ふるさとの史跡をたずねて(321)
ふるさとの史跡をたずねて(322)
金ヶ崎城跡(今治市伯方町木浦甲72)
伯方町木浦の金ヶ崎は木浦港の北東に位置する岬で、古くから人が住んでいたらしく、周辺は遺跡の宝庫である。能島村上氏が近辺を支配した時はもちろん、それ以前から城砦として利用された可能性は高い。しかし、能島村上氏の主力が竹原へ移動した、実質的な水軍の解散の後、金ケ崎に残って畑作に従事した人はほとんどなく、荒地に戻った。
金ケ崎城跡へ行くには、金ケ崎を目指すのだが、海岸に下る前に、三叉路がある。よく見れば、丘に登る軽トラなら通れそうな農道もあって、厳密には四叉路である。その農道に登る。農道にはところどころに電柱があり、こんなところになぜ電線が? と、不思議に思う光景である。行き止まりまで行くと、伯方島四国八十八ヶ所の立派なお堂があった。六番安楽寺の本院である。本院というのは、分院である前札所が伯方造船所近くにあって、わざわざ遍路道から遠く隔たったここまで来なくても良いようになっているのだ。
さて立派なお堂の前の境内は広く、桜の木も植えられ桜の季節に来れば、良いところのように思うが、不思議なことに近くに人家がない。能島水軍より後には、人が少し離れた所にしか住まなかったということであろう。
境内の桜の木の下には「金崎城趾」の石碑が建つが、残念ながら樹木に覆われて海は見えない。岬の中央であるから、海が見えれば往時の城砦の役割もよくわかると思われるが、地図を見て想像するしかない。
ふるさとの史跡をたずねて(323)
木浦城跡(今治市伯方町木浦甲546)
伯方港の北側の小高い山が木浦(きのうら)城跡である。木浦城と言うよりも伯方ふるさと歴史公園と言った方がよくわかる。そこには天守閣を模した展望回廊と資料館があったのだが、残念ながら現在は閉館されている。それでも、駐車場とトイレは使えるし、眺望の素晴らしいところだから行ってみるだけの価値はある。
標高96メートルの頂上を中心に段差のある曲輪(くるわ)があった。その遺跡が想像できなくもない。写真の瓦屋根の写っている展望回廊(模擬天守)のある場所が本壇(一段)で、北東方向に、駐車場になっている二段、さらにフェンスの下に三段目があり、その下のブルーシートのところが武者走りで、遺構に対応してある。海の向こうには金ケ崎城跡のある岬が見える。
ここは1170年頃、河野通信配下の紀氏によって作られ、村上水軍の時代になってからも、能島村上氏によって利用された。
海に近い良い場所ではあるが90mの高さは、日常的に上り下りするのにいかがであろうか。現代人の感覚で考えるのは無謀であるが、やはりもっと低いところへ人は集まったのではなかろうか。
マニアにとってはここまで改造されたものは、もはや遺跡とは呼べないのかも知れないが、城郭図と対応させて眺めれば、ありし日の面影を想像できなくもない。
ふるさとの史跡をたずねて(324)
平山画伯スケッチポイント(今治市伯方町木浦甲546)
木浦城跡、すなわち伯方ふるさと歴史公園には、平山郁夫画伯 しまなみ海道五十三次スケッチポイントの石板もある。「伯方港四阪島と四国山系を遠望」と左下に書かれている。平成11年(1999)の作品である。
伯方港の入口付近にある造船所では、クレーンがいろいろな方向に傾き忙しく動いている。船首の丸い貨物船のようなものが偶然同じところに入港することは考えられないから、作業用船台と考えられる。はるか向こう、岬の先端上部に四阪島が見える。その向こうの四国連山は天候によって見えたり見えなかったりするが、因島よりはるかに近いのでよく見える。
四阪島は大小5つの小島からなるが、その2つの島の間は埋め立てらているので実質4島から構成される。
別子銅山の精錬所として人里遠く離れた無人島に設置されたことは当時としては画期的なことであったが、明治38年に四阪島で精錬所が操業を開始すると周囲に亜硫酸ガスが拡散し、却って公害は増えた。島全体の松が枯れたというようなことを教科書で読んだ人は多いと思う。
最盛期は大正末期で、島の人口は5千人を越え、社宅、学校などもあった。
また、新居浜、四阪島、尾道を往復する住友の専用航路が開かれ、木津川丸が運行した。石炭の黒煙を吐く木津川丸は三庄町沖を通り、陳情の結果、三庄町沖でも止まり乗せてもらうことができた、と言われている。
