ふるさとの史跡をたずねて(371)
法華塔(尾道市因島重井町郷善興寺)
曹洞宗の禅宗寺院である重井町の善興寺の参道に、曹洞宗の開祖道元禅師のお言葉でなく、「観音経」の語句が参拝者がまず目にする位置に掲げられていることは、ある種の驚異である。なぜならば道元禅師には著作物がなかったかというと、全くその逆であって『正法眼蔵』という百巻にも及ぶ膨大な著作が残されていて、それは我が国の宗教史・哲学史を代表する極めて優れたものなのであるから。
そんなことを考えて境内に上がると、さらに驚くべきことに、そこには法華塔があった。法華塔は『法華経』を供養する塔である。あの、「南無妙法蓮華経」の『法華経』である。『正法眼蔵』の供養塔ではなく、『法華経』なのである。ならば善興寺は元日蓮宗寺院だったのかというと、そんな話はどこにも書いていない。
大雑把に割り切って考えれば、道元禅師よりも『法華経』の方が大切だということになる。
道元だけでなく、法然、親鸞、日蓮など鎌倉新仏教の開祖たちが学んだ比叡山延暦寺が、中国の天台智顗が『法華経』を基に確立した天台宗の道場であったことを考えれば、『法華経』が重んじられるのは当然のことである。
さて、「観音経」はそのようなお経があるのではなく、『法華経』の第25章「観世音菩薩普門品」のことである。あるいは略して後半の詩の部分(偈と呼ばれる)だけがよく唱えられる。
だから、200年ほど前に重井村の柏原伝六が白滝山に観音信仰の霊場を作ったからと言って、曹洞宗に反旗を翻したわけではなく、表面的には曹洞宗の熱心な在家信者だった、ということになる。
ふるさとの史跡をたずねて(372)
観音菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山山頂の最高部に阿弥陀三尊像があることは、白滝山が西方極楽浄土をイメージしたものであると思って間違いなかろう。阿弥陀如来の左側、すなわち向かって右側(西側)は観音菩薩像である。
白滝山の観音霊場の開祖柏原伝六は両親が西国巡礼で祈願して生まれたということから、自分は観音菩薩の生まれ代りだと信じ、「観音道一観」と名乗った。それにちなんで、伝六は仏教、儒教、神道、さらに人によってはキリスト教まで加えて新しい宗教「一観教」を作ったと書く人がいる。それが意味のない言説であることは以前にも書いた。
伝六の教養はキリスト教でなく、むしろ道教を加えるのが良いと私は思う。しかし、これらを折衷して新しい思想なり宗教を生み出すには相当強靭な思考力を要する。単純なところだけを折衷して提示すれば大衆受けはするかもしれないが、二宮尊徳や石門心学の石田梅岩のように道徳家か啓蒙家になるだろう。
また、キリスト教や仏教がそれぞれイエス、シャカ個人によって作られたと思っている人が多いが、そうではなく弟子たちの創作であった。同様に「一観教」なるものがあったとしたら、それは弟子たちの創作であった可能性の方が高い。
さらに鎌倉新仏教を起こした高僧は、仏教の総合大学に喩えられる比叡山延暦寺を相当に優秀な成績で卒業しながら、道元は座禅に、法然は浄土三部経に、親鸞はさらに悪人正機に、日蓮は「法華経」にという具合に特化している。
このように足し算でなく引き算で、そして弟子の観点から、「一観教」を主張する人たちには「一観教」とはどんな宗教なのか再考していただきたい。
その際、伝六が観音菩薩の生まれ代わりであること、すなわち阿弥陀三尊像の左脇侍の観音菩薩が伝六であると信じる宗教であることは欠かせないと、私は思う。
ふるさとの史跡をたずねて(373)
一観像(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山山頂の最高部の阿弥陀三尊像の前、すなわち少し下には一観夫妻像があり、当然の事ながらそのまん中に一観像、すなわち柏原伝六の座像がある。そして、その大きさは阿弥陀如来の隣の観音菩薩像よりも、はるかに大きい。
伝六の寄進と書いてあるが、このようなものを伝六自身が生存中に作ることは、まずありえないから、伝六の子供によって建立されたものであろう。
しかしこれでは、白滝山が観音信仰の山でなく伝六信仰の山になってしまう。そして前回記した、阿弥陀如来の隣の観音菩薩が伝六その人であるという考え方を否定することになる。すなわち「観音道一観」という伝六の宣言をも無にしてしまう。まさに親の心子知らず、ということだ。
重井幼稚園のクリスマス劇の知識の上に、イエスがキリスト教を作り、布教したので十字架刑にあったという誤解のイメージで、伝六が一観教を作り、広島藩によって毒殺されたという妄想が生じたのだと私は思う。だからキリスト教を例にして考えてみよう。
