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重井村四国八十八ケ所霊場(33) 2020年09月
38番金剛福寺は馬神農道のガード下にあります。島四国77番道隆寺のところから農道へ上がります。あるいは小林の元老人ホームの入口のところから行くのがよいでしょう。さて、文化財協会へ寄贈された資料を整理していたら『常会必携』という手帳のような冊子が出てきました。(写真)
その中に「愛郷の歌(重井村歌)」というのがあって、馬神は3番に出てきます。「通玄山に鎮まれる 祖霊は吾等を見守りつ 馬神山に照る月も 昔ながらに映ゆるなり 尊き歴史をうけつぎて つくすぞ吾等の使名なる」というもので、何と6番までありました。昭和15年から20年までの出席票がついていますから昭和14年に印刷されたものでしょう。
重井村四国八十八ケ所霊場(34) 2020年10月
お近くの皆様には日頃より村四国札所を丁寧に管理していただきありがとうございます。最近も新しいよだれかけを多数着けていただき、秋空の下に映えております。感謝いたします。さて、北の浜道路は、昭和5年に改修されたもので大工事だったと思います。その北の浜道路から久保へ向かいます。バス通りを横切ると島四国の道標がありますから左折します。40番観自在寺を過ぎで、さらに左折するとバス通りに面した島四国76番金倉寺があり、その前が48番西林寺です。(写真)
引き返して坂の下まで戻ってさらに南の道へ行くと41番龍光寺があり、さらにもう一つ南の道に42番仏木寺と43番明石寺があります。さらに南の道が大小路です。ということで大変複雑です。詳細は、『末広講の夢』の地図と周辺の写真をご覧くださいというしか書きようがありません。まだ在庫はありますので重井公民館あるいは文化財協会へお問い合わせください。1冊千円です。
重井村四国八十八ケ所霊場(35) 2020年11月
大小路へ出ます。かつて田中医院のあったところに44番大宝寺があります。よく見ると別の番号のものもあります。大小路は重井町で最初に舗装された道です。でもその時はアスファルトではなくコンクリートでした。次は南小路をミチフクまで行きます。49番浄土寺があります。そこから戻りましょう。左手に映画館の建物があります。樋口の交差点には道路改修碑と防火用水池があります。山の神池を出た水が大出酒店の前で北と西に分かれ、西側の到達点でした。次は砂原道を行きます。祇園さんの少し手前の路地から北へ入って石段を上がると島四国78番郷照寺があります。お堂の中に50番繁多寺があります。(写真)
「五十ばん 繁多寺 七人組」と読めます。「五十だん」のように見えます。「者」の草書が「む」のようになり濁点がついています。「者」は変体仮名で「は」。それに濁点がついて「ば」となります。だから「五十だん」ではなく「五十ばん」と読みます。このような文字は他でもよく見られます。
重井村四国八十八ケ所霊場(36) 2020年12月
島四国78番郷照寺で50番繁多寺にお参りしたら、せっかくですから祇園さんへお参りしましょう。なぜなら写真
のように祇園さんの正式名は「大疫神社」で、疫病を鎮めたり追い払うのが目的の神社です。だから、「大疫神社」と印刷した護符とコロナ予防の対策を適当にコピーしたものをセットにして氏子に配るべきだと、神社費を毎年払っている私は思います。そんなのは迷信に決まっているという人もいるでしょうが、神社側がそれを認めてはいけない。そうでないと他の神事も全て迷信ということになって神社の存在自体を否定することになるからです。さて、次は砂原通りを東に向かいますが、岡崎医院を過ぎたらすぐに左折します。すると左手の崖下に51番石手寺があります。ここは重要です。必ず確認してください。そして道なりに奥へ進み、右へカーブし東へ進むと、左手に52番太山寺があります。これらがわからなかったら冊子の写真を見てください。それでもわからなかったら近所の方に尋ねるか、私に電話してください。
重井村四国八十八ケ所霊場(37) 2021年1月
