2024年12月21日土曜日

出航

 出航

 

 三羽のユリカモメが白い腹をみせて数回旋回した。

 遠くで別の船の汽笛が長く尾を引いて鳴った。

 緑色の海水が船と桟橋の間を流れていく。ゆれる船の間から、白い泡がまわりながら昇ってきた。白い巨体が静かに振動を続けている。スクリューが海水を逆巻かせている。

 六甲の山並が初夏の日を浴びてまばゆい。

 六甲山の上に白い雲がかかっているほかは、雲ひとつなく、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。

 神戸港メリケン埠頭では、マルセイユ行きの豪華客船「ベルサイユ」が、出航を目前にしていた。

「さあ、いよいよ出発よ。日本ともお別れよ。二人ともよく見て。これがニッポンよ。お母さんの生まれた国ニッポンよ。よく見ておいてね」

 長身の美紀は、和彦とリカを抱くようにしてしゃがみ、二人の耳元でささやいた。

 それは、二人に言うというよりも、むしろ自分に言っているようなものだった。今度日本へ帰って来るのは、いつのことだろう。ずっとずっと先か、あるいはもう永遠に帰れないのではなかろうか、と思ったりした。別に確かな根拠があるわけではない。ただ、漠然とそう思っただけである。

 しかし、それでもいいと思っていた。もともとフランスでずっと生活するつもりだったのであるが、夫のシュノンの都合で日本に帰っていたのだから。そのシュノンも今はパリにいる。

 シュノンからパリに来るように連絡があったのが三か月前のことだった。父も母もすでにいないし、たった一人の身内である弟も、今はニューヨークへ行っていないのだから、日本にこだわる必要はなかった。今回フランスに行けば、もう戻る必要はないも同然だった。

 でも、戻る必要がないというのと、戻れないというのはやはり異なるように思われた。今まではもう戻るまいと準備をすすめてきたが、今、日本を離れると思うと、やはりその船出は永久のものではないと、自分に言っておきたいような気持ちになった。そう思うと、かならず帰って来なければならないし、帰れないということはやはり不安の材料になるのだった。

 美紀はライトブルーのツーピースで、白のベレーの下からのぞいたロングカットの髪が亜麻色に輝いていた。さっきまでしていた濃紺のサングラスをはずすと、二〇代後半の、細長い顔が現われた。形のよい鼻、涼しげな目元と対照的な大きな瞳が海辺の太陽に輝いた。手袋をはずした手には、海辺の太陽が直接あたり、最初の日焼けの痕跡を印していた。

 五才になったばかりの和彦は、クリーム色のシャツにグレーの半ズボンで、白いハイソックスが太陽の光を足元で強く反射していた。

 三才のリカは、帽子、ワンピースとも真っ白で、黒い靴だけが、白いデッキの上で特別目立った。白い帽子の下からかすかに伸びた髪は金髪だったが、帽子の作る日陰の部分は黒っぽく見えた。

 銅鑼が鳴る。汽笛が鳴る。

 バンドが演奏する中を、静かに船は桟橋から離れていった。紙テープが延び、やがて切れて海水の中に落ちて一際鮮やかな色になった。そして、弱々しく曳かれていく。海面を遊泳する細長い小魚が餌と間違えて追った。ときおり、小魚の体が銀色に光った。

 見送りの人こそいないが、やはり、旅立ちというものは人を感傷的にするものらしい。何らフランスでの生活にも、長い船旅にも、不安はないのに、美紀は悲しくなった。頬をひとりでに流れる涙を、そっと拭いてから、二人を強く抱きしめた。

 美紀と二人の子供たちには、見送られる人こそいないが、埠頭では、この親子の出航を見送っている二人の男性がいた。一人は黒いサングラスをかけて、無地のグレーのスーツを着た男で、美紀と二人の子供たちが、間違いなくタラップを登り、出航したことをあたかも義務ででもあるかのように、人垣の間から、静かにうかがっていた。

 この男は、親子三人が神戸駅へ下りたときから、ずっとつけて来ていたのだが、もちろんだれにも気づかれてはいなかった。

 もう一人の男もやはりきちんとしたスーツを着ていたが、その色は淡いブラウンで、いかにも、もの静かな印象を与えた。この男は別のところで、デッキに立った美紀と二人の子供を寂しそうに見つめていた。