イエスの母マリアがイエスを身ごもった時処女であったということは、科学的問題でもなければ医学的問題でもなかった。信じるか信じないかだけの問題であった。そして、多くの人が、それも世界中の多くの人が信じた。その結果、キリスト教は世界宗教になった。
一観教が成立するためには、伝六が観音菩薩の生まれ代り、すなわち伝六が観音菩薩であると信じることが必要であった、と私は思う。上記の2つの像の関係を、伝六が一観教を作ったと思う人たちはどう考えるのだろうか。説明してほしいものである。
ふるさとの史跡をたずねて(374)
日本大小神祇(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山山頂から東側へ少し下がったところに将棋の駒のように先が尖った岩があり「日本大小神祇」と書かれてる。台座には「奉寄進」と両はしに「柏原」「林蔵」と彫られている。
白滝山五百羅漢の開祖柏原伝六が、仏教・儒教・神道、それに人によってはキリスト教まで合わせて「一観教」なる新しい宗教を作ったと言う言説が妄説に過ぎないことは度々書いてきた。
その妄説の観点に立てば、この「日本大小神祇」は神道的要素だと思う人がいるかもしれない。しかし、間違ってはいけない。「神道的要素」どころか、神道そのものではないか。
だから、この「日本大小神祇」を「一観教」の一部と考えるならば、「一観教」は新しい宗教ではなく仏教と神道を単に折衷したものに過ぎないと言うことになる。新しい宗教というには新しい概念を「日本大小神祇」に盛り込まなければならないが、そんなものは聞いたことがない。
江戸時代の民衆の当たり前のことを、東側、すなわち伊勢神宮の方を拝んで、日本の大小の様々な神を敬うことで示した。台石に刻まれている様に柏原林蔵が寄進した。注意すべきは林蔵は伝六から依頼された工事責任者であった。すなわち寄付する側ではなく寄付を集める側の人だったということである。実際の経理は林蔵の家のすぐ前に住む峰松初五郎がした。彼は林蔵と違い伝六よりも若く、いわば弟子であった。
だから、我々は神道を否定しているわけではないから、まあこういうのも一緒に拝もうと、単なる善意から建てた、と私は思う。
ただ不思議なことに、春分の日の太陽は日本大小神祇と一観像を結ぶ直線上を通る。すなわち、日本大小神祇の背後から日没を見ると、中心と一観像の真ん中、左端と一観像の背がピッタリと重なる。
伝六の向きから私は宗教的なものとは考えない。伝六が直角方向を向いていることに宗教的な意義があると説明できる方がいらっしゃれば、ぜひご教示願いたい。
ふるさとの史跡をたずねて(375)
十六羅漢(尾道市因島重井町白滝山)
仏教の世界は平等社会かと思っていたら、如来、菩薩、羅漢という厳然たる差別がある。そのせいか各宗派の組織においても、名称は異なるものの各階層があり、より上位を目指す意志と究極の目標である「悟り」との関係は門外漢には理解しがたい。
さて白滝山の石仏群とその場所は、昔から「白滝山五百羅漢」と呼ばれ、「伝六浄土」とか「白滝山観音霊場」などど呼ばれたことはない。「白滝山如来」でも「白滝山菩薩」ではないところに深い意義があるのであろう。
しかし、十六羅漢は釈迦三尊像の前に8人が向かいあっているが、他の484名はどれかわからない。
二八尊者と言って、偉人の石仏を28になるよう列挙した人がいた。三五夜が35夜の月が無いのと同様、白滝山の石仏には28名も著名な方はいない。
また、例の千手観音の持物を十字架だと言う妄想に上乗せして、羅漢像のいくつかを異国の宣教師だと妄想された方がいた。別に「仏像鑑賞の手引き」を述べるつもりはないが、そういう妄想を抱かないために、羅漢像の表情にはエキゾチックなものが多い、と書いておこう。
さらに、これが一番重要なものだが、羅漢は修行僧のイメージに合うのか禅宗と相性がよく、曹洞宗禅寺の多くは、ご本尊の左右の天井に近い棚に羅漢像を安置しているところが多い。重井村には曹洞宗善興寺があり、白滝山が善興寺に反旗を翻がえしたのではないことがわかる。
さて、多弁を弄したが、十六羅漢をよく見て欲しい。一つ一つが実に丁寧に個性的に彫られており、まさに尾道石工の芸術家魂の競作となっている。向かって左側(東側)は一度崩落して持ち上げたのか、順番が違っているが、8番まである。
ふるさとの史跡をたずねて(376)
十大弟子(尾道市因島重井町白滝山)
十六羅漢の次は十大弟子ということになる。なぜか。よくセットで語られるからである。それ以上に白滝山では十六羅漢の隣にあるからである。
