2023年2月9日木曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 301-310

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ふるさとの史跡をたずねて(301)

幸賀屋敷跡(今治市宮窪町)


 三百番代は、時代も場所も問わないことにして、積極的に島外へも出てみたいと思います。

 しまなみ海道の大島北インターチェンジで降りて左折する。因島からも海づたいに続く国道317号線である。その右側にある古い少し狭い道を行く。

 今治市立宮窪小学校と今治市北消防署大島分署の間の路地を北に向かって少し入ると「義弘公遺跡幸賀館」と書かれた石碑がある。あの青影山の村上義弘さんである。



 さて因島村上家文書の四は、大塔宮護良親王令旨というもので、元弘三年(1333)五月八日の日付があり宛先が備後国因嶋本主治部法橋幸賀館となっている。この家が因島の支配者で、この文書を持っていることが支配者の証である。村上義弘がこの家を継ぎ、大島に帰って住んだところが幸賀館と呼ばれたのであろうか。

 宮本常一氏の『私の日本地図⑥』に箱崎の塩田に勤めていた人の住居として、「こうが市」というのが出てくる。箱崎と對潮院の間だと書いてある。因島の荘園の中心地は現在の中庄町や三庄町であったから、因島本主は東側に住んでおり、その家を継いだ者が南西部に住んだのかもしれない。それは村上義弘よりも今岡通任の可能性の方が高い。すなわち村上義弘の死後、因島本主は今岡通任が継いだ。彼らの夫人は姉妹だったというから、ありえないことではない。    

 以上が私が理解している村上義弘伝説の一部である。伝説だから語る人によって多少の相違がある。

YAMAP大島1




ふるさとの史跡をたずねて(302)

村上義弘墓(今治市吉海町名亀老山)

 村上義弘公の墓が大島の亀老山中腹にある。

 ここを目指すには、大島北インターチェンジで降りて右折し、国道317号線で南を目指す。高龍寺の近くから亀老山に通じる道がある。あるいは伊予大島四国八十八ケ所の34番妙法堂を目指す。本四国の寺名を書いた地図なら種間寺とある。

 道路脇に車を停めて、山路を少し歩くと、小さなお堂があり、その右に立派な宝筐印塔がある。



 玉垣の前の石柱には「国分山 鳴河門 務司 稲井 能島 以上五箇所之城主 前金吾判官村上三郎左衛門尉源義弘公廟」とある。

   


 

 また反対側の石板には、芸予備の島々の往来常にはげしく時には因島にも住み・・と説明されている。また大正八年に正五位が贈られたとも書かれている。



 ここは現在は、高龍寺の奥の院であるが、天正年間まではお寺があり、後に現在の所に再建されたのが高龍寺である。なお、この墓も別のところにあったものが、ここに移されたのだとも言われている。

YAMAP大島


ふるさとの史跡をたずねて(303)

村上義弘公碑(今治市吉海町名田居高龍寺)

 しまなみ海道が完全に開通する前は、島内の橋と橋の間は一般道を通ったことが因島、生口島、大島ではあった。大島の大島北インターチェンジと南インターチェンジの間の国道317号線を通った時、南インターチェンジ近くに、高龍寺の石柱を見た記憶のある方も多いと思う。

 今回は、その高龍寺である。高龍寺は伊予大島四国八十八ケ所の33番札所で、住職在住の四本寺と呼ばれる札所の一つであり、納経帳や納札を購入することもできる。本四国の寺名では雪蹊寺である。

 高龍寺の境内には「贈五位村上義弘公碑」と書かれた大きな岩が立っている。大正八年秋の陸軍特別大演習の時に贈られたものである。



 この時には、青影山の城主、南朝の忠臣村上義弘として因島からも推挙されたのであったが、義弘の菩提寺である愛媛県の高龍寺の方へ下賜された。当然、因島から異議は出されたが覆ることはなかった。その折の熱気を今に伝えるのが中庄町光平の青影登山道脇にたつ耀古騰今(ようことうこん)碑で、33回で紹介した。


ふるさとの史跡をたずねて(304)

高龍寺閻魔堂(今治市吉海町名田居高龍寺)

 高龍寺の山門の近くに閻魔堂があり、怖い顔をした閻魔大王をはじめ、不気味な顔をした面々が山門をくぐる人を監視している。



 学校で、教師が生徒の成績や素行を記録したノートをエンマ帳と言って生徒からは恐れられているが、閻魔堂の中にはエンマ帳は見られない。

 閻魔大王とは何か? 高龍寺は真言宗のお寺であるから、仏教の世界観を反映したものであろう。それも死後の世界の。死後の世界には天国と地獄があり、その地獄の支配者だと言う。この世で悪いことをしたので地獄に落とされたのであるから、罪人である。罪人を支配するのが獄卒である。だから怖い顔をしているのであろう。

