ふるさとの史跡をたずねて(381)
過去七仏 その1(尾道市因島重井町白滝山)
釈迦三尊像の裏をさらに山頂へ向かうと渦巻き状に配された西国三十三観音についで過去七仏がある。
十六羅漢や釈迦三尊像に比べれば、いかにも素人の製作だとわかる。しかし、よく見ると十大弟子と似ている。ともに林蔵の寄進である。頂上の阿弥陀三尊像の中央にある阿弥陀仏も林蔵の寄進であるが、こちらは石工の製作であり寄進録には金額が書いてある。十大弟子と過去七仏には金額が書いてない。このことから自分で彫って寄進したと推定できる。
後に紹介する頂上の美しい常夜灯が尾道石工の寄進である。寄進録には他の石工の金額の隣に書かれてあるが金額は書かれていない。このように現物寄進と金銭寄進のふた通りがあったのだろう。
さて7人の立像を見ていると複雑な気持ちになる。釈迦が仏教を始めたのではなかったか。7人目を釈迦仏とすると、なぜそれ以前に仏が6人もいるのか?
イエスや親鸞のように、既にあった宗教世界の傑出した指導者が後に教祖として崇められ、それが本人ではなく信奉者によって新しい宗教(宗派)の開祖とされたのと同様な構図を、仏教世界にも考えればよいということであろうか。
安藤昌益は「釈迦はインドを仏国と名づけ、過去七仏が国の本を制立したとし、五時教の如来をもって法とした。聖徳太子は、釈迦のこの私法の真似をして、日本を神国と名づけ、国の始めを天神七代が創立したとし、地神五代をもって法としようとしたのである。」と書いている。(中央公論社「日本の名著」19、p.194)
(この項つづく)
ふるさとの史跡をたずねて(382)
過去七仏 その2(尾道市因島重井町白滝山)
過去七仏の立っている基台を眺めてみよう。基台を構成する周辺の石には平面的なレリーフ(浮き彫り)が21体彫られている。ユニークな表情とその数には驚くほかない。
普通、仏画にしても仏像にしても、その元になる話がお経の中にあるのだが、私には思い浮かばない。
そうすると表情と数の両面から考察すべきであろう。その数の内訳は東(左)に3体、南(背面)に9体、西(右)に3体、北(正面)に6体。合計21体。21人から5人を引くと十六羅漢になる。しかし、誰をその5人とするか難しい。だから羅漢ではないだろうと思う。似たようなものもあるし、明らかに異なるタイプもあり、よく分からない。石工の作品のような細やかさはないから基台とともに林蔵一人の製作だと思われる。
また十大弟子の基台と同様、台石の下に小枠がある。左側の小枠には2体が中に入っている。
右側のもう一つの小枠には林蔵の心願が書かれている。
古来、「文政十丁亥孟春 仏出世而名 一観矣説法 六年焉平常 在作仏念時 乞就席語矣 予又有念故 諾而作五百 余尊爾 柏原林蔵 仏性知 六十一歳 」と読まれている。
私なりに意訳すると、以下のようになる。「文政十年の正月、伝六さんが来た 悟りを開いて一観と名のり六年在家にあって、いつも仏陀の境地にちかづきたいと修行している。石仏工事の協力を依頼された。仏の道に尽くすことはすばらしいことなので、五百羅漢を作ることを承諾した。 柏原林蔵 仏の心を知りたい 六十一歳 」。
同じような小枠は山頂の阿弥陀如来像(林蔵の寄進)の下にもあり、三者共自分で基台を作ったのであろうから、まさに林蔵の趣味としか言いようがない。
ふるさとの史跡をたずねて(383)
石灯篭 その1(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山山頂の展望台の登り口の前、東側に優美な石灯篭がある。眺望もまことに素晴らしく、目に入る島や山の名前を書いていたらきりがないので、因島大橋やめかりの瀬戸、備後灘、燧灘が一望できる、と書くに留める。
だから、夜間この灯篭に灯を燈せば、格好の目印になって灯台の代わりのような役目を果たす、と誰しも思うだろう。しかし、灯を燈したような跡はなく、一度もそのように使われたことはなかったことがわかる。すなわち飾りなのだ。しかし、それには深い意味がある。
例えば宮島の弥山や、おそらく四国の12番焼山寺もそうだと思うが、終日火を絶やさぬという山岳宗教の道場があったところで、海から見えるところは近代の灯台ができるはるか以前からそのような役割をしたという歴史を踏まえたものであろう。
蛇足ながら、広島市平和公園の平和の灯(ともしび)は、その火種の一つに弥山の灯が使われ、恒久平和実現の日まで灯し続けられるという別の意義が生じている。