 もちろん、これら二人の男性のことを、美紀が知ろうはずはなく、また気がつきもしなかった。

 和彦とリカは他の客にあわせて、不特定の見送りの人波に向かって、いつまでも手を振っている。幼い二人にとっては、今日の日も、特別の日になるはずであったが、果たしてそのことがをいつまでも記憶の檻に閉じ込めておくことができるであろうか、美紀には自信がなかった。しかし、こうして無心に手を振り続けて、この日の出来事を無意識のうちに心の奥底に焼き付けていればそれでいいのかもしれないと思った。記憶の奥底に沈潜した像は時の流れで洗われ、定着されて、いつの日にか突然甦ってくることもあるし、こないこともある。それはそれでよいのだ・・・。

 バンドの演奏はいつまでも続いていた。

 青い空もいつまでも続いていた。ただ、六甲山の上にかかる白い雲が、心持ちうすくなったように、美紀には感じられた。

蛇っ子

 蛇っ子   -少年少女恐怖館ノ内-

 

 蛇はかしこい動物だから、よく人間に化けて学校の授業を聞きに来るんだよ、と言われていた。お婆ちゃんがこどもの頃はこういう話を信じていた子はけっこういたらしい。

「今でも人間に化ける蛇がいるのかなあ」

 千秋がつぶやいた。

「ははは、それはおばあちゃんが育った山奥の話だよ……。このごろは、蛇が人間に化けたという話は、とんと聞かんな」

 もし、蛇が人間に化けたらどんな顔になるかな、と千秋は思った。顔よりもスタイルのほうが想像できた。きっとスラリとして、かっこいいんだろうな、と思う。首も細くて・・・、それから口は大きくて、目は細いかな。さらに、目の奥から独特の光りを出すかな、とか想像してしまう。そんな子いたかな、順番に思い出そうとしていた。

 

 由香ちゃんという子は不思議な魅力をもった子だった。二年生になって転校してきた。運動がよくできて、いつも動きまわっている。そのせいでのどが乾くのか、いつも水を飲んでいる。水道の蛇口から直接飲んで、ここちよさそうに舌をだしてぺろっと口をぬぐう。切れ長の目がいっそう細くなって、かわいらしい。いかにもうれしそうな表情だ。しかし、この水を飲むところを人に見られるのは好きでないらしい。この前、赤い舌を出して、唇をなめているところに出くわしたら、じろっと睨まれた。一瞬背筋が寒くなった。こんな体験は初めてだった。人に睨まれただけで、こんな感じになるものだろうか、としばらくは頭の中から消えなかった。

 でも、由香ちゃんはかわいい。いつも、見ていたい。いつも見ていると、それだけで、こちらまで楽しくなる。そんな気持ちは、実は私だけでなく、私の友達の何人かは、同じように思っていた。みんな、かわいい、と言うのだ。

 そんな由香ちゃんが、突然病気になった。昨日から休みだした。今日も、来ていない。何だか、心の中にぽっかり穴が開いて、周りの世界が、ぼんやりと映っているようだった。と、同時に緊張から解放されたような、安らぎに似た気持ちにもなった。この気持ちは自分でも説明がつかなった

2024年12月16日月曜日

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第110回

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第109回

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第108回

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第107回

因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第105回

 2025年1月21日火曜日 9:10 〜11:10  於:重井公民館

資料 『温故逍遥』1000円。

必要な方はご購入下さい。重井公民館など。当日会場でも販売いたします。

資料なしの参加も可能です。

村上水軍の基本的なところをまとめたものです。

これまでに言われたところを書いたに過ぎません。ただ村上氏の城跡と言われても混乱するので本家と分家に分けて見ました。

それでは、これで完成かというと、荘園と毛利氏との関係の2点が欠如しております。これは難しい問題で私が生きているうちにその2点を加味して書き換えることができるかどうかはわかりません。







活動の記録

因島文学散歩(第3水曜日、因島図書館)

