2019年6月10日月曜日

ブーメランのように  因島文学散歩

①生名渡し(因島土生町)

島々の灯ともし頃をゆるやかに生名(いくな)渡しの船は出づらし 吉井勇
 昭和11年、吉井勇(一八八六~一九六〇)は岩城島から因島へ入った。岩城島では歌人でもあった豪商・三浦氏の客となって、若山牧水を回顧する歌などを詠んでいた。
 旅に出ると日常的に見ている家具だの書物などから切り離され、ふと心の中の隙間が顔を出す。そして、その表情で異郷の景色を見る。それを文字にするには、やはり17文字より31文字の方が適している。いわゆる旅情歌ができる。
 島々というから土生と生名島の灯が見えたのだろう。今ほど家がなかったから、場所によっては弓削島や佐島なども見えたかもしれない。
 家々の灯が少しずつ点(とも)っていく。今と違って蛍光灯もネオンもなく、淡い黄色一色の弱々しい灯。まだ完全には暗くなってなくて、島かげがシルエットのように見える。
 船の離着岸は緩慢なものだが、敢えてそう記すところに、ゆるやかな時間の進行を願っているようにも感じられる。
 遠くの船のエンジン音がすぐ近くのように聞こえる。
 土生水道を越えて渡海船が対岸に着く頃には、退社時の喧騒も波音の彼方に去り、一日の労働を無事終えた安堵と安寧が、次第に濃くなる闇に包まれていく・・。
 昭和19年発行の歌集『旅塵』(桜井書店)の、因島のところには土生での3首、白滝山での6首が載っている。土生での他の2首を記す。
 因島に船近づけば聴こえ来る鉄板を打つ夕ひびきかも
 船工場のある島なれば夕潮に異国の船も船がかりせり
 当時の生名渡し桟橋は、フェリーの時代ではないから土生港のあたりだった。現在は岩城行きのフェリー乗り場の護岸に、見事な黒御影の歌碑が建っている。
 今の感覚では生名フェリーは生名渡しであるから、そこの写真を載せる。

 架橋後の港湾施設の変貌は激しかった。そんななかで生名フェリーの切符売場は、古い桟橋の待合室の雰囲気をよく伝えている貴重な場所である。もしここにジュークボックスを置き、「赤いハンカチ」のレコードでもかけたら、それは遠い日の尾道駅前桟橋の待合室になる。あの頃は渡海船とは呼ばず巡航船と呼んでいたが・・・。
向こうは生名島・立石山・しかし、ここは今は岩城行きのフェリー乗り場。このフェリーは立石山から見ても、土生の天狗山から見ても島々の間をぬって緩やかに進む。そのフェリーもいつまで続くかわからない。

②  白滝山(因島重井町)

白瀧の石の羅漢の尖(とが)りたる頭のうへの山藤の花 
 吉井勇は土生で3首の歌を残した翌日か、さらに次の日にか重井の白滝山へ登った。おそらく船で移動したのだろう。歌集には6首が採られている。そのうち羅漢についてが3首あり、どれを冒頭に置こうかと迷った。他の2首も素晴らしい。どれを冒頭に置いてもよい。また、6首の配列もよく、そのまま6首を並べてもよかった。結局4首目を冒頭に置き、他の5首をそのまま並べるので、全体の構成についても見てほしい。奇岩1首、羅漢3首、そして海を含む景色についての2首である。
旅ごころやうやく倦みぬこの山に吾(あ)をおどろかす奇し岩もがな 
おほどかに海見はるかし今日もゐる白瀧山(しらたきやま)の石羅漢かも 
石ながら螫(さ)されやすらむ道の邊(べ)の羅漢の鼻に虻(あぶ)のとまれる 
山の上(へ)ゆ眸(ひとみ)はなてば瀬戸の海の汽船小さく煙吐く見ゆ 
白瀧の山にのぼれば眼路(めじ)ひろし島あれば海海あれば島 
 山頂には十六羅漢が釈迦三尊像を取り巻いてあるが、白滝山五百羅漢というのはたくさんの羅漢の意だから、他の石仏も全て羅漢だと思ってもよい。羅漢以上に高位の文殊菩薩、観音菩薩、あるいは釈迦如来も含めて羅漢像と呼んでもよいのだが、この3首の羅漢はそんな大物ではなく、素人の製作に違いないありふれた石仏を詠んでいるように思われる。・・ならば650体以上の石仏のどの一体の写真を選ぶかということは6首のうちからどの一首を選ぶよりも、はるかに難しいことになる。まして山藤だの虻などを添えるのは、はじめから諦めておく。また尖がった頭の羅漢というのも、そんな視点で見たことがなかったので、基準がわからない。ということで、早くも2回目にして題材と写真との問題に直面した。

 それはともかくとして、これらの歌の安定感はどうであろうか。いずれも田舎の山の景観が染み出しているようである。おそらく、三流観光地まがいの珍談奇説がまだなかった頃の、素朴な白滝山を想像すれば、これらの歌のもつ雰囲気がよりよく理解されるのであろう。(文・写真 因島文学散歩の会・柏原林造)



③  因北小学校(因島中庄町)

