2024年11月1日金曜日

夕凪亭閑話2024年11月

  クリスタルホーム

2024年11月1日。金曜日。雨時々曇り。2479歩。70.5kg。4時半に起きる。10時から公民館。文化祭準備。宮城谷昌光『管仲』上、p.141まで。


2024年11月2日。土曜日。雨のち晴れ。3138歩。70.5kg。4時半に起きる。朝、8時半から町民文化祭へ。昼前に帰る。昼寝。夕方、柿を摘んで草取り。今年は不作。極少。宮城谷昌光『管仲』上、p.191まで。


2024年11月3日。日曜日。晴れ。2436歩。71.3kg。5時に起きる。朝、買い物。午後、文化祭の片付け。モバイルハードディスクをつないで見ると壊れていたと思っていたのに動き出した。もう一つのWiFIハードディスクの方はやはり動かない。宮城谷昌光『管仲』上、p.239まで。


2024年11月4日。月曜日。晴れ。4687歩。71.1kg。5時半に起きる。快晴。朝、草取り。買い物。宮城谷昌光『管仲』上、p.315まで。終わる。午後、一宮へ。夕方草取り。柘植の剪定。血圧高く9時から寝る。


2024年11月5日。火曜日。晴れ。2639歩。69.8kg。3時に起きて再び寝る。6時半に起きる。朝、藤井医院。後午後昼寝。夕方柘植の剪定。篠田達明、『徳川将軍家十五代のカルテ』、新潮新書終わる。『管仲』下」、p.57まで。


2024年11月6日。水曜日。晴れ。3412歩。70.4kg。朝ゴミ出し。セメント工事を久々にする。少しずつ続けないといけない。草取り。買い物。文化財協会の書類整理。せとうちタイムズ原稿送る。『管仲』下」、p.89まで。


2024年11月7日。木曜日。晴れ。3345歩。70.05kg。5時に起きる。14℃。やや寒し。午前午後ともに草取り。セメント工事。峰松神社竹やぶ入口整備。『管仲』下」、p.112まで。


2024年11月8日。金曜日。晴れ。3695歩。70.1kg。5時に起きる。福山で古文書学習会。その前に福山城で図録を買ってくる。夕方、灯油を買いに行く。『管仲』下」、p.135まで。


2024年11月9日。土曜日。晴れ。2486歩。69.9kg。5時に起きる。今日は解読文の入力。昼過ぎに2時間山の草刈り。峰松神社の参道を通れる様にする。『管仲』下」、p.151まで。


2024年11月10日。日曜日。曇り、夜雨。3019歩。70.6kg。5時に起きる。午後、峰松神社参道整備。『管仲』下」、p.187まで。



2024年11月11日。月曜日。晴れ。14309歩。69.7kg。5時半に起きる。8時に出て伯方島遍路1回目。12人。


2024年11月12日。火曜日。晴れ。3439歩。770.7kg。6時に起きる。午後、峰松山登山道整備。『管仲』下」、p.273まで。


2024年11月13日。水曜日。晴れ。2744歩。70.75kg。午後、論語の会。4人。西国33観音。『管仲』下」、p.333まで。終わる。


2024年11月14日。木曜日。晴れ。4331歩。70.1kg。朝から古文書。午後、峰松神社まで。夜、『温故逍遥』の改訂版の編集。


2024年11月15日。金曜日。曇り時々雨。2629歩。70.3kg。9時に出て福山へ。ガソリン。午後、古文書学習会。帰ってはと印刷。支払い。『署往秋収』完成。

団地帰りの自動車の照らすところの懐かしき

この山もあの山も人は減っても秋の装い

やがて縁切る自動車は老後の生活寂しさを増す

ふるさとの愁いを引きて街に住む子らの心を誰か知るらん

住むところ人いなくなり消えてゆく灯火のごとわがふるさとよ


2024年11月16日。土曜日。曇り。3313歩。69.6kg。5時に起きる。朝から古文書入力。午後来客。夜もほとんど入力。


2024年11月17日。日曜日。曇り。少し小雨。4401歩。69.7kg。6時に起きる。古文書入力。少し庭木の選定。


2024年11月18日。月曜日。晴れのち曇り少し小雨。3562歩。69.5kg。5時に起きる。庭木の選定。


2024年11月19日。火曜日。晴れ時々曇り。4165歩。69.8kg。6時に起きる。定例会16人。午後、旅サラダの録画。夜、本の修正。寒いのでストーブを入れる。





読書の記録

11月4

宮城谷昌光『管仲』上、文春文庫

11月5

篠田達明、『徳川将軍家十五代のカルテ』、新潮新書

11月13

宮城谷昌光『管仲』下、文春文庫

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2024年10月17日木曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 381-390回 増補版

 ふるさとの史跡をたずねて(381)

過去七仏 その1(尾道市因島重井町白滝山)

 釈迦三尊像の裏をさらに山頂へ向かうと渦巻き状に配された西国三十三観音についで過去七仏がある。

 十六羅漢や釈迦三尊像に比べれば、いかにも素人の製作だとわかる。しかし、よく見ると十大弟子と似ている。ともに林蔵の寄進である。頂上の阿弥陀三尊像の中央にある阿弥陀仏も林蔵の寄進であるが、こちらは石工の製作であり寄進録には金額が書いてある。十大弟子と過去七仏には金額が書いてない。このことから自分で彫って寄進したと推定できる。

 後に紹介する頂上の美しい常夜灯が尾道石工の寄進である。寄進録には他の石工の金額の隣に書かれてあるが金額は書かれていない。このように現物寄進と金銭寄進のふた通りがあったのだろう。

 さて7人の立像を見ていると複雑な気持ちになる。釈迦が仏教を始めたのではなかったか。7人目を釈迦仏とすると、なぜそれ以前に仏が6人もいるのか?

