ふるさとの史跡をたずねて(361)
因島八景(尾道市因島重井町白滝山)
仁王門の下には因島八景第三景の石碑がある。すなわち、「因島八景 白滝山頂から多島美」の石碑がある。書かれた文字の通り解釈すれば、ここにあるのは不自然で、文字通り山頂のしかるべきところにないといけない。しかし、道路、建設重機の発達を考えると当時の事情を斟酌すべきであり、今は問題にしない。
それよりも何回か書いてきたように、この仁王門付近が江戸時代に作られた白滝山五百羅漢霊場とは関係がなかったという認識が大切である。さらに、この因島八景の石碑のように現代的作為が加えられているということも大切だ。
そのことはここだけのことではなく至る所で行われていることで、それが悪いと言っているのではない。問題なのは、後から加えられた装飾を含めた印象でもって原初のものを解釈しようとすることである。
特に白滝山の場合はそうであろう。およそ二百年前に作られたものと、その後の付加物を弁別せずに、白滝山の本来の意味を詮索することが多くの誤解を生んだ原因のひとつである。
さらにまた、後世の付加物を元のものから切り離し、付加物には付加物としての意味があることが、多くの場合忘れられているのではなかろうか。
ふるさとの史跡をたずねて(362)
仁王門寄附碑(尾道市因島重井町白滝山)
仁王門の下の因島八景の石碑の反対側、すなわち北側に仁王門建設の寄附碑がある。正面には「一、金壱百円 柏原軽之助 二王門建築費江喜捨」。右横面には「明治四十二年三月吉日建之」と書かれている。
実はこの時にはこの寄附碑の他に建立台帳という記録が残っており、総額573円6銭であったから、軽之助氏の百円は突出している。そして石碑として残されたのはこれだけであるが、その石碑設置費用は10円74銭であった。
さて、ここで驚くべきことは、この時の寄付者の中に大阪永田鉄工所の永田三十郎氏をはじめ永田家の人々、永田鉄工所の社員の方々の寄附が総額22円50銭もあることだ。重井村出身の軽之助氏が永田鉄工所でその精勤ぶりが認められていたということであるが、不思議なことだ。
やはり、白滝山の伝六信仰が明治の末期において大阪でも、多くの共感者を得ていたということであろうか。
ふるさとの史跡をたずねて(363)
大日如来像(尾道市因島重井町白滝山)
大日如来像は白滝山山頂にはなくて中腹にある。仁王門を過ぎて登って行くと、三叉路になり右側が島四国85番八栗寺への参道、左側が表参道となる。その表参道を登ると程なく数体の石仏に囲まれて大きな岩の上に載っているのが大日如来である。
頭上の宝冠がここの石仏では、あたかも一升升(いっしょうます)を頭上に載せているように見えるので、「マスカべりさん」と呼ばれている。
ところで、白滝山の石仏群の完成図だと思われる「白滝山之圖」には主だった石仏名が文字で書かれているのだが、大日如来は書かれていなくて「弥勒大菩薩」の文字がある。弥勒菩薩といえば、右足を上げ、右手で頰杖をついた半跏思惟像が有名だが、宝冠を冠った坐像もあるから、ここの「マスカべりさん」を弥勒菩薩と考えてもおかしくはない。単純に考えて、弥勒菩薩なら白滝山五百羅漢と同時期に、大日如来なら後に寄進されたものだと考えられる。
なお、「六地蔵大菩薩像」の文字は見えるが、現在地と想像されるところには石仏の絵は描かれていない。当初から予定はあったが設置されたのが後のことなのか、最初からあったが3体ずつ向かい合った図を描くのが難しく省略しただけなのかは、この図だけからはわからない。
ふるさとの史跡をたずねて(364)
二代目慈母観音(尾道市因島重井町白滝山)
さらに白滝山頂上を目指す。八合目駐車場からの参道と合流してほどなく一丁の丁石のところで参道は左右に分かれる。右側が表参道である。登りは表参道を、下りは裏参道を降りることを勧める。