20241218。8名。『放浪記』

松浦、東、土屋、矢葺、青木、大出、柏原、柏原

第104回定例会(毎月第3火曜日)、重井公民館。9:10 〜11:10

20241217。17名。資料『暑往秋収』。

映画鑑賞の記録

「少年時代」(監督:篠田正浩)

「駅馬車」

講演視聴の記録

佐藤優氏広島大学創立記念日特集

佐藤優氏同志社大学シンポジウム講演

佐藤優氏東京大地会




リンク

ふるさとの歴史を学ぶ会 









因島・ふるさとの歴史を学ぶ会資料 第106回

2024年12月2日月曜日

夕凪亭閑話2024年12月

 クリスタルホーム

2024年12月1日。日曜日。晴れ。3199歩。70.9kg。5時半に起きる。午後、山へ。久しぶりに外活動。暖かい日だった。


2024年12月2日。月曜日。晴れ。5758歩。70.7kg。6時に起きる。朝、藤井忠三さんのお子さま。10時から文化財青木整備。午後、買い物。昼寝。


2024年12月3日。火曜日。晴れ。2898歩。71.9kg。6時半に起きる。ゴミ出し。古文書。午後、山へ。竹の間に通路を作る。夜、姉を見舞う。


2024年12月4日。水曜日。晴れ。3625歩。71.9kg。6時に起きる。朝、医師会病院。買い物。午後、姉を見舞う。夜、せとうちタイムズ原稿書いて送る。


2024年12月5日。木曜日。晴れ。4680歩。70.7kg。6時に起きる。朝、姉を見舞ってから散髪。午後、土生、三庄。姉を見舞う。午後7時20分呼吸が止まった。生まれた海に近いところから2、3百メートルほど離れたやはり海に近いところだ。平均寿命には達しなかった。


2024年12月6日。金曜日。晴れ。3509歩。70.6kg。6時過ぎに起きる。今日は福山の古文書の会は欠席。朝から姉のところ。昼に帰って昼寝。夕方また行く。夜、息子帰る。


2024年12月7日。土曜日。晴れ。3222歩。71.2kg。5時に起きる。11時より湯灌。13時半自宅出棺。17時より通夜。


2024年12月8日。日曜日。晴れ。風強し。寒気。3475歩。71.6kg。2時半に起きる。9時より葬儀。10時半火葬。四国から おじさんとおばさんが来る。長男と長女と食事をしてそれから骨あげ。その後 昼寝夜読書と古文書


2024年12月9日。月曜日。晴れ。3019歩。72.1kg。4時半に起きる。午後蜜柑摘み。買い物。宅急便送る。古文書。宮城谷昌光。『天空の舟 上』、文春文庫、終わる。


2024年12月10日。火曜日。晴れ。2770歩。71.6kg。4時半に起きる。朝、ゴミ出し。古文書。午後、蜜柑摘み少し。やはり剪定が十分なされていないところは傷が多い。寒波が来た時、枯れるのがあるので、今から剪定をするのは理に合わないが、暖かくなったら忘れるので少しする。


2024年12月11日。水曜日。晴れ。2442歩。70.3kg。2時半に起きる。4時過ぎに再び寝る。朝、中庄。図書館。午後、論語の会。4人。石川雲蝶など。瀬戸内タイムズ原稿送る。夜初七日。町が暗い。各家庭の人数が減り、2階にはほとんど人が住んでなく、明かりがついていない。だから余計に町が暗い。おそらく10年後は悲惨な状況になるだろう。


2024年12月12日。木曜日。晴れ。2533歩。71.3kg。3時半に起きる。午後、ひこしの蜜柑摘み。2本4箱。少ない。古文書と読書。


2024年12月13日。金曜日。晴れ。3075歩。71.3kg。3時に起きる。朝、買い物。午後、古文書・


2024年12月14日。土曜日。晴れ。3141歩。71.3kg。4時半に起きる。朝、窓拭き。午後、図書館。古文書。


2024年12月15日。日曜日。晴れ。2712歩。71.35kg。7時に起きる。朝買い物。午後、庭木の剪定。古文書。


2024年12月16日。月曜日。曇り時々晴れ。5561歩。71.6kg。6時半に起きる。午後、庭木の剪定。古文書。佐藤優氏広島大学講演youtubeで見る。


2024年12月17日。火曜日。曇り時々晴れ。3322歩。70.9kg。4時半に起きる。朝、ゴミ出し。定例会17人。午後庭木の剪定。古文書。夜、公民館で伝統文化基金会合。馬上太鼓について。映画「少年物語」(篠田正浩監督)youtubeで見る。


