2022年3月24日木曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 261-270

 ふるさとの史跡をたずねて(261)


青木早嵐道路改修碑(尾道市因島重井町八幡神社)

 島四国88番大窪寺前の重井町八幡神社境内には、外から見えるように東を向いた石碑が何基かある。その一つが青木早嵐道路改修碑である。



これまでも青木道路と繋がる道路改修碑を書いて来たが、今回のもその一つである。そしてこの道路は、例の両端にブルーラインが書かれたサイクリングロードである。この道は青木城跡の東側で、かつては海側の伊浜新開と山側の農事試験場に挟まれた八幡神社の裏参道であった。しかし、因島大橋開通後、フラワーセンターが出来た時、大きく改修され、この石碑にある改修の面影はなくなったと考えてよい。

 これまで紹介したのと似たパターンで中央に「本村字 自青木至早嵐 道路改修碑」と書かれており大正四年二月起工、同年五月竣工である。

 北の端は白滝山フラワーラインの入口よりさらに北寄りの、重井中学校から伸びる道路と接する辺りではないかと思う。

 石碑の左面から総工費が壱千三百三拾八円十六銭で、内訳として村費補助が四百円、特別寄付四拾二円二十銭、関係者寄付四百七拾五円六銭、関係者出勤人夫壱千四百三人であることがわかる。

 集まったお金に、人夫一人当たりの日当を30銭(0.3円)として計算した額を加えたものが総額となっているのだから、関係者出勤というのは無賃の勤労奉仕であったということであろう。現金の支出としては材料費や石工等の職人への手当ての他、出勤人夫への弁当代などが含まれていたとしても、この書き方と矛盾はしない。


参考 地図など




ふるさとの史跡をたずねて(262)

         

高浜通谷道路改修碑(尾道市因島重井町長崎)

 重井町北西端から見る光景は、左から佐木島、宿袮島と三原方面、細島、馬神城跡とまことに美しい。特に満潮の頃になると海面の反射が引き立つ。

 そこのゴミステーションの隣に大きな道路改修碑がある。



中央に「本村字 自高浜至通谷 道路改修碑」、右左に「明治廿八年四月廿一日起工」「明治廿九年四月廿二日落成」と書かれており、丸一年を要した大工事だったことがわかる。左面には総額八百七十二円、内訳として村費補助百六十円、関係寄付百四十三円、特別寄付七十一円、そして人夫三千三百廿人四百九十八円と書かれている。人夫一人当たり15銭(0.15円)という計算になる。総額の内訳の中に他の収入と並べて書いてあるということは、支払った額ではなく無賃奉仕を一人の日当15銭として計上したとしか考えられないのは、これまでと同じ。でも人数が多いので、再度考えてみよう。普請、人足、人夫などという言葉はもともと無賃奉仕に対する言葉だった。協力を「あまねく請う」のが普請。「万葉集」に出てくる防人(さきもり)、江戸時代の城普請に駆り出された農民も、日当などもらっていない。日当という考え方自体が極めて現代的なのかもしれない。

 村普請、略して「むらぶ」あるいはさらに略して「ぶ」と呼ばれるものが、かつてはよく行われていた。

 なお、高浜はこの石碑のあたり、通谷は鬼岩のやや北側。


地図YAMAP

ふるさとの史跡をたずねて(263)

須越樋口道路改修碑(尾道市因島重井町公民館)

 重井公民館の駐車場横の花壇の中にも道路改修碑がある。駐車場入口のガソリンポンプ等寄付碑の裏である。南の一段高くなったところの道路の改修が行われたことを示す。だから、石碑は南向きに設置されている。



そこには、これまでと同様に中央に「本村字 自須越至樋口 道路改修碑」、そして右左に「明治廿七年十一月起工」「明治廿八年五月落成」と書かれている。

 そして左面にはその費用についての記録がある。まず「金高 三百五拾円六十四銭」とあり、これはその下に書かれてある内訳金の合計に一致する。しかし、左側には「右 人夫二千八十六人 金三百四拾一円八十五銭」とある。一人当たり約十六銭である。

 さて、この「右」は何を意味するのであろうか。見ただけなら、支出における人件費と思うだろう。しかし、これまでの例と同様に考えれば、無賃奉仕の人件費を加算したものを総工費と考えるべきであろうか。この書き方ではどちらかわからない。

 内訳金については、関係寄付八十二円廿二銭、村費補助百六十円、特別寄付八十九円九十二銭。これは世話人の寄付のようだ。そして残りの拾八円五拾銭については文字が読めないのでわからないが、細島、岩子島、忠明、寄付などの文字がかすかに読める。

