ふるさとの史跡をたずねて(441)
重井村四国八十八ヶ所の碑(尾道市因島重井町一本松)
紙に書かれたものを保存するのには骨が折れるが、
重井町一本松に建つこの石碑は、
しかし、
不親切と言えばこれほど不親切な案内板も少ないだろう。しかし、
例えば、他人に聞くのが億劫な人は、
そのように考えると、
ふるさとの史跡をたずねて(442)
村上勘兵衛翁之碑(尾道市因島重井町一本松)
前回紹介した重井町一本松の重井村四国の碑の反対側に「因島除虫菊の父村上勘兵衛翁之碑」がある。「因島除虫菊の父」と言っても、勘兵衛さんが因島で最初に除虫菊を栽培した訳ではないし、重井町から栽培が始まった訳ではない。
除虫菊は殺虫剤、特に蚊取線香の原料として需要は大きく、瀬戸内海の他の島々のみならず全国的に多くの生産地があった。ただ、投機的に売買されたために、販売価格が不安定であった。販売額が生産費を下回ることもあり、「キツネ花」に騙されたと言われたりした。
そのような事情であったから、全国的に除虫菊栽培から離れる農家が増えていく中で、重井村では、村上勘兵衛さんが小学校の教員を辞め販売組合を作って販売価格を安定させた。
また、勘兵衛さんは県立農業試験場(支場)を誘致し、島の気候に合った栽培方法や品種改良を研究してもらった。
そのような結果として、全国的な栽培農家の減少の中で、重井村の除虫菊の出荷額は逆に高まった。
除虫菊の開花期には、この場所から前後左右見渡す限りの山畑一帯が白く染まったことを覚えている人には、この場所に勘兵衛さんの顕彰碑があるのは意義深いと思うであろう。
ふるさとの史跡をたずねて(443)
除虫菊発祥之碑(尾道市東土堂町千光寺)
除虫菊の歴史で特記すべきは、金鳥でおなじみの大日本除虫菊株式会社の創業者である上山英一郎氏である。
上山英一郎氏を顕彰した碑が尾道の千光寺にある。しかし、普通に千光寺にお参りしても顕彰碑は見つけられない。参道下の石段を少し歩いて降り、右手(西側)を注意してみればわかる。
それではなぜ上山氏の顕彰碑がここにあるのか、ということである。和歌山県有田のみかん農家の四男であった上山氏は慶應大学に入学するも病のため帰郷していた。そこへ福沢諭吉先生からの紹介状を持った種子輸入商のアメリカ人が訪れ、みかんの苗木などとの交換に除虫菊の種子を与えた。上山氏は自ら栽培するとともに、各地に栽培の依頼・普及を努めた。
その活動の途次、停車した尾道駅で車窓の風景を見て、途中下車し除虫菊の栽培を農業関係者に依頼した。現在のように沿線の建物は多くなく、南に広がる海と島に降りそそぐ陽光にピンと来たものがあったのだろう。
林芙美子の両親も、途中下車して住み着いた。多くの人を惹きつけるものが車窓から見る尾道の風景にはあるのだろう。山陽本線は瀬戸内海に沿うように走るのだが、海の見えるところは意外と少ない。目の前に島のある風景も珍しい。海と島を見慣れている我々と違って、海から離れたところで生活している人にとっては心惹かれるものがあるのだろう。
さて上山氏は除虫菊の栽培を進めるだけでなく、蚊取線香の事業化に成功し需要を高めた。それが除虫菊栽培の農家経済を潤したことは前回記した通りであるから、除虫菊栽培が尾道を起点に向島、因島・・と周辺の島々へと広がるにつれて恩恵を受ける農家は増えていった。
上山氏を神のごとく慕う人が増えたことは、文字どおり祭神として除虫菊神社が建立されたことからもわかる。
ここ、千光寺傍の顕彰碑の前に立って南方を見れば、除虫菊栽培が徐々に広がった島々を見ることができる。
ふるさとの史跡をたずねて(444)
因島除虫菊記念碑(尾道市因島重井町伊浜)
除虫菊に関する記念碑はもう一つフラワーセンターの入り口にもある。どういう名称にしようかと考えながら石碑の裏側へ廻ってみると、「因島除虫菊記念碑」と書いてあったので平凡ではあるが従うことにする。
名称はともあれ、ここに除虫菊に関する県立の農事試験場があったことを伝える記念碑である。
石碑には「因島の花除虫菊 風さやか ロマンの島の除虫菊 藤田雄山」と書かれた花崗岩がはめ込まれている。
その右側に青い空を背景にした除虫菊の花の写真が金属枠をつけて、はめ込まれている。陶板かと思ったが残念ながらステンレスのようだった。したがって年月とともに褪色する。
ここで村上勘兵衛さんが誘致した農事試験場について振り返っておこう。昭和10年に面積3町(約3ha)の広島県立農事試験場除虫菊試験地が全額国庫補助で設置された。昭和22年に農林省移管となるも、昭和26年再び県に移管され広島県立農業試験場島しょ部支場となった。試験地の一部は元軍用地の深浦新開にもあったが、近隣の農家と農地交換がされてこの地に集約された。
農事試験場で昭和40年に開発された新品種「しらゆき」は有効成分が従来種の1.5倍、収量も24%も多いので昭和44年ごろには普及した。
また除虫菊栽培における農地利用のあり方は地域ごとに多様であったが、因島では、麦、サツマイモにカミノリ(トロロアオイ)を加えて間作と輪作を組み合わせた高度な輪間作体系が生まれた。これも、農事試験場が近くにあったからだろう。
そのようすは今後書くことはないと思われるので記しておく。秋に除虫菊の種を撒き、翌春2、3月ごろ麦の畦間に植える。初夏の麦刈り後、除虫菊の畦間にトロロアオイを間作する。3年目の初夏に白い花を収穫、その後へサツマイモが植えられた。このサイクルが並行して行われるのだから2年目の初夏と3年目の初夏は畑は別々だが、人は両方を行う。これが「春の農繁期」であった。
写真・文 柏原林造