2024年12月18日。水曜日。晴れ。3644歩。kg。5時半に起きる。10時から図書館で因島文学散歩。8人。帰りに買い物。昼寝。午後、庭木の剪定。瀬戸内タイムズ原稿送る。夜、7夜。


2024年12月18日。水曜日。晴れ。歩。71.05kg。5時半に起きる。朝、古文書学習会用資料作り。午後、映画「駅馬車」見る。庭木の剪定。



読書の記録

12月9日

宮城谷昌光。『天空の舟 上』、文春文庫、

 





  クリスタルホーム

2024年11月1日金曜日

夕凪亭閑話2024年11月

  クリスタルホーム

2024年11月1日。金曜日。雨時々曇り。2479歩。70.5kg。4時半に起きる。10時から公民館。文化祭準備。宮城谷昌光『管仲』上、p.141まで。


2024年11月2日。土曜日。雨のち晴れ。3138歩。70.5kg。4時半に起きる。朝、8時半から町民文化祭へ。昼前に帰る。昼寝。夕方、柿を摘んで草取り。今年は不作。極少。宮城谷昌光『管仲』上、p.191まで。


2024年11月3日。日曜日。晴れ。2436歩。71.3kg。5時に起きる。朝、買い物。午後、文化祭の片付け。モバイルハードディスクをつないで見ると壊れていたと思っていたのに動き出した。もう一つのWiFIハードディスクの方はやはり動かない。宮城谷昌光『管仲』上、p.239まで。


2024年11月4日。月曜日。晴れ。4687歩。71.1kg。5時半に起きる。快晴。朝、草取り。買い物。宮城谷昌光『管仲』上、p.315まで。終わる。午後、一宮へ。夕方草取り。柘植の剪定。血圧高く9時から寝る。


2024年11月5日。火曜日。晴れ。2639歩。69.8kg。3時に起きて再び寝る。6時半に起きる。朝、藤井医院。後午後昼寝。夕方柘植の剪定。篠田達明、『徳川将軍家十五代のカルテ』、新潮新書終わる。『管仲』下」、p.57まで。


2024年11月6日。水曜日。晴れ。3412歩。70.4kg。朝ゴミ出し。セメント工事を久々にする。少しずつ続けないといけない。草取り。買い物。文化財協会の書類整理。せとうちタイムズ原稿送る。『管仲』下」、p.89まで。


2024年11月7日。木曜日。晴れ。3345歩。70.05kg。5時に起きる。14℃。やや寒し。午前午後ともに草取り。セメント工事。峰松神社竹やぶ入口整備。『管仲』下」、p.112まで。


2024年11月8日。金曜日。晴れ。3695歩。70.1kg。5時に起きる。福山で古文書学習会。その前に福山城で図録を買ってくる。夕方、灯油を買いに行く。『管仲』下」、p.135まで。


2024年11月9日。土曜日。晴れ。2486歩。69.9kg。5時に起きる。今日は解読文の入力。昼過ぎに2時間山の草刈り。峰松神社の参道を通れる様にする。『管仲』下」、p.151まで。