また、全国に観音崎という地名が多いように観音菩薩のご利益に水難防止がある。上記の歴史を考えれば、ここに灯台代わりの石灯篭を建てると、白滝山が観音崎になる。そして、目に入る限りの海域に水難防止のご利益を及ぼすことであろう。
それは観音道一観と名乗った伝六の発起になる白滝山五百羅漢という観音霊場にとっても有意義なことであった。「念彼観音力 波浪不能没」(「観音経」)なのである。
(この項つづく)
ふるさとの史跡をたずねて(384)
石灯篭 その2(尾道市因島重井町白滝山)
この優美な石灯篭の北面には大きく「奉寄進」(寄進たてまつる)と彫られている。その左隣(東側)に、「尾道石工 定兵衛」とある。逆に右側(西側)には「文政十三庚寅年四月吉祥日」とある。
これが事実で、それ以上のことはわからない。しかし、寄付録には、尾道町として、明らかに尾道石工だと思われる6名と金額が書いてあり、その次に「いしどうろ 貞兵衛」とある。この程度の字の違いはよくあることなので、このことだと思う。そして灯篭に記された日付は、白滝山五百羅漢がほぼ完成した頃になる。
さて、以上のことをどのように解釈するか? 定(貞)兵衛さんは白滝山石仏工事に関わり、他の石工たちがお金を寄付したのに対し、作品を以って寄付をしたのであろうか? それとも石仏工事には関係しなかったが、完成後見学を兼ねて参拝に訪れ、感激して入魂の自作品を奉納したのであろうか?
他の石仏が多すぎで目立たないが、さまざまな思いを巡らせたくなる一流品である。
以前春分の日の日没が「日本大小神祇」と「一観像」と一直線になると書いた。そこで私は冬至の日の夕日は「日本大小神祇」とこの石灯篭が一直線になるだろうと推定して待ったのであるが、残念ながら期待とは異なった。
ふるさとの史跡をたずねて(385)
子授観音(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山五百羅漢の参道は色々ある。もちろんどこの山でも地元の人たちだけが通る小道が方々にあるように、白滝山にも裏の方や鐘楼の下の方から登る道もある。しかし、ここでは一般的な参道だけを記す。本来の表参道というのは重井町東浜の桟橋からと言うことになろうが、桟橋の位置は時代とともに変わるので、重井郵便局の隣から記すことにしよう。
ここから青木道を通って川口大師堂(島四国84番屋島寺)の下を通る。あとは山の方を向いて道なりに進めばよい。途中、因島ペンション白滝山荘の前を通ってから山道になる。仁王門の上で二つに別れ、合流したあと再び「一丁」のところで別れる。左が裏参道で右が表参道である。注意すれば、塩竃神社(以下、塩釜神社と記す)のところで両道は通じている。表参道から塩釜神社を通って裏参道へ行くのが元の表参道だったと思う。現在の表参道の山門下の石段を見れば、これが五百羅漢完成の時のものでないことがわかるだろう。後に作られたものであろう。
裏参道の塩釜神社から上に磨崖仏が2つある。上の方の観音堂の下あたりに、子授観音と呼ばれているものがある。何やら寄進者名のような文字が見えるが、風化していて「大阪 柏原」の文字しか読めない。
塩釜神社というのは釜石市や和歌山市のものが有名であろうが、名の通り海産品と関係があり大地信仰から派生して多産・子授等のご利益が当然考えられる。だから、白滝山の塩釜神社の延長として考えることができる。
ふるさとの史跡をたずねて(386)
香炉台(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山裏参道にある子授観音の上にある白壁の内側に観音堂があり、その観音堂のご本尊の真裏に「恋し岩伝説」に対応する石観音がある。だからその石観音にお参りするのは白壁と本堂の隙間を、あたかも人目を忍んで裏に回ると言う感じである。これほど謎めいた話はなく、白滝山五百羅漢の最大の謎である。観音堂については27回、石観音については170回に書いたが、子授観音の続きとして再説してみよう。
民話とか伝説と呼ばれるものは時代とともに、その時代の価値観を付加して書き換えられるものだから、歴史そのものではないことは確かである。しかし考えようによっては普通語られる歴史以上の真実を含んでいることがある。「恋し岩伝説」の原話はどう書かれていたのだろうか。相撲取白滝の話は地名語源説話の素朴なものであるが事実は逆で、もし白滝という力士がいたとしたらその名前を山の名前に因んだということであろう。もう一つの触れれば恋が叶うというのは、昨今の観光地に見られるよくある話を付け加えただけであろうか?
