2022年8月27日土曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 281-290

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ふるさとの史跡をたずねて(281)

常夜燈(尾道市因島三庄町浜上)

 三庄町浜上のバス停の近く、海側に集会所と金比羅宮分祀が合わさった建物がある。その前に見事な常夜燈がある。




道路側、すなわち西側の竿の部分に「奉光燈」と書かれているので、こちらが正面になる。竿の部分は右方向に順に「金毘羅大権現」、「八幡宮」、「伊勢皇」と書かれていて、三社が祀られている。

 毎日三社にお参りする人もおれば、縁日に合わせてお参りする人もいる。八幡神社の縁日は11日だから、その日に八幡社と書かれている面の前で、「南無八幡大菩薩、オンカギリテンダアカンジエイ ソワカ」と八幡大菩薩の真言を唱える。

 金刀比羅宮と伊勢神宮の祭日は多いので、本宮の祭日に合わせて、その前で拝む。

 もちろん本宮へお参りできればそれが一番良いのだが、それに代わるものとして、地方に同名の神社が存在する。初めは名前が書かれただけのものが、やがて鳥居や祠や拝殿ができたりする場合もあるし、いつまでたっても石に名前が刻まれただけのものも多い。そしてそれが庶民の信仰の拠り所となる。

 だから名前の書かれた木なり、石なり、常夜燈のようなものがあれば、それが神社であるし、そこを神社と呼んでもおかしくはない。

 さて、ここの常夜燈の話に戻ると、正面の下から二番目の基壇には右から「文政四 辛巳 仲秋 石工 尾道住 山根屋 源四郎」とある。

 作者も制作年代もわかっている貴重な芸術作品である。 


ふるさとの史跡をたずねて(282)

常夜燈(尾道市因島重井町伊浜)

 重井町の因島フラワーセンターの正面をまっすぐ海の方へ下る。方角としては北西である。道路の向こう側の三角形の小さな除虫菊畑の右(北東)端に常夜燈がある。



私としては伊浜の金毘羅灯篭と呼びたいところであるが、前回常夜燈と書いたので、こちらも常夜燈としておく。またしても金比羅さんである。

 因島の海の近くや、元海の近くだったところに、金比羅さん、宮島さん、そして住吉さんと呼ばれている神社や石碑などを数えたらどれくらいになるのだろうか、などと思ってしまう。周りを海で囲まれており、そして危険と隣り合わせだから、日頃から三社を祀り祈ってきた名残である。

 白滝山を背景にしたので、こちら側に「天保九戌十一月吉日」と書いてあるが、反対側には「金毘羅大権現」と書かれている。四国の本社は反対方向だが、海に向かって拝むのなら、この方向で良いのかもしれない。竿の部分の文字は二面で、両側には石像が彫られている。石仏と言ったらおかしいので、ご本尊か何かだろう。

 この辺は、かつての伊浜新開の堤防のあったところだから、おそらくその上にあったものと思われる。のちに宮沖新開ができて内陸部になるが、八幡神社参道の常夜燈としてこの辺りに留まったのだろう。道路拡張に伴い移動されて、基壇が別の石材に変わっている。おそらく元の基壇に作者銘が記されていたのではないかと思う。



ふるさとの史跡をたずねて(283)

住吉神社(尾道市因島重井町宮沖新開)

 場所は、前回の近くだが、フラワーセンターから案内した方がわかりやすい。前回同様、重井町の因島フラワーセンターの正面をまっすぐ海の方へ下る。方角としては北西である。道路を突き抜けるとゴミステーションと古紙置き場がある。その古紙置き場の向こうに、石でできた小祠がある。正面には「住吉大明神」、右側に「元治元子六月」、左側に「新開中」と書かれている。



 宮沖新開の住吉神社である。大きさとしては村四国のお堂と変わらないが、全体が立派だ。自然石を重ねたものではなくプロの石工の作品であることが一目でわかる。

 干拓地の安全祈願といえば、やはり堤防が決壊しないことだろう。それを願って干拓地の土地所有者らが建てたものである。

 前回の常夜燈より南側が伊浜新開で、今回の住吉神社より東側で、かつ常夜燈より北側で、トウビョウガワラより南側が宮沖新開である。2つの新開の堤防は直角に交わり海側はさらに埋め立てられJAの集荷場などがある。元の堤防の反対側にはそれぞれ小さな池がある。干潮時に海に放出される水を溜める池で、重井町では「タンポ」、因島では「潮待ち」「潮持ち」などと呼ばれ、一般的には「潮廻し」と呼ばれているものである。

 さて、新しい埋立地ができる前には、この住吉神社は私の記憶では2つの堤防が交差する海側にあった。その下には宮沖新開の潮廻しの樋門があった。道路拡張とともに、移動されるのは他の石碑などと同じである。



