② 白滝山(因島重井町)
③ 因北小学校(因島中庄町)
④ 柏原神社(荒神社)(因島重井町上坂)
⑤ 椋浦廻船燈籠(因島椋浦町)
日立造船(因島土生町・因島三庄町)
⑦ 青影山(因島中庄町・因島田熊町)
⑧ 百貫島(愛媛県越智郡上島町)
⑨宿禰島(三原市鷺浦町)
海は蒼く静かにうねる。
島々はまだ朝もやのうちにあるが、東の空はもう明るい。
ゆっくり単調にこぐ千太の太い腕。トヨは腰の手拭ではじめて汗を拭う。
小さな伝馬船の行手には、掌に乗るような島がある。それも今は霞んで見える。
新藤兼人『シナリオの構成』(宝文館、112頁)
あの乙羽信子さんが手拭で汗を拭うシーンのシナリオである。すなわち映画『裸の島』のシナリオの一部である。
このシナリオにはセリフは一言もない。はじめから終りまで画面の組合せだけで成立っている。しかしサイレント映画ではない。音はある。波の音、風の音、笑う声、ため息、生きている自然と人間はそのままシナリオのなかに生きている。(同書、162頁)
シナリオを書いてから2年後の昭和33年3月、新藤兼人は尾道から船旅を続けた。
あちこちの島の港で下りては小船を雇って、巡航船などは立ち寄らない小さな島から島へ渡った。
その時、シナリオに恰好な島をみつけた。その島は宿弥(すくね)島といって、一人の老人が一匹の山羊と一匹の犬と一匹の猫を相手に棲んでいた。(同書、165頁)
まるで極楽浄土にいるような話が続くのであるが、ここで私の手垢にまみれた、映画の思い出などを書くと、たちまち俗界へ引き落とすことになりそうなので、今回はそれはやめておく。
極楽の続きのような佐木島にはロケ隊の宿泊した家があって、そこの庭に石碑が建っている。
なお、島の名前は高良神社の祭神であった武内宿禰の墓があったという伝承による。糸崎神社、重井、柳津と神功皇后伝説の地は多い。こんなにいたるところで停泊していたら、神功皇后の船はなかなか進まなかったに違いない。
⑩奥山(因島三庄町他)
右舷にはずっと因島の濃い島影が続いていた。さすがに因島は大きく、浜や段々畠で立ち働く人の姿が目についた。
武吉は椋浦に船を寄せ、因島村上の青影城を訪ねた。
城山三郎『秀吉と武吉』(新潮文庫、226頁)
田熊町や中庄町からでなく、椋浦町から青影城を訪ねたというところが面白いので、椋浦町から青影城まで紙上散歩をしてみたい。連載10回目にしてやっとタイトル通りの散歩が書けると思うと嬉しい。と思ったのだが、道は一本道だから、書くことはあまりない。
海に近い岬の先端から歩きたい人は、水軍スカイラインの山側にあるコンクリート製の土砂止の柵の、入山用の切れ目から入り、ウバメガシの林立する垂直に近い崖を登って鶴ケ峰の一ノ城跡を横切って行くというルートがある。でも万人向きではないので、艮神社から始めることにしよう。
常夜燈から艮神社まではほぼ平地だから、往時はこの辺りは湾になっていたと考えてもよいだろう。少しずつ西に進むと高くなっていくが、やがて一本道になって南へ曲がって椋浦峠への道になる。椋浦峠を登りきったところに島四国番外札所の長戸庵大師堂がある。その隣から奥山登山道が始まる。ここまでなら、車でも来れる。また一ノ城跡経由で来られた方も、ここで合流できる。近くに奥山林道の入口があるが、こちらのコースは却って大回りになる。
ここから奥山頂上を目指す。頂上やその近くに三十三観音がある。
そこからは下りだ。この道は青影山奥山ハイキングコースになっているので、奥山頂上から道なりに青影山を目指して下山する。大山峠を過ぎて、標識に従えば青影山頂上に至る。それまで脇道へ向かわないことが重要である。イノシシについてはここに限らずどこにでもいるので注意が肝心だ。午後は早めの下山を心がけたい。
さて、小説では武吉が吉充と会うことになっているが、私は吉充は青影山にはいなかったと思う。海賊業であれ、水先案内であれ、あるいは水軍業であれ、海の民が山の上に居座っていては仕事にならない。さらに時代は大きく旋回していた。湊かなえさんの小説の主人公がよく言うように、「島を出たい」と吉充も思っていたのではないかと、私は思う。
⑪鴻雪爪生誕生地碑(因島中庄町大江)
