2022年11月28日月曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 291-300

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ふるさとの史跡をたずねて(291)

本郷沖新開住吉神社(尾道市因島重井町本郷沖新開)


 重井郵便局の北側には、長方形の東港があり、一目で計画的に造成されたことがわかる。しかし、「重井東港」は因島西廻り航路の桟橋ができてからは本郷沖新開の北端のことになった。現在は重井中学校近くの鉄工団地横にある、かつての木原行フェリーの発着場であったところが「重井東港」で尾道瀬戸田航路の桟橋がある。

以上の2点は定期船の寄港地としての港であり、地形的な意味での東港は、やはり重井郵便局の前である。

 その東港の西側が本郷沖新開で、かつて塩田のあったところである。干拓地の低地に集まった水は、一定水位に達すると自動的にポンプが作動し、東港へ排水されている。その排水ポンプの隣にある立派な石造りの小祠には、内部に「住吉神社」と書いてある。また外側の左側には「本郷沖新開」、右側には「明治四十三年六月二十八日」と書かれている。

 屋根の部分の凝った細工は見事である。これを見て、当時は景気もよかったのではないかと想像する。製塩業の関係者らが建てたのかもしれない。

 また、このころは島四国88ヶ所開設の準備が進んでいたころであり、活気にあふれていた時代ではなかったかとも思われる。



ふるさとの史跡をたずねて(292)

  金比羅大権現(尾道市因島重井町伊浜)

 前回の本郷沖新開の住吉神社から港を隔てて反対側(東側)へ回ります。そこに島四国87番長尾寺があります。こちらは伊浜新開の先端ということになります。

 ここには長尾寺の他にも大きな石碑があるが、今回はその前の小さな石柱について記す。石碑に比べて小さいというだけで、綱取石などに比べると大きく立派な石柱である。

 南側に「金比羅大権現」と彫ってある。よく見ると左右に一文字下げて、右に「住吉大明神」、左に「稲荷大明神」とある。

 また背後には「文政五壬午十二月吉日」「世話人」などの文字が見えるが、世話人の名前は判読できなかった。

 ここで、厳島神社がないのが気にかかる。この頃には既に厳島神社から金比羅宮へと海上信仰の人気が変わっていたということだろうか。

 それともう一つ気になるのは、綱取石としても使える位置と大きさである。果たしてそのような利用が許されていたのであろうか。



ふるさとの史跡をたずねて(293)

細口新開住吉神社(尾道市因島重井町細口)

 白滝山フラワーラインに沿って西下する水は、重井八幡神社の北側を通って海に注ぐ。その川がトウビョウガワラである。平地になっている部分で、トウビョウガワラより南が宮沖新開、北側が細口新開である。

 トウビョウガワラと重井中学校の中間あたりの県道から西を見ると畑の向こうに土手が見え、建物の前に石造りの小祠がある。細口新開の住吉神社である。そのすぐ隣には県道からは見えないが、畑より一段下がったところに細口新開の潮廻し(タンポ)がある。

 小祠の中央には、「住吉大明神」と彫ってあり、墨入れがしてあった。また、前側の左右上下には小さな穴が開けられている。おそらく作られた時には、木製の観音開きの扉がついていたのであろう。

 かつて、この近くの海側には小さな桟橋があって、真珠養殖の作業船が発着していた。山勝真珠(株)の重井工場ができたのは昭和35年7月である。

 三重県賢島産のアコヤ貝に宇和島で核を入れたものが、重井町にあるのは5月から12月までで、水温が下がる他の期間は宇和島や和歌山へ移してで避寒された。筏に吊るしたネットを定期的に陸揚げして、不要なフジツボ、カキ、ムシ(ゴカイ)などを剥がす作業を、この辺りでしていたのではなかろうか。




ふるさとの史跡をたずねて(294)

広円新開住吉神社(尾道市因島重井町勘口)

 重井中学校の北側に深浦新開が広がる。西側に因島鉄工業団地や三和ドックがあるが、少し高くなっていて、文字通りここが深い湾になっていたことが伺える。

 深浦新開の北東、深浦新開の潮廻しの東端にある海に面した小山は、地形的に考えて小島であった可能性があるが、名前がついていないので、岬であったのかもしれない。その小山の北東にも小さな潮廻しがある。こちらは広円新開である。その潮廻しの堤防上に素朴な石の小祠がある。

