出航
三羽のユリカモメが白い腹をみせて数回旋回した。
遠くで別の船の汽笛が長く尾を引いて鳴った。
緑色の海水が船と桟橋の間を流れていく。ゆれる船の間から、白い泡がまわりながら昇ってきた。白い巨体が静かに振動を続けている。スクリューが海水を逆巻かせている。
六甲の山並が初夏の日を浴びてまばゆい。
六甲山の上に白い雲がかかっているほかは、雲ひとつなく、澄んだ青空がどこまでも広がっていた。
神戸港メリケン埠頭では、マルセイユ行きの豪華客船「ベルサイユ」が、出航を目前にしていた。
「さあ、いよいよ出発よ。日本ともお別れよ。二人ともよく見て。これがニッポンよ。お母さんの生まれた国ニッポンよ。よく見ておいてね」
長身の美紀は、和彦とリカを抱くようにしてしゃがみ、二人の耳元でささやいた。
それは、二人に言うというよりも、むしろ自分に言っているようなものだった。今度日本へ帰って来るのは、いつのことだろう。ずっとずっと先か、あるいはもう永遠に帰れないのではなかろうか、と思ったりした。別に確かな根拠があるわけではない。ただ、漠然とそう思っただけである。
しかし、それでもいいと思っていた。もともとフランスでずっと生活するつもりだったのであるが、夫のシュノンの都合で日本に帰っていたのだから。そのシュノンも今はパリにいる。
シュノンからパリに来るように連絡があったのが三か月前のことだった。父も母もすでにいないし、たった一人の身内である弟も、今はニューヨークへ行っていないのだから、日本にこだわる必要はなかった。今回フランスに行けば、もう戻る必要はないも同然だった。
でも、戻る必要がないというのと、戻れないというのはやはり異なるように思われた。今まではもう戻るまいと準備をすすめてきたが、今、日本を離れると思うと、やはりその船出は永久のものではないと、自分に言っておきたいような気持ちになった。そう思うと、かならず帰って来なければならないし、帰れないということはやはり不安の材料になるのだった。
美紀はライトブルーのツーピースで、白のベレーの下からのぞいたロングカットの髪が亜麻色に輝いていた。さっきまでしていた濃紺のサングラスをはずすと、二〇代後半の、細長い顔が現われた。形のよい鼻、涼しげな目元と対照的な大きな瞳が海辺の太陽に輝いた。手袋をはずした手には、海辺の太陽が直接あたり、最初の日焼けの痕跡を印していた。
五才になったばかりの和彦は、クリーム色のシャツにグレーの半ズボンで、白いハイソックスが太陽の光を足元で強く反射していた。
三才のリカは、帽子、ワンピースとも真っ白で、黒い靴だけが、白いデッキの上で特別目立った。白い帽子の下からかすかに伸びた髪は金髪だったが、帽子の作る日陰の部分は黒っぽく見えた。
銅鑼が鳴る。汽笛が鳴る。
バンドが演奏する中を、静かに船は桟橋から離れていった。紙テープが延び、やがて切れて海水の中に落ちて一際鮮やかな色になった。そして、弱々しく曳かれていく。海面を遊泳する細長い小魚が餌と間違えて追った。ときおり、小魚の体が銀色に光った。
見送りの人こそいないが、やはり、旅立ちというものは人を感傷的にするものらしい。何らフランスでの生活にも、長い船旅にも、不安はないのに、美紀は悲しくなった。頬をひとりでに流れる涙を、そっと拭いてから、二人を強く抱きしめた。
美紀と二人の子供たちには、見送られる人こそいないが、埠頭では、この親子の出航を見送っている二人の男性がいた。一人は黒いサングラスをかけて、無地のグレーのスーツを着た男で、美紀と二人の子供たちが、間違いなくタラップを登り、出航したことをあたかも義務ででもあるかのように、人垣の間から、静かにうかがっていた。
この男は、親子三人が神戸駅へ下りたときから、ずっとつけて来ていたのだが、もちろんだれにも気づかれてはいなかった。
もう一人の男もやはりきちんとしたスーツを着ていたが、その色は淡いブラウンで、いかにも、もの静かな印象を与えた。この男は別のところで、デッキに立った美紀と二人の子供を寂しそうに見つめていた。
もちろん、これら二人の男性のことを、美紀が知ろうはずはなく、また気がつきもしなかった。
和彦とリカは他の客にあわせて、不特定の見送りの人波に向かって、いつまでも手を振っている。幼い二人にとっては、今日の日も、特別の日になるはずであったが、果たしてそのことがをいつまでも記憶の檻に閉じ込めておくことができるであろうか、美紀には自信がなかった。しかし、こうして無心に手を振り続けて、この日の出来事を無意識のうちに心の奥底に焼き付けていればそれでいいのかもしれないと思った。記憶の奥底に沈潜した像は時の流れで洗われ、定着されて、いつの日にか突然甦ってくることもあるし、こないこともある。それはそれでよいのだ・・・。
バンドの演奏はいつまでも続いていた。
青い空もいつまでも続いていた。ただ、六甲山の上にかかる白い雲が、心持ちうすくなったように、美紀には感じられた。