前回の52番太山寺の次は、道なりに進むと島四国79番高照院のある広場に出ます。本四国の高照院は、崇徳上皇の死を都に伝え令旨を仰ぐまでの間、遺体を安置したところで天皇寺とも呼ばれます。その隣に六地蔵があり、かつて馬神にあった正光寺(焼香寺)の関連が伺われます。また左側が常楽院家の墓地で7代大越家前常楽院金龍法印、8代大教院隆光優婆塞の墓碑、初代常楽院静金大徳の三百大遠忌の碑がありその隣が村四国47番八坂寺です。(写真)高照院の中には左側に村四国53番円明寺、右側に54番延命寺があります。村四国53番円明寺は駐在所横の島四国80番国分寺の外にもあり、そちらに石版をつけておりますので、こちらにありません。正光寺(焼香寺)というのは文政2年(1819)に善興寺に統合される前にあった四廃寺の一つで、近くに老人ホームの跡がありますが、その辺りにあったと思われます。他の三廃寺は、無量寺(島四国81番白峯寺の隣)、天秀庵(島四国74番甲山寺の近く)、長福寺(細島の荒神社)です。
重井村四国八十八ケ所霊場(38) 20210年2月
島四国79番高照院の次は駐在所の隣の島四国80番国分寺です。お堂の中に5番があり、外には53番円明寺あります。隣には郷新開住吉神社があります。
次は重井川の東側へ移ります。重井川は、おおがあら(大川原)と呼んでおり、梅雨時の大雨の後、濁流が道路近くを猛烈な勢いで流れるのを、落ちたら終わりだろうな、と思いながら覗き込んでいた頃を懐かしく思い出します。いたるところが溝や土手で危険がイッパイの重井町でしたから、その程度はふつうの行動です。今はそれが自動車に変わっただけなのかもしれません。気をつけて県道を横切って、大正橋を渡って上流の方へ歩きます。大正橋より一つ上の橋が昭和橋です。そこにひときわ立派な石堂があります。55番南光坊です。別宮山南光坊といえば特別な感慨を覚える方は多いと思います。西部接待講の別宮山参りは有名でした。南光坊は大三島の大山祇神社の分社です。なのになぜ近くにある大三島でなくて激流の来島海峡を越えて今治までお参りしたのかわかりません。
重井村四国八十八ケ所霊場(39) 2021年3月
今回は3年間の整備事業完了について記します。3年目は看板の設置を考えました。お寺を含めて2か所を考えてきましたが、ご承知のよう墓地修復の大工事が行われており、こちらは断念いたしました。そこで絵入りの大きな看板を検討しましたが、いくら大きく書いても地図に代わるものはできないと判断し、また景観、維持などのことを考えて石板にしました。ちょうど区長会によって清掃・整備されていたところに設置することができました。間もなく盛土が行われる予定です。この案内板(石板)を読むように立つと、左手に88番大窪寺が見えます。87番は少し後ろにあります。また1番は近くの島四国83番一宮寺の中にあります。裏面の写真を掲載します。
重井村四国八十八ケ所霊場(40) 2021年4月
重井川昭和橋のところにある55番別宮山南光坊から重井川の東側に入ります。ここには開化橋と書いた石柱があります(写真)。
開化というのは文明開化のことですから明治時代になって流行した言葉です。その開化橋というのは昭和橋の古い名前なのでしょうか。それとももう一つ別にあった橋の名前でしょうか。普通の道路のように見えてもよく見ると、その下に溝があります。この上にかつては橋があったと思われますから、その橋の名前だったと考えておきましょう。
一町田の中を流れる菜洗川原(なーらーがーら)は文化橋のところで重井川と接近して、今では重井川へ注いでいます。しかし、60年前には重井川に注がず、重井川の東側土手に接して流れ、この南光坊近くにあった池から、電動ポンプで重井川へ排水されていました。この池がおそらく長右衛門新開の潮廻し(タンポ)の跡だったと思います。電気が来る前は、さらに北へ流れ郵便局の裏にある青木沖新開の潮廻しに注いでいたはずです。その水路にここでかかっていた橋の名前が開化橋だったのでしょう。
重井村四国八十八ケ所霊場(41) 2021年5月
次の56番泰山寺は青木の金比羅神社にあります。と言ってもそれがどこにあるのかすらも知らない人も多いのではないかと思います。川口大師堂下から郵便局までが青木道路です。青木道路は十字路は一つだけで、フラワーセンターと文化橋を結ぶ道路と交わります。昭和橋と青木道路が接するところは三叉路です。この三叉路と十字路の間に青木山の方に向かって直角に伸びる道が何本かあります。青木道路から青木山の方を見たときの、金比羅神社の入り口の写真を示します。