  朝日かがやく 燧灘
  夕日にはえる 青影山
  みかん花さく ふるさとは
  いつも幸い あふれてる
  ああ学びやは 因北小
  空はれわたり 風清ら
 因北小学校の正門の隣の塀には黒い御影石に掘られた校歌が埋め込まれている。校歌であるから、作詞者と作曲者の名前が書いてある。作詞石森延男、作曲西崎嘉太郎と。

 石森延男という名前には、懐かしさとともに不思議な感じがした。小学校の時に「コタンの口笛」という映画を見た。その頃の映画鑑賞は1、2時間授業をして、白滝という映画館へ歩いて行っていた。おそらく先頭が映画館へ着いてもまだ学校をを出ていない学年もあったことだろう。そういう長い列ができても、車など通ることなどまずなかった時代であったから、安全であったのである。
 さて、映画の話に戻ると監督という漢字は読めなかったし、何をする人か知らなかったので、興味はなかったが、原作石森延男というのはわかった。映画は北海道の話だったので、北海道の人だと思った。
 映画の印象に比べたら明るく平易なのは意外だった。ここで1番、2番も載せておこう。
  春はきれいな わかみどり
  望みをたかく おおらかに
  みんななかよし 助けあい
  きょうもたのしく 学ぼうよ
  ああ学びやは 因北小
  空はれわたり 風清ら

  秋は山々 もみじして
  ながめもゆたか 明るくて
  みんなからだを 丈夫にし
  あすも元気で 遊ぼうよ
  ああ学びやは 因北小
  空はれわたり 風清ら


 北海道出身の石森延男さんは東京に出て、東京高等師範学校に学んだ。そこで広島県出身の葛原しげるさんから童謡の作詞の仕方について学んだ。その後、二人は別々の道を歩むが、二人の作品は奇しくも因島で邂逅することとなった。葛原しげるさんは土生高等女学校、土生小学校、三庄小学校、田熊小学校、土生中学校、田熊中学校のほか、因北中学校の校歌も作詞した。


④ 柏原神社(荒神社)(因島重井町上坂)


 静かにたたえる みどりの海の
 潮のかおりの かよう窓べ
 やさしく われらに ささやく声よ
 われらは われらは 重井の健児

 船の絵を描くとき、島の山に緑色を使うので、海は青色となる。これはもう幼稚園の頃かそれ以前からの定番で、海は青いものと決まっている。しかし、実際に見る海の色は緑色だった。それは重井の桟橋でも、尾道の桟橋でも上から見れば、緑色で底に行くにつれて次第に濃くなっていた。
 福山で薬局を経営しながら詩を書いていた木下夕爾さんが、重井小学校の校歌の作詞を依頼されて、それでは一度行ってみましょう、と重井町を訪ねたのは昭和34年の初夏だった。尾道から船に乗る。海が緑色だということに驚いたと思う。
 校内を一通り案内されたあと、学校を見渡せるところへということで、学校の近くの丘へ登った。かつて無量寺というお寺のあったところ。墓地は移転して荒神社になり、柏原氏の先祖が祀られ柏原神社とも呼ばれている。ここには島四国81番白峯寺と村四国7番十楽寺もある。
 東に見えるあのあの山は?
 白滝山と言って、多くの石仏があって・・・横田徳造教頭の説明は遠慮がちであったが、町民の抱く思いは伝えておいた。
 これは、はずせない、しかし、どこまでのせるか。目を転じると、さっき来た海の上には青空を背景に白い雲が浮かんでいる・・・。 

 朝(あした)も夕(ゆうべ)も 白滝山(しらたきやま)に
 仰ぐ真白の 雲のつばさ
 明るく われらを さそう光よ
 清らかに 清らかに 夢をそだてて
 われらは われらは 重井の健児

 あの山肌の畑は? 
 ほとんどの家庭が農家で、特産物の除虫菊とさつま芋。 
 一応、メモする。使えそうにないな・・・。

 平和なふるさと わが因島
 心ひとつに つどう窓べ
 力ある 力ある 足ふみしめて
 われらは われらは 重井の健児
 

 自動車も鉄工団地もない静かな農村を、平和という文字で表現しても不自然でない自然に溢れていた時代であった。




⑤ 椋浦廻船燈籠(因島椋浦町)


亀五郎は、芸州椋之浦(広島県因島市椋浦町)の生れで、十年ほど前、船乗りとして江戸から帰航中、熊野灘で遭難、破船漂流してアメリカ商船に救けられ、サンフランシスコに上陸した。一同十七人であったが、清国に送られる途中、ハワイで船頭が病死。亀五郎は、治作、彦蔵とともにサ ンフランシスコにもどり、船の炊に雇われてすごしていた。

 椋浦廻船燈籠は椋浦と船との関係をよく示している。千石船で栄えていた頃、その持ち主たちによって建てられたものである。地元に船主がたくさんいるのだから船乗りも増える。中には他国の船に乗るものも出る。そのような中の一人亀蔵(改名して亀五郎)は、播磨国(兵庫県)の永力丸で遭難した。嘉永4年(一八五一年)10月29日のことであった。幸いアメリカ船に救出された。永力丸には後にアメリカ彦蔵(浜田彦蔵)と呼ばれた男が乗っていたので、多くの記録に記されることになった。
 吉村昭『アメリカ彦蔵』(読売新聞社)では、次のように続く。

