いんのしまみち
878元慶2年戊戌。12月15日。三代実録。
○十五日丙子、授二備後國無位隠嶋神従五位下、
(十五日丙子、備後の國無位隠嶋神に従五位下を授く)。
佐伯有義編、「六国史. 巻10 (三代実録巻下)」、朝日新聞社、昭和16年、p.156
1191年(建久2年)長講堂目録に因島記載される。
図は帝室林野局 編、「御料地史稿」、帝室林野局、1937年、p.323の「建久二年長講堂目録」。なお、出典は大日本史料. 第4編之6補遺p. 55。
1222貞応元年壬午。11月11日。因島村上文書。
因島中庄預所下文
下 備後國因嶋中御庄政所
下早宛賜給田捌段内四斗代 二段
三斗代 二反
二斗代 二反
一斗代 二反
右公文清原森高、可宛賜之状、所仰如件、
貞應元年十一月十一日
比良木祢宜縣主(花押)
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」、p.551
(京都府立京都学・歴彩館 東寺百合文書WEB から一部修正の上、引用)
六波羅裁許状案
地名:後国因嶋内三津庄
1301正安3年辛丑。4月日。東寺百合文書。な函/88/2/ 。
備後国三津庄地頭代頼円和与状案
地名:後国因嶋内三津庄
「因島市史」、p.52
1331元弘元年11月8日。東寺百合文書。な函/88/4/ 。
備後国三津庄常光院年貢塩代銭送進状案
11月17。日東寺百合文書。な函/88/5/
法橋真□(祐)奉書案
地名:備御国因嶋三津庄
1332正慶元年12月8日。東寺百合文書。な函/88/3/ 。
備後国三津庄常光院年貢塩代銭送進状案
地名:備御国三津庄
1333元弘3年11月30日。浄土寺文書。
三 後醍醐天皇綸旨
備後國因嶋地頭職(北条)泰家法師跡令知行、可被致御祈祷忠節者、
天氣如此、仍執達如件、
元弘三年十一月卅日 式部太(大)丞
浄土寺 空教上人
『広島県史 古代中世資料編Ⅳ』p.581
(読み)備後國因嶋地頭職を(北条)泰家法師跡へ知行令(せ)しめ、御祈祷忠節の者へ致さる可し、天氣此(かく)の如く、仍(すなわち)執達(しったつ)件(くだん)の如し、元弘三年十一月卅日 式部太(大)丞 浄土寺 空教上人
三十日、庚申備後浄土寺空教ニ因島地頭職ヲ賜ヒ、祈祷ノ誠ヲ致サシム、
東京大学史料編纂所編、「大日本史料」 第6編之1、東京大学、明治三十四年、p.296
『新修尾道市史第六巻』p.133 資料13
1334建武1年2月23日。浄土寺文書。
備後浄土寺空教ヲシテ、匡徒ノ濫妨ヲ停メ、因島地頭職ノ所務ヲ全クセシム、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之1、東京大学、明治三十四年、p.460
『新修尾道市史第六巻』p.133 資料14
『新修尾道市史第六巻』p.133 資料15
1335建武2年3月15日。浄土寺文書。
備後国因島地頭職停止、衣河孫五郎入道・・・
『新修尾道市史第六巻』p.135 資料19
備後浄土寺空教ヲシテ、更ニ衣河道一等ノ、因島地頭職ヲ濫妨スルヲ停メ、所務ヲ全クセシム、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之2、東京大学、明治三十四年、p.334
1336建武3年3月4日。
浄土寺雑掌為俊申、備後国因島事、早・・・
『新修尾道市史第六巻』p.135 資料21
1336建武3年3月4日。
浄土寺雑掌為俊申、備後国因島事、早大田・・・
『新修尾道市史第六巻』p.135 資料22
1336建武3年3月6日。
浄土寺領備後国因島地頭職事、・・・
『新修尾道市史第六巻』p.135 資料23
1336建武3年3月7日。
浄土寺領備後国因島地頭職事、去二月・・・
『新修尾道市史第六巻』p.135 資料24
1337建武4年。浄土寺文書。因島庄地頭方年貢注文。(『広島県史古代中世資料編Ⅳ』)
千六百六十五俵三斗五升六合。
合 中庄分 一名々塩 巳上塩・・・
『新修尾道市史第六巻』p.140
因島には、中・三津・重井の三庄があり、これらが塩を生産して年貢として納めていたことはすでによく知られているところである 山内譲、「南北朝室町期の弓削庄と水運」(『瀬戸内社会の形成と展開−海と生活』(雄山閣)、p.202
1338暦応1年1月10日。東寺文書。
寄進東寺 備後国因島相模左近将監入道恵清題 摂津国美作庄・・・
『新修尾道市史第六巻』p.140
尊氏、東寺に河内新開荘の替地トシテ、備後因島、及ビ摂津美作荘ヲ寄附ス、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之4、東京大学、p.688
1341暦応4年3月28日。浄土寺文書。
東寺領備後国因島地頭方雑掌・・・
『新修尾道市史第六巻』p.143 資料34