中庄町の公民館一帯は元、中庄小学校があったところで、公民館の前には最近まで幼稚園があった。幼稚園があった頃は開園中か、休日には施錠されていて勝手に入ることができなかったが、その園庭だったところに「鴻雪爪誕生地碑」の石碑がある。ということは鴻雪爪氏がここで生まれたのであるから、この人の親の土地が後に小学校になったということである。
鴻雪爪(おおとりせっそう)のことは、司馬遼太郎さんの小説『歳月』に次のように紹介されている。場所は京都嵐山。木戸孝充らとともに花見をしていた。
「その仲間のひとりに鴻雪爪という奇士がいた。御岳教の祈祷師というような、およそ時勢と無縁の渡世ながら公卿屋敷に出入りすることが多く、自然時勢に慷慨して志士活動をするようになり、幕末風雲のなかを往来し、三条実美や岩倉具視に重んぜられ、木戸ら長州藩士にも一目おかれていた人物である。維新後、岩倉や木戸にすすめられて一時官につかえ、左院の議官などになったが、本来浮世ばなれしたほどに欲得が薄く、すぐやめ、ほどなく神道御岳教の管長になり、明治三十七年、九十一まで生きた。」(司馬遼太郎、『歳月』、講談社文庫、124頁)
こういう奇人の話は、湊かなえさんが何十年か先、歴史小説を書くようになってから、書いて欲しいと思うが、そういうことは当分あるまいし、その頃はこちらも生きてはいないだろうから、こんなことは書いても無駄だ。だが、この石碑から何メートル離れたところで湊かなえさんが生まれたのかは知らないが、冬の日の午後はほぼ同じ時刻に日陰になり、同じ中庄湾に入ってくる東風を吸って育ったのだろうから、気持ちはよく通じるだろう。
ただ違うところは、「島を出たい」と思う前に、「小林の倅も頑張っているのだから、お前も坊主になって頑張ってこい!」と早々に島を出されたことだ。
欲得が少なかったのは中庄村の富豪・竹之内宮地家の次男であった故か。しかし、親にすれば、分家させれば財産は減るのだから、僧籍に入れるのは最良の選択肢であったに違いない。
⑫鴻雪爪の墓(因島中庄町金蓮寺)
小林の倅、すなわち小林無底和尚に連れられて因島を出た鴻雪爪は無亭和尚の指導で大成するのであるが、小林無底和尚の子が永平寺六十二世管長となる青蔭雪鴻である。青蔭雪鴻にとって鴻雪爪は兄弟子であるとともに、後に師ともなる人である。二人を指導した小林無底和尚も傑物だと思われるが、今の所この文学散歩で紹介する材料はないので、この話は打ち切り、鴻雪爪の花見の続きに戻ろう。
元佐賀藩主鍋島閑叟へ鴻雪爪は言った。「これは天下の名侯」「久しく侯の英名はきいておりましたけれども残念ながら侯が天下の混乱に際してなにごとをなされたかという御業績はついぞ耳にしませぬ」「往時は問い申さず、よろしく今日を論じ、明日を計るべし。すでに日本一新し、国是さだまるこんにち、なぜ侯はその藩力をあげて国政に参じようとなさりませぬか」暴言である。(司馬遼太郎、『歳月』、講談社文庫、126頁)
ということで佐賀藩、ひいては江藤新平の登場となる。この小説の主人公は江藤新平であるので、鴻雪爪の一声は歴史を変えたと言っていいであろう。
なお、鴻雪爪の死後、遺骨の一部は故郷にも帰り、金蓮寺の中腹に眠っている。
明治の政治家としての鴻雪爪は神仏習合をやめさせ、キリスト教を公認させた。そこまでは良かった。しかし、神道、仏教、キリスト教以外は認められないということで、幕末に起こった民衆宗教の多くは変貌し初期のダイナミズムを失った。もちろん、これらは鴻雪爪の責任ではなく、後の為政者がやったことである。これらの民衆宗教は戦後、元に戻る機会はあったはずであるが、そうはならなかった。だから明治以降のこれらの民衆宗教には、私は興味をもたない。
⑬中庄公民館周辺(因島中庄町大江)
東京オリンピック・パラリンピックの開催が危ぶまれているが、前の東京オリンピックの時、ウルトラCという言葉が流行った。時代もどんどん進化していたが言葉もまた同様であった。ウルトラCがウルトラQになり、ウルトラマンになり、ウルトラマン太郎へと進化したのは、懐かしい思い出である。今回はそのウルトラCを使う。
中庄公民館から中庄郵便局へ向かって歩こう。東へ向いて歩き始めて、左手に路地が伸び、その先を見ると庄屋屋敷がある。
そのT字路のところで立ち止まろう。そこが宮地伝三郎さんの生まれたところだと教わった。
