ふるさとの史跡をたずねて(401)
伝六①伝六墓(尾道市因島重井町善興寺)
重井町の教育について語るには、まず柏原伝六のことから話すのが良いだろう。こう書くと多くの方が意外な感じを持たれるであろう。
それでは伝六が広めた、あるいは新しく作った(私はそうは思わないが・・)という宗教を信仰している人が現在重井町に何人いるか考えてみてほしい。重井町内は元より因島中を探しても一人もいないであろう。意外なことに事実はそうなのだ。では重井中学校の中島忠由氏がかつて書かれた社会科副読本「宗教界の偉人柏原伝六の話」という表題は悪い冗談だったのだろうか・・・。
だから、宗教界の偉人というのも、重井町の教育者伝六というのも意外性においては大して変わらないと思う。
伝六の墓は白滝山中腹の仁王門と因島ペンション白滝山荘の間の墓所にあるが、善興寺の墓地にもある。
明治以降の公教育も、それ以前の寺小屋も文字通り善興寺から始まっているので、ここの墓地から話を始めるのが良いだろう。
伝六の墓と言っても、伝六家は今対象としている伝六の死後、数代にして絶家した。伝六家の墓は、分家の川姫家の隣にあり、川姫家によって守られたきた。こういう事情であるから、伝六の遺品はごくわずかしかない。そのことで伝六について誤解が生じた。と同時に教育者的一面が忘れ去られた。そして我がふるさとの偉人として尊敬されてきた。だから突き詰めて考えればなぜ偉人かわからなくなる。単純に考えると白滝山の石仏を作った人ということになる。しかし実際に伝六が寄付したものは多宝塔と釈迦像と一観夫妻像(これは子息の寄付ではないかと私は思う)で、石仏工事開始後1年3ヶ月で亡くなっている。だから正確には、五百羅漢を作ろうと提唱した人ということになる。・・それでも偉人なのである。なぜか? 教育者だったからである。それは子供というよりも大人への教育であるから社会教育というべきものかもしれない。すなわち、社会教育家柏原伝六である。
ふるさとの史跡をたずねて(402)
伝六②「万時簿」
遠回りである・・・。
ここに『私の万時簿』(風間書房)という奇妙な表題の本がある。
この「万時簿」について三好氏は次のように記されている。「
同書には「いかにスローな私でも、
興味深いのは、
それでは、その「万善簿」とは何か? その校長先生は江戸時代の郷土の教育者広瀬淡窓の研究家で、
なお、三好信浩氏はイギリス教育史の分野で高名な方であるが、
ふるさとの史跡をたずねて(403)
伝六③「万善簿」
・・ということで、江戸時代の天領・日田に話は飛ぶ。
天領というのは幕府直轄地で、その支配者を代官と呼ぶ。映画やテレビでは庶民を苦しめている悪代官を主人公が懲らしめるというパターンが多かったが、実際にはそうでもなかったようだ。むしろ大名領よりもおおらかで独自の文化が育ったのではなかろうか。日田もその一つで広瀬淡窓の漢学塾・咸宜園は全国に名を馳せた。淡窓には有名な漢詩「桂林荘雑詠 諸生ニ示ス」がある。
休道他郷多苦辛
同袍有友自相親
柴扉曉出霜如雪
君汲川流我拾薪
道(い)ふこと休(や)めよ 他郷苦辛(くしん)多しと
同袍(どうほう)友有り 自(おのづか)ら相(あひ)親しむ
柴扉(さいひ)暁に出づれば 霜雪の如し
君は川流(せんりう)を汲め 我は薪(たきぎ)を拾はん
厳しさと愛情のこもった名詩で、淡窓塾の雰囲気の一端を感得できるだろう。
さて、広瀬淡窓は、善行をプラス、悪行をマイナスとして毎日加算して1万点になるのを目指した。自らも実践し、塾生にも勧めたのではなかろうか。これが「万善簿」で生涯に一度一万点に達している。
ふるさとの史跡をたずねて(404)
伝六④好善法師墓(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山表参道の仁王門下の伝六の墓については175回で記した。その広場山側(東側)には堂守の墓が並んでいる。中には伝六の秘書役ともいうべき初五郎夫妻の墓もあるので、必ずしも堂守の墓とは言えないが、伝六の思想に帰依した人たちの墓であると言ってよいだろう。写真の右奥には、私が子供の頃には小屋のようなものがあったから、おそらく伝六の死後そこに住んで、墓守のようなことをしていたのであろう。後に観音堂の隣に庫裏ができて、こちらで生活し、白滝山の管理に当たったものと思われる。
右から2番目が好善法師の墓で、正面には「心哉好善首座」、右面(南面)には「文久三年亥八月」、左面(北面)には「善興寺十三世弟子」と書かれている。また基台には、「高根洲産」とあるから、高根島の出身だと思われる。好善法師は二代目で、初代が大三島の出身であったから伝六の人気の程が伺える。