2024年11月10日。日曜日。曇り、夜雨。3019歩。70.6kg。5時に起きる。午後、峰松神社参道整備。『管仲』下」、p.187まで。



2024年11月11日。月曜日。晴れ。14309歩。69.7kg。5時半に起きる。8時に出て伯方島遍路1回目。12人。


2024年11月12日。火曜日。晴れ。3439歩。770.7kg。6時に起きる。午後、峰松山登山道整備。『管仲』下」、p.273まで。


2024年11月13日。水曜日。晴れ。2744歩。70.75kg。午後、論語の会。4人。西国33観音。『管仲』下」、p.333まで。終わる。


2024年11月14日。木曜日。晴れ。4331歩。70.1kg。朝から古文書。午後、峰松神社まで。夜、『温故逍遥』の改訂版の編集。


2024年11月15日。金曜日。曇り時々雨。2629歩。70.3kg。9時に出て福山へ。ガソリン。午後、古文書学習会。帰ってはと印刷。支払い。『署往秋収』完成。


2024年11月16日。土曜日。曇り。3313歩。69.6kg。5時に起きる。朝から古文書入力。午後来客。夜もほとんど入力。


2024年11月17日。日曜日。曇り。少し小雨。4401歩。69.7kg。6時に起きる。古文書入力。少し庭木の選定。


2024年11月18日。月曜日。晴れのち曇り少し小雨。3562歩。69.5kg。5時に起きる。庭木の選定。


2024年11月19日。火曜日。晴れ時々曇り。4165歩。69.8kg。6時に起きる。定例会16人。午後、旅サラダの録画。夜、本の修正。寒いのでストーブを入れる。


2024年11月20日。水曜日。晴れ。2989歩。70.1kg。6時に起きる。6時に起きる。10時過ぎから因島図書館。文学散歩の会。8人。「放浪記」。来月は10時から。来年2月は休会。


2024年11月21日。木曜日。晴れのち曇り。2320歩。69.6kg。6時に起きる。昼間は『署往秋収』の修正。夜、読書。


2024年11月22日。金曜日。晴れ。1554歩。69.5kg。6時に起きる。昼間は『署往秋収』の修正。夜、読書。今日は昨日より少し晴れ間が多く暖かい。


2024年11月23日。土曜日。晴れ。2476歩。70.5kg。6時に起きる。昼間は『署往秋収』の修正。夜、古文書。


2024年11月24日。日曜日。晴れ。歩。69.5kg。6時に起きる。昼間は『署往秋収』の修正。午後、峰松神社へ。


2024年11月25日。月曜日。晴れ。13588歩。69.5kg。4時に起きる。7時に出て伯方島遍路2巡目2回目。11人。24番から54番まで順調。


2024年11月26日。火曜日。曇りのち雨。2147歩。70.2kg。6時に起きる。午前中、尾道市民病院。古文書少し。


2024年11月27日。水曜日。曇り時々晴れ。2782歩。70.2kg。6時に起きる。古文書少し。


2024年11月28日。木曜日。曇り一時小雨。2641歩。70.2kg。6時に起きる。午前中役員会。午後配布。古文書少し。


2024年11月29日。金曜日。曇り一時小雨。2029歩。71.2kg。6時に起きる。朝、福山へ。午後古文書学習会少。


2024年11月30日。土曜日。曇り。2431歩。70.2kg。6時に起きる。古文書入力。


読書の記録

11月4

宮城谷昌光『管仲』上、文春文庫

11月5

篠田達明、『徳川将軍家十五代のカルテ』、新潮新書

11月13

宮城谷昌光『管仲』下、文春文庫

  クリスタルホーム

2024年10月17日木曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 381-390回 増補版

 ふるさとの史跡をたずねて(381)

過去七仏 その1(尾道市因島重井町白滝山)

 釈迦三尊像の裏をさらに山頂へ向かうと渦巻き状に配された西国三十三観音についで過去七仏がある。

 十六羅漢や釈迦三尊像に比べれば、いかにも素人の製作だとわかる。しかし、よく見ると十大弟子と似ている。ともに林蔵の寄進である。頂上の阿弥陀三尊像の中央にある阿弥陀仏も林蔵の寄進であるが、こちらは石工の製作であり寄進録には金額が書いてある。十大弟子と過去七仏には金額が書いてない。このことから自分で彫って寄進したと推定できる。

 後に紹介する頂上の美しい常夜灯が尾道石工の寄進である。寄進録には他の石工の金額の隣に書かれてあるが金額は書かれていない。このように現物寄進と金銭寄進のふた通りがあったのだろう。

 さて7人の立像を見ていると複雑な気持ちになる。釈迦が仏教を始めたのではなかったか。7人目を釈迦仏とすると、なぜそれ以前に仏が6人もいるのか?