 また地獄の裁判官で生前の罪が裁かれて、数ある地獄のどこに送られるかが決められる。その時、生前の善悪を記したノートを持っている。これが閻魔帳である。そして嘘をつけば舌を抜かれる。

 それぞれの地獄に支配者の王がいて、その10人のトップが閻魔大王で、裁判長となる。閻魔堂には閻魔大王を中心にその十王が整列した裁判所の様子が並べられている。顔は怖いが姿勢を正し、裁判官の制服を着て、勢揃いしている。




ふるさとの史跡をたずねて(305)

中庄町十王堂(尾道市因島中庄町)

 

 閻魔堂のことを十王堂とも言う。因島中庄町のJA因島北支店前の道路、さらに川を越えたところに遍路道標と常盤橋の石碑があり、その西側の塀の中に十王堂がある。字名では仁井屋と黒松の境界付近である。


 

 この十王堂のことは安永3年(1774年)9月の中庄村の村立実録帖に記載されている。村立実録帖というのは、村の状況を広島藩へ報告したもので、地元に残っているのはその控えである。

 それには堂六ケ所として小田 薬師堂、熊 観音堂、山崎 大師堂、徳永 大師堂、法大寺 十王堂、石丸 地蔵堂とある。(「因島市史料第一集」による)。

 では、「法大寺」とはどこのことであろうか。同書には別に寺三ケ寺として、長福寺、成願寺、金蓮寺が記載されているから、「法大寺」とは地名のことで、以前はそのような名前のお寺があったが当時は既になく、地名として残っていたと考えてよいであろう。「中庄字名略図」でこの付近を探すと長音寺と沖田の間に「宝大地」がある。

 また「因島市の文化財」の表紙に使われている文政二年の絵図には成願寺の近くに「法大寺土橋」が描かれているから。「法大寺」が「宝大地」に表記が変わったと考えられる。字名番地対応表によると、宝大地はJA因島北支店一帯となる。

 これらのことから考えて、ここの十王堂は川の南側か北側かはわからないが、安永3年には既にこの付近にあって、以来庶民から信仰されていたものだと思われる。




ふるさとの史跡をたずねて(306)

善興寺閻魔堂(尾道市因島重井町善興寺)


 信長・家康対浅井・朝倉の姉川の戦い(1570年)は、家康の出世物語や秀吉の主張通り浅井家を直後に殲滅しておけば後の淀夫人も誕生しなかったなどと、サイドストーリーに事欠かない戦国史だが、その姉川というのは長浜の北を琵琶湖に注ぐ川である。その名前の由来が面白い。閻魔大王の姉の竜王が住んでいたという伝説に基づくと言う。

 しかし竜王は雨乞いの時にお願いする水の神様で、閻魔大王の眷属ではないと思う。

 ただ、閻魔大王には奪衣婆(だつえば)という妹が三途の川の辺りにいるそうだ。いずれにしても創作説話の世界だから、さまざまなヴァリエーションがあるのだろう。

 重井町善興寺の閻魔堂では前列右端の無冠の女性が奪衣婆ではないかと思われる。善興寺の閻魔堂は山門を入るとすぐ右側にあり、お参りしたとき、嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれると教えられた子供は多い。その舌のない閻魔像は怖かった。しかし、閻魔様だって舌がないのだから、怖くないはずだが・・。



 インド生まれの閻魔様が中国で道教の服を着せられ、様々な物語を付け加えられて日本にやって来た。異なる風土だから誤解は当然生じる。そこへ新しい物語がさらに加わる。だから、時代によって地域によって宗派によって解釈は異なる。



ふるさとの史跡をたずねて(307)

血分経塚(尾道市因島重井町善興寺)


 重井町善興寺の閻魔堂の前には血分経塚がある。これについては、かつて「血分経塚と呼ばれているが、どういうものかわからない。二、三の人にも当たってみたがわからなかった」と書いたものを見たことがある。



 しかし、血分経塚は血分経塚であって、それ以外の何物でもないのだから、それ以上のことはわからなくてもよい。

 おそらく、その意味を考えなかっただけであろう。「血分・経塚」と読むと、血を分けた経塚? さて、何だろう、ということになる。「血分経・塚」と読めば、血分経の塚ということになる。すなわち「血分経」というお経の経塚ということである。鐘楼の反対側に法華塔がある。「法華経」を奉納供養したものである。「法華塔」と言えばすぐにわかるのに「血分経塚」と言ったら何のことかわからなくなるのは、「血分経」が「法華経」ほど有名ではないからである。「血分経」というのは、十王信仰に関する偽経の一つ、というぐらいしか私にもわからない。

