2024年2月29日木曜日

ふるさとの史跡を訪ねて 351-360回 増補版

 ふるさとの史跡をたずねて(351)

     石鎚神社(尾道市瀬戸田町高根)

 山の名前には地形にちなむ滝山のようなものの他に、蔵王山、浅間山、石鎚山、竜王山などというのがあるように、信仰の対象からついたものがかなりある。竜王山は雨乞いだから別格として蔵王、浅間、石鎚などの名前が全国にあることから、これらの山岳宗教に発する信仰が、かつては広く庶民の間に浸透していたのは想像をはるかに超えたものではなかったかと思われる。

 高根山の滝山観音から少し登ると石鎚神社の立派な石堂がある。もちろん南の石鎚山の方を向いて。お堂の中の像は、不動明王か役行者だろう。ここにも「奉寄進」の石碑があり「天保十己亥(つちのとい)年」と読める。1839年である。

 ここからなら、気象条件さえ良ければ多々羅大橋の生口島側、観音山の稜線の上あたりに石鎚山が見えるだろう。






ふるさとの史跡をたずねて(352)


平山画伯スケッチポイント18(尾道市瀬戸田町向上寺山)


 あの有名な耕三寺である。我々の世代には瀬戸田町と言えば耕三寺であった。向上寺の三重の塔がいくら国宝だと言っても、耕三寺のきらびやかな建物群の方に魅了された。それは学校の行事で耕三寺へ行くことはあっても向上寺へ行くことはなかったせいかもしれない。

 だから、平山画伯のスケッチポイント18で「瀬戸田町向上寺山より耕三寺遠望」を見つけた時、ホッとするとともに、時代の移りゆきを感じたものである。

 耕三寺には春夏秋冬の思い出があるのだが、やはり秋の行楽シーズンの人出の多さと、しおまち商店街の賑わいが懐かしい。そして訪れるごとに増えている新しい建物に出会うのも、頼もしく夢が膨らんだ。

 平山画伯のスケッチでは遠くから小さく描かれているので、あたかも遠い日の記憶を追想するような心象風景と重なる。

 このスケッチは若い人たちが見るよりも、年配の人にぴったりだと思う。

 なお今は世羅町ご出身の彫刻家杭谷一東さんの設計製作になる「未来心の丘」の、白亜の大理石群が瀬戸内の午後の陽を反射して、過去だけでなく未来への思いも我々に抱くことを要求している。ささやかな未来も考えてみよう。





ふるさとの史跡をたずねて(353)   


平山画伯スケッチポイント(尾道市因島土生町荒神)


 このあたりで因島へ戻ることにしよう。ホテル・ナティーク城山には平山画伯のスケッチポイントが2つある。

 今回は北側のテラスにある「土生港から遠望」である。中央の島が釣島。左端は生名島の一部である。その間に生口橋が見える。

 そして、この石板の設置されているのは長崎城跡である。すなわち連載初期の頃書いた村上水軍の因島来島伝説の「釣島箱崎浦の戦」の舞台を、村上氏ゆかりの長崎城跡からみているわけである。

 おのずとその頃へと思いが向かう。村上氏とは何であったのだろうか。なぜ因島を本拠地にしたのだろうか。潮流が村上氏の活動に向いていたので、すなわち因島が海の要衝であったからだと信じてきた。この頃、因島が荘園であったからではないかと思いはじめた。

 スケッチより広めの写真で現在のようす(昨年末)を残しておきたい。




ふるさとの史跡をたずねて(354)


平山画伯スケッチポイント12(尾道市土生町荒神)


 ナティーク城山にあるもう一つのスケッチポイントはエレベーターでホテルのロビーに向かうと、連絡通路を渡ったところにある。

 南の方に向かって、「因島土生町からの遠望 弓削島 坪木島 生名島」とある。ちょうど、工場の建物の間から南の海が見える。そこは愛媛県。村上水軍の時代であれば、伊予の国である。因島村上氏の初代はナティーク城山を最初の根拠地にした。今は伊予大島から来たという伝説にしたっがっておこう。いざとなれば南へ逃げれば良いという安心感があったのかもしれない。今考えても良い場所であったと思われる。

