潮音石声(白滝山論)そのⅠ(1〜6) そのⅡ
潮音石声 1
こういう題で白滝山についてエッセー風に書いていきたい。潮の音は既に聞こえている。生まれた時から。石の声はまだ聞こえない。彼らに、すなわち石仏たちに語ってもらおう。それが最終目標である。
はじめに白滝山に関する誤謬について指摘しておきたい。
①白滝山の語源について。
白い滝であるというのは間違いである。タキは崖を表す。白い崖山という意味だ。
②恋し岩伝説について。
伝説ではなく創作民話・説話である。白滝山の語源説話の部分は単なる子どもの創作で、話は逆である。もしそういう相撲取りがいたとしたら山の名前をもらったのである。
③千手観音の持物を十字架と解釈することについて。
全くの誤解である。無知の連鎖である。
④一観教について。
伝六の時代にも、伝六死後も、そして現代も庶民の間で、一観教という言葉が使われたこともなく、またそれを信仰する集団は存在しない。また、一観教とはこんな宗教だと、説明した人もいない。意味もわからずに書き写すのは知性の欠如である。
⑤伝六が毒殺されたということについて。
証拠もなく、全くありえないことである。
これらの問題については既に書いたり話したりしてきたことだが、改めていずれ書いておこう。ただ、通説の否定ばかりでは進歩がないので、白滝山とは何であったのかということを主題にして考えていきたい。
白滝山は五百羅漢ということになっていて諸記録も皆そう書いてある。羅漢信仰とは何だろうか? まずこの辺りから考えていきたい。
まず、宇井伯寿監修『佛教辞典』、大東出版社、昭和44年の中型第4版よりp.284「五百羅漢」。
①仏滅後第一結集の時、来界したる無学果の声聞五百人をいふ。大迦葉これが上首たり。②省略③支那・日本に五百羅漢の崇拝行はるるも根拠なし。
根拠なし、というのは例えば観音信仰なら『法華経』の25品、阿弥陀信仰なら『阿弥陀経』というような仏典がないということであろう。早くも、この問題の難しさが露呈したということである。
次に『岩波 佛教辞典』、岩波書店、1994年の第5刷より、p.15の「阿羅漢」より、要点のみ抜粋。「尊敬・施しを受けるに値する聖者を意味する。インドの宗教一般において尊敬されるべき修行者をさした。原始仏教では修行者の到達し得る最高位を示す。学道を完成し、もはやそれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位という。」
原始キリスト教というのはイエス没後からキリスト教が誕生するまでの間のこと。紀元後1世紀ごろ様々な宗教が起こり、その中の一つに後にキリスト教になるグループがあった。これらを原始キリスト教という。それに対して原始仏教というのは釈迦の言葉そのものを言う。釈迦入滅後、様々な解釈が行われ、大乗仏教と小乗仏教などと呼ばれた。我が国に伝わったのは大乗仏教である。
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『岩波 佛教辞典』の「阿羅漢」の続きである。元は仏の別称であったが、大乗仏教では弟子(声聞しょうもん)を阿羅漢と呼び、仏と区別した。また「特に禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈尊の正法が直伝されたことを重視するので、釈尊の高弟の厳しい修行の姿が理想化され、五百羅漢の図や石像を製作して正法護持の祈願の対象とした。」(p.16)
重井村の宗派は曹洞宗であったから、ここに五百羅漢と伝六や村人の宗教との関係が明らかにされる。すなわち、五百羅漢は曹洞宗と対立するものではない。
また、五百羅漢については次のような説明もある。長崎唐寺の道教的信仰の「その風は黄檗僧・黄檗寺院によって、やや薄められながら全国へ伝搬していくことになる。(中略)さらには十八羅漢や五百羅漢像などいわゆる黄檗様式といわれる異風な仏像彫刻は、儒仏道三教の混在を見る人の視覚に強烈に訴えたに違いない。」中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273)
白滝山の十六羅漢像や釈迦三尊像の背後(南側)にある個性的な羅漢像が異風で道教的だと言えばわかり易いだろう。しかし、言葉の上で道教と言ってもその実態を知るものは少ない。漢籍の分類では「荘子」「老子」「管子」などを道家と称するが、道家と道教は違うと幸田露伴は言っている。(『露伴全集』18巻、p.256)
「功過格」については後に記すが、そこでも道教の影響が出てくる。すなわち、仏像でも、伝六の教えでも道教の影響を否定できない、と結論を先取りするが記しておく。