しかし、知名度では格段に十六羅漢より劣る。そして全国には羅漢寺と呼ばれるものがあるほど羅漢さんは前回記したように曹洞宗寺院を中心にある程度ポピュラーなものである。しかし、十大弟子がここにあるということは、像や配置が何を手本にしたのかということを含めて謎である。
謎といえば「十字架」「一観教」「毒殺説」「恋し岩」を思い浮かべる人が多いと思うが、これらは謎ではく妄説と創作に過ぎない。むしろこれらが50年以上に渡って書かれ続けられていることの方が謎である。
(ただし、「恋し岩」は元は観音石でそんなに長く語られてはない。)
中央の石組みで高く造られたところに釈迦三尊像があり、それを取り巻くように四隅に四天王が立つ。ここまでは写真集などで見ることもできる。だが、その両側に十大弟子の立像を5人ずつ配置するというのは、全く独創的なものか、それとも他に手本があったのかわからない。あったとしても出版物も旅行も現代とは比べものにならない200年ぐらい前の話なのであり参考にするのは稀であったと思う。
実はさらにその両端からコの字形に8人ずつの十六羅漢像が内側を向いて立っているのである。そして気になるのは、釈迦三尊像、四天王、並びにその基台と十六羅漢像の見事な尾道石工よる完成度の高さに対して、十大弟子とその基台、そして十六羅漢の基台の素人っぽい仕上がりの開きである。後者は林蔵が作ったものであろうが、彼と尾道石工の関係が悪く不干渉であったというのならわかるが、仁王像のところで述べたように悪い関係ではなかったはずである。アドバイスはしても、その素人ぽさは残すという尾道石工のちょっと理解しがたい「寛容さ」の結果なのかもしれない。
ふるさとの史跡をたずねて(377)
十大弟子基台(尾道市因島重井町白滝山)
十大弟子が設置されている石の台のことである。その左側の5人の台石の下に小枠があり、その中に寄進者林蔵が自ら記した文字がある。現存する白滝山関係文書の中には、白滝山石仏群の由来を記したものはないので、短文ながらはなはだ貴重なものと思われる。
文字は右から左へ縦書きで次のように記されている。空白は改行である。「吾郷居士一観 者世興以修善 而自利自他人 所知識矣又 相値其勝因 願而造立於二 八尊者五百聖 者永今人住一 念不退地爾 六十一歳発願六 十四歳願成就 柏原林蔵」
あまりに短すぎて理解に苦しむが、およそ次のように解釈できる。
我が郷土の一観居士は善を修めることによって人の世を豊かにしようとした。自分や他人がもつ知識を増やし、それが世を興す元になるよう、十六羅漢、五百羅漢像を造ることを61歳で発願し64歳で達成した。
やはり、十六羅漢を含む五百羅漢を造ることが目的で成就した、ということである。また、伝六の真意は善を修めることで世を興すことであった、というのが林蔵の解釈である。
また、「一念不退地」というのは羅漢像を造ることを願ってから一度も山から降りなかった、ということを記していると思う。
この文だけから考えると「白滝山五百羅漢」と呼ばれるのが間違ってなく、伝六の最大のねらいが「善を修めて世を興す」ということであったことであろう。この文字が書かれた時には既に伝六は亡くなっている。だからその後伝六の思想が発展したということはありえない。もしそれ以上の主願が伝六にあったとしたら、それは後人の考えたことであろう。
ふるさとの史跡をたずねて(378)
普賢菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)
左右5人ずつの十大弟子に囲まれて釈迦三尊像があり、向かって左(東)側が普賢菩薩である。
島原半島の噴火で有名な雲仙岳の主峰普賢岳の名から、いかにも力強い菩薩が想像されるが、漢字を素直に読めば、普(あまね)く賢いということである。
それでも石像をよく見れば象の上に乗っているので、勇ましく見える。釈迦三尊像は普通、反対側に文殊菩薩を配しており、二人とも智者で、釈迦の次に悟るという解釈になる。ということでこの配置は珍しいものではなく定型に従ったと思ってもよいようだ。
もちろん、象に乗り、また周囲に四天王を配するのも、同様である。象については『法華経』の最後の章「普賢菩薩観発品第二十八」に「この経を読誦せば、われはその時、六牙の白象王に乗り・・」とある。もちろん石仏であるので、ここでは白く見えないが仕方がない。
像の下の台座には11名の寄進者の名前が彫られている。文政十年の寄進帳からその名を写すと。「八良兵衛、多門、吉蔵、三郎兵衛、重兵衛、増五郎、三四郎、初五郎、向田村新兵衛、同源吉、同熊八」で、合計730匁と記されている。向田村は佐木島である。村名を書いてない8名は重井村である。
銀1匁を4000円とすれば約300万円である。設置場所のことはひとまず考えないとして、300万円で作ってもらえるだろうか?
