刊行本 全集1 新潮文庫
久保田権四郎 実業道を語る 因島ふるさとの歴史を学ぶ会資料82回 p.30
平家物語
敦盛最後 は巻9 原文
さざなみ軍記
主人公の公達は誰だろうか。
p.21 父の身代わりとなった三郎次の台詞。
「私こそは平家で有名な平中納言三位知盛といって・・」
父が中納言で知盛だから平知章(ともあきら)ということになる。
平知章:一ノ谷で知盛が大手の大将で義経の奇襲に敗れ、父に代わって知章が討ち死にした。
知盛:「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」33歳。
宗盛の前で一ノ谷で知章を死なせたことを述懐。
平知章
時代 | 平安時代後期 |
---|---|
生誕 | 嘉応元年(1169年) |
死没 | 寿永3年2月7日(1184年3月20日) |
墓所 | 明泉寺(兵庫県神戸市長田区) |
官位 | 従五位上武蔵守 |
主君 | 安徳天皇 |
氏族 | 桓武平氏維衡流(伊勢平氏) |
父母 | 父:平知盛、母:治部卿局 |
兄弟 | 知章、増盛、知忠、知宗、中納言局 |
平 知章(たいら の ともあきら)は、平安時代後期の平家一門の武将。平知盛の長男。怪力で知られた。
略歴[編集]
寿永2年(1183年)の平家都落ちに伴って西海へ。寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは、父・知盛に従い、源氏方の源義経軍と戦闘。『平家物語』の「知章最期」によると、全軍総崩れの中、知盛と知章、郎党の監物太郎頼方の主従三騎で敗走。海岸に出たところを、源氏方の児玉党に追い付かれ、交戦。児玉党の大将が知盛に組付くところに割って入り、児玉党の大将を討ち取ったが、周囲の武士に囲まれて壮絶な最期を遂げた。享年16。そのおかげで生き延びた知章の父である知盛は、「どんな親が息子を助けないで逃げるだろうか」と自分を責め、さめざめと泣いたという。
人物
三郎次 父の郎等の一人 p.20
全集に沿って
p.18
1183年寿永2年7月5日
p.41
8月21日
三位中将 清盛5男平重衡(しげひら)
義経 一ノ谷は翌年1184年寿永3年2月 重衡捕らえられる。
屋島 扇の的はさらに翌年1185年寿永4年2月
p.43
中務(なかつかさ)
中務省の長官。正四位上相当。平安時代以後、四品以上の親王が任命された。
2022年8月17日さざなみ軍旗 7回目
8人 松浦、東、矢葺、岡野、青木、宮地、今井、柏原、
新潮文庫p.58 同じ日の夜 から
全集 p.55
同じ日 9月24日
切斑(きりふ)
鷲 わし の尾羽で、白と黒のまだらがあるもの。 矢羽根に用いる。 まだらの大小や濃度によって大切斑・小切斑・薄切斑などがある。
垣楯(かいだて)楯を並べて垣のようにしたもの。
1183寿永2年8月後鳥羽天皇即位
建久三年(一一九二)二月十七日後白河法皇は病危急により所領を処分した(『玉葉』)。すなわち後鳥羽天皇には後院領・六勝寺領・蓮華王院領・鳥羽法住寺・新日吉社領・新熊野社領・最勝光院領・神崎荘・豊原荘・会賀荘・福地牧を、殷富門院には金剛勝院領・押小路殿を、宣陽門院には六条殿・長講堂領法金剛院を、前斎院式子内親王には大炊殿・白川常光院領など、前斎宮好子内親王には花園殿・仁和寺を伝えた。
2022年9月21日さざなみ軍記 8回目
8人 松浦、東、矢葺、岡野、青木、宮地、今井、柏原、
新潮文庫p.68 5行目 から
全集 p.63
2023年1月18日
1205 7月 北条時政 妻牧氏と平賀朝雅を将軍擁立 失敗 義時執権となる。
1224 6月 泰時執権となる。
1232 8月 関東御成敗式目制定(貞永式目)
全集p.99
二月十九日 1185年 寿永4年 文治元年8月14日 (3月8日)