私は宮地氏の詳しい家系図を持っていないので、鴻雪爪翁と伝三郎さんとの血縁関係はよく知らないが、近いところでお生まれになっておられるので、同じ竹之内宮地家の遠くない間がらではないかと思う。
伝三郎さんに『アユの話』(岩波新書)がある。これは自然科学書であるから、羊頭狗肉ではないかと叱られそうである。そこで・・ウルトラCを使って、文学的に読むことにする。だからといって村上水軍の家老の子孫だからアユの縄張りの発想が生まれたとか、縄張りの記述が冴えているなどという愚にもつかぬことを書こうというのではない。逆に伝三郎さんの研究による動物の生態から、村上水軍の社会でも、そうであっただろうと学ぶことができると思う。
メダカも、狭い水槽の中へとじこめると、いちばん強いのが底近くへ、次のが中層へとなわばりをつくり、あぶれた連中は表層へかたまることがある。このときいちばん強いのを水槽から取り除くと、その場所へ次に強いのが入り、順々になわばりの持ち主が変って、最後の空席には、あぶれていたのが入る。宮地伝三郎『アユの話』(岩波新書)56頁。
⑭因島公園(因島土生町)
麻生イトさんが実名で登場する今東光の小説『悪名』を出すと、聡明な読者なら、そろそろネタ切れが近づいたな、と感じられるに違いない。そしてこの連載があと何回続くか、賭けてみようという人たちが出ても仕方がない。
麻生イトさんは悪名の中に度々出てくるがフィクションであるから、その場所の特定は難しい。イトさんゆかりの地は、生名島、ナティーク城山、土生町の麻生旅館、それに元日立造船の工場とたくさんあるが、工場の中を歩きましょうと書くわけにはいかないので、それらが見える因島公園へ桜を見に行くついでに行くのがよいだろう。第二公園というのでしょうか、ホテル因島の西側を南へ進むと、先端付近に生誕百三十年記念碑もあるから見てきてください。
麻生イトさんといってもご存知ない方もおられると思いますから、今東光さんの描写で想像してください。
主人公朝吉のセリフ「ただ者やないで。どや。頭は
断髪にして男みたいにチックつけて分けてたし、大島絣の筒袖や。それに男みたいな大幅の縮緬の兵児帯しめて、ぎょろりと大きな目玉を剥いた格好は」
麻生旅館の女中の説明「あのお方は麻生イトさんいいましてな。亥の八白という星出す。尾道の宿屋の娘に生れはって、二十三の時に離別しやはりました。それからこの因島に渡って、男でも容易やない解船業をやらはったんで」今東光『悪名(後編)』(角川文庫)、61頁。
⑮明治橋付近(因島田熊町)
終わりよければ全て良し、の反対は終わり悪ければ全て悪し、ということになるのであろうか。林芙美子と「因島の男」とのことは、家族の反対にあって、男が一方的に破談にしてしまったということで、後味が悪い。だから、その男が林芙美子に与えた、文学上の影響などを書くと、汚名挽回のような外観がつきまとうだろう。まして、それを因島の人が書くとなおさらそのように勘繰られるので、誰もその男のことを研究対象とはしない。だから、この件は『放浪記』という小説、それもその男との出会いがなければ思いつかなかったかもしれない小説形式による、一方の側からの証言によって、封印されたままである。
『放浪記』第二部では、土生港から来て、土生港から帰る。そこから男の家との間を往復する。
砂浜の汚い藻の上をふんで歩いていると、男も犬のように何時までも沈黙って私について来た。「おくってなんかくれなくたっていいんですよ。そんな目先きだけの優しさなんてよして下さい。」
町の入口で男に別れると、体中を冷たい風が吹き荒れるような気がした。 学研・現代日本の文学23 138頁。
大正12年に田熊村から海岸を歩いてから土生町へ入る。現在の地名で言えばどこを通るのだろうか。明治橋というのだから、明治時代には島前の海岸が通れたのだろうと考えて、ここを通ったとしておく。砂浜はもっと奥で、写真の傾斜地から平地に変わるあたりだろうと思う。
蛇足ながら、女心がわかってない、と非難されるのを覚悟で書く。造船所に勤める夫を送り出したあと、モンペ姿で八朔畑の草取りをする姿は、やはり林芙美子には似合わない、と私は思う。
⑯土生港付近(因島土生町)
両側に現われては飛び去る島から島へ目を移しているうちに、たちまち因島が見えている。土地の人は、イントウともインノシマとも呼んでいるようだ。