 イエスや親鸞のように、既にあった宗教世界の傑出した指導者が後に教祖として崇められ、それが本人ではなく信奉者によって新しい宗教(宗派)の開祖とされたのと同様な構図を、仏教世界にも考えればよいということであろうか。

 安藤昌益は「釈迦はインドを仏国と名づけ、過去七仏が国の本を制立したとし、五時教の如来をもって法とした。聖徳太子は、釈迦のこの私法の真似をして、日本を神国と名づけ、国の始めを天神七代が創立したとし、地神五代をもって法としようとしたのである。」と書いている。(中央公論社「日本の名著」19、p.194)

                       (この項つづく)







ふるさとの史跡をたずねて(382)

  

過去七仏 その2(尾道市因島重井町白滝山)


 過去七仏の立っている基台を眺めてみよう。基台を構成する周辺の石には平面的なレリーフ(浮き彫り)が21体彫られている。ユニークな表情とその数には驚くほかない。

 普通、仏画にしても仏像にしても、その元になる話がお経の中にあるのだが、私には思い浮かばない。

 そうすると表情と数の両面から考察すべきであろう。その数の内訳は東(左)に3体、南(背面)に9体、西(右)に3体、北(正面)に6体。合計21体。21人から5人を引くと十六羅漢になる。しかし、誰をその5人とするか難しい。だから羅漢ではないだろうと思う。似たようなものもあるし、明らかに異なるタイプもあり、よく分からない。石工の作品のような細やかさはないから基台とともに林蔵一人の製作だと思われる。

 また十大弟子の基台と同様、台石の下に小枠がある。左側の小枠には2体が中に入っている。

 右側のもう一つの小枠には林蔵の心願が書かれている。

 古来、「文政十丁亥孟春  仏出世而名 一観矣説法 六年焉平常 在作仏念時 乞就席語矣 予又有念故 諾而作五百 余尊爾 柏原林蔵 仏性知 六十一歳 」と読まれている。

 私なりに意訳すると、以下のようになる。「文政十年の正月、伝六さんが来た 悟りを開いて一観と名のり六年在家にあって、いつも仏陀の境地にちかづきたいと修行している。石仏工事の協力を依頼された。仏の道に尽くすことはすばらしいことなので、五百羅漢を作ることを承諾した。 柏原林蔵 仏の心を知りたい 六十一歳 」。

 同じような小枠は山頂の阿弥陀如来像(林蔵の寄進)の下にもあり、三者共自分で基台を作ったのであろうから、まさに林蔵の趣味としか言いようがない。

 



























































           写真・文 柏原林造


➡️ブーメランのように(文学散歩)

2024年10月14日月曜日

(1)重井町資料編

 (1)重井町資料編


地名

 字名と地域

      因島市各町字別略図 因島市農業員会 昭和47年10月11日





2024年10月2日水曜日

夕凪亭閑話 2024年10月

  クリスタルホーム

2024年10月1日。火曜日。晴れ。2589歩。68.4kg。朝5時に起きる。草取り。古文書。宮城谷昌光、『太公望』、文春文庫、p.238まで。


2024年10月2日。水曜日。雨。3123歩。68.9kg。

5時に起きる。草取り少し。雨になる。医師会病院。内科、皮膚科。午後、買い物。せとうちタイムズ原稿書いて送る。 宮城谷昌光、『太公望』、文春文庫、p.309まで。洞窟の仙人から剣術の手ほどきを受ける。オカルトである。


2024年10月3日。木曜日。雨時々曇り。3141歩。67.5kg。5時に起きる。ほとんど古文書。少しだけ雨のやんでいるとき草取り。


2024年10月4日。金曜日。雨のち曇り。1664歩。朝から福山。午後、古文書学習会。『太公望』、文春文庫、pp.367まで。


2024年10月5日。土曜日。晴れ。1664歩。68.7kg。草取り。古文書入力。「暑往秋収」初校帰る。『太公望』、文春文庫、p.389まで。


2024年10月6日。日曜日。晴れ。5014歩。kg。草取り。買い物。古文書入力。『太公望』、文春文庫、p.490まで。終わる。


2024年10月7日。月曜日。雨。2849歩。4時に起きる。10時より文化財協会役員会。秋一泊旅行中止を決定。古文書入力。午後、旅行代金返金に田熊へ。『太公望』中、p.59まで。


2024年10月8日。火曜日。小雨時々曇り。3492歩。69.5kg。4時に起きる。朝少し草取り。古文書入力。『太公望』中、p.132まで。


2024年10月9日。水曜日。晴れ一時雨。6034歩。70.5kg。5時に起きる。朝少し草取り。買い物。午後、論語の会。四人。夢二、日本住血吸虫。古文書入力。夜、タイムズ原稿送る。