 イエスや親鸞のように、既にあった宗教世界の傑出した指導者が後に教祖として崇められ、それが本人ではなく信奉者によって新しい宗教(宗派)の開祖とされたのと同様な構図を、仏教世界にも考えればよいということであろうか。

 安藤昌益は「釈迦はインドを仏国と名づけ、過去七仏が国の本を制立したとし、五時教の如来をもって法とした。聖徳太子は、釈迦のこの私法の真似をして、日本を神国と名づけ、国の始めを天神七代が創立したとし、地神五代をもって法としようとしたのである。」と書いている。(中央公論社「日本の名著」19、p.194)

                       (この項つづく)







ふるさとの史跡をたずねて(382)

  

過去七仏 その2(尾道市因島重井町白滝山)


 過去七仏の立っている基台を眺めてみよう。基台を構成する周辺の石には平面的なレリーフ(浮き彫り)が21体彫られている。ユニークな表情とその数には驚くほかない。

 普通、仏画にしても仏像にしても、その元になる話がお経の中にあるのだが、私には思い浮かばない。

 そうすると表情と数の両面から考察すべきであろう。その数の内訳は東(左)に3体、南(背面)に9体、西(右)に3体、北(正面)に6体。合計21体。21人から5人を引くと十六羅漢になる。しかし、誰をその5人とするか難しい。だから羅漢ではないだろうと思う。似たようなものもあるし、明らかに異なるタイプもあり、よく分からない。石工の作品のような細やかさはないから基台とともに林蔵一人の製作だと思われる。

 また十大弟子の基台と同様、台石の下に小枠がある。左側の小枠には2体が中に入っている。

 右側のもう一つの小枠には林蔵の心願が書かれている。

 古来、「文政十丁亥孟春  仏出世而名 一観矣説法 六年焉平常 在作仏念時 乞就席語矣 予又有念故 諾而作五百 余尊爾 柏原林蔵 仏性知 六十一歳 」と読まれている。

 私なりに意訳すると、以下のようになる。「文政十年の正月、伝六さんが来た 悟りを開いて一観と名のり六年在家にあって、いつも仏陀の境地にちかづきたいと修行している。石仏工事の協力を依頼された。仏の道に尽くすことはすばらしいことなので、五百羅漢を作ることを承諾した。 柏原林蔵 仏の心を知りたい 六十一歳 」。

 同じような小枠は山頂の阿弥陀如来像(林蔵の寄進)の下にもあり、三者共自分で基台を作ったのであろうから、まさに林蔵の趣味としか言いようがない。

 









ふるさとの史跡をたずねて(383)      

石灯篭 その1(尾道市因島重井町白滝山)


 白滝山山頂の展望台の登り口の前、東側に優美な石灯篭がある。眺望もまことに素晴らしく、目に入る島や山の名前を書いていたらきりがないので、因島大橋やめかりの瀬戸、備後灘、燧灘が一望できる、と書くに留める。

 だから、夜間この灯篭に灯を燈せば、格好の目印になって灯台の代わりのような役目を果たす、と誰しも思うだろう。しかし、灯を燈したような跡はなく、一度もそのように使われたことはなかったことがわかる。すなわち飾りなのだ。しかし、それには深い意味がある。

 例えば宮島の弥山や、おそらく四国の12番焼山寺もそうだと思うが、終日火を絶やさぬという山岳宗教の道場があったところで、海から見えるところは近代の灯台ができるはるか以前からそのような役割をしたという歴史を踏まえたものであろう。

 蛇足ながら、広島市平和公園の平和の灯(ともしび)は、その火種の一つに弥山の灯が使われ、恒久平和実現の日まで灯し続けられるという別の意義が生じている。

 また、全国に観音崎という地名が多いように観音菩薩のご利益に水難防止がある。上記の歴史を考えれば、ここに灯台代わりの石灯篭を建てると、白滝山が観音崎になる。そして、目に入る限りの海域に水難防止のご利益を及ぼすことであろう。

 それは観音道一観と名乗った伝六の発起になる白滝山五百羅漢という観音霊場にとっても有意義なことであった。「念彼観音力 波浪不能没」(「観音経」)なのである。

                       (この項つづく)


















ふるさとの史跡をたずねて(384)

          

石灯篭 その2(尾道市因島重井町白滝山)

