ふるさとの史跡をたずねて(431)
小学校史⑪国民学校
明治国家によって始められた初等教育は尋常小学校(6年の義務教育)と尋常高等小学校(2年)で、制度としては完成された。
それは昭和12年7月の日華事変以降急速に拡大する戦時色の中で昭和16年3月1日発令の「国民学校令」(勅令148号)によって改変された。
名称が変更された。尋常小学校が「国民学校初等科」、尋常高等小学校が「国民学校高等科」となった。
言葉の問題から言えば、尋常小学校、尋常高等小学校というのは一つの学校の中に2つの学校があることになるが、国民学校ではその辺りが整理されて、同一学校の中に初等科と高等科があることになって、明確になったと言える。
また昭和19年から実施される予定であったが、義務教育が8年になる。ただし初等科卒業後、中等学校へ進学するものは2年の義務教育は免除された。これらの制度は、戦時非常措置のため実施されなかったが、義務教育8年という制度は戦前にもできていたということは特記しておきたい。すなわち戦後の教育改革で小学校6年、中学校3年の9年間が義務教育となったが、6年が9年になったのではなく、制度の上では8年が9年になっただけなのである。
さて、国民学校の大きな特徴は、戦時体制下の極めて国家主義的傾向の強いことである。それは、国民学校令」の第一章目的に
「第一条 国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ日的トス」
と記されていることからわかる。
具体的には改正施行規則(昭和16年3月14日文部省令第4号)によって示され、例えば
「一 教育ニ関スル勅語ノ旨趣ヲ奉体シテ教育ノ全般ニ亘リ皇国ノ道ヲ修練セシメ特ニ国体ニ対スル信念ヲ深カラシムベシ」
などと規定されているのである。
それに伴う教科の編成も「国民学校令」によって細かく指定された。
第二章には第四条 国民学校ノ教科ハ初等科及高等科ヲ通ジ国民科、理数科、体錬科及芸能科トシ高等科ニ在リテハ実業科ヲ加フ」とあり、従来の科目がその下に編成された。
(図、国民学校の教科の構成。文部科学省のホームページによる。)
ふるさとの史跡をたずねて(432)
小学校史⑫国民科
国民学校の最も大きな特徴である国民科について見てみよう。国民科というのは「教科」の名前であり、他に、理数科、体練科、芸能科、実業科(高等科のみ)があった。その教科・国民科は修身、国語、国史、地理の科目から構成された。
教科・国民科の目標は、国民学校令施行規則の第一章第二節第二条に「国民科ハ我ガ国ノ道徳、言語、歴史、国土国勢等ニ付テ習得セシメ特ニ国体ノ精華ヲ明ニシテ国民精神ヲ涵養シ皇国ノ使命ヲ自覚セシムルヲ以テ要旨トス 皇国ニ生レタル喜ヲ感ゼシメ敬神、奉公ノ真義ヲ体得セシムベシ (以下略)」と記され、各科目につても同様に記されている。
科目・修身についての目標は次のように示されている。
「第三条 国民科修身ハ教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基キテ国民道徳ノ実践ヲ指導シ児童ノ徳性ヲ養ヒ皇国ノ道義的使命ヲ自覚セシムルモノトス
初等科ニ於テハ近易ナル実践ノ指導ヨリ始メ道徳的情操ヲ涵養シ具体的事実ニ即シテ国民道徳ノ大要ヲ会得セシムベシ
高等科ニ於テハ前項ノ旨趣ヲ拡メテ一層之ガ徹底ヲ期シ特ニ職分ヲ通ジテ公ニ奉ズルノ覚悟ヲ鞏固ナラシムベシ
女児ニ対シテハ特ニ婦徳ノ涵養ニ留意スベシ祭祀ノ意義ヲ明ニシ敬神ノ念ヲ涵養スルニ力ムベシ(以下略)」。
科目・国史ついても同様である。
「第五条 国民科国史ハ我ガ国ノ歴史ニ付テ其ノ大要ヲ会得セシメ皇国ノ歴史的使命ヲ自覚セシムルモノトス
初等科ニ於テハ肇国ノ宏遠、皇統ノ無窮、歴代天皇ノ鴻業、忠良賢哲ノ事蹟、挙国奉公ノ史実等ニ郎シテ皇国発展ノ跡ヲ知ラシムベシ
高等科ニ於テハ前項ノ旨趣ヲ拡メ国連ノ隆昌、文化ノ発展ガ肇国ノ精神ノ顕現ナル所以ヲ会得セシムルト共ニ諸外国トノ歴史的関係ヲ明ナラシムベシ
国史ノ時代的様相ニ留意シテ一貫セル肇国ノ精神ヲ具体的ニ感得把握セシムベシ
郷土ニ関係深キ史実ハ国史トノ関連ニ留意シテ授クベシ(以下略)」。