2024年10月10日。木曜日。晴れ。4298歩。71.05kg。4時に起きる。朝少し草取り。古文書入力完了送る。朝来客。秋日和。『太公望』中、p.139まで。


2024年10月11日。金曜日。晴れ。5396歩。71kg。4時に起きる。再び寝る。草取り。午後、散髪。校正、表紙裏表紙の写真検討。『太公望』中、p.166まで。


2024年10月12日。土曜日。晴れ。5019歩。70.4kg。5時に起きる。朝、草取り。初校と言っても、付録の隙間をどうしようかと考える。結局見開き2ページを使って横位置にして道路を色分けした明治43年の地図を掲載するのが良いのではないかと思う。『太公望』中、p.294まで。風呂上がりに小林秀雄を出して読んでみる。面白いのだが、若い日ほどの感激と興奮がないのが寂しい。裏日の家の金木犀が匂う。西には金星が白く輝く。


2024年10月13日。日曜日。晴れ。4789歩。69.5kg。6時に起きる。朝、2時間草取り。買い物。夕方、藤の剪定。古文書。『太公望』中、p.297まで。


2024年10月14日。月曜日。スポーツの日。晴れ。12377歩。70.3kg。4時半に起きる。7時半に出て大島遍路11名。『太公望』中、p.303まで。


2024年10月15日。火曜日。晴れ。3120歩。70.5kg。5時に起きる。9時より定例会。17人。『太公望』中、p.353まで。


2024年10月16日。水曜日。晴れ。3810歩。70.3kg。6時に起きる。朝、草取り。10時半から文学散歩。6人。のち買い物。『太公望』中、p.370まで。


2024年10月17日。木曜日。晴れ。4887歩。69.5kg。6時に起きる。朝、草取り。午後、古文書。郵便局に行き、東浜の写真撮影。海はいい。夕方フジの剪定。夜、少し暑い。『太公望』中、p.401まで。


2024年10月18日。金曜日。晴れ。1536歩。

時に起きる。9時に出て福山へ。午後、古文書学習会。夜、解読文入力。『太公望』中、p.431まで。


2024年10月19日。土曜日。雨。2206歩。

時に起きる。『太公望』中、p.497まで。終わる。初校。『太公望』下、p.33まで。


2024年10月20日。日曜日。晴れ。4009歩。69.3kg。5時に起きる。朝、草取り。買い物。初校。夕がた、ふじの剪定。『太公望』下、p.66まで。


2024年10月21日。月曜日。晴れ。2409歩。70.05kg。5時半に起きる。少し寒い。一日中初校。ほぼ終わる。『太公望』下、p.71まで。


2024年10月22日。火曜日。晴れのち雨。2980歩。69.4kg。5時半に起きる。朝、買い物。帰って初校をはと印刷へ出す。午後、来客。『太公望』下、p.145まで。


2024年10月23日。水曜日。雨のち晴れ。4149歩。69.5kg。5時半に起きる。朝、8時出発ミニツアー10人。矢掛本陣、鴨方天文台。『太公望』下、p.178まで。


2024年10月24日。木曜日。晴れ。3771歩。69.9kg。kg。5時半に起きる。9時から11時まで草取り。夕方藤の剪定。2校帰る。『太公望』下、p.203まで。


2024年10月25日。金曜日。雨のち晴れ。2372歩。kg。5時半に起きる。9時に出て福山へ。午後古文書学習会。選挙。夜、解読文入力。『太公望』下、p.215まで。


2024年10月26日。土曜日。雨のち曇り。2377歩。70.0kg。4時半に起きる。入力。終わる。午後来客。夕方、藤の剪定。『太公望』下、p.249まで。


2024年10月27日。日曜日。曇り時々雨。3997歩。70.0kg。5時に起きる。『太公望』下、p.284まで。


2024年10月28日。月曜日。雨のち曇り。5897歩。70.3kg。5時半に起きる。9時から大島遍路13人。結願昼食会。帰りに瀬戸田へ。朝、2校出す。『太公望』下、p.302まで。


2024年10月29日。火曜日。曇り時々小雨。2208歩。70.4kg。4時に起きる。朝、3校届く。すぐに提出1箇所修正のうえ印刷依頼。『太公望』下、p.391まで。


2024年10月30日。水曜日。雨のち曇り。2910歩。70.3kg。4時に起きる。8時半から医師会病院。皮膚科ほぼ終わる。買い物。昼寝。『太公望』下、p.313まで。終わる。引き続き『管仲』上、文春文庫読み始める。p.51まで。


2024年10月31日。水曜日。曇り。4742歩。70.6kg。5時半に起きる。ゴミ出し。午前午後と草取り。『管仲』上、p.100まで。



10月6日

 宮城谷昌光、『太公望』上、文春文庫

10月19日

 宮城谷昌光、『太公望』中、文春文庫

10月30日

 宮城谷昌光、『太公望』下、文春文庫





 クリスタルホーム

2024年9月1日日曜日

夕凪亭閑話 2024年9月

  クリスタルホーム

2024年9月1日。日曜日。晴れ。3123歩。67.9kg。4時に起きる。5時半ごろから草取り。9時に買い物。今日はポルノグラフィティのコンサートが運動公園である。朝から音楽が聞こえてきてお祭りのよう。みんな沈みつつある船に乗っているのに、今日だけはそのことを忘れる。


