因島誌(目次)
第10編 資料編
第1章
第2章
第3章
第4章 文献目録
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第1章
のちに項目別に分けるとして、とりあえず・・
佐伯有義編、「六国史. 巻10 (三代実録巻下)」、朝日新聞社、昭和16年、p.156、(三代実録 卷第卅四 元慶二年十二月十五日)に次のように「○十五日丙子、授二備後國無位隠嶋神従五位下一」(十五日丙子、備後の國無位隠嶋神に従五位下を授く)とある。
青木茂編、「因島市史 全」、因島市史編集委員会、昭和43年、p.13以下では、これを因島が我が国の歴史に登場するはじめとして考察がなされている。元慶二年とは、西暦878年である。
青木茂編、「因島市史 全」、因島市史編集委員会、昭和43年、p.17に因の字の古体についての考察がある。以下の書物により確認した。
昌住、「新撰字鏡」(全国書房、昭和19)p.531 巻第九第九十一。
次に和名類聚抄であるが、早稲田大学古典総合データーベースの「倭名類聚鈔. 巻1-20 」/ 源順 [著] ; 那波道円 [校]の巻八、備後國第百十五に以下のようにある。
「周島」と書いて「輿乃之萬」(よのしま)と読んでいる。カタカナは校訂者の注したものであろう。これは隠嶋を周島と書いて「よのしま」と読ませたということを意味しない。ただ、御調郡に「周島」があり、その読みが「輿乃之萬」ということを示したものである。
これを「因島」のことであり、「よのしま」と読むかは読者にまかされている。なお、「輿」は「与」の旧漢字。歌島(うたのしま)は向島のことであろう。
次に、村岡檪斎 (良弼) 、「日本地理志料. 巻之45-49」、東陽堂、明治35-36の巻49には次のように記している。
上記の、因島の因が「四角にコ」の例
京都府立総合資料館 東寺百合文書WEB から。一部画像を変更。
文書名:足利義満備後国因島地頭職寄進状 せ函/足利将軍家下文/23/ 至徳4年閏5月12日(1387) 355×605mm
寄附 東寺
備後国因島地頭職事
右、所召返小早河備後守貞平所給
観応二年于時号正平六十二月十九日御下文也、
者、早任建武五年正月十日御寄進状、
如元、所寄附之状、如件、
至徳四年潤五月十二日
(足利義満)
右大臣源朝臣(花押)
(28648)
帝室林野局 編、「御料地史稿」、帝室林野局、1937年、P.323の「建久二年長講堂目録」に以下のようにある。
なお、出典は大日本史料. 第4編之6補遺p. 55。
日本故事類苑1914年(大正3)
地部二十六備後国 p.617
御調(ミツキ)郡 向島、周廻六里二十九町四十三間、富濱鳥崎、三十四度二十四分、 院島、周廻一十里一町四十三間、重井浦、三十四度二十一分、三庄村、三十四度一十八分半、 加島、周廻二十四町五十七間、 上惠府島、周廻七町四十七間、 下惠府島、周廻四町二十一間、 岡島、周廻六町五十四間、 鰯島、周廻一里三十三町四間、 大鯨島、周廻三町三間、 大細島、周廻一里一十一町四十五間、 小細島、周廻二十町四十三間、 遠測 笹島 大八重子島 小八重子島 四十島
因島 在二御調郡一、島中加宇禰浦、小民汲レ潮燒レ鹽、以足二國中之用一、
太田為三郎 編、「帝国地名辞典. 上巻」、三省堂、明治45年、p.198にはつぎの記述がある。
庄園
弓削島の北に位置する因島は弓削島よりはかなり大きい島で、耕地も広く、南北朝のはじめには田地四六町余、畠地五六町余におよび、中庄、重井、三庄の三庄に分れていたが、これら三つの庄園の地頭方を尾道の浄土寺が領有したころ、地頭方得分としての年貢塩は合計八三二石余というばくだいな量にのぼり、その代銭は五斗入俵別八〇文で一三三貫文余であった。
平凡社編、「風土記日本 第2巻 中国・四国篇」、昭和35年、p.82
因島も、当時は、たぶん院之島と称されて、鳥羽院のころから、院の荘園として開発されていたとみることができる。
村上公一、「村上海賊史」、因島市史料館、1972年、p.28
広島県編、「広島県史近世2通史Ⅳ」,広島県、昭和59年、p.735に次の記述あり。
芸備浦々船舶の裏日本における動向
備後 因嶋 明和7〜天保12 入津船数18(其後度々入津仕候)、登入津6(松前、庄内)、下入津3、積荷・取引商品 丹後・越後・佐渡・越前・能登城米、本多平八郎荷物、槙材木 (石見国浜田外ノ浦廻船問屋清水家「客船帳」より)
広島県編、「広島県史. 第1編」、帝国地方行政学会、大正10-13年、p.33には次のようにある。
御調郡 因島 向島西南端の沖六町餘にあり、重井村・大濱村・三浦村・三庄町・田熊村・土生町の二町五村を置く、屬島中細島を稍大なりとす、重井村の屬也。
寛政年間の渡唐船について
近藤瓶城編、「続史籍集覧. 第1冊」、近藤出版部、昭和5、p.488(戊子入明記p.20)
上記資料について、宮野規雄、「やまあみ」、1980、p.72以降で当時の経済力について考察している。
因島は真言宗寺院と曹洞宗寺院が多いが、島の左右で、真言宗と曹洞宗に分かれている。因島の曹洞宗も元は臨済宗であった。 芸予諸島の島々において、臨済宗から曹洞宗に改宗したのは、宗光寺や香積寺の布教による場合が多かった。
西村武雄、「中世瀬戸内の仏教諸宗派」、探究社、2000,p.14
中国新聞社編、「瀬戸内海 上」、中国新聞社、昭和34年、p.46
昭和三十三年の造船界は、三十二年ほど好調ではないかも知れない。しかし、どんな不況に見舞われようと、因島の人は造船工業にしがみつき、じっと辛抱する。島の人にとっては、造船界の好、不況は、そのまま生活の喜びと悲しみになるというものだ。
村上水軍関係
三島のうち備後の本土に隣接した因島は、瀬戸内海のなかでも讃岐の小豆島、周防の屋代島とともに大きいほうにぞくする島で、同島の南北には村上氏と関係をもつ城塞の遺跡が少なくない。たとえば、向島、尾道、三原、生名島、弓削島にのぞむ長崎城と美可城などが、その代表である。そして、これらの城塞には船隠しの施設があったり、付近の海を航行する船舶から、通行税として、帆別銭を徴収した、と伝える場所もある。
宇田川武久、「瀬戸内水軍」、教育社、一九八一年、p.196
伊予河野氏の支配下であった村上氏だが、弘治年間(一五五五~七)因島村上氏は毛利氏に臣従したのに対し、来島・能島村上氏は毛利氏に反抗していた。しかし石山籠城に祭し、能島村上氏は徐々に毛利氏の下へ組み込まれていく。
註に、村上文書、(天正四年)七月二十四日付村上武吉宛河野通直書状に「今度者芸州為加成被罷登之条、様体無心元候処」とある。毛利氏に組み込まれたのではなく、河野氏の支配下にまだあり毛利氏に味方して本願寺に赴いただけである。
橋爪茂、「瀬戸内海地域社会と織田権力」、思文閣出版、二〇〇七、p.239
森重都由原編著、伊井春樹訳「合武三島流船戦要法」(上)(下)、教育社、1979は水軍史とは別に、具体的な海上の操船法が記述されていて、興味深い。原文や他の海事関係の図書が神戸大学附属図書館デジタルアーカイブにある
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