国語と地理の科目についての目標は省略した。
教科と科目の関係を示す前回と同じ図を掲げる。
(図、法令とも文部科学省のホームページによる。)
ふるさとの史跡をたずねて(433)
小学校史⑬教育勅語
国民学校の特色として教科の他に、儀式・行事が重視されたことがある。これは国民学校令施行規則第一章第一節第一条の六に「儀式、学校行事等ヲ重ンジ之ヲ教科ト併セ一体トシテ教育ノ実ヲ挙グルニ力ムベシ」と定められたことによる。
その儀式を象徴するものが教育勅語である。これは明治23年10月30日に明治天皇によって下され、10月31日に公布された。法律としては昭和23年6月19日に失効が確認された。
教育勅語とともに、よく奉読されたものに「青少年学徒ニ賜リタル勅語」がある。これは昭和14年5月22日に昭和天皇が荒木貞夫文部大臣に与えた勅語である。同日付けで公布された。法律としては昭和23年6月19日に教育勅語とともに失効が確認された。
参考:文部科学省のホームページによる。
教育ニ關スル勅語(明治二十三年十月三十日)
朕惟フニ我力皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先遺風ヲ顯彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ實ニ我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
青少年学徒ニ賜ハリタル勅語(昭和十四年五月二十二日)
國本ニ培ヒ國カヲ養ヒ以テ國家隆昌ノ気運ヲ永世ニ維持セムトスル任クル極メテ重ク道クル甚ダ遠シ而シテ其ノ任實ニ繋リテ汝等青少年学徒ノ雙肩ニ在リ汝等其レ気節ヲ尚ビ廉恥ヲ重ンジ古今ノ史實ニ稽ヘ中外ノ事勢ニ鑒ミ其ノ思索ヲ精ニシ其ノ識見ヲ長ジ執ル所中ヲ失ハズ嚮フ所正ヲ謬ラズ各其ノ本分ヲ格守シ文ヲ修メ武ヲ練リ質實剛健ノ気風ヲ振勵シ以テ負荷ノ大任ヲ全クセムコトヲ期セヨ
ふるさとの史跡をたずねて(434)
小学校史⑭勤労奉仕
国民学校時代の特色として勤労奉仕がある。これは「国民学校令施行規則」第一条七の「家庭及社会との連絡を緊密にし、児童の教育を全からしむるに努むべし」の実践と言うよりも、昭和13年の国家総動員法や、昭和16年の青少年学徒食糧飼料等増産運動実施容項などの戦時体制下における教育外の要請によるものだったと解釈できる。だから、国民学校になる前からも勤労奉仕は行われていた。写真は昭和15年5月の勤労奉仕(ため池掘り)のようす。
そして戦争が拡大するにつれて生産に携わる大人は戦地に行って国内には少なくなるのだから子供まで駆り出されたのは当然であった。重井国民学校では、昭和16年1月陸軍航空本廠因島出張所へ軍役奉仕、7月勤労奉仕「からむし」の植え付け、その他、軍用地作業数回。昭和19年7月には軍用地作業初等科3年以上参加、9月には初等科5年以上藻刈作業。11月には高等科2年男子学徒動員により田熊占部工場に出勤、などの記録が残っている。
ふるさとの史跡をたずねて(435)
小学校史⑮郷土の観察
国民学校の特色が国民学校以前からあったものだということは前回の奉仕活動の例を見てもわかる。
郷土史学習が国民学校になって急に始まったわけではないと思うが、今回取り上げる「郷土の観察」は初等科4年に行われた。
昭和16年の「国民学校令施行規則」にその内容が示されている。第二節 第六条では「国民科地理ハ我ガ国土国勢及諸外国ノ情勢ニ付テ其ノ大要ヲ会得セシメ国土愛護ノ精神ヲ養ヒ東亜及世界ニ於ケル皇国ノ使命ヲ自覚セシムルモノトス 初等科ニ於テハ郷土ノ観察ヨリ始メ我ガ国土及東亜ヲ中心トスル地理ノ大要ヲ授ケ我ガ国土ヲ正シク認識セシムベシ」とあるから、地理の初歩ということであろう。
そして郷土愛から国土愛への発展を目指した超国家的な精神が、戦後民主主義の立場から批判され否定されたのであろうが、「修身」ほど知名度が高くなく専門家を除けばあまり話題にならなかったのではなかろうか。
施行規則の指示は「郷土の観察」だけのものではないが、その具体的な方法は、第六条の後半に次のように記されている。(表記を改めた)。
