2020年8月17日月曜日

因島村上文書






一 因島中庄預所下文

下 備後國因嶋中御庄政所
 下早宛賜給田捌段内四斗代 二段
          三斗代 二反
          二斗代 二反
          一斗代 二反
右公文清原森高、可宛
賜之状、所仰如件、
  貞應元年十一月十一日
比良木祢宜鴨縣主(花押)


二 因島中庄領家下文

(花押) 
下因鳴中庄 
可早宛行公文職事 
右以人為彼職、庄務所任先
列、可被沙汰狀如件、庄
官百姓等所且承知、勿違
失、故以下、
貞應三月二月六日 

三 預所寄進状
寄進 放生會頭田事 
  友貞名內興田壹段半
右於彼坪所當者、每年宛賜
頭人等、可致其募、庄官百姓
等宜承知、敢不可違失者、
可祈誠領家御方并庄內
貴富、仍所寄進如件、 
   弘安九年十月 日 
 (花押) 

四 大塔宮令旨
 度々合戰捨身命致軍忠之刻、去四月三日同八日廿七日等合戰之時、子息已下良從討死之条、 
 尤以不便次第、所有御感也、早可有恩賞者、
  大塔二品親王令旨如此、悉之、以狀、 
     元弘三年五月八日     左少將 (花押) 
     備後國因鳴本主治部法橋幸賀館 
       ・巻中ニァルハ寫本ニシテ、原本、別軸ニ仕立テラル


五  正氏預ヶ状


(多度郡)
讚岐國弘田地頭
職事、為兵粮析
所被置預者也、
任先例可被知行之
狀如件、 
               (氏) 
 天授三年三月十五日     正民 (花押) 
 兩三人御中 



六 足利義持御內書
就播州事早点馳參候、
神妙候、於向後亦可抽
忠節也、 
 (異筆) 
 「應永三十四年」    四は二が横に二つ
              (義持) 
     十二月十一日     (花押) 
            (吉資)
           村上備中入道殿 

七  山名時熈宛行状
(沼隈郡)(田) 
備後國多嶋地頭職事、為給分
所充行也、早任先例可致沙汰之狀
如件
  正長元年十月廿日  (花押)
   村上備中入道殿


8 河野教通書状

去十一佐礼城打落松岡以下打
取頸八到来候、大慶無極候、同
所之敵城落居候、目出(候)、今度合
戦ニ御手の人々高名由注進候、



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 17毛利元就同隆元連署書状

就村上新蔵人(吉充)被申儀

蒙仰候、得其心候、所帯等

於裁判之砌、可致其心

得候、不可有疎略候、弥警固

馳走肝要之由可被仰候、

恐々謹言、

三月廿三日 隆元(花押) 

      元就(花押) 

(小早川)隆景 御陣所 

(禮紙切封ウラ紙)「右馬頭 備中頭 隆元 隆景 御陣所


一八 毛利元就同隆元連署書状


就御愁訴之儀、對隆景蒙仰、委細又申述候、然者先浮米遣置候處、為御礼御使者畏悦之至候、猶御使江申候、恐々謹言、十二月十六日 隆元(花押) 元就(花押) 村上新蔵人(吉充)御返報


御愁訴の儀につき、隆景に対して仰せを蒙り、委細また申し述べ候、然らば先に浮米進らせ置き候処、御礼として御使者畏悦の至りに候、なお御使へ申し候、恐々謹言、 十二月十六日 隆元(花押) 元就(花押) 村上新蔵人(吉充)御返報


一九 毛利隆元書状


於防州浮米百石進之候處、為御礼以御使状承候、御懇意之至候、毎事隆景可申述候間、不能詳候、恐々謹言、十二月十六日 隆元(花押) 村上新蔵人(吉充)御返報



二〇 小早川隆景書狀


向嶋一圓之事、任承旨致

同心候,出宇賀一着之上、可有

御巡县长、榨茂御照候芩、

聊不可有相違候、弥御人魂

此節侯、恐之謹言、我治

日用 日 隆景(花押)

村上又三郎課 御陣所

小早川又四郎

村上又三郎版 御陣所

降景


二一 小早川全景吹塌地

新藏人御肝望之事、

可亭欣京都

之狀如牛、

弘三年正月十二日

散位碌量,花現

村上又三郎殿



二二 小早川隆景書狀(切紙)
(親宏)
今度其表御出船動稠被仰付候、依之此口敵退散候、然者田原退口被待付、被碎手數輩被討
果之由到來候、誠御馳走御粉骨之次第不淺候、此表傳之要害明退候条、動深重依申付之旁
御礼申後候、慮外筷、其表御滯留之間、弥人數指出侯、可被仰談侯、猶桂右衛門大夫可申
(景信)
候、恐*謹言、
十一月九日
隆景(花押)
村上新藏人殿
御陣所

二三 小早川隆景書狀(折紙)
就其表之儀、御使者被差越、以条败被印成展、
新藏人御所望之事
(對上武吉



青木茂『因島市史』
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」、p.551
松井輝昭『因島村上家文書を読む』、平成7年、因島教育委員会、因島文化財協会