一 因島中庄預所下文
下 備後國因嶋中御庄政所
下早宛賜給田捌段内四斗代 二段
三斗代 二反
二斗代 二反
一斗代 二反
右公文清原森高、可宛
賜之状、所仰如件、
賜之状、所仰如件、
貞應元年十一月十一日
比良木祢宜鴨縣主(花押)
二 因島中庄領家下文
(花押)
下因鳴中庄
可早宛行公文職事
右以人為彼職、庄務所任先
列、可被沙汰狀如件、庄
官百姓等所且承知、勿違
失、故以下、
列、可被沙汰狀如件、庄
官百姓等所且承知、勿違
失、故以下、
貞應三月二月六日
寄進 放生會頭田事
友貞名內興田壹段半
右於彼坪所當者、每年宛賜
頭人等、可致其募、庄官百姓
等宜承知、敢不可違失者、
可祈誠領家御方并庄內
貴富、仍所寄進如件、
頭人等、可致其募、庄官百姓
等宜承知、敢不可違失者、
可祈誠領家御方并庄內
貴富、仍所寄進如件、
弘安九年十月 日
(花押)
度々合戰捨身命致軍忠之刻、去四月三日同八日廿七日等合戰之時、子息已下良從討死之条、
尤以不便次第、所有御感也、早可有恩賞者、
大塔二品親王令旨如此、悉之、以狀、
元弘三年五月八日 左少將 (花押)
備後國因鳴本主治部法橋幸賀館
・巻中ニァルハ寫本ニシテ、原本、別軸ニ仕立テラル
讚岐國弘田鄉地頭
職事、為兵粮析
所被置預者也、
任先例可被知行之
狀如件、
(氏)
天授三年三月十五日 正民 (花押)
兩三人御中
就播州事早点馳參候、
神妙候、於向後亦可抽
忠節也、
(異筆)
「應永三十四年」 四は二が横に二つ
(義持)
十二月十一日 (花押)
(吉資)
村上備中入道殿
(沼隈郡)(田)
備後國多嶋地頭職事、為給分
所充行也、早任先例可致沙汰之狀
如件、
正長元年十月廿日 (花押)
村上備中入道殿
8 河野教通書状
去十一佐礼城打落松岡以下打
取頸八到来候、大慶無極候、同
所之敵城落居候、目出(候)、今度合
戦ニ御手の人々高名由注進候、
9
10
17毛利元就同隆元連署書状
就村上新蔵人(吉充)被申儀
蒙仰候、得其心候、所帯等
於裁判之砌、可致其心
得候、不可有疎略候、弥警固
馳走肝要之由可被仰候、
恐々謹言、
三月廿三日 隆元(花押)
元就(花押)
(小早川)隆景 御陣所
(禮紙切封ウラ紙)「右馬頭 備中頭 隆元 隆景 御陣所
一八 毛利元就同隆元連署書状
就御愁訴之儀、對隆景蒙仰、委細又申述候、然者先浮米遣置候處、為御礼御使者畏悦之至候、猶御使江申候、恐々謹言、十二月十六日 隆元(花押) 元就(花押) 村上新蔵人(吉充)御返報
御愁訴の儀につき、隆景に対して仰せを蒙り、委細また申し述べ候、然らば先に浮米進らせ置き候処、御礼として御使者畏悦の至りに候、なお御使へ申し候、恐々謹言、 十二月十六日 隆元(花押) 元就(花押) 村上新蔵人(吉充)御返報
一九 毛利隆元書状
於防州浮米百石進之候處、為御礼以御使状承候、御懇意之至候、毎事隆景可申述候間、不能詳候、恐々謹言、十二月十六日 隆元(花押) 村上新蔵人(吉充)御返報
二〇 小早川隆景書狀
向嶋一圓之事、任承旨致
同心候,出宇賀鸣一着之上、可有
御巡县长、榨茂御照竂候芩、
聊不可有相違候、弥御人魂
此節侯、恐之謹言、我治
日用 日 隆景(花押)
村上又三郎課 御陣所
小早川又四郎
村上又三郎版 御陣所
降景
二一 小早川全景吹塌地
新藏人御肝望之事、
可亭欣京都
之狀如牛、
弘三年正月十二日
散位碌量,花現
吉
村上又三郎殿
二二 小早川隆景書狀(切紙)
(親宏)
今度其表御出船動稠被仰付候、依之此口敵退散候、然者田原退口被待付、被碎手數輩被討
果之由到來候、誠御馳走御粉骨之次第不淺候、此表傳之要害明退候条、動深重依申付之旁
御礼申後候、慮外筷、其表御滯留之間、弥人數指出侯、可被仰談侯、猶桂右衛門大夫可申
(景信)
候、恐*謹言、
十一月九日
隆景(花押)
村上新藏人殿
御陣所
二三 小早川隆景書狀(折紙)
就其表之儀、御使者被差越、以条败被印成展、
新藏人御所望之事
(對上武吉
北
青木茂『因島市史』
「広島県史 古代中世資料編Ⅳ」、p.551松井輝昭『因島村上家文書を読む』、平成7年、因島教育委員会、因島文化財協会