2024年8月7日水曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 371-380回 増補版

 



ふるさとの史跡をたずねて(371)

 


法華塔(尾道市因島重井町郷善興寺)

 曹洞宗の禅宗寺院である重井町の善興寺の参道に、曹洞宗の開祖道元禅師のお言葉でなく、「観音経」の語句が参拝者がまず目にする位置に掲げられていることは、ある種の驚異である。なぜならば道元禅師には著作物がなかったかというと、全くその逆であって『正法眼蔵』という百巻にも及ぶ膨大な著作が残されていて、それは我が国の宗教史・哲学史を代表する極めて優れたものなのであるから。

 そんなことを考えて境内に上がると、さらに驚くべきことに、そこには法華塔があった。法華塔は『法華経』を供養する塔である。あの、「南無妙法蓮華経」の『法華経』である。『正法眼蔵』の供養塔ではなく、『法華経』なのである。ならば善興寺は元日蓮宗寺院だったのかというと、そんな話はどこにも書いていない。

 大雑把に割り切って考えれば、道元禅師よりも『法華経』の方が大切だということになる。

 道元だけでなく、法然、親鸞、日蓮など鎌倉新仏教の開祖たちが学んだ比叡山延暦寺が、中国の天台智顗が『法華経』を基に確立した天台宗の道場であったことを考えれば、『法華経』が重んじられるのは当然のことである。

 さて、「観音経」はそのようなお経があるのではなく、『法華経』の第25章「観世音菩薩普門品」のことである。あるいは略して後半の詩の部分(偈と呼ばれる)だけがよく唱えられる。

 だから、200年ほど前に重井村の柏原伝六が白滝山に観音信仰の霊場を作ったからと言って、曹洞宗に反旗を翻したわけではなく、表面的には曹洞宗の熱心な在家信者だった、ということになる。








ふるさとの史跡をたずねて(372)



観音菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂の最高部に阿弥陀三尊像があることは、白滝山が西方極楽浄土をイメージしたものであると思って間違いなかろう。阿弥陀如来の左側、すなわち向かって右側(西側)は観音菩薩像である。

 白滝山の観音霊場の開祖柏原伝六は両親が西国巡礼で祈願して生まれたということから、自分は観音菩薩の生まれ代りだと信じ、「観音道一観」と名乗った。それにちなんで、伝六は仏教、儒教、神道、さらに人によってはキリスト教まで加えて新しい宗教「一観教」を作ったと書く人がいる。それが意味のない言説であることは以前にも書いた。

 伝六の教養はキリスト教でなく、むしろ道教を加えるのが良いと私は思う。しかし、これらを折衷して新しい思想なり宗教を生み出すには相当強靭な思考力を要する。単純なところだけを折衷して提示すれば大衆受けはするかもしれないが、二宮尊徳や石門心学の石田梅岩のように道徳家か啓蒙家になるだろう。

 また、キリスト教や仏教がそれぞれイエス、シャカ個人によって作られたと思っている人が多いが、そうではなく弟子たちの創作であった。同様に「一観教」なるものがあったとしたら、それは弟子たちの創作であった可能性の方が高い。

 さらに鎌倉新仏教を起こした高僧は、仏教の総合大学に喩えられる比叡山延暦寺を相当に優秀な成績で卒業しながら、道元は座禅に、法然は浄土三部経に、親鸞はさらに悪人正機に、日蓮は「法華経」にという具合に特化している。

 このように足し算でなく引き算で、そして弟子の観点から、「一観教」を主張する人たちには「一観教」とはどんな宗教なのか再考していただきたい。

 その際、伝六が観音菩薩の生まれ代わりであること、すなわち阿弥陀三尊像の左脇侍の観音菩薩が伝六であると信じる宗教であることは欠かせないと、私は思う。









ふるさとの史跡をたずねて(373)


一観像(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂の最高部の阿弥陀三尊像の前、すなわち少し下には一観夫妻像があり、当然の事ながらそのまん中に一観像、すなわち柏原伝六の座像がある。そして、その大きさは阿弥陀如来の隣の観音菩薩像よりも、はるかに大きい。

 伝六の寄進と書いてあるが、このようなものを伝六自身が生存中に作ることは、まずありえないから、伝六の子供によって建立されたものであろう。

 しかしこれでは、白滝山が観音信仰の山でなく伝六信仰の山になってしまう。そして前回記した、阿弥陀如来の隣の観音菩薩が伝六その人であるという考え方を否定することになる。すなわち「観音道一観」という伝六の宣言をも無にしてしまう。まさに親の心子知らず、ということだ。

 重井幼稚園のクリスマス劇の知識の上に、イエスがキリスト教を作り、布教したので十字架刑にあったという誤解のイメージで、伝六が一観教を作り、広島藩によって毒殺されたという妄想が生じたのだと私は思う。だからキリスト教を例にして考えてみよう。

 イエスの母マリアがイエスを身ごもった時処女であったということは、科学的問題でもなければ医学的問題でもなかった。信じるか信じないかだけの問題であった。そして、多くの人が、それも世界中の多くの人が信じた。その結果、キリスト教は世界宗教になった。

 一観教が成立するためには、伝六が観音菩薩の生まれ代り、すなわち伝六が観音菩薩であると信じることが必要であった、と私は思う。上記の2つの像の関係を、伝六が一観教を作ったと思う人たちはどう考えるのだろうか。説明してほしいものである。







ふるさとの史跡をたずねて(374)


日本大小神祇(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂から東側へ少し下がったところに将棋の駒のように先が尖った岩があり「日本大小神祇」と書かれてる。台座には「奉寄進」と両はしに「柏原」「林蔵」と彫られている。

 白滝山五百羅漢の開祖柏原伝六が、仏教・儒教・神道、それに人によってはキリスト教まで合わせて「一観教」なる新しい宗教を作ったと言う言説が妄説に過ぎないことは度々書いてきた。

 その妄説の観点に立てば、この「日本大小神祇」は神道的要素だと思う人がいるかもしれない。しかし、間違ってはいけない。「神道的要素」どころか、神道そのものではないか。

 だから、この「日本大小神祇」を「一観教」の一部と考えるならば、「一観教」は新しい宗教ではなく仏教と神道を単に折衷したものに過ぎないと言うことになる。新しい宗教というには新しい概念を「日本大小神祇」に盛り込まなければならないが、そんなものは聞いたことがない。

 江戸時代の民衆の当たり前のことを、東側、すなわち伊勢神宮の方を拝んで、日本の大小の様々な神を敬うことで示した。台石に刻まれている様に柏原林蔵が寄進した。注意すべきは林蔵は伝六から依頼された工事責任者であった。すなわち寄付する側ではなく寄付を集める側の人だったということである。実際の経理は林蔵の家のすぐ前に住む峰松初五郎がした。彼は林蔵と違い伝六よりも若く、いわば弟子であった。

 だから、我々は神道を否定しているわけではないから、まあこういうのも一緒に拝もうと、単なる善意から建てた、と私は思う。

 ただ不思議なことに、春分の日の太陽は日本大小神祇と一観像を結ぶ直線上を通る。すなわち、日本大小神祇の背後から日没を見ると、中心と一観像の真ん中、左端と一観像の背がピッタリと重なる。

 伝六の向きから私は宗教的なものとは考えない。伝六が直角方向を向いていることに宗教的な意義があると説明できる方がいらっしゃれば、ぜひご教示願いたい。















           写真・文 柏原林造


➡️ブーメランのように(文学散歩)