なお、善興寺には「元文三戊午 月海湛玉上座 十月十四日」(元文三年は1738年)と書かれた、文字をなぞると字が上手になるとか、頭が良くなるとか言われ、墓参の時はお参りする黄檗僧の像があった。
次に観音信仰について考えてみたい。伝六は母が自分を身ごもったのは西国三十三観音にお参りしたからだと聞かされて、後年自分は観音菩薩の生まれかわりだと信じて、観音
道一観と名乗った。
このことは重要であり、伝六の宗教が観音信仰を基にしていることは間違いなかろう。また地元の呼び名として白滝山よりも観音山(かんのんさん)の方が一般的だった。
すなわち、地元では「かんのんさん」そして向かいの山は「ごんげんさん」が一般的で「白滝山」「龍王山」というのは、いわば「よそゆき言葉」であったということを強調しておきたい。
重井町は昭和28年までは重井村であった。そして村という言葉からイメージされるように村はずれには家はなく、それは隣接する大浜村、中庄村ともその村界に家などなかったのである。そういう閉じた社会では一つしかなければ「山」であり、複数あれば呼び慣れた名前で呼ばれる。それが「かんのんさん」であり「ごんげんさん」であった。
それが人の往来が頻繁になり、特に重井町になった頃から、そしてやがて交通機関の発達によってそれは加速されたわけであった。
人の往来が繁くなれば、他村(町)の人にもわかるように、方言が避けられ標準語を使かおうと努力するように、地図に書かれている「白滝山」「龍王山」が使われるようになった。すなわち、白滝山は、地元民には「五百羅漢」よりも「かんのんさん」として親しまれてきたのである。ただ「かんのんさん」という表現には「観音山」と「観音様」の両用があるが、「観音様(かんのんさん)」と言えば、「伝六さん」と観音像をさすが、おそらく「観音山(かんのんさん)」として多用されたと思う。
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観音信仰についてさらに考えてみたい。観音菩薩については『法華経』の巻八の観世音菩薩普門品第二十五に詳しい。「観世音菩薩は、かくの如きの功徳を成就して、種種の形を以って、諸の国土に遊び、衆生を度脱(すくう)なり」(岩波文庫『法華経』下p.256)というように相手に応じて姿を変える。我が国で『法華経』と言えば、鳩摩羅什の漢訳のものである。また、我が国で読まれる般若心経は、唐の玄奘訳が元になっていて、その冒頭はよく知られている観自在菩薩・・である。すなわち玄奘は、種々の形に変わるということを強調して観自在菩薩と訳したわけである。
いわゆる「観音経」というのは、上記観世音菩薩普門品第二十五の最後にある偈(げ)のことで、般若心経についで人気のあるお経で、多くの宗派の法事葬式等で耳にすることがある。曹洞宗との関係については、以下のような説明が参考になる。
「また、観世音菩薩には三十三応身といって、必要に応じて三十三に変身して衆生を救済する融通無碍の性格があります。このいわば円通自在の心が、禅者にとっては必要なわけで、刻々として移りゆく事象の変化に応ずる心境が要求されるわけです。観音信仰が特に禅宗において重要視されるわけです。」(松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196)
話はそれるが同書に松下氏はまた次のようにも記している。「地蔵菩薩は一所に滞在せず、常に遊行して人びとの霊を救う役割をもっています。禅僧が修行のためあるいは布教のため常に師を求めて江湖を行脚する姿にも似ているわけです。」「この地蔵信仰に関連して禅林でとりあげられたものに十王信仰があります。」「禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」と。ここまで書けば、白滝山が一時、曹洞宗善興寺の奥の院になっていたことが不思議ではないということがわかるであろう。そして白滝山五百羅漢が伝六にとっては、曹洞宗からはみ出たものでなかったことがわかる。すなわち、伝六が「観音道一観」と名乗ったからといって、曹洞宗から飛び出したものではないことがわかる。同様に白滝山が曹洞宗に異を唱える聖地を目指そうとしたものではなかったことがわかる。
