2023年5月5日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 311-320

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ふるさとの史跡をたずねて(311)

村上雅房墓(今治市伯方町木浦)


 能島村上氏初代村上雅房夫妻の墓が伯方島にある。今治市役所伯方支所のある木浦である。曹洞宗禅興寺を目指す。山門から外を見ると左前方に楠の大木が見える。路地を少し歩くと着く。伯方支所の方から山側を歩くとお寺の手前になるが見過ごすことはないだろう。

 推定樹齢670年、樹高16m 、幹周7mの大木で、雅房逝去後、館の一部に供養塔が建てられ、そのうしろに植えられたものだと伝わる。

 その伝承の真偽は今となっては確認のしようはないが、禅興寺が村上雅房の開基になる能島村上氏の菩提寺であり、群廓複合式の木浦城跡群の一角であるから、そうであったのかもしれない。

 能島城跡や大島の城跡などとの関係はわからないが、伯方島内の遺跡の多さから考えても、かなり長い間に渡って、この辺りが能島村上氏の本拠地であったことは十分に考えられる。




ふるさとの史跡をたずねて(312)

来島城跡(今治市波止浜町来島)


 来島村上氏の本拠地来島には今治市波止浜港からフェリーに乗れば5分ほどで着く。島の東から南にかけての平地には民家が何軒かあり、建物はしっかりしているのに人の住んでいないような家もある。江戸時代以降、港町として栄えた名残だろう。



 南の人家が途絶えたあたりから西、さらに北へかけては岩場で潮が引いていれば北の方へ回ることができ、島の大きさが実感できてよい。

 さて、島の中央には小山があるのだが、どの面も傾斜がきつく畑になるようなところはほとんどない。おそらく民家のあるところも狭く、もし攻撃用に上陸しても留まるところがなかったのではないかと思われる。この地形と周囲の速い潮流を考えると、誠によくできて城塞であったと思われる。しかし、その傾斜地から頂上へかけて、何人が生活できるとかと考えた時、多くの家臣団が集うには狭すぎるように思われる。

 しかし、6代160年間にわたって、ここが来島村上氏の本拠地であったということが事実であったとすると、いくら家臣団が対岸や近くの島に住んでいたとしても、決して大所帯ではなかったと思わざるを得ない。



ふるさとの史跡をたずねて(313)

心月庵(今治市波止浜町来島)


 来島村上氏の城主の館跡を心月庵という。なかなか風流のある名前だが、館跡は荒れ果てている。建物は来島村上氏の時代のものではなく、江戸時代の建物でもなかろう。しかし、古井戸や庭園の配置から考えると、島の裕福な人が、城主の館の跡地で優雅な生活をしていたのではないかと想像される。そしてさらにその後、お堂や神社や石仏が加わったものと思われる。




 このような次第であるから城主の館を想像しても意味はないが、場所だけは良いところにあると言える。

 ちょうど城跡への登り口にあり、北面の構造はわからないが、必要に応じて海にも出れたのではなかろうか。もちろん切り立った崖は防御の機能をもっていたのに違いない。

 城跡に登れば急な勾配の上に村上神社があり、さらに登るとかなり広い平坦地に出る。国際航路である来島海峡の激しい潮流が眼下に見える。



ふるさとの史跡をたずねて(314)

芸予要塞跡(今治市波止浜町小島)


 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる というのは啄木の有名な歌であるが、そんな感傷とは全く無縁な小島は波止浜から出るフェリーに、来島からさらに5分ほど乗ると着く。「こじま」ではなく「おじま」と呼ぶ。

 その小島は、一見人が住んでいるのだろうかと思われたが、確かに人が住んでいた。そして感傷ではなく、動と静とが混在していた。

 言うまでもなく動というのは速い潮流。いつまでも眺めて飽きない潮流であるけれども、島に滞在する時間は限られているので、未練を振り切って山に入ると、レンガ作りの建物が、まるで時間が停まっているように木立の中に佇んている。