その船で長い航海をしてサンフランシスコにもどると、すでに彦蔵は神奈川に、治作は箱館にそ れぞれ帰国したことを耳にした。
ただ一人になったことを知った亀五郎は、狼狽して日本へ行く船を狂ったように探しまわり、商船「ロッジル号」が商用で香港へ行くことを知って船長のノルデネルに乗せて行ってくれるよう懇願した。船長は承諾し、亀五郎は水夫に雇われて乗船し、五十日間の航海をへて香港についた。


 鎖国時代に国外へ出た人の運命は、開国を前にした幕末では、時とともに大きく変わる。入国を拒否された天保8年(一八三七)のモリソン号事件を聞いた亀蔵ら3人は帰国を諦めてサンフランシスコへ戻り、そこで3人は別れ別れになった。その後、香港へ行き、遣米使節団の乗った「ナイアガラ号」に乗って帰国できた。

日立造船(因島土生町・因島三庄町)


「伊号第三三潜水艦」は、赤錆びた艦体を御手洗海岸近くに浮べている。又場にとって海底に沈められていた巨大な棺ではなく、会社経営の利益の対象になったのだ。 艦体の腐蝕も少く、殊に浸水していなかった魚雷発射管室は貴重で、艦を視察した商社との引取り価格の調整がおこなわれた。その結果約三千五百万円で取引きが成立、又場は艦の解体工事をおこなう広島県因島市の日立造船ドックまで曳航することになった。かれは引揚げ作業によって予期通りの利益を手中にする ことができたのだ。吉村昭『総員起シ(おこし)』(文春文庫) 

 昭和19年6月13日伊予灘由利島付近で沈没した伊号第三三潜水艦は、昭和28年に引き揚げられ、因島で解体されることになった。全長108.7メートルというから壮観だったと思われる。

「伊号第三三潜水艦」は原型をとどめていたので、造船業界の注目を集めた。韓国海軍から買受け希望があるというニュースなどもあって、浦賀ドック、川崎重工、三菱電機、日立製作所、播磨造船などから商社に注文が殺到した。

 まさに海底から引き揚げられた「お宝」であった。しかし解体前に不幸な事故が起こった。浦賀ドックの潜水艦設計の専門家3名が8月12日に調査にやってきた。

魚雷発射管室に入って調査することを申し出たが、現場主任はガスが内部にたまっているかも知れぬという理由で同意しなかった。
 
 しかし、危険はないと判断した3人は中に入り、次々と倒れた。

いつの間にか炎熱につつまれたその区劃内には 濃厚なメタンガスが発生していて、三名の技師の生命を瞬間的に奪ってしまったのである。
収容されたかれらの遺体は、その夜日立病院から因島市土生町の善行寺に移され安置された。ハッチは、再びかたく閉鎖された。

 死者にムチ打つことは慎まなければならないが、やはり、現場主任が同意しなかった、ということは重ねて書いておきたい。

(写真は瀬戸内タイムズ2007年7月7日より転載

⑦ 青影山(因島中庄町・因島田熊町)



瀬戸内海の諸水軍を大統一したのは伊予の村上義弘である。かれは戦法に長じ、その戦法はやがて村上流といわれるようになった。やがて村上氏は、因島村上氏、来島村上氏、能島村上氏などにわかれた。司馬遼太郎『坂の上の雲』(全集24)

  伊予出身の秋山真之(さねゆき)は海軍の参謀で戦術研究家であった。秋山が日露戦争で用いた作戦は水軍戦法を元に考え出されたものだと言われている。それは「能島流海賊古法」という写本が元だった。上記の記述では同じものが因島村上氏に伝わっていてもよさそうである。しかし、そうではない。

能島は伊予大島に付帯する島で、全島が城塞化され、能島村上氏の根拠島になっている。ここで、能島流戦法が生まれた。

 私はその「能島流海賊古法」の大部分は、江戸時代に実戦経験のない兵法家が書いた想像の産物だと思う。秋山真之は戦略家であって歴史家ではなかったから資料の真偽には関心はなかった。戦史を猟歩し、あとは自分の置かれた状況での戦略を練る。だから能島の狭い海域で生まれた戦法ではなく、空想の産物だからこそ、日本海で役立つ戦略が生まれたのであろう。能島水軍時代の原本はこれまで発見されていないだろうし、おそらく今後も発見されることはあるまい。
 司馬遼太郎さんのこの本で懐かしい村上義弘の名に出会うとは意外だった。私たちが子供の頃、村上水軍といえば青影山の村上義弘だった。だから村上元三原作の映画「海賊八幡船(ばはんせん)」も当然義弘が主人公だと思ってみた。その義弘さんは水軍城におられなく、青影山へ登ると立派な石碑があって「村上義弘公青影城址登山路改修碑」と書いてある。

 正五位の追贈問題は、とんびに油揚げをさらわれたような形で伊予の大島へ行ってしまったが、亀老山中腹の村上義弘の墓のあるところには因島にも居たことが記されている。

 また宮窪小学校の近くには幸賀屋敷跡というものがある。因島村上文書に法橋幸賀館が出てくるので、義弘が因島で幸賀館になり、大島へ移っても幸賀館と名乗っていたということであろうか。