昔は村上水軍の根拠地だったというだけ、なかなか大きな島で、岸壁にはずらりと、工場が居並んでいる。その工場に岡野という字が大きく出ていてはっとする。
(瀬戸内晴美「尾道・因島 林芙美子文学紀行」、学研・現代日本の文学23 30頁)
昭和46年3月に発行された学習研究社の文学全集の解説のために、学研写真部の生井公男氏らと来島された。17頁に「取材中の瀬戸内晴美氏(因島・土生港にて)」と書かれた写真が掲載されているから、やはり土生港に着いた。
工場の壁面に大きく会社名を書いてあるものは多いが私はいまだ「岡野◯◯◯」と書いたものを見たことことはない。だから寂聴さんは生まれつき運の強い人だったのではないかと思う。
この頃、広島で阿川弘之・瀬戸内晴美講演会というのがあって、岡本かの子・太郎親子の話をされた。言葉が機関銃のように出てくるのはテレビで拝見しても同じである。
さて、この本の付録の月報には旅行ガイドがあって、涌田祐氏によってが次のように書かれている。
「尾道、土生をつなぐ水中翼船が最も便がよい。尾道の前に横たわる向島とともに造船の島であるけれども、北西部の重井あたりは季節に行けば除虫菊などが咲き乱れて楽しい島である。宿、臨海荘他数軒。」
⑰土生港付近(因島土生町)
(昭和五十年くらいまでは)因島にも大正座のほかに白滝座、常盤座、聚楽館、大谷座と上映館があり、しのぎをけずっていたという。それがつい最近では、大正座と日立会館の二つになってしまい、いずれも檀上さんが経営していた。
いつか公演で来たというスリー・ファンキーズのサインが、中途半端な時の遡りをそそのかし、私は初めて足を踏み入れた映写室なるうす寒い空間に、しばらくたたずんでいたーー。
吉井勇の歌を刻んだ石碑の向こうから、私の乗るべき高速艇が近づいて来た。老人をふり返ると、ふたりとも入れ歯を外した口をきっと結び、沖からやって来る船へ遠い目を向けていた。
今の普通紙複写に先立って一世を風靡した青焼きのコピー、すなわち湿式コピーをホッチキスで綴じたものが、頂いた資料の中にあった。「2因島大正座⭐︎広島県因島市土生町 古さを背中にお色直し」と書いてあるだけで、誰のどの本かもわからなかった。読んでみると、『時代屋の女房』が上映される・・とあったので村松友視さんが著者だとわかった。「村松友視 大正座」と検索して、雑誌「太陽」の1989年2月号の記事だと知った。ただ、大きさが雑誌と違うようなので、さらに調べると『黄昏のムービー・パレス』(平凡社)という映画館巡りの本の第2章だった。
第1回の生名渡しの歌碑の写真を載せて、今回もまた土生港付近ということにしておく。
⑱金蓮寺(因島土中庄町)
瀬戸内海では比較的大きいこの島は昔は稲作も盛んで、島というよりは陸(おか)の印象があったらしく、同じ村上水軍の中では海賊の面影が何となく淡い。とはいっても瀬戸内海の覇者村上家のれっきとした一族で、家系では村上始祖の三男顕長(あきなが)がこの島を領し、土生の長崎城に住んだとされる。因島村上家で最も有名なのはやはり室町戦国時代に活躍した村上新蔵人吉充であろう。『海狼伝』執筆のさい吉充の登場場面をさけたのはこの島が三原に近すぎる上、他の島々にくらべて豊かすぎ、海賊行為の必然性を感じなかったからである。 白石一郎『水軍の城』(文春文庫)19頁
史実については、当時の通説を踏襲したまでのことで、全面的には賛成しかねるが、この「感じ」はいかがであろうか。能島も来島も海賊集団が定住するほどの広さはない。なのに何故「三島村上水軍」として一緒にするのか? という能島や来島へ行った時の違和感を見事に説明しているではないか。
水軍城の麓に金蓮寺という寺があり、ここは村上海賊の菩提寺の一つであった。(中略)ずらりと並んだ墓石の群れは、遠く異国へも渡海したであろう名もない海賊たちの、ありし日の姿を彷彿とさせる。 同書19頁
史実については前半と同様であるが、「ずらりと並んだ墓石の群れ」は村上氏のものとしか考えられないから、私自身は、ここを起点として、因島村上水軍についてもう一度考え直してみたいと、最近思っている。
⑲因島南中学校付近(因島土生町郷区)