この写真の奥に鳥居、玉垣があります。そして、参道の石段の途中に56番泰山寺があります。
重井村四国八十八ケ所霊場(42) 2021年6月
青木の金刀比羅神社で56番泰山寺にお参りしたら、青木道路へ出て、さらに川口の方向を目指して長右衛門新開を歩きます。青木道路と文化橋・フラワセンター線が交わる交差点をまっすぐ通過すると大師堂山の崖の中に57番永福寺があります。
まことにユニークな村四国と言っていいでしょう。大師堂山は長右衛門新開を作る時に削られかなり低くなったものだと想像されます。川口大師堂下から文化橋までが縄手の土手です。昭和橋青木道路線と縄手の土手との間が長右衛門新開です。さて次は引き返して郵便局の方を向いて戻りますが、大師堂山の崖を見ながら歩きます。大師堂山の崖から離れるあたりの電柱の隣に細長い石があります。「十一丁」と書いてあり、その上に仏像の浮彫があります。これは白滝山の山門からの道のりを示したもので丁石と呼ばれます。丁は町のつくりの部分だけを書いた略字です。町は普通は面積の単位ですが、長さの単位の時は1町は約109mになります。ここに丁石があるということから、青木道路が白滝山の表参道で、東の浜まで伸びていたことがわかります。
重井村四国八十八ケ所霊場(43) 2021年7月
57番永福寺よりやや北にある「十一丁」の丁石の写真を載せておきましょう。
白滝山の山門から道のりを示すものです。よく見ると小さな石仏も掘られています。このような石仏などが彫られている丁石がないわけではありませんが、因島では丁石そのものが他にありませんから、珍しいものです。「丁」は豆腐などを数えるときの単位ですが、面積や長さの単位に「町」があります。面積では1町は10反で約99.1アールです。すなわち約1haです。長さのときのみ「丁」とも書きます。すなわち右側の「つくり」の部分だけを書いたものです。長さの1町は60間で約109m強ということになります。
重井村四国八十八ケ所霊場(44) 2021年8月
この連載は重井村四国の札所、いわゆるお大師さんを紹介するものですが、現在は2巡目で、周辺の話題を書くのも良いかと思っております。お急ぎの方は『末広講の夢ー重井村四国88ケ所ー』に地図などが載っていますから、公民館でお求めください。千円です。さて青木道路には重井川にかかる橋からの道路が接続しています。文化橋からフラワーセンターへ行く道は交差しますが、昭和橋、大正橋からの道は青木道で行き止まりで三叉路となります。昭和橋からの道と青木道との三叉路の山側にアパートがあり、北側のブロック塀の内側に「十二丁」の丁石があります。(写真)
また、この昭和橋からの道路より南が長右衛門新開です。周辺の干拓のほとんどが長右衛門家によって行われたのに、なぜここだけが長右衛門新開と呼ばれるか謎です。おそらく長右衛門家の膨大な地所がここにあり、そこに住み込みの小作人の家族も多数いたのではないかと思います。「裏門」と呼ばれていた場所がありますが、青木城の裏門なら山の中になるでしょうから、私は長右衛門屋敷の裏門があったところではないかと思っております。
重井村四国八十八ケ所霊場(45) 2021年9月
青木道路を郵便局の方へ向かって下っていきます。昭和橋線が長右衛門新開と青木沖新開の境です。一つ北の大正橋線は青木新道です。大正橋とともに大正13年3月に完成したことが駐在所の隣の石碑に書かれています。青木新道との三叉路を過ぎると、青木道路改修碑と村四国58番仙遊寺があります。かつて豆腐屋さんがあったところです。こちらの道路改修は明治40年です。これらの石碑ができた時には「青木道路」「青木新道」という路線名があった訳ではなく「字青木の道路改修」「青木の新道」という意味で石碑に書かれています。それを曲解して「青木道路」「青木新道」と呼ばせていただきます。樋口、砂原から青木新道を経て郵便局に至る道が重井の東西を結ぶ幹線道路として賑わったのは、昭和の時代の出来事でした。
重井村四国八十八ケ所霊場(46) 2021年10月