 この優美な石灯篭の北面には大きく「奉寄進」(寄進たてまつる)と彫られている。その左隣(東側)に、「尾道石工 定兵衛」とある。逆に右側(西側)には「文政十三庚寅年四月吉祥日」とある。

 これが事実で、それ以上のことはわからない。しかし、寄付録には、尾道町として、明らかに尾道石工だと思われる6名と金額が書いてあり、その次に「いしどうろ 貞兵衛」とある。この程度の字の違いはよくあることなので、このことだと思う。そして灯篭に記された日付は、白滝山五百羅漢がほぼ完成した頃になる。

 さて、以上のことをどのように解釈するか? 定(貞)兵衛さんは白滝山石仏工事に関わり、他の石工たちがお金を寄付したのに対し、作品を以って寄付をしたのであろうか? それとも石仏工事には関係しなかったが、完成後見学を兼ねて参拝に訪れ、感激して入魂の自作品を奉納したのであろうか?

 他の石仏が多すぎで目立たないが、さまざまな思いを巡らせたくなる一流品である。

 以前春分の日の日没が「日本大小神祇」と「一観像」と一直線になると書いた。そこで私は冬至の日の夕日は「日本大小神祇」とこの石灯篭が一直線になるだろうと推定して待ったのであるが、残念ながら期待とは異なった。













ふるさとの史跡をたずねて(385)

子授観音(尾道市因島重井町白滝山)

 白滝山五百羅漢の参道は色々ある。もちろんどこの山でも地元の人たちだけが通る小道が方々にあるように、白滝山にも裏の方や鐘楼の下の方から登る道もある。しかし、ここでは一般的な参道だけを記す。本来の表参道というのは重井町東浜の桟橋からと言うことになろうが、桟橋の位置は時代とともに変わるので、重井郵便局の隣から記すことにしよう。

 ここから青木道を通って川口大師堂(島四国84番屋島寺)の下を通る。あとは山の方を向いて道なりに進めばよい。途中、因島ペンション白滝山荘の前を通ってから山道になる。仁王門の上で二つに別れ、合流したあと再び「一丁」のところで別れる。左が裏参道で右が表参道である。注意すれば、塩竃神社(以下、塩釜神社と記す)のところで両道は通じている。表参道から塩釜神社を通って裏参道へ行くのが元の表参道だったと思う。現在の表参道の山門下の石段を見れば、これが五百羅漢完成の時のものでないことがわかるだろう。後に作られたものであろう。

 裏参道の塩釜神社から上に磨崖仏が2つある。上の方の観音堂の下あたりに、子授観音と呼ばれているものがある。何やら寄進者名のような文字が見えるが、風化していて「大阪 柏原」の文字しか読めない。

 塩釜神社というのは釜石市や和歌山市のものが有名であろうが、名の通り海産品と関係があり大地信仰から派生して多産・子授等のご利益が当然考えられる。だから、白滝山の塩釜神社の延長として考えることができる。 





ふるさとの史跡をたずねて(386)


香炉台(尾道市因島重井町白滝山)


 白滝山裏参道にある子授観音の上にある白壁の内側に観音堂があり、その観音堂のご本尊の真裏に「恋し岩伝説」に対応する石観音がある。だからその石観音にお参りするのは白壁と本堂の隙間を、あたかも人目を忍んで裏に回ると言う感じである。これほど謎めいた話はなく、白滝山五百羅漢の最大の謎である。観音堂については27回、石観音については170回に書いたが、子授観音の続きとして再説してみよう。

 民話とか伝説と呼ばれるものは時代とともに、その時代の価値観を付加して書き換えられるものだから、歴史そのものではないことは確かである。しかし考えようによっては普通語られる歴史以上の真実を含んでいることがある。「恋し岩伝説」の原話はどう書かれていたのだろうか。相撲取白滝の話は地名語源説話の素朴なものであるが事実は逆で、もし白滝という力士がいたとしたらその名前を山の名前に因んだということであろう。もう一つの触れれば恋が叶うというのは、昨今の観光地に見られるよくある話を付け加えただけであろうか?