⑧ 百貫島(愛媛県越智郡上島町)

間もなく、船は浄土寺の前を過ぎ、市(まち)を出はずれて、舵を南へ南へととり、向い島を廻って、沖へ出て行った。彼は因の島、百貫島、その位で島の名を知らなかった。然し島は一つ通り越すと又一つと並んでいた。志賀直哉『暗夜行路』(講談社文庫、142頁)

 私たちが第3火曜日にやっている会(ふるさとの歴史を学ぶ会@重井公民館)の第2部は史跡散歩という名の遠足である。船で尾道へ渡りロープウェイで早春の千光寺公園に行く計画は、尾道駅の新装開店とのタイミングの良さに喜んでいたが、雨で中止になった。そのリターンマッチを先月行い21人が参加した。初秋にしては汗ばむばかりの残暑であったが、久々のロープウェイには胸が高鳴った。
 山頂駅到着直前に、志賀直哉の文学碑が見える。百貫島の燈台が・・という例の有名な箇所である。長編小説全体の三分の一より少し前の部分である。
 それで志賀直哉が尾道で住んでいたところから百貫島が実際に見えたのだろうか、という疑問は以前第三水曜日にやっている別の会(因島文学散歩の会@因島図書館)でも話題になったことでもあるので、この機会に確かめることにした。志賀直哉の住居跡は記念館になっているのだが、当日は休みだった。しかし家の外から向島の方を見ても百貫島は見えなかった。

その頃から、昼間は向い島の山と山との間にちょっと頭を見せている百貫島の燈台が光り出す。(同書、133頁)

 という具合だから、木々が茂っている現在では見えなくてもよいのかもしれない。
 さて、その百貫島は弓削百貫と呼ばれるように弓削島の属島である。小さな島は住所が定まらないように思われるが、こういうふうに、どこかに帰属しているのである。だから、細島が因島の属島中で唯一の有人島というわけである。そういうように百貫島は弓削島に属し、愛媛県になる。したがって県境は広島県側の田島との中間になる。このことは大変重要な問題で広大な燧灘(ひうちなだ)の大半は愛媛県になり、広島県の漁民の漁場は極めて狭い。岡山県でも事情は似たようなもので、この海域で漁業紛争が頻発し、文字通り火花を散らした歴史は長い。

 今春、弓削島と美可崎の間に百貫島を入れて、なおかつ河津桜と水仙も写そうとしたら、百貫島は小さくなった。島が浮いているように見える浮島現象は、珍しいことではないが、この機会に掲載する。



宿禰島(三原市鷺浦町)


海は蒼く静かにうねる。

島々はまだ朝もやのうちにあるが、東の空はもう明るい。

ゆっくり単調にこぐ千太の太い腕。トヨは腰の手拭ではじめて汗を拭う。

小さな伝馬船の行手には、掌に乗るような島がある。それも今は霞んで見える。

     新藤兼人『シナリオの構成』(宝文館、112頁)


 あの乙羽信子さんが手拭で汗を拭うシーンのシナリオである。すなわち映画『裸の島』のシナリオの一部である。


このシナリオにはセリフは一言もない。はじめから終りまで画面の組合せだけで成立っている。しかしサイレント映画ではない。音はある。波の音、風の音、笑う声、ため息、生きている自然と人間はそのままシナリオのなかに生きている。(同書、162頁)


 シナリオを書いてから2年後の昭和33年3月、新藤兼人は尾道から船旅を続けた。


あちこちの島の港で下りては小船を雇って、巡航船などは立ち寄らない小さな島から島へ渡った。

その時、シナリオに恰好な島をみつけた。その島は宿弥(すくね)島といって、一人の老人が一匹の山羊と一匹の犬と一匹の猫を相手に棲んでいた。(同書、165頁)


 まるで極楽浄土にいるような話が続くのであるが、ここで私の手垢にまみれた、映画の思い出などを書くと、たちまち俗界へ引き落とすことになりそうなので、今回はそれはやめておく。
 今はフラワーセンターになっているところにあった農業試験場の温室の前の石垣に座って、赤く染まった夕焼けを反射する海面に、ネズミの尻尾のような岩礁が長く伸びた小島を、いつまでも眺めていたのは、遠い昔の日暮れの遅い夏の大潮の時だった。

 極楽の続きのような佐木島にはロケ隊の宿泊した家があって、そこの庭に石碑が建っている。



 なお、島の名前は高良神社の祭神であった武内宿禰の墓があったという伝承による。糸崎神社、重井、柳津と神功皇后伝説の地は多い。こんなにいたるところで停泊していたら、神功皇后の船はなかなか進まなかったに違いない。


⑩奥山(因島三庄町他)


右舷にはずっと因島の濃い島影が続いていた。さすがに因島は大きく、浜や段々畠で立ち働く人の姿が目についた。

武吉は椋浦に船を寄せ、因島村上の青影城を訪ねた。

                城山三郎『秀吉と武吉』(新潮文庫、226頁)

 