引き続き青木道路を郵便局の方へ向かって歩きます。右手に共同井戸があります。その少し手前の山側に個人宅の駐車場あります。奥に長右衛門の碑と呼ばれる文字が彫りこまれている岩があります。
質のよくない風化の進んだ花崗岩に小さな文字が書かれていて、その技術には驚きます。しかしながらそういう事情ですので読めない文字もあります。長右衛門家2代宗徹が元和、寛永、万治の間に干拓によって約90町の田畠を開き、寛文年間にここより西の三新開の田畠十町余を子孫のため開いたと書かれているのではないかと思います。(一部推定です)。長右衛門宗徹は18歳の時に庄屋となり晩年まで54年間誠実に勤め、その間に藩主から褒賞されて馬をもらっています。寛文10年(1670)に亡くなり、通眼宗徹居士の戒名がついています。
重井村四国八十八ケ所霊場(47) 2021年11月
青木道路の郵便局の手前、元八百正商店のあったところが駐車場になっています。その一角に井戸があります。
近くの方にお聞きすると、その井戸の周りは尾道市の土地だということでした。すなわち重井村の土地にあった共同井戸だったのが因島市、そして尾道市と所有者が変わったのでしょう。その共同井戸を囲っている西側の石板に文字が書いてあります。左端の文字から嘉永6年(1853)に作られたものだとわかります。寄進者の一人、川口屋伝六は伝六家のことですから、伝六の子息水軒翁のことでしょう。他に、東浜喜治、西浜次郎七、丸岡屋四郎八などの文字が見えます。古いものですから不鮮明ですが、重井町の貴重な文化財です。
重井村四国八十八ケ所霊場(48) 202112
郵便局の隣に来ましたので、右手の石段を上がります。島四国86番志度寺があります。島四国だけでこれだけ立派な石段があるのは珍しく村民の熱意がうかがわれます。島四国を作ろうと提案したのが以前書きましたように重井村の末広講の人たちだったという話が納得できます。また、郵便局がここにあることからわかるように、東の浜がかつて重井村の中心だったことが思い出されます。玉垣に書かれた寄付者の名前や船の名前や屋号などから往時の繁栄ぶりが偲ばれます。さて、その島四国のお堂の中に村四国59番国分寺
と28番大日寺があります。お堂の右側(南側)、山よりに小さな祠があり、福助人形が供えてありましたから、おそらく恵比寿(胡)神社ではないかと思います。時間があればお参りを。ただし夏には蛇やムカデ、蜂の巣などに気をつけましょう。
重井村四国八十八ケ所霊場(49) 2022年1月
島四国86番志度寺の石段を降りたら、左手前方、郵便局の裏を見てみましょう。潮回し(タンポ)が広がっていますが、手前に調整井戸があります。この井戸の役割はよくわかりませんが、おそらく樋門を2つ作って海水の逆流を防いだものと思われます。その井戸とタンポの間に石でできた小さな祠があります。内部に「住吉大明神」と書かれています。
青木沖新開住吉神社です。左側外面に「天保三辰十一月吉日」書かれています。天保3年は1832年です。天保時代は当時としては長く14年間ですから明治になっても天保生まれの人はたくさんいました。明治40年ごろになると天保の老人と呼ばれた人たちも次第に減っていきます。さて青木沖新開ですが、村四国55番南光坊のある昭和橋・青木道路間から郵便局までです。元禄10年(1697)に検地の記録があります。しかしそれがどの範囲までのものであったかは、やや疑問が残ります。
重井村四国八十八ケ所霊場(50)2022年2月
東の浜に出ました。今は大きなトラックがひっきりなしに通っていますが、かつては、人や自転車がもっともっと見られて、賑やかなところだったように思います。その頃あった東港の桟橋へ行く海沿いの道はガードも何もなく一歩間違えば海ですが、それが当たり前ですからみんな怖くも何とも思わなかったようです。今はどこを歩いても防潮壁で囲まれています。JAから少し沖の方にこまたきの船着場がありました。海と反対の方を見てください。電柱の隣に郵便局の裏にあったのと同じような石でできた小さな祠があります。
中に住吉神社、南側の外壁に本郷沖新開と書かれております。「本郷沖新開の住吉神社」です。昔の人々はこのように干拓地には神社を建て、水害から守ってもらうようにお祈りしたのだと思います。