2015年2月18日水曜日

因島椋浦町 小早川家の墓

むくのうらみち

2015.7.5.艮神社から西へ歩くとこのような説明板が見える。その下の小道は右へ入っていく。

2015.2.18.艮神社から山のほうへ蜜柑畑の道を歩いていたら、このような看板があります。ここで右折して、蜜柑畑の中に入って行き、突き当たりをさらに右折するとあります。

2015.7.5.総覧16 蒲刈小早川先祖域の碑・五輪塔。蜜柑の木が切られ明るくなっていた。
塋域(えいいき)の塋は訓読みは「はか」(墓)ですから栄の旧字ではありません。塋所、塋田、塋場、塋園、塋域、皆墓場墓地の意味です。



2015.2.18.こんな感じで。ちょっと寂しい・・・。

2015.2.18.残っているのが不思議なくらい。ぜひ次世代へ。

   

©sumihara

家祖小早川尚景竹原家之依采令始 在城波多見島

其子尚嗣孫久尚 偶々起應仁争乱 主従転征移此地

則剣ケ峰拠要害 是對予讃之強敵 遺憾関ヶ原敗戦

嗣尚冬 求安堵地 今蒲刈胡屋連綿 蓋祖先餘沢実乎

昭和三十八年秋建之

蒲刈島 小早川 忠吾 長男 立光 次男 敏麿

呉市 同 亡 格造 長男 成博 次男 隆幸

広島市 同 金司


以上、住原氏による。

なお、応仁の乱は、応仁元年(1467年)から、文明9年(1477年)までの約11年間の出来事であり、石碑のように応仁の乱以後にここに来たのであれば蒲苅小早川氏は説明板の地頭小早川氏一族とは関係ないことがわかる。
したがって説明板の前半が正しいとすれば、一の城は地頭小早川氏の城跡である。

さらにまた、『因島市史』p.413には「天正年間小早川隆景が三原に新城を築いて以来、椋ノ浦に新城を築いてここに居らせたとある」「小早川が因島の支配権を得てからのことであろう」とある。この時代に小早川隆景が因島の支配を得たことがあったのだろうか?

因島の支配権が小早川隆景に移っていたのなら、それで因島村上氏の時代は終わったと思っても良いことにならないだろうか。それとも因島村上氏は小早川の代官になったのだろうか。

 


むくのうらみち