「郷土の観察は国史、理数科等と相俟ちて統一ある指導を為すべし。簡易なる見取り図、模型の製作等適当なる地理的作業を課すべし。地図、模型、図表、標本、写真、絵画、映画等を利用して具体的直感的に習得せしむべし。読図力の養成に努め遠足、旅行その他適当なる機会にこれが実地指導を為すべし。」
戦時下でもあり、どれだけ実施されたかは不明であるが、地理は地図帳で学ぶものだと思っている私には驚きである。
そして現象面だけ述べれば、戦後教育で育った世代が郷土の歴史を知らず、年配者の知識に驚くのはよく経験するところである。また、郷土の歴史が戦前の教科の学習に含まれていたことすらも知らないのである。
国民学校令施行規則の第二節 第六条、国民科地理の部分を、1941年3月14日の官報より示す。(国立国会図書館デジタルコレクションによる)。
ふるさとの史跡をたずねて(436)
小学校史⑯理数科理科
国民学校時代の理科については、すでに述べた教科・科目の構成では、教科・理数科ということになっている。理数科の目標は、国民学校令施行規則の第二節 第七条に示されている。それには「理数科は通常の事物現象を正確に考察し処理するの能を得しめ之を生活上の実践に導き合理創造の精神を涵養し国運の発展に貢献するの素地に培うを以て要旨とす。科学の進歩が国家の興隆に貢献する所以を理会せしむると共に皇国の使命に鑑み文化創造の任務を自覚せしむべし。数理及び自然の理法を自発的持久的に推究する態度を養うべし。分析的論理的に考察する力を養ふと共に全体的直覚的に把握する態度を重んずべし。観察実験を重んじ実測、調査。作図。工作等の作業に依りて理会を確実ならしめ発見工夫の態度を養うに力むべし。国防が科学の進歩に負う所大なる所以を知らしめ国防に関する常識を養うべし。」(一部現代表記に改めた)。
現代から見れば奇異な感じを受けるところは明治憲法下、戦時下のことを考えれば当然であり、一般理念については現在とほとんど同じであり、すでに戦前において高度なレベルに達していたと思われる。第九条に示される具体例についても同様である。ただ、物資の乏しかった時代、奉仕活動、勤労動員等で、想像以上に実施されていないのではないかと思われる。
第八条は科目・算数についての細則であるので省略する。科目・理科の第九条を、1941年3月14日の官報より示す。(国立国会図書館デジタルコレクションによる)。
ふるさとの史跡をたずねて(437)
小学校史⑰奉安殿・奉安庫
戦前の小学校の児童の登校風景の中に小さな建物の前で丁寧にお辞儀をしている姿がある。奉安殿である。
奉安殿とは一般に天皇・皇后両陛下の御真影(写真)を納めた建物だと説明されている。重井国民学校では、昭和21年1月御真影奉還、8月奉安庫撤去、と記録にあるから、それまで存在したものと思われる。
それではいつ頃にできたのかと言うと、大正11年5月御真影奉安庫設置認可、と記録にある。御真影については、明治28年12月明治天皇・皇后御真影下賜とあり、また大正4年10月大正天皇・皇后御真影下賜とある。と言うことは奉安庫ができるまでは校長室の金庫に厳重に保管されていたものであろうから、奉安庫が別に設置されて、学校長にとっては気分的には楽になったことと思われる。そして奉安庫設置後、昭和3年10月今上天皇・皇后両陛下御真影御下賜とあるから、すぐに奉安庫に安置されたものだと考えられる。
当然のことながら、教育勅語も安置されたであろう。
こういうものであるから、火災・消火のことを考えると校舎外の方が良い。しかし、校舎外となればトイレの側とか一日中陽当たりの悪い場所はいけない。校地の一等地といえば正門から来客者用玄関の間ということになる。そうするとその前を通る教職員も素通りはできない。深々と礼をして通過する。児童も強制されなくても真似る。
また夜間警備のことも問題となる。そのために宿直制が起こったとも言われる。
かくして、奉安殿の存在は小学校にとっては大変な負担になったことと思われる。
だか考えてみれば、奉安殿に問題があったのではなく、粗略に扱ってはならない御真影を、全国津々浦々の小学校まで配布したところに問題があったのではないかと、私は思う。
(写真は重井尋常高等小学校時代の御真影奉安庫。)
文 柏原林造