ふるさとの史跡をたずねて(284)

長沢大将軍道路修繕記念碑(尾道市因島田熊町大将軍)

 田熊町にある大将軍という地名は、青影山の登山口にも近いから海賊大将軍村上義弘と関係あるのだろうと期待したが、どうやら空振りだった。大将軍というのは黄幡さんなどと同じ系統の方位神である。大将軍神社は見当たらないが、かつてはあったのだと思う。黄幡社の、武芸に吉の方角はありがたいが、大将軍社の方は「三年塞がり」で万事に大凶の方角が三年間もあるので、信仰者も減っていったものと思われる。

 その大将軍を冠した記念碑があった。場所は島四国62番宝寿寺から63番吉祥寺への途中。左手下のため池が大将軍池だろう。その先で右へ大きく曲がった辺りに、左下へ降りる小路がある。吉祥寺の手前30mほどのところだ。小路を少し降りた左手である。



 そこの石碑に「長澤大将軍道路修繕記念碑」と書いてある。昭和四年七月落成ということで、石碑の風化も甚だしいが、地元の方の協力で「世話人花岡百太郎、石材寄附者岡野作次、土地寄附者藤原佐吉」などの文字が読めた。

 等高線のように斜面に沿ってある道路と道路を結ぶ小道は、人一人がかろうじて通れるようなところだったと思う。そこを拡張して荷車でも通れるようにすれば、随分便利になったことだと思われる。

 なお、大将軍は「だいじょうご」と言うようだ。


ふるさとの史跡をたずねて(285)

三角寺奥の院(尾道市因島田熊町青影山中腹)


 田熊町で奥の院と言えばどういうわけか島四国の奥の院のことである。そして、奥の院という以上は、どこかのお寺か神社の奥の院になるのだが、ただ奥の院と言うだけで島四国三角寺の奥の院のことだとわかる。いや三角寺の奥の院だと言うことは知らなくても彩色磨崖仏のあるところが奥の院だと知っている人は多い。だから、その奥の院の名前が金光山仙龍寺と言うことを知っている人は少ない。そしてご本尊が弘法大師であることも。

 その島四国65番三角寺の奥の院、番外札所金光山仙龍寺は、一言で言えば青影山中腹の彩色磨崖仏のところにあり、そこへ行くルートは二つある。山の神社の前を登るか、青影山登山道の六松公園の隣から行けばよい。

 ご本尊の弘法大師像は岩に彫られており、その岩を覆うような形でお堂が作られている。だから岩との隙間には木の葉が積もり、その間から雨水が漏れるだろうから維持するのは大変なことだと、誰しも思う。

 ご奇特な方が管理されているうちはよいが、高齢化で管理できなくなり後継者がおられない場合は、荒廃がすすむ。これは、他の札所でも同じである。そして、ここの奥の院でも、いままさにそのような状況にある。





右半分の祭壇の間  中央の弘法大師像は磨崖仏。周囲の岩と大師像との間の銀色に彩色してあるところは窪んでいて、磨崖仏のように見えない。 

ふるさとの史跡をたずねて(286)        

彩色磨崖仏(尾道市因島田熊町青影山中腹)

 島四国三角寺の奥の院の上には、あざやかに彩色された磨崖仏が二体ある。これは奥の院の本堂内にある弘法大師の磨崖仏の脇仏である。右側が不動明王、左側が観音菩薩である。

 不動明王像には、谷の丸囲み文字に続けて昌栄丸と彫ってある。

 観音菩薩像には、右側に「大正三年三月吉祥日」とあり、その隣の施主の名は読めない。左側には「田熊西濱 石工阪井村一」と彫られている。

 時々塗り替えられているのか、下の方に「平成元年七月一日」とペンキで書かれている。

 施主は、三体の磨崖仏を寄進した昌栄丸の船主森右衛門さんだと思われるが、漢字は確認できなかった。

 観音菩薩の写真は最近のものであるが、不動明王は樹木に覆われているので古い写真を示す。


右:不動明王
左:観音菩薩


ふるさとの史跡をたずねて(287)

水掛地蔵尊(尾道市因島田熊町青影山中腹)

 島四国三角寺の奥の院の参道には、さまざまな石碑や石仏があって聖地の雰囲気を盛り上げている。その中でもひときわ目をひくのが水掛地蔵尊である。凝った天蓋の下には台石の上に立つ地蔵さんがある。水を掛けてあげるようにバケツと杓がかつては用意してあったが、こういうのはお世話をする人がいなくなるとすぐに荒れる。 

