺は駐在所横の島四国80番国分寺の外にもあり、そちらに石版をつけておりますので、こちらにありません。正光寺(焼香寺)というのは文政2年(1819)に善興寺に統合される前にあった四廃寺の一つで、近くに老人ホームの跡がありますが、その辺りにあったと思われます。他の三廃寺は、無量寺(島四国81番白峯寺の隣)、天秀庵(島四国74番甲山寺の近く)、長福寺(細島の荒神社)です。



重井村四国八十八ケ所霊場(38)  20210年2月

 島四国79番高照院の次は駐在所の隣の島四国80番国分寺です。お堂の中に5番があり、外には53番円明寺あります。隣には郷新開住吉神社があります。


次は重井川の東側へ移ります。重井川は、おおがあら(大川原)と呼んでおり、梅雨時の大雨の後、濁流が道路近くを猛烈な勢いで流れるのを、落ちたら終わりだろうな、と思いながら覗き込んでいた頃を懐かしく思い出します。いたるところが溝や土手で危険がイッパイの重井町でしたから、その程度はふつうの行動です。今はそれが自動車に変わっただけなのかもしれません。気をつけて県道を横切って、大正橋を渡って上流の方へ歩きます。大正橋より一つ上の橋が昭和橋です。そこにひときわ立派な石堂があります。55番南光坊です。別宮山南光坊といえば特別な感慨を覚える方は多いと思います。西部接待講の別宮山参りは有名でした。南光坊は大三島の大山祇神社の分社です。なのになぜ近くにある大三島でなくて激流の来島海峡を越えて今治までお参りしたのかわかりません。



重井村四国八十八ケ所霊場(39)  2021年3月

 今回は3年間の整備事業完了について記します。3年目は看板の設置を考えました。お寺を含めて2か所を考えてきましたが、ご承知のよう墓地修復の大工事が行われており、こちらは断念いたしました。そこで絵入りの大きな看板を検討しましたが、いくら大きく書いても地図に代わるものはできないと判断し、また景観、維持などのことを考えて石板にしました。ちょうど区長会によって清掃・整備されていたところに設置することができました。間もなく盛土が行われる予定です。この案内板(石板)を読むように立つと、左手に88番大窪寺が見えます。87番は少し後ろにあります。また1番は近くの島四国83番一宮寺の中にあります。裏面の写真を掲載します。




重井村四国八十八ケ所霊場(40)  2021年4月

 重井川昭和橋のところにある55番別宮山南光坊から重井川の東側に入ります。ここには開化橋と書いた石柱があります(写真)。


開化というのは文明開化のことですから明治時代になって流行した言葉です。その開化橋というのは昭和橋の古い名前なのでしょうか。それとももう一つ別にあった橋の名前でしょうか。普通の道路のように見えてもよく見ると、その下に溝があります。この上にかつては橋があったと思われますから、その橋の名前だったと考えておきましょう。

 一町田の中を流れる菜洗川原(なーらーがーら)は文化橋のところで重井川と接近して、今では重井川へ注いでいます。しかし、60年前には重井川に注がず、重井川の東側土手に接して流れ、この南光坊近くにあった池から、電動ポンプで重井川へ排水されていました。この池がおそらく長右衛門新開の潮廻し(タンポ)の跡だったと思います。電気が来る前は、さらに北へ流れ郵便局の裏にある青木沖新開の潮廻しに注いでいたはずです。その水路にここでかかっていた橋の名前が開化橋だったのでしょう。


重井村四国八十八ケ所霊場(41)  2021年5月

  次の56番泰山寺は青木の金比羅神社にあります。と言ってもそれがどこにあるのかすらも知らない人も多いのではないかと思います。川口大師堂下から郵便局までが青木道路です。青木道路は十字路は一つだけで、フラワーセンターと文化橋を結ぶ道路と交わります。昭和橋と青木道路が接するところは三叉路です。この三叉路と十字路の間に青木山の方に向かって直角に伸びる道が何本かあります。青木道路から青木山の方を見たときの、金比羅神社の入り口の写真を示します。