 中の石に書かれて文字は読めないが、おそらく住吉大明神と書いてあるのだと思われる。

 ここの堤防も、深浦新開の堤防も何度か補強されているが、よく見れば他の海岸に比べて元の部分から強く作られていることがわかる。戦時中は軍用地として使われたところであるから、その計画の初期の段階で古い堤防がコンクリート製の頑丈な堤防に作りかえられていたのかもしれない。



ふるさとの史跡をたずねて(295)

深浦新開住吉神社(尾道市因島重井町深浦新開)


 深浦新開住吉神社は三和ドックの入口付近にある。さらに詳しく書けば、深浦新開の潮廻しの西端の堤防の上にある。この潮廻しは東西2つに分かれていて、通水管でつながっている。その西側の潮廻しの西端の堤防の上である。背後に霊魚碑があり、それに比べると小さな祠で他の干拓地の住吉神社と変わらないが、ここには石でできた鳥居があったことがわかる。基礎の部分は残っているが途中で壊れ、残骸が隣に転がされている。



 祠の内部にはかすかに「住吉大明神」の文字が読める。

 また、かつてこのあたりに大きな松の木があったが、今はない。

 さて、ここから東へ伸びる長い堤防を見てみよう。海側から見ても、陸側から見ても高く、かつ長く城塞のような威容だ。陸軍軍用地の痕跡として境石、船着場跡、島四国の移転などをかつて書いてきたが、この立派な堤防も軍用地の痕跡と思ってもよいだろう。

 島四国の移転に関しては、88番大窪寺が現在重井八幡神社の上にあるが、元はここにあったのではないかと私は考えている。島四国開設当時の交通事情を考えれば、巡礼者を大浜村(当時)の一番へ運んだ船が二日後に迎えに来るのに適した砂浜が、今は埋め立てられて見えないが、近くにあったからである。


ふるさとの史跡をたずねて(296)

霊魚魂碑(尾道市因島重井町深浦新開)


 三和ドックの入口付近の深浦新開住吉神社の後ろには、中央に「霊魚魂」と書かれた大きな石碑がある。



 その文字の左右にも文字が書かれている。右側は「祈念之為供養 四国八十八ケ所霊場二百回巡拝 明治三年四月二十五日誕生百六歳」、左側には「前近衛師団長 陸軍中将伯爵宮下善告 従四位勲二等功四級謹書」とある。

 また裏面には「昭和五十年十月 村上六三郎建之」と記されている。



 こららのことから、この石碑は重井町で鮮魚店を営んでいた村上六三郎氏が、昭和50年に建立されたものであることがわかる。おそらく出征時の上官であった新潟県出身の宮下善告(みやしたよしつぐ)氏に揮毫してもらったということであろう。

 今は三和ドックの工場になって海は見えないが、建立当時は海が見えたし、また周囲は陸軍軍用地の跡であるから最適の場所であったに違いない。



ふるさとの史跡をたずねて(297)

深浦新開潮廻(尾道市因島重井町深浦新開)


 深浦新開の住吉神社や霊魚魂碑のある巨大な堤防の下には、これまた大きな池が広がる。深浦新開の潮廻しである。通水管で繋がった大小の池に分かれているが同一のものと考えてよい。



 かなりの水量であるが、それがどこから流れてくるのかわからない。周辺には水源らしき河川は見当たらない。おそらく白滝フラワーラインのある山の西側の各所から湧水が流れだしているのではないかと思われる。また、周辺に民家が少なく、生活排水の流入が少ないのも良い美しい環境が保たれている理由であろう。

 しかし、私が子供の頃は沼エビがいたが、最近はいないようだ。やはり自然環境はどこも変わっているのだろうか。

 また、最近の大雨では、ここも排水ポンプの能力を超えた量の雨水が集まるようだ。地球温暖化の問題は干拓地の多い因島では、見逃せせない問題である。


ふるさとの史跡をたずねて(298)