ふるさとの史跡をたずねて(405)
伝六⑤功過自知録
以前書いたように伝六家は絶家したので、伝六の事跡を伝える文書はほとんどない。そのような状況であるから、好善法師が残した伝六関係の書類は貴重である。それらは綴じられており末尾に「白瀧山好善法師」と記されている。(写真1)
この中で特に注目されるのは「善」と「悪」を天秤に掛けた絵で始まる「和字功過自知録叙抄」である。(写真2)。
これについてはかつて重井町文化財協会会長の柏原舒延氏が「伝六遺編自知録」(「反省のいずみ」第187号、昭和43年)、「功過自知録は彼(伝六のこと)が二五才から四二才の十七年間に自得したものであり、その博学から抽出されて、よくまとまり多分にその指導精神が含まれています」(反省のいずみ」第199号、昭和44年)と紹介されたものである。
さらに、『因島市史』では青木茂氏が「彼の書いたものを見ると、心学的道徳的ものの概念が、かなり深いようである」(p.913、昭和43年)と感想を述べられた。心学というのは石田梅岩が始めた石門心学のことである。
さらに、青木氏の説を敷衍されたのか、中島忠由氏は「心学から出発して観音信仰を中心においた新宗派『一貫教』を瀬戸内の島の一角から起こしたのが、重井村の川口屋柏原伝六であった」(『写真集明治大正昭和因島』、昭和57年)と展開するのである。
*『一貫教』は原文のまま。
ふるさとの史跡をたずねて(406)
伝六⑥功過自知録刊行本
さて、写真①をご覧いただきたい。前回のものが手元にあれば比べてもらいたい。多少の細部の違いがあるものの、ほぼ同じようなものだと了解していただけたと思う。
今回示したものは、私が古書店から求めたもので伝六とは全く関係がない。江戸時代に刊行されたもので、安永5年の原刻、寛政12年の再刻と記されている。
結論から言うと、前回あたかも伝六のオリジナルな著作のような印象を受けたと思うが、そうではなく刊行本(市販本)を写したものだということがわかる。もちろん多少の異動のある多数の版が刊行されたのであろうから、伝六が見たものと全く同じであるということはありえないだろう。
しかし、伝六が持っていたものか、伝六が写して持っていたものを弟子の好善法師が写したものであったのだから、伝六の思想に近づくには誠に格好の資料と考えてよいだろう。
原本の著者や時代背景については追い追い考察していくとして、今回は好善法師本にはないが、刊行本の末尾4ページに渡って書かれている表を紹介しておこう(写真②③)。1日の善と過の数を記す1年分の表である。すなわち、この功過自知録というのは道徳の点数化でありその実践の手引き書であるということがわかる。
九州日田(現大分県日田市)の広瀬淡窓は、善から過を引いた数を日々加算して、1万点を目指して、その記録簿を「万善簿」と呼んだのである。伝六が何と呼んだのかはわからない。
だが同じ時代を生きた二人である。九州の物流の中心地、天領日田の漢学者広瀬淡窓(1782生まれ)と同じようなものを、広島藩の端の端の離島の農村で伝六(1781生まれ)が読んでいたということは、やはり驚嘆に値する。
ふるさとの史跡をたずねて(407)
伝六⑦陰騭録
伝六が書いたと思われる功過自知録が市販本であるとわかった。その出版事情について記す。結論を単純に記すと、中国の明の時代に袁了凡(えんりょうぼん)が書いた『陰騭録』(いんしつろく)についていた付録の翻訳書であった、ということになる。しかし実際の話はもっと複雑である。
実は同じ頃に出版された『陰騭録』は2種ある。すなわち他に伯仕宋(はくしそう)のものがある。これらは「善書」と呼ばれる。今で言えば啓発書の類であろうか。
袁了凡の『陰騭録』には「功過格欵(かん)」(雲谷禅師伝)が付き、伯仕宋の『陰騭録』には雲棲袾宏の「自知録」「功過格」が付いていた。
中国では袁了凡の『陰騭録』の方がよく読まれた。そのせいか我が国でも元禄14年にこちらの翻訳本が出版された。その時、「功過格欵」ではなく、袾宏の「自知録」が一緒に収められた。
袁了凡の『陰騭録』(A+a)、伯仕宋の『陰騭録』(B+b)とするとわが国の翻訳書では「A+b」が袁了凡の『陰騭録』として出版された。理論編と実践編のうち実践編が入れ替わった訳である。のちにそれらが独立にA、bとして出版された。おそらくbの人気が高かったのだろう。前回のがbであり今回Aの写真を載せる。(これも伝六とは関係なく入手したものである。)