2024年9月2日。月曜日。晴れ。4135歩。68.2kg。5時半から畑の整備。朝食を挟んで8時過ぎまで。10時から公民館で役員会。古文書。夕方、姉を見舞う。


2024年9月3日。火曜日。晴れ。朝ちょっと雨。3329歩。68.2kg。4時半に起きる。5時20分から昨日に続いて畑の整備。大根の種をまく。車のタイヤ交換とエンジンオイル交換依頼。夕方取りに行く。古文書。冊子準備。もう少し集中しないといけないと思うが、今一つ乗らない。10日は最初の原稿を持って行こうと思う。やっと朝夕が涼しくなったという感じ。でも日中はやや暑い。平穏で不満はないが、やはり10年後、20年後の因島のことを思うと、やはり、存在していないと思った方がいい。もちろん私が行きていて生活できないというわけではない。そうなる前に私はとっくに死んでいるのだから、別に考えなくてもいいではないかと言われれば、全くその通りである。しかし、それでも、それは現在に生きている我々の責任である。しかし、そうなるのはわかっていても誰も対策を打てないのだから、結局は誰の責任でもなかった、成るようにしかならなかった、と済まされてしまう。池田勇人の王土経済成長は政治として評価できる。貧しい農村社会であった日本が工業国になり一応文明国、先進国になったのだからその時代を生きてきた自分は幸せだったと思う。そして政治家と官僚はよくやったと評価していいと思う。そのように評価した上で、なおそれでもこれで良かったのだろうかと思う。貧しい社会の方が長続きをしていたと思う。それが急激に良い方向に進んで限界に達したと言うべきかもしれない。


2024年9月4日。水曜日。晴れ。3768歩。68.1kg。朝、5時半から草取り。9時から買い物。古文書。瀬戸内タイムズ原稿送る。夜、公民館で文化祭実行委員会。


2024年9月5日。木曜日。晴れ。2308歩。68.8kg。朝、5時半から草取り。午後からクーラーを入れる。冊子の編集。古文書。


2024年9月6日。金曜日。晴れ。2583歩。9時に出て福山へ。午後、古文書学習会。夜、入力。


2024年9月7日。土曜日。晴れ。2913歩。朝m5時におきて草取り。古文書入力。夜一部送る。


2024年9月8日。日曜日。晴れ。3118歩。67.8kg。買い物。古文書入力。午前午後、来客。宮城谷昌光『楽毅』第3巻、新潮文庫、終わる。


2024年9月9日。月曜日。晴れ。2430歩。68.2kg。4時半に起きる。5時半から朝食を挟んで8時まで草取り。大根の種を少し蒔く。古文書。昼前、来客。日中は暑いが5時過ぎになって日が沈み始めると急に気温が下がる。


2024年9月10日。火曜日。晴れ。4235歩。67.8kg。4時半に起きる。5時半から朝食を挟んで7時まで草取り。8時から旅行の受付。午後郵便局。古文書。


2024年9月11日。水曜日。晴れ。3693歩。68.05kg。4時半に起きる。5時半から6時半まで草取り。暑いので朝食後は草取りはしない。買い物。午後、論語を読む会。巻幡氏と重井藤井氏の歴史。夜、瀬戸内タイムズ原稿送る。


2024年9月12日。木曜日。晴れ。3328歩。68.8kg。4時に起きる。5時半から草取り。1時間ほどして朝食。その後暑いのでやめる。古文書。夕方姉の見舞い。帰りにジュンテンドーでセメントと砂を買って帰る。


2024年9月13日。金曜日。晴れ。2350歩。朝から福山。午後、古文書学習会。井原墓参。古文書入力。


2024年9月14日。土曜日。晴れ。3575歩。68.2kg。4時に起きる。古文書。入力。


2024年9月15日。日曜日。晴れ。2528歩。68.6kg。4時に起きる。5時半から野菜へ水やり。墓参。9時から買い物。古文書入力。朝夕は少し気温が下がるが日中は暑い。予報の雨は降らなかった。


2024年9月16日。月曜日。晴れ。1470歩。69.2kg。4時に起きる。5時半から野菜へ水やり。古文書。今日も猛暑。


2024年9月17日。火曜日。晴れ。2466歩。68.2kg。5時に起きる。5時半から野菜へ水やり。朝、定例会17人。今日も猛暑。古文書。


2024年9月18日。水曜日。晴れ。3408歩。68.7kg。5時に起きる。5時半から野菜へ水やり。朝食後、セメント工事。草取り。10時半から文学散歩5人。のち、買い物。せとうちタイムズ原稿書いて送る。夜、公民館で小中学校統合説明会。9時すぎまで。古文書。


2024年9月19日。木曜日。晴れ。4039歩。67.6kg。5時に起きる。5時半から野菜へ水やり。朝食後、セメント工事。草取り。歩いてゴミ捨て。冊子原稿整理。明日には本文写真を印刷所へ持って行きたい。夕方セメント工事。夜、古文書。