 明治35年(1902)に旧日本陸軍によって築かれた砲台跡などだ。大久野島にあるものとセットになっていて「芸予要塞」と呼ばれた。明治37年の日露戦争で6門の28cm榴弾砲が旅順等へ移送されて使われたほかは要塞として一度も使われることなく、大正13年(1924)に廃止されたので、その当時のようすが今に伝わるわけである。発電所跡とか弾薬庫跡、砲台跡、砲座跡、兵舎跡などが点在する。

 なお、来島海峡のまったっだ中にあのるで周辺は激流であるが、地形により流れの穏やかな場所もあるので、上陸は容易であり、来島村上氏にとっては狭い来島よりも小島の方が生活には適していたと思われる。




ふるさとの史跡をたずねて(315)

芸予要塞跡(竹原市忠海町大久野島)


 大久野島へ行くには大三島の盛港からフェリーに乗れば15分で着く。ただし車では上陸できない。

 大久野島といえば、古くは毒ガスの島として、戦後は国民休暇村として、最近ではウサギの島として有名であるが、芸予要塞のことはほとんど話題にならない。前回の波止浜町小島の芸予要塞が伊予の方で、安芸の方が大久野島のものである。

 芸予要塞跡を見るには、フェリーから降りると右へ海岸沿いを進む。ウサギにも出会うが、発電所跡、火薬庫跡、


北部砲台跡と次々に古い建物が出てくる。しかし発電所は毒ガス製造用のものだ。北端に達したら少し手前から108mの小山に登れば、巨大な中部砲台跡関連施設がある。また中四幹線の高圧送電線鉄塔は塔高226mで日本一である。 


 なお、1129年に海賊追討使の平忠盛が平定した時、北側の地を忠海、南の大三島の地を盛と名付けたと言われている。

 また、中世には、この辺りは小早川水軍の支配地だから小早川庶家の砦があってもおかしくはない。しかし、確かな記録はないだろうから、細かなことを推定しても意味はないと思う。



ふるさとの史跡をたずねて(316)

村上義弘生家跡(新居浜市大島)

 今回訪ねた大島は新居浜市にあるので新居大島と呼ばれている。四国側の黒島港からフェリーで15分ほどで着く。今回は一周道路があるということなので車で行ったが、猪が落とした石が方々へ転がっており、お勧めできない。

 さて、車を港近くに駐車し、少し歩いた。村上義弘の生家跡だと伝わる村上邸はすぐにわかった。



江戸時代には庄屋を勤めていたが、西条藩主の避暑地として島本陣的な役割を果たしていたようだ。御成門の面影を留める門や武器を納めた箱などがあった。



 また、近くには大島城跡や船くぼ(造船所跡)があり、島内には出城や船かくしの跡がある。これらと義弘との関係はわからないが、栄えていた時があったと思われる。

 ここで力をつけた義弘はより広い伊予大島へ進出し、そこで亡くなる。跡継ぎがいなかったということであるから、子供がいなかったのだろう。

 信州からやってきた村上師清(もろきよ)が村上義弘の跡を継ぐ。義弘までの時代を前期村上水軍、それ以降を後期村上水軍と呼んでいる本もある。




ふるさとの史跡をたずねて(317)

能島城跡(今治市宮窪町能島)

 今の能島はかつての能島ではない。かつてと言ってもそんなに昔のことではない。ほんの2、3年前の能島とは大きく異なる。かつて瀬戸内海有数の桜の名所であったが、今はその面影すらない。去年の四月には桜があった。





今はただの無人の島である。

 桜の名所だった頃、臨時のフェリーが出て、花見と城跡見学ができた。海岸に降りれば岩礁ピットも見ることができた。昨春、上陸付き潮流体験に参加したが、文化庁が地下の遺跡の保存のために桜を伐るという話を聞いた。

 周囲の激しい潮流と能島村上氏との関係は考えれば考えるほど難しくなる。城塞としても小さ過ぎるし、この水路を好んで通る船が多かったとも考えられない。何のためにこの島を一時的にせよ、根拠地にしたのだろうか? こんな小さな島で不便な生活を送らなくても、大島は広く何かと便利であったのではなかろうか。