 ここに立って、南を見ては故郷を思い、北を見ては未来を思ったことだろう。未来・・と言っても戦国武士団の一翼になることなど、夢にも思っていなかったに違いないが、変わりゆく荘園に対してどのように対処するかも一つの課題であったに違いない。

 彼らが未来が見えなかったのと同様、われわれもその頃のことを具体的に描くことはできない。しかし目の前の海と島はほとんど今と同じようであったと思うことはできる。




ふるさとの史跡をたずねて(355)


平山画伯スケッチポイント10(尾道市因島重井町白滝山)


 白滝山八合目駐車場にも平山画伯のスケッチポイントの石板がある。と言っても、駐車場から白滝山へ登る方向とは反対なので、多くの人が見過ごしてしまう。登山道の方に行かずに北側の東屋の方へ行って、西側の眼下を見よう。そこまで行けばスケッチポイントの石板に出会うのであるが、わざわざここまで来なくても、駐車場の西隅に寄れば良いし、あるいは登山途中で振り返れば似た光景は見えるので、残念ながらせっかくのスケッチポイントが見逃されてしまうというわけである。

 さて、このスケッチポイント10は「因島山頂より内海遠望」と書かれており、松の向こうに小細島、細島。宿袮島などが描かれ、佐木島の奥に三原市がかすかに見える。右側の因島鉄工団地は白い工場が一部で茶色の大部分は造成されたばかりの土地だろうか。

 島の配置は変わらないが、沿岸部は少し変わっている。10年後、20年後に比較したら、変わってないところは美しいと思うだろう。




ふるさとの史跡をたずねて(356)


島四国85番八栗寺(尾道市因島重井町白滝山)


 島四国85番八栗寺にお参りするのであれば、自家用車の場合は、白滝山八合目駐車場から山頂を目指し、表参道と出会ったところで反対側に降りる。あるいは、フラワーセンター、因島ペンション白滝山荘、伝六墓所・・と表参道を登るのであれば仁王門・六地蔵の上の三叉路で右方向へ登る。

 切り立った岩場の上にあるのだから、年間を通してかなりの強風を受ける。一見、壁のない貧相なお堂のように見えるが、そのことを考えると、屋根さえ丈夫であれば、この構造は心強い。

 表参道からのルートの三叉路から右は、しばらく通行止になっていたが幸い回復し、また参道も整備された。

 本四国では源平の古戦場の屋島にある屋島寺と向かい合った五剣山にあるので、それにならって、大師堂山の上にある島四国84番屋島寺を見下ろす位置にある。




ふるさとの史跡をたずねて(357)


くぐり岩(尾道市因島重井町白滝山)


 奇岩である。スリル満点である。島四国85番八栗寺にお参りするのに下から登る時は、直前で。上からきて、さらに下に降りる場合は、まもなく、必ず通る岩の下の狭い道がある。このような洞窟に近い岩の下を通ることは決して珍しいことではない。しかし、大きな岩を支えているところをよく見ると下側が実に小さい。岩の下で丁寧に観察するのは気持ちがよくないので、さっと見るだけでも珍しいほどのわずかの部分で大きな岩を支えている。

 もし、この下を通っている時、大地震が起こったらどうなるかと、想像することは怖い。しかし、大丈夫である。この岩が崩れるほどの大地震であれば、どこにいても似たような結果になるだろうと、想像力を働かせてほしい。そうすれば、慌てて通過することはないと、変な自信がもてるであろう。




ふるさとの史跡をたずねて(358)


仁王像(尾道市因島重井町白滝山)


 くぐり岩からさらに下山を続けると、仁王門があり、下から見ると仁王像が左右一対として安置されている。もし、白滝山の他の石仏群がなくても、この仁王像だけでも、白滝山は霊山として崇められ、人々から畏敬の思いを捧げられたことだろう。

