水戸烈士ノ墓ニ詣ズ -江木鰐水日記抄-
明治元年九月
大政を奉還して幕府は瓦解するもなお、一部の吏員党を組みて、反抗する。福山藩阿部候はもと徳川幕藩体制下においては親藩なりて、代々幕閣人士を出す家柄なり。御一新このかた、福山藩、薩長の新政府に恭順を示すこと頗るなり。新政府、藝州より上るに際し、城を開け恭順を示し、戊辰の役に協力す。
我が藩に函館へ兵士五百名の出張の命が下りしは、去る九月七日のことなり。
我は正月以来、小丸山修築の業に携わり、巴隍(はこう)の水車を管理している。それが突然、呼び出しがあり慌てて登城したのが十九日午後のことであった。城では執政の山岡氏から命を受けた。軍事参謀として函館へ行けという。御番頭の席なり。陣服が準備してあった。末世とはいえ、懼れ多いことである。自分には勤まらぬ、固辞するも、極北寒沍の地函館は攻めるに難き所なれば、是非にと乞われる。軍機戦略の才無し。平生水理地形に心を留めて國の守備を昼慮い夜思うばかりなり。
イギリス国軍艦モーナ号が着岸したので明日鞆の浦に行くよう指示あり。
十日ばかりあり、巴隍(はこう)の水車の事は五十川基の甥に後事を託すべく官よりより許可をいただき、あれこれと伝う。
明治元年十月二日午後四時 イギリス国軍艦モーナ号にて備後福山鞆津より出航す。
明治元年十月五日 加州敦賀の港にモーナ号接岸ス。
函館戦争に向かう道すがら、われわれは敦賀の港に停泊した。大野藩兵乗船のためである。
ここはつい先年まで、常陸から中山道を通って、世を騒がした、水戸烈士が投降して斬首された土地である。
元治元年十二月二十二日、のことであった。上坂し、水戸の武田耕雲齊ら百余人が加賀藩に降ったことを聞いた。
上京し冤を訴えんとし、木曽路より上る。路、梗塞(きょうそく)不通、撃してこれを開く、曲してこれを迂る。艱苦して江北(神保)駅に至る。加州の兵これを守る。一橋候逆を撃たんと欲す。浪士すなわち加州の営に至って降る。
思えば異常な事態は、彼我もまた同じであった。親藩ご三家の水戸藩から激越な尊皇攘夷の天狗烈士が生まれ、幕府に刃向かったということで処分された。一方我々のほうはどうだ。老中首座阿部正倫公を出した親藩の福山藩が、今函館にいる幕府軍を撃とうとしている。まるで夢の中の世界の出来事のようではないか。