少し登ったら左側の岩を見ていただきたい。慈母観音の磨崖仏の下に「二代目慈母観音」と書いている。初代を観音堂前広場の管理室前の大岩に掘られた慈母観音と数えてのことであろう。
岩には他に。「昭和十六年三月吉日 當山十二代氏孝建之」の文字が掘られている。また「石工 柏原吉◻︎」(◻︎は不明)と書かれており地元の石工の作品だとわかる。『當山十二代氏孝」ということは昭和16年には堂守として12人目の氏孝氏が住んでおられ、彼の寄進であることがわかる。
巨大な岩の上部に掘られた子供を抱いた慈母観音像は優しさに溢れており、私のように信仰心の少ないものでも、母を追憶して感謝の気持ちを抱く。ちょっと高いところにあるが、下から見るように掘られているはずである。
ふるさとの史跡をたずねて(365)
慈母観音(尾道市因島重井町白滝山)
初代慈母観音である。ただし。「初代」の文字はどこにも書いてないし、二代目がずっと後になってできたのだから作者にも初代の意識はなかったであろう。
その初代慈母観音はさらに表参道を登り、山門をくぐったところの正面の大岩にある。それもその位置から見た正面左隅であるからすぐにわかる。
この大岩とそれに掘られた数体の磨崖仏は、どういう構想の下に作られたのかは、記録がなくただ唖然として、その稀有な構成に感嘆するばかりである。この岩の上には多宝塔が載っている。その構成もまた奇抜であるが、今回は巨岩の周囲の磨崖仏について見てみよう。一つ一つの作品に作者の銘が掘られているので、白滝山五百羅漢の建設に関わった石工が、一人一作を競ったようだ。もし、これが依頼された仕事でなく「各自好きなものを掘ろう」と、自発的に腕を競ったものであるとすると、誠に職人気質を上回る芸術家精神を発揮したものであろうと思われる。
さてこの初代慈母観音は山門から見て左側の稜に掘られており、左下の長方形の部分に「石工新七」と掘られている。見れば見るほど二代目慈母観音と似ており、二代目がモデルにしたと想像される。
ふるさとの史跡をたずねて(366)
不動明王(尾道市因島重井町白滝山)
初代慈母観音から大岩の面を左の方に目を転じると、さらに迫力のある不動明王が目に入る。細かい細工と躍動感に溢れたその姿は、多宝塔の載る大岩に掘られた他の作品を圧倒している。不動明王の足元には「石工太兵衛」と彫られている。
白滝山中腹の仁王像、善興寺の仁王像も同じ作者の作品であるから、太兵衛が抜群の技術を持った石工であったことがわかる。また、白滝山五百羅漢建設のために集まった10人前後の石工のトップとして、太兵衛の果たした役割が決して小さなものでなかったことも容易にわかるだろう。
山頂の岩を使った工事であったから、最初から完璧な設計図があったわけではなかったし、ありえないことであろう。工事責任者で雇用者側である林蔵が描いた全体のプランは、一部が完成すると共に再検討されながら進められたに違いない。その相談相手が石工頭太兵衛であった。時には実際に作業を行う他の石工たちの意見も聞きながら、少しずつ作られていった。
そして何よりも特筆すべきは、この三者の関係が極めて良好なものであったことだろう。そうでなければ、大小さまざまな石造物が3年あまりで作られるということはありえない。
さて、ここに不動明王像があるということは何を意味するのであろうか。白滝山の石仏群は羅漢信仰と観音信仰を合わせたものであって、修験道の道場ではない。だから不動明王が中心にくる必要はなく、またそうあるのはおかしい。ただ、この山が修験道の修行場であったという過去の歴史を考えれば、その記念にもなる。そのような考えの妥協点がこの大きさではないかと、私は思う。すなわちこれ以上大きくなると、観音霊場には不釣り合いとなる。