2024年9月20日。金曜日。晴れ。3802歩。67.9kg。4時に起きて5時半から水やり。草取り。朝食後セメント工事。冊子編集。


2024年9月21日。土曜日。晴れ。2319歩。68.4kg。5時半から水やり。今日も冊子の準備。少し古文書。


2024年9月22日。日曜日。曇り時々雨。4091歩。68.4kg。5時半から水やり。草取り。買い物。今日も冊子の準備。古文書少し。夕方、姉を見舞う。


2024年9月23日。月曜日。晴れ。2681歩。68.4kg。5時半から水やり。草取り。冊子の準備。写真のトリミング。残り10枚。涼しくなった。夕方金星が綺麗。


2024年9月24日。火曜日。晴れ。3531歩。68.4kg。5時に起きる。水やりだけ。今日は原稿提出に向けて集中。昼前、目次、本文、本文写真の原稿を提出。午後、古文書。


2024年9月25日。水曜日。晴れ。3314歩。68.8kg。5時に起きる。5時半から水やり。9時から買い物。帰って藤井医院。午後昼寝。夜、せとうちタイムズ原稿送る。宮城谷昌光『楽毅』第4巻、新潮文庫終わる。引き続き『太公望』、上巻、文春文庫へ入る。p.23まで。


2024年9月26日。木曜日。晴れ。2441歩。68.6kg。5時に起きる。5時半から水やり。食事、ゴミ捨てを含め8時15分まで草取り。公民館だより原稿送る。『太公望』、上巻、p.85まで。


2024年9月27日。金曜日。晴れ。3558歩。5時に起きる。6時前に水やり。朝、福山へ。午後、福山城へ。展示替えのため休館。1時より古文書学習会。夜、解読文入力。『太公望』、上巻、p.116まで。子供達だけの逃避行は天童荒太さんの『永遠の仔』を思い出した。さて、いつものことながら初対面で相手の長所を見つけるのはこれまでに読んだのと同じである。実際にはこういうことはまずあり得ないのだが、小説の中では主人公同士の長所を読者に与え、それがまた生きる目標や、作者の主張につながり、読者にはわかりやすい。だから複雑な人間関係が時についていけなくても小説は面白く読める。


2024年9月28日。土曜日。晴れ。3638歩。5時に起きる。水やり。古文書。朝、午後来客。夕方、草取り。『太公望』、上巻、p.160まで。


2024年9月29日。日曜日。晴れ。4246歩。68.9kg5時に起きる。朝食後草取り。9時から買い物。午後、古文書入力。昼寝。夕方鯉の餌を買いにいき、ついでに灯油も買ってくる。夕方も草取り。『太公望』、上巻、p.194まで。古文書入力。


2024年9月30日。日曜日。晴れ。3430歩。68.9kg5時に起きる。朝食後草取り。9時半まで。古文書入力。夕方終え送る。夕方も草取り。『太公望』、上巻、p.225まで。古文書入力。







読書の記録

9月8日

宮城谷昌光『楽毅』第3巻、新潮文庫

9月25

宮城谷昌光『楽毅』第4巻、新潮文庫

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2024年8月7日水曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 371-380回 増補版

 



ふるさとの史跡をたずねて(371)

 法華塔(尾道市因島重井町郷善興寺)

 曹洞宗の禅宗寺院である重井町の善興寺の参道に、曹洞宗の開祖道元禅師のお言葉でなく、「観音経」の語句が参拝者がまず目にする位置に掲げられていることは、ある種の驚異である。なぜならば道元禅師には著作物がなかったかというと、全くその逆であって『正法眼蔵』という百巻にも及ぶ膨大な著作が残されていて、それは我が国の宗教史・哲学史を代表する極めて優れたものなのであるから。

 そんなことを考えて境内に上がると、さらに驚くべきことに、そこには法華塔があった。法華塔は『法華経』を供養する塔である。あの、「南無妙法蓮華経」の『法華経』である。『正法眼蔵』の供養塔ではなく、『法華経』なのである。ならば善興寺は元日蓮宗寺院だったのかというと、そんな話はどこにも書いていない。

 大雑把に割り切って考えれば、道元禅師よりも『法華経』の方が大切だということになる。

 道元だけでなく、法然、親鸞、日蓮など鎌倉新仏教の開祖たちが学んだ比叡山延暦寺が、中国の天台智顗が『法華経』を基に確立した天台宗の道場であったことを考えれば、『法華経』が重んじられるのは当然のことである。

 さて、「観音経」はそのようなお経があるのではなく、『法華経』の第25章「観世音菩薩普門品」のことである。あるいは略して後半の詩の部分(偈と呼ばれる)だけがよく唱えられる。

 だから、200年ほど前に重井村の柏原伝六が白滝山に観音信仰の霊場を作ったからと言って、曹洞宗に反旗を翻したわけではなく、表面的には曹洞宗の熱心な在家信者だった、ということになる。








ふるさとの史跡をたずねて(372)

観音菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂の最高部に阿弥陀三尊像があることは、白滝山が西方極楽浄土をイメージしたものであると思って間違いなかろう。阿弥陀如来の左側、すなわち向かって右側(西側)は観音菩薩像である。