ふるさとの史跡をたずねて(325)
喜多浦八幡大神神社(今治市伯方町北浦甲1463)
伯方島へ行ったら 北浦八幡神社へ一度は訪ねてみたい。長い石段と小山の上の神社という配置は珍しいものではないが、境内が広いせいか明るくて楽しいところである。
伯方町北浦にある北浦八幡神社は、正しくは 喜多浦八幡大神神社と呼ばれ、長い歴史をもつ。白鳳2年(674)に博多筥崎八幡から勧請されたので、この島が伯方島と言うようになったと伝わる。ただ、その最初の地はどこかわからないが、およそ400年ほど経て、現在地へ社殿が建てられた。
古い時代の勧請の伝承はともかくとして、伯方島の地名語源説話にそれを結びつけることには、抵抗がある。やはり、共通の地名を付けたのなら、もっと狭い地域にハコザキとかハカタとかという地名がついたと思う。
また、ひとつ気になるのは境内神社である伊方神社は、元は別のところにあったものだが、貞観2年(860)に従五位下が授けられていることである。栄枯盛衰は世のならいとはいえ、その時代には、北浦八幡神社には、ここで想像するような華やかさはなかったのかもしれない。
現在は、山上の豪華な社殿のみならず、石段下の鳥居や狛犬なども見事だし、そこに続く参道周辺は門前町のような落ち着いた雰囲気で、好感がもてる。
ふるさとの史跡をたずねて(326)
開山公園(今治市伯方町伊方)
伯方島の開山(ひらきやま)公園は桜の名所として特筆に値する。桜のシーズンには約千本の桜が咲き、林道は南から北への一方通行になるのだが、駐車場に限りがあるので、満車になると大変である。
桜だけでなく景色もよく、西には大三島橋のかかる鼻栗の瀬戸、そして北に多々羅大橋が見える。さらに右手方向には生口島と岩城島の間に因島が遥かに望める。
開山公園が現在のような桜の名所になるには3人の功労者がいた。もちろん地元の人々や町の協力があってのことではあるが。
まず、地元の篤志家で大地主の馬越新吉氏が私財を投じて149mの沖浦山を開墾し、果樹などを栽培した。それで開山と呼ばれるようになった。しかし、馬越氏は明治41年に48歳で事業半ばで亡くなった。
その後荒廃していたが、明治から大正にかけて瀬戸田町の小林磨五六氏が再開墾して除虫菊を栽培した。小林氏は大正10年に観音堂を建てた。翌年、三十三観音、熊野権現、花山院、不動尊などを寄進する人が相次いだ。
昭和27年に慈母観音が寄進されると、翌年、木浦の藤井伊太郎氏が発起人となり四十数名の寄進により桜が大々的に植えられた。
その後、国立公園に指定されたり林道や展望台が建設され、現在の盛況となった。
なお、ロープウェイを設置する計画があり、用地買収まで進んでいたが取りやめになった。もし設置されていても、維持費を賄えるだけの観光客が来たか疑問であろう。
ふるさとの史跡をたずねて(327)
平山画伯スケッチポイント(今治市伯方町有津)
319回で船折瀬戸の鶏小島を紹介した。その時、車をとめた駐車場の西の端に平山郁夫画伯のしまなみ海道五十三次スケッチポイントの石板があった。
「伯方大島大橋 伯方島」で平成11年(1999)の作品である。1983年12月の因島大橋の開通に続いて、1988年1月開通の伯方大島大橋は、その間に見近島があって伯方島側が伯方橋で、大島側が大島大橋という2つの橋のことである。
橋の長さは伯方橋が325m、大島大橋が840mである。これは陸上部も含まれるので、海上の長さに近い橋脚間の長さではそれぞれ、145m、560mと伯方橋の方が短い。
すなわち、見近島は伯方島・大島間の中央付近にあるのではなく、かなり伯方島に近い。両側の海峡はいずれも急流で、特に大島側は通行船舶も多く、建設には多くの工夫がなされたようである。
また、大島大橋は、日本初の鋼箱桁を使ったを補剛箱桁吊橋だと、伯方橋の歩行者通路の説明板に書いてあったが、技術的なことはわからない。
平山画伯のスケッチでは近景が伯方島で、その向こうに大島大橋が見える。右側の主塔の下が見近島ということになる。見近島には歩行者、自転車、バイクは降りることができる。
同じ場所での写真は、季節のせいか樹木に覆われ、大島大橋の一部しか見えなかった。冬になればまた違った光景を見ることができるかもしれない。
ふるさとの史跡をたずねて(328)
見近島(今治市宮窪町宮窪)