ふるさとの史跡をたずねて(367)
柏原林蔵像(尾道市因島重井町白滝山)
白滝山山頂の釈迦三尊像の前に因島八十八箇所番外札所白滝観音寺というのがある。その隣に等身大の石像がある。柏原林蔵像である。石段を登ってきた人を迎えるように南西を向いている。初代慈母観音や不動明王の彫られた大岩の前からさらに上がったところである。
不動明王を彫った太兵衛を頭に10人ほどの石工とその弟子たちが次から次へと石仏を彫った。なぜか? 観音信仰の篤信家である柏原伝六の夢を実現するためである。西国三十三観音巡礼のおかげで自分が生まれたと聴かされて育った伝六は、自分が観音菩薩の生まれ変わりだと信じていた。浄土教では、阿弥陀如来の西方極楽浄土へ導くのは観音菩薩の役目である。
はじめ尾道の浄土寺山へ極楽浄土を作ろと考えていた伝六は、近所の年配者林蔵へ建設を依頼した。林蔵は裏山へ作ることを提案した。尾道には石工が多いので好都合ではあるが、そこへ行って常に指示することはできないので、こちらに石工を呼べば良いというわけである。
石工が来ると林蔵は白滝山上で寝起きし、石工に協力しながら素人ながら自らも石仏を彫った。しかし半年後に伝六は亡くなったが、やめるわけにいかない。完成後、勧められて自らの像を彫って下山した。山上に籠って三年三ヶ月が経っていた。
下山後、林蔵は太兵衛に八幡神社と善興寺の仁王像を依頼しているから、白滝山石仏工事においても太兵衛がいかに重要な仕事したか、容易に想像がつく。
ふるさとの史跡をたずねて(368)
仁王像(尾道市因島重井町郷善興寺)
重井町善興寺の山門下の石段の前に、白滝山中腹の仁王像とよく似た仁王像がある。白滝山の方は、八幡神社にあったもので、瓦屋根の仁王門の中にあるが、こちらは青天井で200年近く風雨に晒されてきた。天保5年(1834)年の建立であるから、正確には190年ということになろうか。したがって基台に書かれている寄進者の名はほとんど読めないが、右側(西側)が柏原林蔵、左側が村上十兵衛である。林蔵の名は白滝山中腹の仁王像にもあるから、両方の仁王像の建立は林蔵が進めたものであろう。
白滝山五百羅漢の石仏工事は文政13年(1830)に終わっている。伝六の依頼を受けた林蔵が基本プランを作り、尾道石工がそのままに作ったとは考えられないから石工全体の責任者である太兵衛などの意見が反映されたことは十分に考えられる。その3年余りの協力と信頼関係の結果が、これらの仁王像の建立につながったと思われる。
石工集団の組織については、詳しいことはわからないが、西洋の多くの芸術作品でもそうであるが、おそらくプロダクションであったと思われる。いわば工房で、名のある石工の下に何人かの弟子がいて作者銘にはその弟子たちの名は記されない。白滝山の石仏工事においてはその名ある石工が10人ほどいて、その中でも最も優れた石工が太兵衛だったと思われる。付き添いの弟子たちの人数はわからない。
白滝山の石仏工事と違い、2箇所の仁王像の製作においては林蔵と太兵衛の関係は発注者と製作者であったと考えられる。
ふるさとの史跡をたずねて(369)
瓢箪と駒(尾道市因島重井町郷善興寺)
重井町善興寺の山門下の石段の前に、仁王像がある。その仁王像の後ろは、当然石段を囲む塀の外ということになる。そこは普段は目にしないが、少し入って途中の石垣の外面を見ると、瓢箪(西側)と馬(東側)を彫った石がはめ込まれている。二つ合わせて考えると「瓢箪と駒」を描いたものだと思われる。
一説によるとこれも、仁王像を寄進した柏原林蔵の寄進だと言われる。