 白滝山の観音霊場の開祖柏原伝六は両親が西国巡礼で祈願して生まれたということから、自分は観音菩薩の生まれ代りだと信じ、「観音道一観」と名乗った。それにちなんで、伝六は仏教、儒教、神道、さらに人によってはキリスト教まで加えて新しい宗教「一観教」を作ったと書く人がいる。それが意味のない言説であることは以前にも書いた。

 伝六の教養はキリスト教でなく、むしろ道教を加えるのが良いと私は思う。しかし、これらを折衷して新しい思想なり宗教を生み出すには相当強靭な思考力を要する。単純なところだけを折衷して提示すれば大衆受けはするかもしれないが、二宮尊徳や石門心学の石田梅岩のように道徳家か啓蒙家になるだろう。

 また、キリスト教や仏教がそれぞれイエス、シャカ個人によって作られたと思っている人が多いが、そうではなく弟子たちの創作であった。同様に「一観教」なるものがあったとしたら、それは弟子たちの創作であった可能性の方が高い。

 さらに鎌倉新仏教を起こした高僧は、仏教の総合大学に喩えられる比叡山延暦寺を相当に優秀な成績で卒業しながら、道元は座禅に、法然は浄土三部経に、親鸞はさらに悪人正機に、日蓮は「法華経」にという具合に特化している。

 このように足し算でなく引き算で、そして弟子の観点から、「一観教」を主張する人たちには「一観教」とはどんな宗教なのか再考していただきたい。

 その際、伝六が観音菩薩の生まれ代わりであること、すなわち阿弥陀三尊像の左脇侍の観音菩薩が伝六であると信じる宗教であることは欠かせないと、私は思う。









ふるさとの史跡をたずねて(373)

一観像(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂の最高部の阿弥陀三尊像の前、すなわち少し下には一観夫妻像があり、当然の事ながらそのまん中に一観像、すなわち柏原伝六の座像がある。そして、その大きさは阿弥陀如来の隣の観音菩薩像よりも、はるかに大きい。

 伝六の寄進と書いてあるが、このようなものを伝六自身が生存中に作ることは、まずありえないから、伝六の子供によって建立されたものであろう。

 しかしこれでは、白滝山が観音信仰の山でなく伝六信仰の山になってしまう。そして前回記した、阿弥陀如来の隣の観音菩薩が伝六その人であるという考え方を否定することになる。すなわち「観音道一観」という伝六の宣言をも無にしてしまう。まさに親の心子知らず、ということだ。

 重井幼稚園のクリスマス劇の知識の上に、イエスがキリスト教を作り、布教したので十字架刑にあったという誤解のイメージで、伝六が一観教を作り、広島藩によって毒殺されたという妄想が生じたのだと私は思う。だからキリスト教を例にして考えてみよう。

 イエスの母マリアがイエスを身ごもった時処女であったということは、科学的問題でもなければ医学的問題でもなかった。信じるか信じないかだけの問題であった。そして、多くの人が、それも世界中の多くの人が信じた。その結果、キリスト教は世界宗教になった。

 一観教が成立するためには、伝六が観音菩薩の生まれ代り、すなわち伝六が観音菩薩であると信じることが必要であった、と私は思う。上記の2つの像の関係を、伝六が一観教を作ったと思う人たちはどう考えるのだろうか。説明してほしいものである。







ふるさとの史跡をたずねて(374)

日本大小神祇(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山山頂から東側へ少し下がったところに将棋の駒のように先が尖った岩があり「日本大小神祇」と書かれてる。台座には「奉寄進」と両はしに「柏原」「林蔵」と彫られている。

 白滝山五百羅漢の開祖柏原伝六が、仏教・儒教・神道、それに人によってはキリスト教まで合わせて「一観教」なる新しい宗教を作ったと言う言説が妄説に過ぎないことは度々書いてきた。

 その妄説の観点に立てば、この「日本大小神祇」は神道的要素だと思う人がいるかもしれない。しかし、間違ってはいけない。「神道的要素」どころか、神道そのものではないか。

 だから、この「日本大小神祇」を「一観教」の一部と考えるならば、「一観教」は新しい宗教ではなく仏教と神道を単に折衷したものに過ぎないと言うことになる。新しい宗教というには新しい概念を「日本大小神祇」に盛り込まなければならないが、そんなものは聞いたことがない。

 江戸時代の民衆の当たり前のことを、東側、すなわち伊勢神宮の方を拝んで、日本の大小の様々な神を敬うことで示した。台石に刻まれている様に柏原林蔵が寄進した。注意すべきは林蔵は伝六から依頼された工事責任者であった。すなわち寄付する側ではなく寄付を集める側の人だったということである。実際の経理は林蔵の家のすぐ前に住む峰松初五郎がした。彼は林蔵と違い伝六よりも若く、いわば弟子であった。

 だから、我々は神道を否定しているわけではないから、まあこういうのも一緒に拝もうと、単なる善意から建てた、と私は思う。

 ただ不思議なことに、春分の日の太陽は日本大小神祇と一観像を結ぶ直線上を通る。すなわち、日本大小神祇の背後から日没を見ると、中心と一観像の真ん中、左端と一観像の背がピッタリと重なる。