そこで気になるのは、観音堂正面にある香炉台(写真)を「陰陽石」と書いたパンフレットが、かつてあったことである。明らかに中に灰を入れて線香を立てる香炉台である。また「奉寄進」と書かれていることからも自然石でないことは一目瞭然である。もちろん人工的な陰陽石が奉納されていることもあるが、多くは自然石である。また右隣の手水鉢はハート形に削られていて何やら関係ありそうであるが、無関係かもしれない。ともかく、観音堂周辺に陰陽石信仰があったことが推定される。
このように考えると、この石観音こそ陰陽石信仰の陽石だったのではないかと思われる。さらに想像を飛躍させれば、石観音は陰陽石信仰と観音信仰を習合させたものだったのではなかろうか。それが観音堂を建てた時、堂内の観音信仰、裏側の陰陽石信仰と分離された。だから、人知れず子授けを願う女性が石観音を拝むことができるようになった・・・。
だから塩竃(釜)神社の延長の塩釜大神、子授観音が観音堂の下に作られたわけである。
ふるさとの史跡をたずねて(387)
峯松土廟道寄付碑(尾道市因島重井町峰越)
白滝山への登山道は色々あるが、おそらく白滝山五百羅漢が完成されて参道が整備される以前は鐘楼から西側の尾根がよく使われたものと思われる。岩の多い尾根だから樹木に遮られるところが少ない。しかし大きな岩であるから、なだらかな参道を作るには無理があったのであろう。だから今では忘れられた山道である。さらに降りれば方々へ降りることができるが、まっすぐ降りれば峯松神社の上に出る。ここからは峯松神社の参道を通るのが、よいであろう。
その峯松神社の参道の寄附碑が竹林の中にある。数年前に見つけたのだが繁茂する竹に覆われてわからなくなっていた。昨年再発見はしたものの、周辺の手入れを怠っていたらまたわからなくなったが、やっと辿りつけた。
およそ幅44cm、地上部の高さ75cmの石に「峯松土庿道特別寄附者」と書いてあり、金額と氏名が次のように書いてあった。「金十一円村上角三郎 金八円村上要 金七円峯松重右衛門 金六円柏原麻吉 金五円柏原次平」。庿は廟の異体字。
峰松氏の先祖廟の参道に他の苗字の者が寄付していて奇異に思われるだろう。おそらく土地提供者であり、金額は提供された土地を当時の地価で計算した数値だと考えられる。
右側面に「昭和六年仲夏」と書かれている。御調郡重井村の村道になったのであろうか。
ふるさとの史跡をたずねて(388)
峯松神社(尾道市因島重井町峰越)
前回の石碑に基づけば峯松土廟と呼ぶべきかも知れないが通称に従い峯松神社としておく。土廟はお墓を連想させるが元は「おたまや」で霊を祀るところだから神社と考えても間違いではなかろう。すなわち峯松神社は峰松氏の先祖を祀ったところである。なお峯は峰の異体字であるから通常は峰の字が多用される。古いものに峯松神社と書いてあったのでそうしただけで、好みの問題である。また苗字にも双通りあるが二系統あるわけではなく、戸籍に記載された字体の違いであろう。
神域を表す、「惟終」「追遠」と書かれた注連石と、先祖碑がある。先祖碑は「峯松元祖 豊安大権現」「天保十二年二月建之」と大岩に彫られている。
重井峰松氏の伝承では足利尊氏が尾道を通過した際、従っていた兵士が病気になり戦線から離脱し、宿泊した所の娘さんを娶って重井に来たということである。九州下向か東上の時か二説あるようだが、峰松という苗字は九州に多いようだから、私は東上の時ではないかと思う。建武3年(1336)4月のことである。
これらのことを考えると、現在に伝わる重井町の苗字の中では峰松氏が最初の住人ということになろうか。もちろん、尾道で夫婦になった二人が無人の村に来て一から始めるというのも想像しがたい。
この頃の浄土寺文書に中庄分、三庄分とともに重井庄分として塩と銭が徴収されているから、そこで働く人がいたと推定はされるが、名前はわからない。
なお、先祖碑の反対側の崖には清水の舞台のような建物があり、子供び頃よく遊んだ。今はなく隅に残る瓦だけが消えかけた記憶の証拠となっている。
写真・文 柏原林造