東寺領備後国因島地頭方雑掌・・・
『新修尾道市史第六巻』p.143 資料35
幕府、東寺領備後因島雑掌朝祐ノ訴ニ依リ、重ネテ備後守護ニ令シ、広沢五郎等ノ、安芸生口島ノ悪党ヲ誘ヒテ濫妨スルヲ停メシメ、又、安芸守護武田信武ヲシテ、悪党ノ交名ヲ注進セシム、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之6、東京大学、p.721
1341暦応4年8月27日 1条、東寺文書、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之6、東京大学、p.916
直義、東寺長者賢俊をシテ、同寺領備後因島、摂津美作荘地頭職ヲ均分シテ、同寺修造料及ビ大勝金剛千手供修法料ニ充テシム、
1343康永2年4月14日。鼓文書。
南党大館右馬亮、備後因島城ニ拠ル、是日、北軍攻メテ之ヲ逐フ、尋デ、城主広沢五郎降ル、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之7、東京大学、p.613
1343康永二年五月廿一日。5月21日。鼓文書一
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」、p.909
1347貞和3年丁亥。6月是月。浄土寺文書。
幕府、東寺の訴に依り、建長寺長老をして、安芸竹原荘住人茂重、及び其子愛鶴丸等の東寺領備後因島の年貢を抑留せるを停め、之を同雑掌に交付せしむ、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之10、東京大学、p.737
1347貞和3年丁亥。10月9日。東寺百合文書。
東寺領備後因島雑掌、建長寺領安芸竹原荘住人小早河氏平等ノ年貢ヲ抑留セルヲ訴フ、幕府、建長寺雑掌政賢ヲシテ氏平等ヲ召進セシム、是日、政賢、其人領内ニ住セザル旨ヲ具申ス、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之10、東京大学、p.922
1348貞和4年戊子。六月十四日。東寺百合文書。64 4/652
64小早河氏平備後因嶋郷代官職請人請文
(端裏書)「小早河五
1351観応2年4月是月。浄土寺文書。
東寺雑掌定祐。江見道源ノ同寺領備後因島ヲ濫妨スルヲ停メ、下地ヲ雑掌ニ交付セラレンコトヲ幕府ニ請フ、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之14、東京大学、p.983
東寺雑掌定祐謹言上 欲早被成下・・・
『新修尾道市史第六巻』p.150資料53
1366貞治5年9月14日。東寺百合文書。
幕府、東寺雑掌頼憲ノ訴ニ依リ、渋川義行ヲシテ、小早川備後入道ノ同寺領備後因島地頭職ヲ濫妨スルヲ停メ、半分下地ヲ頼憲に交付セシム、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之27、東京大学、p.431
p.433まで関連文書あり。
1367貞治6年10月14日。東寺百合文書。
幕府、重ネテ、渋川義行ヲシテ、小早川備後入道ノ東寺領備後因島地頭職ヲ、多治部師景ノ同寺領備中新見荘領家職を濫妨スルヲ停メ、各其下地ヲ雑掌頼憲ニ交付セシム、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第6編之28、東京大学、p.517
以下関連文書多数。
1386至徳3年3月10日。小早川什書。
十日、義満、備後三津荘領家職ヲ、小早川弘景ニ輿フ、
東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧.」巻7、朝陽会、1933、p.164
1386至徳3年8月7日。東寺文書〔参考〕系圖纂要。
幕府、山名時義ヲシテ、備後因嶋地頭職ヲ東寺雑掌ニ交付セシム、
東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧」、 巻7、朝陽会、1933、p.167
1387嘉慶1年閏5月12日。東寺文書[附録]東寺文書。
十二日、義満、東寺ニ備後因島ヲ安堵セシム、
東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧」、 巻7、朝陽会、1933、p.173頁
寄附 東寺
備後国因島地頭職事
右、所召返小早河備後守貞平所給
観応二年于時号正平六十二月十九日御下文也、
者、早任建武五年正月十日御寄進状、
如元、所寄附之状、如件、
至徳四年潤五月十二日
(足利義満)
右大臣源朝臣(花押)
文書名:足利義満備後国因島地頭職寄進状 せ函/足利将軍家下文/23/ 至徳4年閏5月12日(1387)
京都府立総合資料館 東寺百合文書WEB 。