 そこで気になるのは、観音堂正面にある香炉台(写真)を「陰陽石」と書いたパンフレットが、かつてあったことである。明らかに中に灰を入れて線香を立てる香炉台である。また「奉寄進」と書かれていることからも自然石でないことは一目瞭然である。もちろん人工的な陰陽石が奉納されていることもあるが、多くは自然石である。また右隣の手水鉢はハート形に削られていて何やら関係ありそうであるが、無関係かもしれない。ともかく、観音堂周辺に陰陽石信仰があったことが推定される。

 このように考えると、この石観音こそ陰陽石信仰の陽石だったのではないかと思われる。さらに想像を飛躍させれば、石観音は陰陽石信仰と観音信仰を習合させたものだったのではなかろうか。それが観音堂を建てた時、堂内の観音信仰、裏側の陰陽石信仰と分離された。だから、人知れず子授けを願う女性が石観音を拝むことができるようになった・・・。

 だから塩竃(釜)神社の延長の塩釜大神、子授観音が観音堂の下に作られたわけである。







ふるさとの史跡をたずねて(387)


峯松土廟道寄付碑(尾道市因島重井町峰越)

 白滝山への登山道は色々あるが、おそらく白滝山五百羅漢が完成されて参道が整備される以前は鐘楼から西側の尾根がよく使われたものと思われる。岩の多い尾根だから樹木に遮られるところが少ない。しかし大きな岩であるから、なだらかな参道を作るには無理があったのであろう。だから今では忘れられた山道である。さらに降りれば方々へ降りることができるが、まっすぐ降りれば峯松神社の上に出る。ここからは峯松神社の参道を通るのが、よいであろう。

 その峯松神社の参道の寄附碑が竹林の中にある。数年前に見つけたのだが繁茂する竹に覆われてわからなくなっていた。昨年再発見はしたものの、周辺の手入れを怠っていたらまたわからなくなったが、やっと辿りつけた。

 およそ幅44cm、地上部の高さ75cmの石に「峯松土庿道特別寄附者」と書いてあり、金額と氏名が次のように書いてあった。「金十一円村上角三郎 金八円村上要 金七円峯松重右衛門 金六円柏原麻吉 金五円柏原次平」。庿は廟の異体字。

 峰松氏の先祖廟の参道に他の苗字の者が寄付していて奇異に思われるだろう。おそらく土地提供者であり、金額は提供された土地を当時の地価で計算した数値だと考えられる。

 右側面に「昭和六年仲夏」と書かれている。御調郡重井村の村道になったのであろうか。








ふるさとの史跡をたずねて(388)

   

峯松神社(尾道市因島重井町峰越)

 前回の石碑に基づけば峯松土廟と呼ぶべきかも知れないが通称に従い峯松神社としておく。土廟はお墓を連想させるが元は「おたまや」で霊を祀るところだから神社と考えても間違いではなかろう。すなわち峯松神社は峰松氏の先祖を祀ったところである。なお峯は峰の異体字であるから通常は峰の字が多用される。古いものに峯松神社と書いてあったのでそうしただけで、好みの問題である。また苗字にも双通りあるが二系統あるわけではなく、戸籍に記載された字体の違いであろう。

 神域を表す、「惟終」「追遠」と書かれた注連石と、先祖碑がある。先祖碑は「峯松元祖 豊安大権現」「天保十二年二月建之」と大岩に彫られている。

 重井峰松氏の伝承では足利尊氏が尾道を通過した際、従っていた兵士が病気になり戦線から離脱し、宿泊した所の娘さんを娶って重井に来たということである。九州下向か東上の時か二説あるようだが、峰松という苗字は九州に多いようだから、私は東上の時ではないかと思う。建武3年(1336)4月のことである。

 これらのことを考えると、現在に伝わる重井町の苗字の中では峰松氏が最初の住人ということになろうか。もちろん、尾道で夫婦になった二人が無人の村に来て一から始めるというのも想像しがたい。

 この頃の浄土寺文書に中庄分、三庄分とともに重井庄分として塩と銭が徴収されているから、そこで働く人がいたと推定はされるが、名前はわからない。

 なお、先祖碑の反対側の崖には清水の舞台のような建物があり、子供び頃よく遊んだ。今はなく隅に残る瓦だけが消えかけた記憶の証拠となっている。












           写真・文 柏原林造


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