この写真の奥に鳥居、玉垣があります。そして、参道の石段の途中に56番泰山寺があります。


重井村四国八十八ケ所霊場(42)  2021年6月

 青木の金刀比羅神社で56番泰山寺にお参りしたら、青木道路へ出て、さらに川口の方向を目指して長右衛門新開を歩きます。青木道路と文化橋・フラワセンター線が交わる交差点をまっすぐ通過すると大師堂山の崖の中に57番永福寺があります。



まことにユニークな村四国と言っていいでしょう。大師堂山は長右衛門新開を作る時に削られかなり低くなったものだと想像されます。川口大師堂下から文化橋までが縄手の土手です。昭和橋青木道路線と縄手の土手との間が長右衛門新開です。さて次は引き返して郵便局の方を向いて戻りますが、大師堂山の崖を見ながら歩きます。大師堂山の崖から離れるあたりの電柱の隣に細長い石があります。「十一丁」と書いてあり、その上に仏像の浮彫があります。これは白滝山の山門からの道のりを示したもので丁石と呼ばれます。丁は町のつくりの部分だけを書いた略字です。町は普通は面積の単位ですが、長さの単位の時は1町は約109mになります。ここに丁石があるということから、青木道路が白滝山の表参道で、東の浜まで伸びていたことがわかります。


重井村四国八十八ケ所霊場(43)  2021年7月

    57番永福寺よりやや北にある「十一丁」の丁石の写真を載せておきましょう。



白滝山の山門から道のりを示すものです。よく見ると小さな石仏も掘られています。このような石仏などが彫られている丁石がないわけではありませんが、因島では丁石そのものが他にありませんから、珍しいものです。「丁」は豆腐などを数えるときの単位ですが、面積や長さの単位に「町」があります。面積では1町は10反で約99.1アールです。すなわち約1haです。長さのときのみ「丁」とも書きます。すなわち右側の「つくり」の部分だけを書いたものです。長さの1町は60間で約109m強ということになります。


重井村四国八十八ケ所霊場(44)  2021年8月

    この連載は重井村四国の札所、いわゆるお大師さんを紹介するものですが、現在は2巡目で、周辺の話題を書くのも良いかと思っております。お急ぎの方は『末広講の夢ー重井村四国88ケ所ー』に地図などが載っていますから、公民館でお求めください。千円です。さて青木道路には重井川にかかる橋からの道路が接続しています。文化橋からフラワーセンターへ行く道は交差しますが、昭和橋、大正橋からの道は青木道で行き止まりで三叉路となります。昭和橋からの道と青木道との三叉路の山側にアパートがあり、北側のブロック塀の内側に「十二丁」の丁石があります。(写真)



また、この昭和橋からの道路より南が長右衛門新開です。周辺の干拓のほとんどが長右衛門家によって行われたのに、なぜここだけが長右衛門新開と呼ばれるか謎です。おそらく長右衛門家の膨大な地所がここにあり、そこに住み込みの小作人の家族も多数いたのではないかと思います。「裏門」と呼ばれていた場所がありますが、青木城の裏門なら山の中になるでしょうから、私は長右衛門屋敷の裏門があったところではないかと思っております。


重井村四国八十八ケ所霊場(45)  2021年9月

 青木道路を郵便局の方へ向かって下っていきます。昭和橋線が長右衛門新開と青木沖新開の境です。一つ北の大正橋線は青木新道です。大正橋とともに大正13年3月に完成したことが駐在所の隣の石碑に書かれています。青木新道との三叉路を過ぎると、青木道路改修碑と村四国58番仙遊寺があります。かつて豆腐屋さんがあったところです。こちらの道路改修は明治40年です。これらの石碑ができた時には「青木道路」「青木新道」という路線名があった訳ではなく「字青木の道路改修」「青木の新道」という意味で石碑に書かれています。それを曲解して「青木道路」「青木新道」と呼ばせていただきます。樋口、砂原から青木新道を経て郵便局に至る道が重井の東西を結ぶ幹線道路として賑わったのは、昭和の時代の出来事でした。


重井村四国八十八ケ所霊場(46)  2021年10月

 引き続き青木道路を郵便局の方へ向かって歩きます。右手に共同井戸があります。その少し手前の山側に個人宅の駐車場あります。奥に長右衛門の碑と呼ばれる文字が彫りこまれている岩があります。