 田熊町や中庄町からでなく、椋浦町から青影城を訪ねたというところが面白いので、椋浦町から青影城まで紙上散歩をしてみたい。連載10回目にしてやっとタイトル通りの散歩が書けると思うと嬉しい。と思ったのだが、道は一本道だから、書くことはあまりない。

 海に近い岬の先端から歩きたい人は、水軍スカイラインの山側にあるコンクリート製の土砂止の柵の、入山用の切れ目から入り、ウバメガシの林立する垂直に近い崖を登って鶴ケ峰の一ノ城跡を横切って行くというルートがある。でも万人向きではないので、艮神社から始めることにしよう。

 常夜燈から艮神社まではほぼ平地だから、往時はこの辺りは湾になっていたと考えてもよいだろう。少しずつ西に進むと高くなっていくが、やがて一本道になって南へ曲がって椋浦峠への道になる。椋浦峠を登りきったところに島四国番外札所の長戸庵大師堂がある。その隣から奥山登山道が始まる。ここまでなら、車でも来れる。また一ノ城跡経由で来られた方も、ここで合流できる。近くに奥山林道の入口があるが、こちらのコースは却って大回りになる。

 ここから奥山頂上を目指す。頂上やその近くに三十三観音がある。


 そこからは下りだ。この道は青影山奥山ハイキングコースになっているので、奥山頂上から道なりに青影山を目指して下山する。大山峠を過ぎて、標識に従えば青影山頂上に至る。それまで脇道へ向かわないことが重要である。イノシシについてはここに限らずどこにでもいるので注意が肝心だ。午後は早めの下山を心がけたい。

 さて、小説では武吉が吉充と会うことになっているが、私は吉充は青影山にはいなかったと思う。海賊業であれ、水先案内であれ、あるいは水軍業であれ、海の民が山の上に居座っていては仕事にならない。さらに時代は大きく旋回していた。湊かなえさんの小説の主人公がよく言うように、「島を出たい」と吉充も思っていたのではないかと、私は思う。


⑪鴻雪爪生誕生地碑(因島中庄町大江)

 中庄町の公民館一帯は元、中庄小学校があったところで、公民館の前には最近まで幼稚園があった。幼稚園があった頃は開園中か、休日には施錠されていて勝手に入ることができなかったが、その園庭だったところに「鴻雪爪誕生地碑」の石碑がある。ということは鴻雪爪氏がここで生まれたのであるから、この人の親の土地が後に小学校になったということである。



 鴻雪爪(おおとりせっそう)のことは、司馬遼太郎さんの小説『歳月』に次のように紹介されている。場所は京都嵐山。木戸孝充らとともに花見をしていた。

「その仲間のひとりに鴻雪爪という奇士がいた。御岳教の祈祷師というような、およそ時勢と無縁の渡世ながら公卿屋敷に出入りすることが多く、自然時勢に慷慨して志士活動をするようになり、幕末風雲のなかを往来し、三条実美や岩倉具視に重んぜられ、木戸ら長州藩士にも一目おかれていた人物である。維新後、岩倉や木戸にすすめられて一時官につかえ、左院の議官などになったが、本来浮世ばなれしたほどに欲得が薄く、すぐやめ、ほどなく神道御岳教の管長になり、明治三十七年、九十一まで生きた。」(司馬遼太郎、『歳月』、講談社文庫、124頁)


 こういう奇人の話は、湊かなえさんが何十年か先、歴史小説を書くようになってから、書いて欲しいと思うが、そういうことは当分あるまいし、その頃はこちらも生きてはいないだろうから、こんなことは書いても無駄だ。だが、この石碑から何メートル離れたところで湊かなえさんが生まれたのかは知らないが、冬の日の午後はほぼ同じ時刻に日陰になり、同じ中庄湾に入ってくる東風を吸って育ったのだろうから、気持ちはよく通じるだろう。

 ただ違うところは、「島を出たい」と思う前に、「小林の倅も頑張っているのだから、お前も坊主になって頑張ってこい!」と早々に島を出されたことだ。

 欲得が少なかったのは中庄村の富豪・竹之内宮地家の次男であった故か。しかし、親にすれば、分家させれば財産は減るのだから、僧籍に入れるのは最良の選択肢であったに違いない。


鴻雪爪の墓(因島中庄町金蓮寺)

 小林の倅、すなわち小林無底和尚に連れられて因島を出た鴻雪爪は無亭和尚の指導で大成するのであるが、小林無底和尚の子が永平寺六十二世管長となる青蔭雪鴻である。青蔭雪鴻にとって鴻雪爪は兄弟子であるとともに、後に師ともなる人である。二人を指導した小林無底和尚も傑物だと思われるが、今の所この文学散歩で紹介する材料はないので、この話は打ち切り、鴻雪爪の花見の続きに戻ろう。

 元佐賀藩主鍋島閑叟へ鴻雪爪は言った。「これは天下の名侯」「久しく侯の英名はきいておりましたけれども残念ながら侯が天下の混乱に際してなにごとをなされたかという御業績はついぞ耳にしませぬ」「往時は問い申さず、よろしく今日を論じ、明日を計るべし。すでに日本一新し、国是さだまるこんにち、なぜ侯はその藩力をあげて国政に参じようとなさりませぬか」暴言である。(司馬遼太郎、『歳月』、講談社文庫、126頁)