単なる隠居老人が、近所の柏原伝六から観音霊場・五百羅漢を作ることを依頼され承知したものの、まもなく伝六は亡くなり、その遺志を継ぐため山上に籠って工事の監督に当たった。その過程で尾道石工と意気投合して自らも石仏を彫った。その後、どういう成り行きかはともかく八幡神社と善興寺に仁王像を寄進することになった。まことに瓢箪から駒が出てきたような意外な人生の転換であった。・・と考えることはできる。
しかし、林蔵と善興寺との関わりは仁王像の一体の寄進をし、それを尾道石工に依頼しただけで、多少の施工の手伝いはしたかもしれないがそれ以上のことはしていない。個人的には白滝山上の等身大の自画像と似たものを彫って、自分と妻の戒名を胸に刻んで自家の墓地に設置しただけである。だからもし「瓢箪と駒」を彫ったのなら自分の墓所に設置したと考える方が自然である。
だから私は、これは林蔵の作品や寄進ではなく、参道工事をした石工の機知に過ぎないと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(370)
観音経の碑(尾道市因島重井町郷善興寺)
重井町の曹洞宗善興寺の参道に入ってすぐの左右両側に高い石柱が対になって立っている。
右側(西側)は「観音妙智力」、左側(東側)は「能救世間苦」とある。観音菩薩様の妙なる智力は、よく世間の苦を除く、ということである。
観音菩薩というのは、有名な「般若心経」の冒頭に出てくる観自在菩薩のことである。「般若心経」では色即是空、空即是色という最高の真理の認識者であったが、こちらは違う。世間を渡っていく上で出会う苦しみを、観音菩薩様はその持っておられる凄い知恵でよく救ってくれるというのである。しかし、観音菩薩が目の前にいる訳ではない。目の前にいない人にどんなに凄い力があっても頼みようがない。ならば、どこかで観音菩薩像を見かけたら頼めよ、というのは甚だ無責任だから、ここでは、その妙智力は「観音経」に書いてあるので、それを読むなり唱えるなりしなさいという親切心を表したものだと解釈しておこう。
ありがたいと思えばありがたいし、何とも思わない人は無視すればよいだけで、、せめて大地震の時に近くを歩いていたら、その下敷きにならないように注意しよう。
ふるさとの史跡をたずねて(371)
写真・文 柏原林造
法華塔(尾道市因島重井町郷善興寺)
曹洞宗の禅宗寺院である重井町の善興寺の参道に、曹洞宗の開祖道元禅師のお言葉でなく、「観音経」の語句が参拝者がまず目にする位置に掲げられていることは、ある種の驚異である。なぜならば道元禅師には著作物がなかったかというと、全くその逆であって『正法眼蔵』という百巻にも及ぶ膨大な著作が残されていて、それは我が国の宗教史・哲学史を代表する極めて優れたものなのであるから。
そんなことを考えて境内に上がると、さらに驚くべきことに、そこには法華塔があった。法華塔は『法華経』を供養する塔である。あの、「南無妙法蓮華経」の『法華経』である。『正法眼蔵』の供養塔ではなく、『法華経』なのである。ならば善興寺は元日蓮宗寺院だったのかというと、そんな話はどこにも書いていない。
大雑把に割り切って考えれば、道元禅師よりも『法華経』の方が大切だということになる。
道元だけでなく、法然、親鸞、日蓮など鎌倉新仏教の開祖たちが学んだ比叡山延暦寺が、中国の天台智顗が『法華経』を基に確立した天台宗の道場であったことを考えれば、『法華経』が重んじられるのは当然のことである。
さて、「観音経」はそのようなお経があるのではなく、『法華経』の第25章「観世音菩薩普門品」のことである。あるいは略して後半の詩の部分(偈と呼ばれる)だけがよく唱えられる。
だから、200年ほど前に重井村の柏原伝六が白滝山に観音信仰の霊場を作ったからと言って、曹洞宗に反旗を翻したわけではなく、表面的には曹洞宗の熱心な在家信者だった、ということになる。
写真・文 柏原林造