 この道路は須越のバス停から公民館の上を通って、大小路、南小路の接する交差点までである。その交差点には、明治31年の大小路南小路道路改修碑が建っている。



ふるさとの史跡をたずねて(264)

           

道路改修碑(尾道市因島三庄町二区)

 因島三庄町善徳寺から南へ向かうと、峠の上で左右にバス通りに降りる道が別れる。ここの三叉路に道路改修碑がある。そのバス通りは因島市時代は市道土生三庄線と呼ばれていたが、今でもそれでよいのだろうか。 



 その石碑には右から左へ三行にわたって次のように記されている。「大正十二年三月」「道路改修記念碑」「建設昭和十五年五月」。

 これは何を表しているのだろうか。記念碑が先にできて後から工事が行われるということはありえないから、大正十二年三月に道路改修工事が完了し、昭和十五年五月にこの石碑が建てられた、と解釈するしかあるまい。まことに不思議なことであり、理解に苦しんだ。昭和昭和十五年に何があったのだろうか。

 昭和15年は神武天皇即位紀元2600年にあたり、国を挙げての記念行事が行われた年だとわかった。その祝賀行事の一つだったのだろう。

 石碑には土地寄付者が10人とその面積、設計者、石材寄付者、木材運搬者、道路委員7人、記念碑建設委員8人の名称が記されている。なお右端に書かれている金三百円、通組、土地二畝などの文字は解読できなく、解釈を保留しておく。(金三百円之通組替地二畝であろうか? でも意味はわからない。通というのは東端の地区名)

 ともかく昭和15年の祝賀行事を彷彿させる貴重な石碑である。

 この石碑に接するように道標があり、隣り合った2面に「左土生田熊村」「右中庄村」と書いてある。これは現在地の反対のところにあったものと考えられ、山側が中庄村方向だろう。また、道路改修碑よりも古いものだと考えられる。


ふるさとの史跡をたずねて(265)

千守道路記念碑(尾道市因島三庄町一区)


 前回の市道土生三庄線の道路改修工事碑の三庄町側の終点では南北に走る道路と接する。その道路は現在は海側に新しく作られて海岸道路となっており、北側が水軍スカイラインとなって椋浦方面へ続く。千守から椋浦峠までの道路改修を記念した石碑が地蔵堂(金比羅堂)・島四国29番国分寺の前の広場にある。



もちろん護岸工事や舗装改修やらのインフラ整備は日常的に行われているのだから、現在の姿とこの石碑建立時の改修による姿とは想像できないほどの隔たりがあると思ってよいだろう。しかし、立派な記念碑が建っているのだから、画期的な改修が行われたことは確かだと思われる。また、この石碑から三叉路への海岸通りはもっと後にできたものであろうから、内側の道も含まれていたのかもしれない。

 石碑には、右から「千守道路記念碑」と大きく書かれており、上には三角形の石が載り、丸く磨かれた面には「悪しき昔の道を忘るな」と詠んだ歌が書かれている。下には「大正八年三月着工、大正十年三月竣工」とあり、村長、助役、収入役、村会議員の氏名が書かれている。それに続けて、「金三千六百円三庄村費補助 金三千六百円千守組住民工費 金三千三百円土地寄附 金二百円睦硯会員工費」、そして寄付者と金額が書かれている。最後に工費総額として一万二千三百円と書かれている。この額は上記金額を合計したものに近いが、収入と支出の関係はわかりにくい。また裏面に廻ってみれば、「千守道路委員」として13名の氏名が記されている。




ふるさとの史跡をたずねて(266)

向山釜ノ浜道路改修碑(尾道市因島三庄町四区)


 因島三庄町の地蔵鼻へ行く道路は、北側の石田造船の横を通るのが一般的だが、南側の折古の浜の側を通る道の他、その間を通る道もある。今回はその間の道の話である。

 元三庄小学校前の交差点は、かつてはバスと離合するのが難しく慎重に通ったところであるが、今は道幅が拡張されていて、あっと言う間に通過してしまう所となった。その交差点から東側に向かって登ると大きなため池がある。室内池と言うユニークな名前には何かいわれがありそうであるが、わからない。そのため池の北側の道を東へ少し進むと右側に「道路記念」と書いた石碑がある。



 道路を新設したのなら、そのことを大きく書くだろうから、やはり道路改修記念碑にちがいない。表には寄付者として金額と氏名、右側に「大正十四年三月」、左側に世話人の氏名が書かれている。



 市道の路線名は向山釜ノ浜線であるから、「向山釜ノ浜道路改修碑」と記しておく。



ふるさとの史跡をたずねて(267)

天神道路改修碑(尾道市因島中庄町天神)