伯方島と大島の間の橋脚の島ということになる。無人島でキャンプ場がある。歩行者、自転車、原付バイクしか降りられない。車では降りられないということは、救急車を呼んでも時間がかかるし、通常の消防車も近寄れない。そのことを承知の上でキャンプをするなり、あるいは散策をするのには良いところである。伯方島からの方が近いので、何かと便利である。
さて、位置から見ても能島に近く、能島水軍が放置していたということは、誰が考えてもあり得ないことだろう。能島、鵜島、見近島を合わせて海の要塞を成していたのだと思う。東側に周ると鶏小島、鵜島、能島がよく見える。(写真)
見近島では橋脚建設時に多くの陶器のかけらが発見されたが、水軍の生業の実態がわからない以上、確定的なことは言えない。貿易業、国内海運業、あるいは海賊業などがどれくらいの期間にわたって行われていたのかによって、解釈は異なるだろう。
幸い遺跡の上に橋脚を作ることは避けられ、現状のように両端に橋脚が建てられて、島の中央はよく保存されている。(写真)
ふるさとの史跡をたずねて(329)
余所国小学校跡(今治市宮窪町余所国)
かつて中島忠由氏が水軍時代の因島大浜町に共同租界地があり、軍監などが派遣されていたということを記された。そしてそこを「余所国(よそのくに)」と呼ぶとも。しかし、因島でそのような文書を見たことはないし、大浜町で「余所国」という地名の痕跡も探すことはできなかった。
ところが何と、「余所国」が大島にあったのだ。
見近島と大島の間にある大島大橋の、大島側の橋の下を通って西に向かうと両社明神社がある。その西隣が小学校の跡地で、校舎は残ってなくて門柱があり、元校庭の片隅には二宮金次郎の像が建っていた。
門柱の標札は無かったが、その前に門柱設置の時の寄附石が残っており、それには「余所国尋常小学校・・」と書かれており、かつての村名が「余所国」であったことがわかる。今は字(あざ)名として残っている。しかし、残念ながら期待したように「よそのくに」とは呼ばず、「よそくに」である。でも、残念がる必要はない。「余所国」と書いて「よそくに」と呼んだとしたら、あるいは「余所国」を意味する言葉を「よそくに」と言ったとしたら、日本語的に不自然である。だから、元は「よそのくに」であったに違いない。それがいつしか「の」が脱落して「よそくに」と言われるようになったに違いない。
だから、共同租界地を期待していたが、そのような史実は出てこない。近隣の人たちが自分達を「内方」、別のところ(今の余所国)を「余所国」と呼んだと言う説がある。また、このあたりだけが小早川氏の支配地だったからだと言う説もあるようだ。
さて、因島村上氏6代吉充は隠居の身で関ヶ原合戦後、毛利氏に従い長州矢田間に行くが、ほどなく領地を返して弓削、大島余所国を経て、予州佐方(現今治市菊間町)へ行ったという伝承がある。この話の中に、元共同租界地ではなかったにしても、どこか治外法権的な雰囲気が無くもないが、なぜ大島余所国経由なのか書いたものは未見なので、これ以上書いても妄想のレベルを出ない。
ふるさとの史跡をたずねて(330)
平山画伯スケッチポイント47(今治市宮窪町宮窪6355-2)
標高232mのカレイ山は大島の東北端に近く、能島、見近島を眼下に見おろすことができる。だからと言って見張り台らしきものを設置して常に監視していないといけないほど、危険な商売をしていたとも思えない。また、来島や因島の水軍においても、あるいは他の水軍でない勢力が能島を強奪したとしても、そんなに大きな意味があったとは思えない。もちろん戦国末期においては所属大名、この場合、毛利・小早川氏の領地を死守するのが当然であった時代があったことは確かだろうが。
思わずこんなことを考えてしまうほど素晴らしいロケーションで、また島々の光景も、橋も海もすばらしく、いつまでも見飽きない。
そんな場所を平山郁夫画伯が見逃すはずはなく、スケッチポイント47として描かれている。それは「カレイ山展望公園 伯方大島大橋 伯方島」で平成11年(1999)の作品である。
石板の真上から写した写真では造船所の向こうに多々羅大橋の橋脚と生口島・観音山の稜線が見えている。左へ下がる稜線の向こうに平山画伯の生家はある。そう思ってみると、スケッチのそこがひときわ濃く描かれているように思える。