質のよくない風化の進んだ花崗岩に小さな文字が書かれていて、その技術には驚きます。しかしながらそういう事情ですので読めない文字もあります。長右衛門家2代宗徹が元和、寛永、万治の間に干拓によって約90町の田畠を開き、寛文年間にここより西の三新開の田畠十町余を子孫のため開いたと書かれているのではないかと思います。(一部推定です)。長右衛門宗徹は18歳の時に庄屋となり晩年まで54年間誠実に勤め、その間に藩主から褒賞されて馬をもらっています。寛文10年(1670)に亡くなり、通眼宗徹居士の戒名がついています。


重井村四国八十八ケ所霊場(47)  2021年11月

 青木道路の郵便局の手前、元八百正商店のあったところが駐車場になっています。その一角に井戸があります。



近くの方にお聞きすると、その井戸の周りは尾道市の土地だということでした。すなわち重井村の土地にあった共同井戸だったのが因島市、そして尾道市と所有者が変わったのでしょう。その共同井戸を囲っている西側の石板に文字が書いてあります。左端の文字から嘉永6年(1853)に作られたものだとわかります。寄進者の一人、川口屋伝六は伝六家のことですから、伝六の子息水軒翁のことでしょう。他に、東浜喜治、西浜次郎七、丸岡屋四郎八などの文字が見えます。古いものですから不鮮明ですが、重井町の貴重な文化財です。


重井村四国八十八ケ所霊場(48)  202112

 郵便局の隣に来ましたので、右手の石段を上がります。島四国86番志度寺があります。島四国だけでこれだけ立派な石段があるのは珍しく村民の熱意がうかがわれます。島四国を作ろうと提案したのが以前書きましたように重井村の末広講の人たちだったという話が納得できます。また、郵便局がここにあることからわかるように、東の浜がかつて重井村の中心だったことが思い出されます。玉垣に書かれた寄付者の名前や船の名前や屋号などから往時の繁栄ぶりが偲ばれます。さて、その島四国のお堂の中に村四国59番国分寺



と28番大日寺があります。お堂の右側(南側)、山よりに小さな祠があり、福助人形が供えてありましたから、おそらく恵比寿(胡)神社ではないかと思います。時間があればお参りを。ただし夏には蛇やムカデ、蜂の巣などに気をつけましょう。


重井村四国八十八ケ所霊場(49)  2022年1月

 島四国86番志度寺の石段を降りたら、左手前方、郵便局の裏を見てみましょう。潮回し(タンポ)が広がっていますが、手前に調整井戸があります。この井戸の役割はよくわかりませんが、おそらく樋門を2つ作って海水の逆流を防いだものと思われます。その井戸とタンポの間に石でできた小さな祠があります。内部に「住吉大明神」と書かれています。



青木沖新開住吉神社です。左側外面に「天保三辰十一月吉日」書かれています。天保3年は1832年です。天保時代は当時としては長く14年間ですから明治になっても天保生まれの人はたくさんいました。明治40年ごろになると天保の老人と呼ばれた人たちも次第に減っていきます。さて青木沖新開ですが、村四国55番南光坊のある昭和橋・青木道路間から郵便局までです。元禄10年(1697)に検地の記録があります。しかしそれがどの範囲までのものであったかは、やや疑問が残ります。


重井村四国八十八ケ所霊場(50)2022年2月

 東の浜に出ました。今は大きなトラックがひっきりなしに通っていますが、かつては、人や自転車がもっともっと見られて、賑やかなところだったように思います。その頃あった東港の桟橋へ行く海沿いの道はガードも何もなく一歩間違えば海ですが、それが当たり前ですからみんな怖くも何とも思わなかったようです。今はどこを歩いても防潮壁で囲まれています。JAから少し沖の方にこまたきの船着場がありました。海と反対の方を見てください。電柱の隣に郵便局の裏にあったのと同じような石でできた小さな祠があります。



中に住吉神社、南側の外壁に本郷沖新開と書かれております。「本郷沖新開の住吉神社」です。昔の人々はこのように干拓地には神社を建て、水害から守ってもらうようにお祈りしたのだと思います。


          (因島重井町文化財協会・柏原林造)
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