 因島中庄町の因島消防署の前の信号を東に向かって進み、最初の左に入る道を左折する。すると電柱の隣に巨大な石碑がある。



 大きく右から「天神道路改修碑」とあり、金額と寄付者名が四段に書かれている。高額者から順になっている。一番上の段の右端に本村補助として金額が書かれているが、三千円か三百円か三十円か判読できない。また下段左には「順位抽籤」とあるから、これは同額の場合という意味だろう。また「外八拾六名」とも読める。これも寄付者のことだろう。

 裏面には、「大正十四年竣工」「発起者 天神組青年」と書いてあり、「世話人」として25名の氏名が書かれている。最後の文字は消えかけているが年齢順という意味だろうか。

 大正14年は年末の数日が昭和元年になる、大正最後の年である。






ふるさとの史跡をたずねて(268)

道路改修碑(尾道市因島中庄町西浦)


 国道317号線の新青影トンネルは、まもなく開通するのだが、その西浦側の入口の上から北へ入れば、本連載5回で紹介した掛迫農道へ行ける。また、この入口のところから北側の側道を西に降れば、夫婦岩がある。

 今回はその夫婦岩の前を通り過ぎ、しまなみ海道西浦高架橋の下まで行ってみよう。右手に「道路改修」と書いた石碑がある。



右側面に昭和十一年と書かれている。工事区間の記載もないし、高架橋の工事で当然、道路も変わっているだろうから、元の道路を推定することはできないが、この近くの道路改修が行われたという記念の石碑である。

 正面右隅に「本村補助割石二百箇」とあるのが興味深い。現在と違い、法面の工事に石組みが用いられ、その200個分の材料費に村費が当てられたということであろう。

 次に寄付金の額と氏名が書かれている。15名が氏名で2名が屋号であるのも珍しい。寄付金の合計が176円である。また世話人として6名の氏名が書かれている。

 人も、道路も変わる。でも石碑だけは残っていて、人々が協力して自分たちの住んでいるところをよくしようと協力していたことがうかがえる。自分の住んでいるところの石碑は、毎日見ていて風景の中に溶け込んでいるので、あまり意識することはないが、こうして各地の石碑を見ていると、少しずつ違っており興味深い。






ふるさとの史跡をたずねて(269)

御即位大典道路改修碑(尾道市因島中庄町西浦)


 前回とほぼ同じところであるが、やや東に高いところにある。

 新青影トンネルの西浦側入口近くの北側の側道を山に沿って西に降って夫婦岩に行く。その手前に道路改修碑がある。これは、石垣の中にあってなおかつ風化も進んでおり、緑色の昆虫が葉っぱの中にいるように目立たないから、季節によっては気をつけて探さないと見過ごしてしまうかもしれない。また、表面が丸いので道路改修碑だと気づかない。



 中央に「御即位大典記念工事」と大きく書かれている。右側に小さく「自峠至西浦里道路改修」とある。左側の文字も小さいが「大正四年十一月竣成」と書いてある。これは大正4年11月10日に京都御所紫宸殿で大正天皇の即位礼が挙行されたことを記念して、道路改修工事が行われたということである。

 ここで251回で紹介した青影トンネルの上にある「自字中須加権防至峠道路改修記念」碑を思い出しておくのも悪くないだろう。こちらは「大正五年竣成」だから、西浦側が少し早く改修され、それに続けるように改修されたことがわかる。




ふるさとの史跡をたずねて(270)

金蓮寺道路改修碑(尾道市因島中庄町寺迫)


 金蓮寺山門前の参道左手に奇妙な形の道路改修碑がある。一見、ふたつの石を巧妙に繋ぎ合わせたような印象を受けるが、自然石の原型をうまく使ったものだろう。



 まず正面の上の段。「道路改修之碑」と中央に大きく書かれ、右には「自字時森到字寺迫金蓮寺」、左には「大正二年二月起工同年五月竣成」と深く彫られている。

 下の段には右端に「金三十円中庄村補助」とあって次に40円から10円までの寄付者21人の金額と氏名が記されている。他の寄付者については、左側面に「金百八拾七円 拾円以下ノ者九十三人」とある。

 また裏面の下部には「当山十世大豊代」、檀徒惣代3人、発起者2人の氏名が書かれている。そして「墓所石壇 寄附者中 世話人」と16名の氏名が書かれているのだが、16名全員が世話人なのか、そうでないのか、書かれた文字の配置からは理解できない。



 しかし、いずれの面も文字が書かれてあるところはきれいに磨かれ、文字が深く彫られていて鮮明で楽しい石碑である。

 また、設置場所もよく、多くの人に見てもらえる。





                                            写真・文 柏原林造 




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