波止寄付録(尾道市因島重井町東浜)


 重井郵便局の北に海がある。右側の海沿いの道を北にまっすぐ歩くと「波止寄附録」と書かれた大きな記念碑に突き当たる。



島四国87番長尾寺の近くである。その先は海で、小細島、細島が見える。左に湾口を半分ほど塞ぐように波止めの石垣が組まれている。波止(はと)である。この波止の建設費の寄付録であって完成記念碑ではない。とはいえ、そう書いてないだけで同じことである。

 小さな字で多くのことが書かれているので、ここで紹介するのがはばかられるが、興味ぶかい一部を記す。

 明治23年の秋に完成して石碑が作られている。村費と個人の寄付によるのはこれまで紹介した道路改修碑と同様であるが個人の記載が多く、当時の村のようすが伺われる。

 細島の住人の名があるから、細島航路の船着場が既にここにあったことがわかる。また、村外の人の名もある。向島の吉原大作氏は重井村の元戸長である。椋浦、尾道、忠海などの人は頻繁に荷物を運んでいた船の持ち主だろうか。あるいは当時停泊滞在していた漁業者もいたのかもしれない。

 石工として西面には三庄村光法佐太郎、中庄村田頭岡左ヱ門、田熊村岡野綱次とあり、東面には三庄村篠塚音松とある。西面の3人が工事を担当した石工で、東面の篠塚さんはこの石碑の製作者だと私は考える。



ふるさとの史跡をたずねて(299)

柏原水軒翁築港碑(尾道市因島重井町東浜)


 前回の波止寄附録の石碑の右側に「柏原水軒翁築港碑」と書かれた石碑がある。



高さ213cm、横幅52.5cm、奥行41cmで、築港碑であるから、ここの港を作るのに貢献した水軒翁を顕彰したものである。左から裏側、さらに東側へと文字が書かれている。

 工事は天保8年(1837)年に開始し、安政4年(1857)に竣工した。その間、延二万余人の村人が協力した。その中心だったのが白滝山五百羅漢の開祖柏原伝六の子息で組頭里正であった秀直(嘉太郎)で、水軒は号である。翁はこの功績により庄屋格になっている。他の業績として白滝山への石仏設置や塩田の開発・経営がある。石仏というのは一観夫妻像のことだろう。

 さて、この石碑は明治44年(1911)に建てられおり、撰文は伊川高中氏、書は岩本一氏であるが、正面の題字は水野忠浩氏が書かれている。75歳の水野氏は除虫菊の発展に尽くされた村上勘兵衛さんの漢詩の先生で岳父。この頃、勘兵衛さんは重井村の収入役であった。


ふるさとの史跡をたずねて(300)

綱取石(尾道市因島重井町東浜)


 重井郵便局の前(北側)に古い倉庫がある。その向こう、防波堤の手前に綱取石が2本ある。さらに防波堤の向こうには雁木(ガンギ)がある。しかし、ここの雁木は現在ではコンクリート製に改修されている。その改修時に、この綱取石は稀覯品として残されたものであろう。



 2つの綱取石は外側に「綱取石」と大きく深く彫られている。内側には、それぞれ小さな文字で薄く何かが書かれているが、全く読めない。港湾が完成したのが安政4年(1857)で、以来潮風にさらされてきたのであるから仕方がない。かすかに「浦方連中」とか「長百姓」などの文字が見えるので、個人の寄付によって作られたものがあったのかもしれない。

 なお、隣にある壊れかけた倉庫について書いておきたい。これとほぼ同様なものが戦後、現在の重井小学校のあるところ一帯にもあり、新制中学校や土生高等学校因北分校の前身である因北青年学校の仮校舎として使われた。さらに興味深いことには、これらは軍用地から移設されたものだとも言われている。

 そうであるならば、軍用地関連史跡として、これまで紹介してきた陸軍境石、荷揚場跡、深浦新開堤防、島四国87番、88番とともに、重井郵便局前の倉庫を加えておいてもよいだろう。

写真・文 柏原林造

増補版index 本館 白滝山 いんのしまみち YAMAP