 天蓋のせいか、お地蔵さんは綺麗であった。台石の右には「昭和十二年旧十一月吉日」とある。こんなに古いものとは思えない。

 また左側には 「天台宗教師 開眼 新崎道隆」とあるが、これは「開眼 天台宗教師 新崎道隆」と読むべきものだろう。

 青影山登山道、六松公園の方へ戻らずに下に降りると山の神社を経て、三角寺は近く、前々回紹介した奥の院が、他の札所の奥の院ではなく、三角寺の奥の院であったと納得できる。








ふるさとの史跡をたずねて(288)

六松園記念碑(尾道市因島田熊町青影山登山道)

 田熊町側から青影山へ登るには島四国62番宝寿寺のところからさらに山側の道へ入る。その突き当たりに「因島八景 六松公園からの多島美」の石碑があり、そこから徒歩の登山道が始まる。少し登ると分岐点があり、青影山方面と島四国三角寺の奥の院方面へと別れる。その分岐点の山側に石碑がある。「六松園記念」と大きく書かれている。先の因島八景の六松公園というのは、この記念碑の周辺のことを言うのであろうか。あるいはもっと上の石組みのある平地のことであろうか。

 ここの石碑には「六松園記念」とありその周りの文字は「開墾二十五周年」「為岡野六松氏 昭和八年五月建之」とあり、「六松公園」とは書いていない。ただ、開墾の記念に「園」の字があるのに注意したい。単純に考えれば開墾25周年を記念して、ここを「六松園」と呼ぶことにした、と言うことになる。それならば、因島八景の六松公園というのはここのことになる。そうであっても、まだ岡野六松氏、またはその相続者の私有地であって公園ではないような雰囲気である。

 さて、その開墾であるが、岡野六松氏自身が所有する山林を開墾して、風呂山の山頂近くまで段々畑にされた。柑橘園にされるつもりだったと言うことであるが、そうはなってないし、その理由はわからない。




ふるさとの史跡をたずねて(289)

青木沖新開住吉神社(尾道市因島重井町青木下)

 因島のみならず周辺の島々においても、山際の傾斜地と海面すれすれの平坦地が際立った対照をなしている。平坦地は干拓か埋め立てによって造成されたもので、平坦地のわずかな傾斜が干拓の歴史を留めている。

 そして狭い路地が入り組んでいるところは古くから人が住んでいたところだし、広い道路のあるところは、かつて田畑であったところや埋め立て地である。

 海と接する堤防は、その構造上畑地にはならず遊休地の性格を帯び、記念碑、小祠、お堂などが設置されたりする。そのようなところが海岸から離れている場合は、かつて似たような場所であったという歴史を留めているわけである。

 重井郵便局裏(南側)の住吉神社も、かつて近くに青木沖新開の堤防があったところで、後に海側(北側)が埋め立てられ、郵便局や道路ができていることがわかる。



 住吉神社の左側外面には「天保三辰十一月吉日」書かれており、1832年に設置されたことがわかる。また、元禄10年(1697)に検地の記録があるから、此頃までに青木沖新開が干拓されていたことがわかる。



ふるさとの史跡をたずねて(290)

本郷新開住吉神社(尾道市因島重井町小林)

 重井町小林(こばし)の重井駐在所の隣に島四国80番国分寺がある。それに接して重井村四国のお堂もあるが、並んで住吉大明神と書かれた自然石がある。郷新開の住吉神社である。



 とは言え、ここは私の記憶では郷新開の潮廻し(タンポ)のあったところで、国分寺の方は昭和橋東側にあったと言われており、古い写真ではそれらしきものが写っている。しかし、この住吉神社がどこから来たのかはわからない。おそらくこの近くの堤防の縁にあったものだろう。

 古い写真では係留した小舟が写っているものもあるが、おそらく船中安全よりも干拓地の安寧を祈願したものだろう。もともと干拓というのは、海であったところに作るのだから自然に反しているのは明らかである。台風などの荒波で堤防が決壊する恐れは常にある。そうならないことを祈願して、干拓地に小祠が祀られたと考えられる。

 こう書くと現代人の感覚では「迷信に過ぎない」ということになる。その通りだろうが、そう考えると昔の人の気持ちは見えてこない。住吉神社に祈るということは、平時にあっても海の怖さを忘れないという反省の気持ちを起こさせるものであったに違いない。

 と同時にこういう祈願の行われたところは何らかの危険と隣り合わせになっていたところだということがわかる。干拓事業は確かに過去の歴史的事実で、一応終わっている。しかし、海が生き物のように変貌する以上、干拓は永遠に終わらない事業だと思わないといけない。そのように干拓地の小祠は語っているのではなかろうか。














                         
写真・文 柏原林造

➡️ブーメランのように(文学散歩)

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