 多くのお経が、梵語で書かれたものが中国語訳された漢訳仏典であるのに対し、中国で作られたお経が偽経と呼ばれている。

 外来宗教である仏教が、中国の伝統宗教である儒教と新興宗教である道教と融合して、十王信仰が作られたので、漢訳仏典ではなく偽経によって閻魔大王の話は我が国に伝わったのであろう。そのような偽経の一つである「血分経」によって善興寺の閻魔堂が作られ、合わせて奉納し供養の石塔が建てられたのではなかろうか。



ふるさとの史跡をたずねて(308)

渡橋俊五郎翁之像(竹原市仁賀町仁賀小学校)


 元田熊小学校の前身である久敬舎が慶応元年に村上萬之助氏によって開設されたことは、本誌連載216回に書いた。

 その萬之助氏の弟、俊五郎氏の顕彰碑が竹原市立仁賀小学校の校庭にあることが「田熊の文化財第23巻」に記されている。

 父は田熊村上家の祖・大田熊家の十二代で神主家であった。萬之助氏は三原、忠海などで漢学を習っているので、俊五郎氏もそのような機会があったのだろう。そしてそこで見込まれて神主家の渡橋(おりはし)家に、養子として迎えられたのではないかと想像される。

 仁賀小学校へは、国道2号線から賀茂川荘の方へ入り仁賀ダムを目指して渓谷を進むと、その途中にある。

 仁賀小学校グランドの東端に顕彰碑はあった。台座には「渡橋俊五郎翁之像 池田勇人書」と書かれており、背面には銅板に「渡橋俊五郎先生略伝」が記され「昭和三十一年三月吉日 賀永村」と書かれている。

 それらによると、渡橋俊五郎氏は萬之助氏と同様私塾を開き、多くの若者を善導し、明治になってからは戸長、村長を勤めた。特に、国有林になっていた仁賀山を区有林に取り戻す訴訟には身命を掛け、氏の逝去半歳後、四十年にわたる難問題が解決したのは最大の功績であった。







ふるさとの史跡をたずねて(309)

村上義弘娘経塚(今治市吉海町田浦)

 

 しまなみ海道四国側最後の島である大島は宮窪町と吉海町からなり、名前通り大き島であるが、山も多く地形は複雑である。その複雑な地形をうまく生かして構成される島四国は、歴史も古く文化四年(1807)の創設で「大島准四国霊場」と呼ばれる。 

 その島四国の86番万福寺(志度寺)と87番随心庵(長尾寺)のほぼ中間あたりに村上義弘の娘の経塚がある。県道49号を北上して、「田ノ浦」のバス停を過ぎるとほどなく県道と随心庵への歩き遍路道とは分かれる。その分岐点の手前である。県道の右手(東・山側)に「経塚村上義弘娘」と書かれた石柱がある。



そこから山の方に少し入ると竹薮の中に石塔が見え隠れする。元は道端にあったものが、竹の侵略で藪になったものであろう。そこには三基の五輪塔があった。いくらか文字が書かれているが苔むしていて読めなかった。



 本物か、と疑問に思われる方もおられるに違いない。しかし、私はここでその真偽を詮索しようとは思わない。今と違って全ての記録が文字で伝わる時代ではない。多くが口承によるのだから、長い間に誤解や悪意のない創作が加わることもあろう。

 荒れていても、島遍路の道草として悪くはない。



ふるさとの史跡をたずねて(310)

能島村上家菩提寺跡(今治市宮窪町大窪)

 

 大島准四国霊場10番証明寺(切幡寺)へ行くには、大島北インターから国道317号線に出ると左折して宮窪漁港の方に向かう。右手に駐在所がある。駐在所の西側の丘は国道に面してコンクリートで覆われた崖になっている。駐在所に近い方のコンクリート製の階段を登り、墓地を通って南へまわると証明寺に出る。

 狭い境内には「三島水軍総師 能島村上家菩提寺跡」の石碑と宝筐印塔と小さな墓が数個ある。

 能島村上水軍が栄えた頃は村上氏の菩提寺であったが、天正13年(1585)以降、廃れていた。元のところの隣に同じ名前で10番札所として復活された。

 因島中庄町の因島村上水軍の墓と呼ばれる金蓮寺の石塔群を見慣れている我々には、やや意外な感じがする。能島村上氏はその全時代を通じて同じところに長く定着することがなかったのであろうか。

  近くにある菅原池という溜池の近くには城跡らしきものがあり、一時的にはここの周辺が本拠地であったのではないかと思われる。

 なお、歩き遍路では9番大聖庵(法輪寺)から国道を横切ってお参りするが、幸賀屋敷跡に通じる旧道の方から、竹藪と路地の間を登ると複雑な地形がよくわかって興味深い。





写真・文 柏原林造















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