 ということで佐賀藩、ひいては江藤新平の登場となる。この小説の主人公は江藤新平であるので、鴻雪爪の一声は歴史を変えたと言っていいであろう。

 なお、鴻雪爪の死後、遺骨の一部は故郷にも帰り、金蓮寺の中腹に眠っている。

 明治の政治家としての鴻雪爪は神仏習合をやめさせ、キリスト教を公認させた。そこまでは良かった。しかし、神道、仏教、キリスト教以外は認められないということで、幕末に起こった民衆宗教の多くは変貌し初期のダイナミズムを失った。もちろん、これらは鴻雪爪の責任ではなく、後の為政者がやったことである。これらの民衆宗教は戦後、元に戻る機会はあったはずであるが、そうはならなかった。だから明治以降のこれらの民衆宗教には、私は興味をもたない。


中庄公民館周辺(因島中庄町大江)

 東京オリンピック・パラリンピックの開催が危ぶまれているが、前の東京オリンピックの時、ウルトラCという言葉が流行った。時代もどんどん進化していたが言葉もまた同様であった。ウルトラCがウルトラQになり、ウルトラマンになり、ウルトラマン太郎へと進化したのは、懐かしい思い出である。今回はそのウルトラCを使う。

 中庄公民館から中庄郵便局へ向かって歩こう。東へ向いて歩き始めて、左手に路地が伸び、その先を見ると庄屋屋敷がある。

そのT字路のところで立ち止まろう。そこが宮地伝三郎さんの生まれたところだと教わった。

 私は宮地氏の詳しい家系図を持っていないので、鴻雪爪翁と伝三郎さんとの血縁関係はよく知らないが、近いところでお生まれになっておられるので、同じ竹之内宮地家の遠くない間がらではないかと思う。

 伝三郎さんに『アユの話』(岩波新書)がある。これは自然科学書であるから、羊頭狗肉ではないかと叱られそうである。そこで・・ウルトラCを使って、文学的に読むことにする。だからといって村上水軍の家老の子孫だからアユの縄張りの発想が生まれたとか、縄張りの記述が冴えているなどという愚にもつかぬことを書こうというのではない。逆に伝三郎さんの研究による動物の生態から、村上水軍の社会でも、そうであっただろうと学ぶことができると思う。

 メダカも、狭い水槽の中へとじこめると、いちばん強いのが底近くへ、次のが中層へとなわばりをつくり、あぶれた連中は表層へかたまることがある。このときいちばん強いのを水槽から取り除くと、その場所へ次に強いのが入り、順々になわばりの持ち主が変って、最後の空席には、あぶれていたのが入る。宮地伝三郎『アユの話』(岩波新書)56頁。


因島公園(因島土生町)

 麻生イトさんが実名で登場する今東光の小説『悪名』を出すと、聡明な読者なら、そろそろネタ切れが近づいたな、と感じられるに違いない。そしてこの連載があと何回続くか、賭けてみようという人たちが出ても仕方がない。

 麻生イトさんは悪名の中に度々出てくるがフィクションであるから、その場所の特定は難しい。イトさんゆかりの地は、生名島、ナティーク城山、土生町の麻生旅館、それに元日立造船の工場とたくさんあるが、工場の中を歩きましょうと書くわけにはいかないので、それらが見える因島公園へ桜を見に行くついでに行くのがよいだろう。第二公園というのでしょうか、ホテル因島の西側を南へ進むと、先端付近に生誕百三十年記念碑もあるから見てきてください。

 麻生イトさんといってもご存知ない方もおられると思いますから、今東光さんの描写で想像してください。

 主人公朝吉のセリフ「ただ者やないで。どや。頭は

断髪にして男みたいにチックつけて分けてたし、大島絣の筒袖や。それに男みたいな大幅の縮緬の兵児帯しめて、ぎょろりと大きな目玉を剥いた格好は」 

 麻生旅館の女中の説明「あのお方は麻生イトさんいいましてな。亥の八白という星出す。尾道の宿屋の娘に生れはって、二十三の時に離別しやはりました。それからこの因島に渡って、男でも容易やない解船業をやらはったんで」今東光『悪名(後編)』(角川文庫)、61頁。


明治橋付近(因島田熊町)

 終わりよければ全て良し、の反対は終わり悪ければ全て悪し、ということになるのであろうか。林芙美子と「因島の男」とのことは、家族の反対にあって、男が一方的に破談にしてしまったということで、後味が悪い。だから、その男が林芙美子に与えた、文学上の影響などを書くと、汚名挽回のような外観がつきまとうだろう。まして、それを因島の人が書くとなおさらそのように勘繰られるので、誰もその男のことを研究対象とはしない。だから、この件は『放浪記』という小説、それもその男との出会いがなければ思いつかなかったかもしれない小説形式による、一方の側からの証言によって、封印されたままである。

 『放浪記』第二部では、土生港から来て、土生港から帰る。そこから男の家との間を往復する。


 砂浜の汚い藻の上をふんで歩いていると、男も犬のように何時までも沈黙って私について来た。「おくってなんかくれなくたっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。」