1389康應1年9月6日。東寺文書。
幕府、伊豆守山名義照ヲシテ、備後因島地頭職ヲ東寺雑掌ニ交付セシム、
東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧」、 巻7、朝陽会、1933、p.187
1428正長元年十月廿日。10月20日。因島村上文書。
(沼隈郡)(田)
備後國多嶋地頭職事、為給分所充行也、早任先例可致沙汰之状如件
正長元年十月廿日 (時熈花押)
村上備中入道(吉資)殿
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」、p.553 (職、熈 は別字)
1440永亨12年卯月23日
『新修尾道市史第六巻』p.159 資料98
1457長祿2年4月是月。東寺百合文書。
是月東寺、梨羽某ノ、同寺領備後因島地頭職ヲ押領スルヲ停メラレンコトヲ幕府ニ請フ、
東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧」、 巻8、朝陽会、1933、p.81
1460寛正1年11月9日 。東寺百合文書。
九日、東寺、小泉氏平ノ、寺領備後因島、弓削島代官職ヲ押領スルヲ停メラレンコトヲ幕府ニ請フ、
東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧.」巻8、朝陽会、1933、p.117
1462寛正三年四月廿八日。東寺百合文書。ち17-25
4/260
17-25二十一口方評定引付同廿八日権僧正快寿公禅仁然尭忠
1464寛正五年四月十二日。東寺百合文書。ち18-24
4/312
18-24二十一口方評定引付同十二日権僧正融覚杲覚尭杲宗杲
1464寛正五年十二月二日。東寺百合文書。18-88
4/354
18-88二十一口方評定引付十二月二日融覚公禅仁然尭忠杲覚
1544天文13年7月3日。村上文書。
大内義隆、備後村上新藏人ニ所領ヲ充行フ、
東京帝国大学文学部史料編纂所編、「史料綜覧」、 巻10、内閣印刷局朝陽会、1938、p.196
1582(天正十年壬午) 四月廿四日。吉川石見文書。
98
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当候て之儀候処、能嶋平岡黒河因島手を替、此方無二令馳走、来嶋
1483文明15年11月15日。
因島村上文書。
「右所々御判地は申すに及ばず、そのほか私領ならびに札浦等事、亀若丸ゆつり渡す者也、先例を守り、相計い、御屋形様(山名政豊)様江余儀なく奉公致すべく候」とある。これによれば、「札浦」は「御判地」でもなく、「私領」でもないが、譲与の対象となる支配地といえる。岸田裕之、『毛利元就』(ミネルヴァ書房)、p.251
1585天正13年2月11日 。村上文書。
毛利輝元、小早川隆景ヲシテ、因島吉充父子ニ保護ノ意ノ渝ラザルコトヲ伝ヘシム、
東京大学史料編纂所編、「
大日本史料」 第11編之13、東京大学、p.265
1605慶長十年乙巳。十二月十四日。毛利文書。1284
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(花押)磯兼助兵衛尉(花押)因島又三郎(花押)乃美四郎兵衛尉
(年未詳)正月十三日。小早浦写
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一因島明日可来之由、得其心候、打続
(年未詳)正月十五日。小早浦写
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今晩御出候者、彼是申承度候、因島逗留候而、今日中若御隙入候者
参考:
上島有、大山喬平、黒川直則編、「東寺百合文書を読む」、思文閣出版、1998
古文書一覧
因島市史料 第1集
因島市教育委員会、1900年、【ページ数】127p
因島市史料 第2集
因島市教育委員会、1957年、【ページ数】98p
因島市史料 第3集
因島市教育委員会、1900年、【ページ数】56p
因島市史料 第4集
因島市教育委員会、1900年、【ページ数】83p
因島市史料 第5集
因島市教育委員会、1965年、【ページ数】40p
因島村上家文書(広島県重要文化財)
因島市史料 第6集
因島市教育委員会、1965年、【ページ数】68p
能島来島因島由来記
因島市史料 第7集
因島市教育委員会、1966年、【ページ数】109p
村上 喜兵衛/著 武家万代三島海賊家軍日記
因島市史料 第8集
因島市教育委員会、1966年、【ページ数】94p
村上 喜兵衛/著 武家万代三島海賊家軍日記 続
因島市史料 第9集
因島市教育委員会、1967年、【ページ数】102p
因島市文化財保護委員会/編集
参考文献
東寺百合文書