このような変なことがわが国で可能であったのは、両者が似ていたから不自然でなかったということであり、実践編の方は袾宏のものがより優れていたので入れ替えたということであろう。
手元にある伝六関係のものと一致するのはbで、AもBも伝六関係のものはない。しかし実践編の方には項目と点数があるだけで思想的なものは理論編の方にあるだろう。伝六がAまたはBを見たという証拠はないが、bの思想的背景を探るのにはAを調べるのが良いだろう。したがって、袁了凡と彼の『陰騭録』に伝六の思想的背景を探ることは意義があるだろう。
*『陰騭録』については、『岩波哲学・思想事典』による。
ふるさとの史跡をたずねて(408)
伝六⑧功過自知録好善法師本
ここで405回で紹介した白滝山好善法師が書き写した功過自知録の内容を紹介する。繰り返しになるが、これは伝六が持っていた本か、書き写したものを好善法師が書き写したものだと思われる。また、伝六のオリジナルな著作ではないということである。
しかし、量から考えても伝六の活動の大きな部分を占めていたことは十分に考えられる。
まず前書きがあって、「善をすすめて天の福(さいわ)いを受けしめ、悪を戒めて禍(わざわ)ひをのがれしめんが為に記せり」と書かれ、上下巻のはじめに「古抗雲棲寺 袾宏輯」とある。(写真は上巻の末尾と下巻の巻首)。『輯(あつむ)」と言うことから、類似のものが出回っていたことが伺える。各巻には次のような項目がある。
上巻善門、忠孝類 仁慈類 三宝功徳類 雑善類 補遺
下巻過門、不忠孝類 不仁慈類 三宝罪業類 雑不善類 補遺
附録、功過自知録大意
上巻善門では、「父母に仕え敬いてよく養う一日一善」(忠孝類)、「棄子を養う一命八十善」「牛馬等の命を救う一命二十善」(仁慈類)、「仏、菩薩、祖師の像を建立する入用二百銭一善」(三宝功徳類)、「家業に油断なくよく勤め妻子を厳しく教え導く一事一善」(雑善類)など。
また、下巻過門では、「父母の葬いをせず一度十過」(不忠孝類)、「牛馬等を殺す一命二十過、誤りて殺す五過」(不仁慈類)、「悪を見てその所を去らず五過」(雑不善類)のような具体例が細かく記されている。(一部大意のみ記す)
善の数の総計から過の数の総計を引くという集計を毎日続けるための指針である。
ふるさとの史跡をたずねて(409)
伝六⑨功過自知録附録その1
功過自知録というのは道徳を点数化したもので、いわばゲームの配点表のようなものだと思えばよい。しかし、内容が道徳的なものである以上、項目の選択と配点は選者によって当然異なる。すなわち選者の思想が反映されるだろう。その思想を伺うには全文を見ていただくのが一番良いのだが、「附録功過自知録大意」というのが付いているので、それを見ることにしよう。
刊行本より4ページ少ないが、好善法師本を見る。「願い事あらばこの功過格を受持して善を積むこと一万にも満たせば禍い除き福(さいわ)い来たりていかなる願い望みも成就せずと言うことなし」「この功過格を修せん人は我常々信仰する仏神の御前にて悪事を懺悔し一心に祈請をかけ祈るべし」「その報恩には三千の善をなして神仏の御恩に報ぜんと誓いをなすべし」「毎月一日に神仏の御前にて前月の善悪を偽りなく算用すべし」(一部文字省略)などとある。
この辺りに「万善簿」発想のヒントがあるのだが、それは九州の話で重井村では、「万善簿」という言葉は使われない。
また、これまで紹介してきた万善簿に連なる功過自知録という道徳の点数化が単に道徳的善行の実践を勧めたものではなく、神仏の篤い信仰に立った、あるいはそれと一体となった実践活動の勧めであることがわかった。
ここで、これまでよく言われて来た「伝六が神儒仏から(人によってはキリスト教まで加えて)新しい宗教・一観教を創始した」という珍説を思い出しておこう。
点数化された道徳を儒教と読み替えれば、まさに三役揃い踏みではないか。そしてこの好善法師本を伝六のオリジナルな著書だと信じた人にとっては、功過自知録が「伝六が創始した一観教」に見えたに違いない。
この附録の部分も市販本と変わらないということがわかるように該当のところを写真で示す。(神仏のところに傍線を引いておく。)右:好善法師本、左:市販本。
そして神も仏も一緒に拝むというのは特定の仏教の宗派や神道の熱心な信者を除けは、現代でもそうであるように、多くの日本人に行われている慣習で、伝六が特別なことをしたわけではない。
しかし、およそ200年ほど前に重井村で伝六が神や仏を拝むことと併せて、この功過自知録の道徳実践活動を強力に推し進めたことは事実であろう。