 町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。 学研・現代日本の文学23 138頁。


 大正12年に田熊村から海岸を歩いてから土生町へ入る。現在の地名で言えばどこを通るのだろうか。明治橋というのだから、明治時代には島前の海岸が通れたのだろうと考えて、ここを通ったとしておく。砂浜はもっと奥で、写真の傾斜地から平地に変わるあたりだろうと思う。

 蛇足ながら、女心がわかってない、と非難されるのを覚悟で書く。造船所に勤める夫を送り出したあと、モンペ姿で八朔畑の草取りをする姿は、やはり林芙美子には似合わない、と私は思う。


土生港付近(因島土生町)

 両側に現われては飛び去る島から島へ目を移しているうちに、たちまち因島が見えている。土地の人は、イントウともインノシマとも呼んでいるようだ。

 昔は村上水軍の根拠地だったというだけ、なかなか大きな島で、岸壁にはずらりと、工場が居並んでいる。その工場に岡野という字が大きく出ていてはっとする。

(瀬戸内晴美「尾道・因島 林芙美子文学紀行」、学研・現代日本の文学23 30頁)


 昭和46年3月に発行された学習研究社の文学全集の解説のために、学研写真部の生井公男氏らと来島された。17頁に「取材中の瀬戸内晴美氏(因島・土生港にて)」と書かれた写真が掲載されているから、やはり土生港に着いた。

 工場の壁面に大きく会社名を書いてあるものは多いが私はいまだ「岡野◯◯◯」と書いたものを見たことことはない。だから寂聴さんは生まれつき運の強い人だったのではないかと思う。

 この頃、広島で阿川弘之・瀬戸内晴美講演会というのがあって、岡本かの子・太郎親子の話をされた。言葉が機関銃のように出てくるのはテレビで拝見しても同じである。

 さて、この本の付録の月報には旅行ガイドがあって、涌田祐氏によってが次のように書かれている。

「尾道、土生をつなぐ水中翼船が最も便がよい。尾道の前に横たわる向島とともに造船の島であるけれども、北西部の重井あたりは季節に行けば除虫菊などが咲き乱れて楽しい島である。宿、臨海荘他数軒。」


土生港付近(因島土生町)

 (昭和五十年くらいまでは)因島にも大正座のほかに白滝座、常盤座、聚楽館、大谷座と上映館があり、しのぎをけずっていたという。それがつい最近では、大正座と日立会館の二つになってしまい、いずれも檀上さんが経営していた。


 いつか公演で来たというスリー・ファンキーズのサインが、中途半端な時の遡りをそそのかし、私は初めて足を踏み入れた映写室なるうす寒い空間に、しばらくたたずんでいたーー。


 吉井勇の歌を刻んだ石碑の向こうから、私の乗るべき高速艇が近づいて来た。老人をふり返ると、ふたりとも入れ歯を外した口をきっと結び、沖からやって来る船へ遠い目を向けていた。


 今の普通紙複写に先立って一世を風靡した青焼きのコピー、すなわち湿式コピーをホッチキスで綴じたものが、頂いた資料の中にあった。「2因島大正座⭐︎広島県因島市土生町 古さを背中にお色直し」と書いてあるだけで、誰のどの本かもわからなかった。読んでみると、『時代屋の女房』が上映される・・とあったので村松友視さんが著者だとわかった。「村松友視 大正座」と検索して、雑誌「太陽」の1989年2月号の記事だと知った。ただ、大きさが雑誌と違うようなので、さらに調べると『黄昏のムービー・パレス』(平凡社)という映画館巡りの本の第2章だった。

 第1回の生名渡しの歌碑の写真を載せて、今回もまた土生港付近ということにしておく。



金蓮寺(因島土中庄町)

 瀬戸内海では比較的大きいこの島は昔は稲作も盛んで、島というよりは陸(おか)の印象があったらしく、同じ村上水軍の中では海賊の面影が何となく淡い。とはいっても瀬戸内海の覇者村上家のれっきとした一族で、家系では村上始祖の三男顕長(あきなが)がこの島を領し、土生の長崎城に住んだとされる。因島村上家で最も有名なのはやはり室町戦国時代に活躍した村上新蔵人吉充であろう。『海狼伝』執筆のさい吉充の登場場面をさけたのはこの島が三原に近すぎる上、他の島々にくらべて豊かすぎ、海賊行為の必然性を感じなかったからである。 白石一郎『水軍の城』(文春文庫)19頁


 史実については、当時の通説を踏襲したまでのことで、全面的には賛成しかねるが、この「感じ」はいかがであろうか。能島も来島も海賊集団が定住するほどの広さはない。なのに何故「三島村上水軍」として一緒にするのか? という能島や来島へ行った時の違和感を見事に説明しているではないか。


 水軍城の麓に金蓮寺という寺があり、ここは村上海賊の菩提寺の一つであった。(中略)ずらりと並んだ墓石の群れは、遠く異国へも渡海したであろう名もない海賊たちの、ありし日の姿を彷彿とさせる。 同書19頁

 


 史実については前半と同様であるが、「ずらりと並んだ墓石の群れ」は村上氏のものとしか考えられないから、私自身は、ここを起点として、因島村上水軍についてもう一度考え直してみたいと、最近思っている。