ふるさとの史跡をたずねて(318

造船所跡(今治市宮窪町鵜島)

 能島のすぐ隣にある鵜島は村上水軍時代の造船所があった場所として有名である。白石一郎氏の『海狼伝』はフィクションであるが、能島と鵜島は重要な舞台となっている。

 その鵜島に行くには、伯方島尾浦と大島宮窪のそれぞれの国道317号線を結ぶ、いわゆる国道フェリー(と呼んでいる人はいないと思うが)に乗ればよい。大島の宮窪港から行けば時間も短いし、鵜島港に着く前にひと山左の、造船所があった小浜の海岸が見える。ここは水軍時代には船役所があり、船奉行小浜源右衛門が住んでいたところである。

(左手前が能島、その右が鯛崎島。)

 また島内には、兵粮奉行中山繁右衛門が住んでいた中山(繁浦)や代官大谷弥左衛門が住んでいた大谷、陣屋のあった月の浜(着の浜、船着場)などの地名が残っており、主力部隊が鵜島にあったことがわかる。こうなると、近いとはいえ、急流で隔てられた能島本城の役目について考えざるを得ない。おそらく抗戦を目的とした城ではなかったのだろう。

         (手前が能島、向こうが鵜島。右端の湾が小浜。)


ふるさとの史跡をたずねて(319

鶏小島(今治市伯方町有津)

 しまなみ海道の各島は、干満の差による海水の東西への移動を妨げるように並んでいる。なかでも燧灘(ひうちなだ)と斎灘(いつきなだ)の広い海域の間にある大島は、その南北で急流が生じる。南を来島、北を能島の村上氏が占め、その残りの北側を因島村上氏が担当したのは、海賊業であれ、水先案内業であれ、あるいは関銭の徴収であれ、時代と共にその比重は変わったのであろうが、妥当な縄張りであった。

 さて、その大島の北側には伯方島があり、その狭い海水の通路を能島と鵜島がさらに狭くしている。鵜島と伯方島との間は船折瀬戸と呼ばれるぐらいだから、古来、海難事故も多かったであろう。こういうところは怪談話もまた豊富である。

 船折瀬戸には2つの岩礁からなる島があり鶏小島と呼ばれている。大きいほうには灯台があり、小さいほうは海食門の間から向こう側が見えて奇観である。 

 ・・・夜、船が進まなくなる。死んだ人の亡霊が出てきて、「杓を貸せ! 杓を貸せ!」と言う。老練な水夫は杓の底を抜いて渡す。亡霊はその杓で海水を掬って船を沈まそうとする。何度やっても船は沈まない。とうとう一番鶏が鳴いて亡霊は去った。

 地名語源説話にはヴァリエーションが多い。本当のことは誰もわからない、と書くべきであろう。



ふるさとの史跡をたずねて(320)

吉井勇歌碑(今治市伯方町有津)

 船折瀬戸の東、矢崎の集会所のところに吉井勇の歌碑がある。地図上ではエンコ石と書いているところだ。ただし、エンコ石と歌碑とは違う。



 鵜島から離れると海域が広がり潮流はおだやかになるだろう。二つの半島が直角に交わりその付け根に有津(あろうず)の港がある。

 その港町に、吉井勇が昭和12年の夏に二か月ほど滞在した。百以上の作歌があり、その一つである。

人麿がむかしいゆきし海をゆき うまし伯方の島山を見む」

 人麿には伊予の地名を詠み込んだ歌はないが、万葉集3巻303のところに「柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首」というのがあるから、瀬戸内海を通ったことだろう。人麿に限らず多くの万葉歌人が瀬戸内海を通った。たとえば、額田王が「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と道後温泉近くで詠んだ歌は、単に時刻を待ったというだけではなく、月の形と位置にその土地における潮流が対応しており、船出の時刻を示していることががわかる。「人麿が」と言う五文字で万葉世界を象徴したものであろう。        
         



      写真・文 柏原林造





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