ふるさとの史跡をたずねて(379)
文殊菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)
釈迦三尊像の向かって右(西)側が文殊菩薩である。文殊菩薩は普賢菩薩よりはるかに有名で「3人寄れば文殊の知恵」と言って、子供でも知っている。その人気の凄さは例えば天の橋立に行っても、何を見に行ったのかと疑うほどの盛況ぶりである。親は子に「知恵の神様だから」とか「知恵の観音様だから」しっかり拝んでおきなさい、というような変な日本語で説明する。それでも、見向きもせずに通りすぎるよりは、良しとしておこう。
普賢菩薩は象に乗っていたが文殊菩薩は獅子である。200年の時差を考えることは難しい。何が難しいかと言うと、200年前の人たちは象も獅子も見たことがなかった、と言うことを理解するのが難しい。それでも尾道石工たちは作らねばならない。どこどこへ行って見て来い!と親方に言われて・・と言うよりも、誰かが入手した薄墨のスケッチを手本に想像力で補ったと、私は思う。
象の方は鼻を少し長くしておけば(あまり長くすると折れる)済むが、獅子の場合は難しい。イノシシをイメージすれば百獣の王に笑われる。屏風絵などで唐獅子ぐらいは見ていたかもしれない。今でこそ獅子と言えばライオンであるがインドや中国にライオンはいなかっただろうから、これは想像上の動物である。
獅子の載っている台座には伝六を含む16名の寄付者の名前が彫られている。文政十年の寄進帳によると、「又三郎、長八、勘助、清三郎、藤四郎、有助、直吉、虎八、理八、増五郎、辰次郎、與左ヱ門、傳六、向田村信兵衛、向田村源吉、同熊八」で、合計730匁と記されている。文殊菩薩と同額である。
ふるさとの史跡をたずねて(380)
四天王(尾道市因島重井町白滝山)
徳川四天王というのは酒井、本多、榊原、井伊の四武将を言うようだが4という数字は東西南北の四方を守るのが戦の原則だろうから戦国武将を呼ぶのに無理がない。釈迦三尊像の四囲を囲む四天王も武具を持ったりして戦いのイメージがつきまとうが、間違ってならないのは釈迦、普賢、文殊の三人を守るのではないということである。
三人が据えられているところを須弥壇と呼ぶがこれは須弥山に因む。須弥山の四囲に配置して国家を守るのが四天王である。これが須弥壇の周囲に来た訳である。
しかし、こうして釈迦三尊像を取り囲む四天王を見ていると、三人寄れば文殊の知恵どころか、四人揃えば鬼に金棒と言った安心感がある。またその安心感を見る人に与えなければ単なる石像に過ぎない。このような観点から見れば、この白滝山の四天王は誠にありがたい。参拝者の一番大切なものをきっと守ってくれるであろう。あれも好き、これも大事と一番大切なものなどいつもは考えないことを、意識するのも宗教に向きある心のあり方の一つである。
・・・こう書くと、その四人の守り人の紹介など蛇足に過ぎないが書いておこう。東が持国天、南が増長天、西が広目天、北が多聞天である。なお、多聞天だけを飾る時は毘沙門天となる。