 伝六の向きから私は宗教的なものとは考えない。伝六が直角方向を向いていることに宗教的な意義があると説明できる方がいらっしゃれば、ぜひご教示願いたい。



ふるさとの史跡をたずねて(375)


十六羅漢(尾道市因島重井町白滝山)

 仏教の世界は平等社会かと思っていたら、如来、菩薩、羅漢という厳然たる差別がある。そのせいか各宗派の組織においても、名称は異なるものの各階層があり、より上位を目指す意志と究極の目標である「悟り」との関係は門外漢には理解しがたい。

 さて白滝山の石仏群とその場所は、昔から「白滝山五百羅漢」と呼ばれ、「伝六浄土」とか「白滝山観音霊場」などど呼ばれたことはない。「白滝山如来」でも「白滝山菩薩」ではないところに深い意義があるのであろう。

 しかし、十六羅漢は釈迦三尊像の前に8人が向かいあっているが、他の484名はどれかわからない。

 二八尊者と言って、偉人の石仏を28になるよう列挙した人がいた。三五夜が35夜の月が無いのと同様、白滝山の石仏には28名も著名な方はいない。

 また、例の千手観音の持物を十字架だと言う妄想に上乗せして、羅漢像のいくつかを異国の宣教師だと妄想された方がいた。別に「仏像鑑賞の手引き」を述べるつもりはないが、そういう妄想を抱かないために、羅漢像の表情にはエキゾチックなものが多い、と書いておこう。

 さらに、これが一番重要なものだが、羅漢は修行僧のイメージに合うのか禅宗と相性がよく、曹洞宗禅寺の多くは、ご本尊の左右の天井に近い棚に羅漢像を安置しているところが多い。重井村には曹洞宗善興寺があり、白滝山が善興寺に反旗を翻がえしたのではないことがわかる。

 さて、多弁を弄したが、十六羅漢をよく見て欲しい。一つ一つが実に丁寧に個性的に彫られており、まさに尾道石工の芸術家魂の競作となっている。向かって左側(東側)は一度崩落して持ち上げたのか、順番が違っているが、8番まである。









ふるさとの史跡をたずねて(376)


十大弟子(尾道市因島重井町白滝山)

 十六羅漢の次は十大弟子ということになる。なぜか。よくセットで語られるからである。それ以上に白滝山では十六羅漢の隣にあるからである。

 しかし、知名度では格段に十六羅漢より劣る。そして全国には羅漢寺と呼ばれるものがあるほど羅漢さんは前回記したように曹洞宗寺院を中心にある程度ポピュラーなものである。しかし、十大弟子がここにあるということは、像や配置が何を手本にしたのかということを含めて謎である。

 謎といえば「十字架」「一観教」「毒殺説」「恋し岩」を思い浮かべる人が多いと思うが、これらは謎ではく妄説と創作に過ぎない。むしろこれらが50年以上に渡って書かれ続けられていることの方が謎である。

(ただし、「恋し岩」は元は観音石でそんなに長く語られてはない。)

 中央の石組みで高く造られたところに釈迦三尊像があり、それを取り巻くように四隅に四天王が立つ。ここまでは写真集などで見ることもできる。だが、その両側に十大弟子の立像を5人ずつ配置するというのは、全く独創的なものか、それとも他に手本があったのかわからない。あったとしても出版物も旅行も現代とは比べものにならない200年ぐらい前の話なのであり参考にするのは稀であったと思う。

 実はさらにその両端からコの字形に8人ずつの十六羅漢像が内側を向いて立っているのである。そして気になるのは、釈迦三尊像、四天王、並びにその基台と十六羅漢像の見事な尾道石工よる完成度の高さに対して、十大弟子とその基台、そして十六羅漢の基台の素人っぽい仕上がりの開きである。後者は林蔵が作ったものであろうが、彼と尾道石工の関係が悪く不干渉であったというのならわかるが、仁王像のところで述べたように悪い関係ではなかったはずである。アドバイスはしても、その素人ぽさは残すという尾道石工のちょっと理解しがたい「寛容さ」の結果なのかもしれない。





ふるさとの史跡をたずねて(377)


十大弟子基台(尾道市因島重井町白滝山)

 十大弟子が設置されている石の台のことである。その左側の5人の台石の下に小枠があり、その中に寄進者林蔵が自ら記した文字がある。現存する白滝山関係文書の中には、白滝山石仏群の由来を記したものはないので、短文ながらはなはだ貴重なものと思われる。

 文字は右から左へ縦書きで次のように記されている。空白は改行である。「吾郷居士一観 者世興以修善 而自利自他人 所知識矣又 相値其勝因 願而造立於二 八尊者五百聖 者永今人住一 念不退地爾 六十一歳発願六 十四歳願成就 柏原林蔵」

 あまりに短すぎて理解に苦しむが、およそ次のように解釈できる。

 我が郷土の一観居士は善を修めることによって人の世を豊かにしようとした。自分や他人がもつ知識を増やし、それが世を興す元になるよう、十六羅漢、五百羅漢像を造ることを61歳で発願し64歳で達成した。