因島南中学校付近(因島土生町郷区)

 昭和43年の初夏の頃、文芸評論家江藤淳さんの講演会が因島高校であった。細美校長の講師紹介の後登壇された江藤さんは、開口一番「太陽がいっぱいって感じですね」とおっしゃられた。おそらく土生港の桟橋に降り立った時の印象だったのだと思う。かの、有名な映画はまだ因島に伝わっていなかったのか、誰も笑わなかった。

 数日後の昼休み、図書館に行くと、カウンターの近くに文芸春秋社の大きな封筒があったので、司書の方に尋ねると、講演会の後数名の生徒らと座談会があり揮毫を頼むと、後で送ると色紙を持って帰られ、それが届いたのだということであった。その色紙には「桃李不言 下自成蹊」と『史記』にある有名な格言が書かれていた。

 新旧の建物が複数の段差の敷地に複雑に建てられていた所はきれいに整地され、今は因島南中学校になっている。講堂や図書館がどのあたりにあったのか思い出すことはできないが、図書館は一番奥にあったので、のグランドの端の方にあったのだろうかと想像するだけである。

 当時は郷土史などに興味はなかったが、この辺りは村上水軍の時代と江戸時代をつなぐ貴重な史跡に溢れているところである。

 現在では、ごくわずかの中学校や高校を除いて、タレントかスポーツ選手以外の講演会を開催できるところはまずなかろうから、戦後稀な、古き良き時代だったと、この辺りを歩くと思いだす。

 さて、その色紙は今はどうなっているのであろうか。移転後の現在の因島高校の図書室か校長室に飾られていたら「奇跡」、図書室の戸棚にでも保管されていたら「上出来」、無くて誰も知らなくても「当たり前」だと思うほど、昔の話である。


千守城跡付近(因島三庄町千守)


三ノ庄町の私の下宿してゐた土井医院の裏山は和寇の本城である。頂上の館の跡と思はれる平坦な空地には、今は庵寺のやうな家が建つてゐる。井伏鱒二全集5、153頁


 これまでに何度も本紙で紹介されたし、私自身も書いたように福山市出身の作家井伏鱒二は若い頃、半年ほど三庄町の土井医院に滞在した。だから、その土井医院の周辺を散歩してみようというのが、今回のテーマ。

 土生町から変電所の隣の切り通しを通って三庄町へ入る。まっすぐ降りると海で、普通の車では直進はできない。右へ道なりに進めば家老渡のフェリーで弓削島へ行ける。左へ行けば水軍スカイラインで椋浦町方面へ続く。

 しかし、この道は井伏さんがいた頃はまだ無かった。一つ手前の道を北に向かって歩くと、右手にほどなく土井医院がある。



以前には海草の館の看板があったが、今は「元」土井医院の看板に変わっている。ただし注意してみないと消えかけて読めない。近くには千守城跡への登山口がある。登ってもよいし、登らないで、まっすぐ行くと駐車場に出る。そこから海沿いの道を元の三叉路まで歩こう。井伏さんが自分の部屋から毎日眺めた百貫島が見える。

 因島文学散歩の会は、井伏作品のうち因島関連のものを読む会として発足した。参加者が順に1ページ読むごとに雑談をしている。『鞆ノ津茶会記』を終え、『ジョン万次郎漂流記』に入ったところで、コロナ禍のため休会している。因島図書館は使用可能になったが、慎重を期して7月から再開したい。(おわり)

 

  本連載も20回になったので、ひとまず終わる。


                     (文・写真 因島文学散歩の会・柏原林造)


因島文学散歩
(瀬戸内タイムズ 随時連載)                                                                           
 因島図書館で毎月第3水曜日に開いている因島文学散歩の会で、因島に関係のある文学作品を読んで、その背景について雑談をしています。そこで聞いた話などをもとに書いていきます。増補版として補足なども書きましょう。また別の写真や関連するところへのリンクなどもしてみたいと思います。
 なぜ、ブーメランのように、というのがブログのタイトルになるのか?
 それは、そのうち書きましょう。

  タイムズ一覧 
1 生名渡し(因島土生町) 20190608           タイムズ
2    白滝山  (因島重井町)  20190622                                             タイムズ
3 因北小学校(因島中庄町)20190713                                 タイムズ 
4 柏原神社(荒神社)(因島重井町上坂)                                    タイムズ
5 椋浦廻船燈籠(因島椋浦町)                                                     タイムズ
6 日立造船(因島土生町・因島三庄町)          タイムズ
7 青影山(因島中庄町・因島田熊町)           タイムズ
8 百貫島(愛媛県越智郡上島町)             タイムズ 
9 宿祢島(三原市鷺浦町)                タイムズ
10 田熊港(因島田熊町)                 タイムズ
11 土生港(因島土生町)                 タイムズ 
12 因島高校(因島土生町)                タイムズ
13 千守城跡(因島三庄町)
14 中庄湾(因島中庄町)
15 麻生旅館(因島土生町町)
16 土生港付近(因島土生町)
17 土生港付近(因島土生町)
18 金蓮寺(因島土中庄町)
19 因島南中学校付近(因島土生町郷区)
20 千守城跡付近(因島三庄町千守)

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