昭和43年の初夏の頃、文芸評論家江藤淳さんの講演会が因島高校であった。細美校長の講師紹介の後登壇された江藤さんは、開口一番「太陽がいっぱいって感じですね」とおっしゃられた。おそらく土生港の桟橋に降り立った時の印象だったのだと思う。かの、有名な映画はまだ因島に伝わっていなかったのか、誰も笑わなかった。
数日後の昼休み、図書館に行くと、カウンターの近くに文芸春秋社の大きな封筒があったので、司書の方に尋ねると、講演会の後数名の生徒らと座談会があり揮毫を頼むと、後で送ると色紙を持って帰られ、それが届いたのだということであった。その色紙には「桃李不言 下自成蹊」と『史記』にある有名な格言が書かれていた。
新旧の建物が複数の段差の敷地に複雑に建てられていた所はきれいに整地され、今は因島南中学校になっている。講堂や図書館がどのあたりにあったのか思い出すことはできないが、図書館は一番奥にあったので、のグランドの端の方にあったのだろうかと想像するだけである。
当時は郷土史などに興味はなかったが、この辺りは村上水軍の時代と江戸時代をつなぐ貴重な史跡に溢れているところである。
現在では、ごくわずかの中学校や高校を除いて、タレントかスポーツ選手以外の講演会を開催できるところはまずなかろうから、戦後稀な、古き良き時代だったと、この辺りを歩くと思いだす。
さて、その色紙は今はどうなっているのであろうか。移転後の現在の因島高校の図書室か校長室に飾られていたら「奇跡」、図書室の戸棚にでも保管されていたら「上出来」、無くて誰も知らなくても「当たり前」だと思うほど、昔の話である。
⑳千守城跡付近(因島三庄町千守)
三ノ庄町の私の下宿してゐた土井医院の裏山は和寇の本城である。頂上の館の跡と思はれる平坦な空地には、今は庵寺のやうな家が建つてゐる。井伏鱒二全集5、153頁
これまでに何度も本紙で紹介されたし、私自身も書いたように福山市出身の作家井伏鱒二は若い頃、半年ほど三庄町の土井医院に滞在した。だから、その土井医院の周辺を散歩してみようというのが、今回のテーマ。
土生町から変電所の隣の切り通しを通って三庄町へ入る。まっすぐ降りると海で、普通の車では直進はできない。右へ道なりに進めば家老渡のフェリーで弓削島へ行ける。左へ行けば水軍スカイラインで椋浦町方面へ続く。
しかし、この道は井伏さんがいた頃はまだ無かった。一つ手前の道を北に向かって歩くと、右手にほどなく土井医院がある。
以前には海草の館の看板があったが、今は「元」土井医院の看板に変わっている。ただし注意してみないと消えかけて読めない。近くには千守城跡への登山口がある。登ってもよいし、登らないで、まっすぐ行くと駐車場に出る。そこから海沿いの道を元の三叉路まで歩こう。井伏さんが自分の部屋から毎日眺めた百貫島が見える。
因島文学散歩の会は、井伏作品のうち因島関連のものを読む会として発足した。参加者が順に1ページ読むごとに雑談をしている。『鞆ノ津茶会記』を終え、『ジョン万次郎漂流記』に入ったところで、コロナ禍のため休会している。因島図書館は使用可能になったが、慎重を期して7月から再開したい。(おわり)
本連載も20回になったので、ひとまず終わる。
因島文学散歩
(瀬戸内タイムズ 随時連載)
因島図書館で毎月第3水曜日に開いている因島文学散歩の会で、因島に関係のある文学作品を読んで、その背景について雑談をしています。そこで聞いた話などをもとに書いていきます。増補版として補足なども書きましょう。また別の写真や関連するところへのリンクなどもしてみたいと思います。
なぜ、ブーメランのように、というのがブログのタイトルになるのか?
それは、そのうち書きましょう。
タイムズ一覧
1 生名渡し(因島土生町) 20190608 タイムズ
2 白滝山 (因島重井町) 20190622 タイムズ
3 因北小学校(因島中庄町)20190713 タイムズ
4 柏原神社(荒神社)(因島重井町上坂) タイムズ
5 椋浦廻船燈籠(因島椋浦町) タイムズ
6 日立造船(因島土生町・因島三庄町) タイムズ
7 青影山(因島中庄町・因島田熊町) タイムズ
8 百貫島(愛媛県越智郡上島町) タイムズ
9 宿祢島(三原市鷺浦町) タイムズ
10 田熊港(因島田熊町) タイムズ
11 土生港(因島土生町) タイムズ
12 因島高校(因島土生町) タイムズ
13 千守城跡(因島三庄町)
14 中庄湾(因島中庄町)
15 麻生旅館(因島土生町町)