 やはり、十六羅漢を含む五百羅漢を造ることが目的で成就した、ということである。また、伝六の真意は善を修めることで世を興すことであった、というのが林蔵の解釈である。

 また、「一念不退地」というのは羅漢像を造ることを願ってから一度も山から降りなかった、ということを記していると思う。

 この文だけから考えると「白滝山五百羅漢」と呼ばれるのが間違ってなく、伝六の最大のねらいが「善を修めて世を興す」ということであったことであろう。この文字が書かれた時には既に伝六は亡くなっている。だからその後伝六の思想が発展したということはありえない。もしそれ以上の主願が伝六にあったとしたら、それは後人の考えたことであろう。








ふるさとの史跡をたずねて(378)

普賢菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)

 左右5人ずつの十大弟子に囲まれて釈迦三尊像があり、向かって左(東)側が普賢菩薩である。

 島原半島の噴火で有名な雲仙岳の主峰普賢岳の名から、いかにも力強い菩薩が想像されるが、漢字を素直に読めば、普(あまね)く賢いということである。

 それでも石像をよく見れば象の上に乗っているので、勇ましく見える。釈迦三尊像は普通、反対側に文殊菩薩を配しており、二人とも智者で、釈迦の次に悟るという解釈になる。ということでこの配置は珍しいものではなく定型に従ったと思ってもよいようだ。

 もちろん、象に乗り、また周囲に四天王を配するのも、同様である。象については『法華経』の最後の章「普賢菩薩観発品第二十八」に「この経を読誦せば、われはその時、六牙の白象王に乗り・・」とある。もちろん石仏であるので、ここでは白く見えないが仕方がない。

 像の下の台座には11名の寄進者の名前が彫られている。文政十年の寄進帳からその名を写すと。「八良兵衛、多門、吉蔵、三郎兵衛、重兵衛、増五郎、三四郎、初五郎、向田村新兵衛、同源吉、同熊八」で、合計730匁と記されている。向田村は佐木島である。村名を書いてない8名は重井村である。

 銀1匁を4000円とすれば約300万円である。設置場所のことはひとまず考えないとして、300万円で作ってもらえるだろうか?







ふるさとの史跡をたずねて(379)


文殊菩薩像(尾道市因島重井町白滝山)

 釈迦三尊像の向かって右(西)側が文殊菩薩である。文殊菩薩は普賢菩薩よりはるかに有名で「3人寄れば文殊の知恵」と言って、子供でも知っている。その人気の凄さは例えば天の橋立に行っても、何を見に行ったのかと疑うほどの盛況ぶりである。親は子に「知恵の神様だから」とか「知恵の観音様だから」しっかり拝んでおきなさい、というような変な日本語で説明する。それでも、見向きもせずに通りすぎるよりは、良しとしておこう。

 普賢菩薩は象に乗っていたが文殊菩薩は獅子である。200年の時差を考えることは難しい。何が難しいかと言うと、200年前の人たちは象も獅子も見たことがなかった、と言うことを理解するのが難しい。それでも尾道石工たちは作らねばならない。どこどこへ行って見て来い!と親方に言われて・・と言うよりも、誰かが入手した薄墨のスケッチを手本に想像力で補ったと、私は思う。

 象の方は鼻を少し長くしておけば(あまり長くすると折れる)済むが、獅子の場合は難しい。イノシシをイメージすれば百獣の王に笑われる。屏風絵などで唐獅子ぐらいは見ていたかもしれない。今でこそ獅子と言えばライオンであるがインドや中国にライオンはいなかっただろうから、これは想像上の動物である。

 獅子の載っている台座には伝六を含む16名の寄付者の名前が彫られている。文政十年の寄進帳によると、「又三郎、長八、勘助、清三郎、藤四郎、有助、直吉、虎八、理八、増五郎、辰次郎、與左ヱ門、傳六、向田村信兵衛、向田村源吉、同熊八」で、合計730匁と記されている。文殊菩薩と同額である。


ふるさとの史跡をたずねて(380)

四天王(尾道市因島重井町白滝山)

 徳川四天王というのは酒井、本多、榊原、井伊の四武将を言うようだが4という数字は東西南北の四方を守るのが戦の原則だろうから戦国武将を呼ぶのに無理がない。釈迦三尊像の四囲を囲む四天王も武具を持ったりして戦いのイメージがつきまとうが、間違ってならないのは釈迦、普賢、文殊の三人を守るのではないということである。

 三人が据えられているところを須弥壇と呼ぶがこれは須弥山に因む。須弥山の四囲に配置して国家を守るのが四天王である。これが須弥壇の周囲に来た訳である。

 しかし、こうして釈迦三尊像を取り囲む四天王を見ていると、三人寄れば文殊の知恵どころか、四人揃えば鬼に金棒と言った安心感がある。またその安心感を見る人に与えなければ単なる石像に過ぎない。このような観点から見れば、この白滝山の四天王は誠にありがたい。参拝者の一番大切なものをきっと守ってくれるであろう。あれも好き、これも大事と一番大切なものなどいつもは考えないことを、意識するのも宗教に向きある心のあり方の一つである。

 ・・・こう書くと、その四人の守り人の紹介など蛇足に過ぎないが書いておこう。東が持国天、南が増長天、西が広目天、北が多聞天である。なお、多聞天だけを飾る時は毘沙門天となる。







           写真・文 柏原林造


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