 だが、その白滝山石仏群の中でも最も気高く最も迫力に富んでいるこの石仏は、歴史的に見れば白滝山五百羅漢と呼ばれる石仏群とは関係がなかった。いや、白滝山五百羅漢の製作の中心人物であった尾道石工・太兵衛の作品であるから、全く無関係というわけでもなかったが。

 すなわち白滝山五百羅漢を作った余勢で、この仁王像が伊浜の重井八幡神社に奉納された。また同時に曹洞宗善興寺にもほぼ同寸の一対が奉納された。

 このことは何を意味するのであろうか? 当時の社会が安定しており、豊かな農村社会であった、などと書いても何もわからない。おそらく白滝山五百羅漢の完成の余勢以上の精神的な高揚と陶酔に似た心理が村民全体を覆っていたに違いないと、私は思う。

             (左)


             (右)
             

ふるさとの史跡をたずねて(359)


仁王門(尾道市因島重井町白滝山)


 仁王門の中にある左右の仁王像は白滝山五百羅漢完成後、白滝山石仏工事の中心であった尾道石工太兵衛が製作したもので、伊浜の重井八幡神社に奉納されていた。それが明治元年に神仏分離によって神社に仁王像はふさわしくないということで、立ち退きを要求された。それが現在表参道にある仁王像である。現在の姿しか知らない我々はいかにもそれが白滝山頂上付近の石仏群と一体のものであり、ちょうど五百羅漢の入口のような印象を持っているが、その厄介物であった仁王像一対の行き場として苦労されたのであろう。

 というのは神仏分離で神社からお寺へ移せばよいようなものであるが、実は重井村唯一の善興寺には同じ作者の仁王像が既に奉納されてあったからである。その結果として、この場所へ移動されたわけである。

 この巨大な石造物を重機のない時代にどうやって移動させたか、まず不思議に思われる。そしてまた、なぜこの中途半端な場所が山門になったのかと思うに違いない。

 これらのことを知る手がかりは全くないが、傾斜度を考えると、この位置が限度であったのだと思われる。すなわち、ここから五百羅漢が始まるという意味があったわけではなく、現在の位置から我々がそう思っているだけであろう。

 さらにまた立派な仁王門が明治42年に完成し、仁王像は風雨の侵食を免れることとなった。現在の仁王門は昭和の初めに改修された2代目であるが、違和感を感じることなく屹立している。


ふるさとの史跡をたずねて(360)

六地蔵(尾道市因島重井町白滝山)

 仁王門を抜けて表参道を登ると左右三体ずつ並んだ六地蔵がある。六地蔵が迎えてくれると書いた方がふさわしい。仁王像の厳しい顔に迎えてくれるという雰囲気を感じる人はあまり多くはないと思う。だから仁王門を過ぎてこの六地蔵に出会うと、出迎えてもらったという気持ちになる。 
 さて、それではどのような世界への出迎えなのかと考えてみると困ってしまう。これは白滝山だけの問題ではない。多くのお寺や墓地の入り口近くにはたいてい六地蔵があって、やはりその役目は「お迎え」だと
思っている人は多い。どの世界へのお迎えなのか考えてみよう。
 一般的には六道輪廻の六つの苦行からそれぞれの6人の地蔵さんが救済してくれるということになる。すなわち、閻魔大王の十王信仰の延長の世界である。だから道教と仏教の混ざりあった世界である。
 さて、ここの仁王像と仁王門が白滝山五百羅漢とは無関係に作られたと書いたが、この六地蔵もその延長だと思う。
 しかし、山頂のあのエキゾチックな羅漢像も、伝六が力を入れて広めた「功過自知録」も、極めて道教的世界の延長にあったものだから、ここに六地蔵があるのはまことに論理的には一貫したものになっている、と私は考える。







(  写真・文 柏原林造)





➡️ブーメランのように
(文学散歩)