さて、伝六が自ら観音菩薩の生まれ代わりだと言ったのであるから、さらに観音菩薩とは何かと考えてみたい。それは白滝山の最頂部、展望台の東側にある阿弥陀三尊像を見ればよくわかる。中央が阿弥陀如来、阿弥陀如来の右側が勢至菩薩、左側が観音菩薩である。この位置に阿弥陀三尊像を置くというのが伝六の意志によるのであれば、その観音菩薩は伝六自身でなければならないだろう。観音菩薩の生まれ代りで「観音道一観」と名乗る以上はそうであろう。そうでなければ言行不一致になるではないか。余談ながら、そうであるならば、阿弥陀三尊像より少し下にある一観夫婦像というのは余分である。私は必要ないと思う。ではなぜ、あそこに一観夫婦像があるのか。伝六寄進にはなっているが、伝六の子息の寄進ではなかろうか。そして、親の心子知らずで、頂上の観音菩薩が伝六であるという認識に達していなかったのだと思う。
「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)
同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。
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羅漢信仰、観音信仰と地元曹洞宗との関係を述べたので、次に伝六の具体的な活動であった、功過格について考えてみよう。これについては、すでに何回か触れたが再度考えてみたい。
これは伝六の教えを弟子の好善法師が筆写した教本の中にあり、本会資料第21回p.9 Vol.3(2018)以下で紹介したものである。宇根家文書01CU03『観音和讃その他』(好善法師本)。また柏原舒延氏の「霊峰白滝山の沿革」でも何度も解説強調されたものである。筆写本からわかるように雲棲寺の袾宏が書いた『増補繪抄 和字功過自知録叙抄』を写したものである。その原本を伝六が所持していたものを好善法師が写したのか、あるいは、伝六は現物を持ってなく伝録自身が写していたものを、さらに好善法師が写したのかどうかは、わからない。
さてこの功過自知録とは何かというと、一言で言えば道徳の点数化である。具体的にはそれぞれの項目に点数が割り当てられており、それを実施したら加算するというもので1日ごとに集計し、さらに月、さらに年間にわたって集計して自分の実践の反省をするものである。これは現在の中学生高校生あたりで、生活の記録として毎日、学習時間、テレビ視聴の時間・・と記録し勉強時間が少ないことを自覚させる取り組みとよく似ている。
青木茂氏の労作『因島市史』では「彼の書いたものをみると、心学的道徳的なものの概念が、かなり深いようである」(p.913)とあり、また本書宇根家文書01CU03『観音和讃その他』(好善法師本)の項目の紹介があり、「仏、儒、神道など道徳教的な具体語意を多く収録す」(p.915)と記されているが、功過格については、特段の注意が払われてはいない。
この功過格の流行について67回で引用した羅漢の黄檗様式に儒仏道三教の混在がみられるという説明の次にように指摘されている。以下中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273-274)「そのような素地の上に、知識人の間にはさらに王学左派的な学問・思想が新知識として与えられ、次第に林兆恩や袁了凡の伝や著者にも接し『太上感応篇』や『功過格』『隠隲文(いんしつぶん)』などといった善書の類も次々と刊行されて(中略)身近に用いられるような風潮が生じてきた」。また、「『功過格』などはその後は我が儒生の間にすっかり根づいて、有名なところでは日田(ひた)の淡窓塾の例の如く、日常徳目の成績表として普段に用いられるに至る。ともあれ一八世紀中葉のかかる道教的思想・学問の風の瀰漫は、これまた明儒の、それも王学左派的三教一致思想の波及するところであったことは確言できるように思う。」
さらに興味深いのは、「明儒の学の流行は、(中略)また新しい庶民倫理としての石門心学を生む」とあり、青木茂氏の「心学的道徳的なものの概念」というのも「功過格」の影響と考えていいだろう。
日田(ひた)の淡窓塾というのは現在の大分県日田市にあった広瀬淡窓の桂林荘・咸宜園のことである。桂林荘雑詠諸生に示すという漢詩があるのでその一部・休道を記しておく。
休道他郷多苦辛 いうことやめよ他郷苦辛多しと
同袍有友自相親 同袍友あり自ら相親しむ
柴扉暁出霜如雪 柴扉暁に出づれば霜雪の如し
君汲川流我拾薪 君は川流を汲め我は薪を拾はん
広瀬淡窓自身も万善簿というのをつけていた。良いことをしたら白丸1つ、悪いことをしたら黒丸1つをつけ白丸から黒丸を引いて1万になるのに何日かかるか記録したものである。1度だけ1847年、67歳で達成したということである。(享年75歳)。
これは江戸時代の話であるが、現代の話を書いておこう。三好信浩『私の万時簿–広島大学最終講義–』(風間書房、平成8年)に載っている。三好信浩氏は日田市の小学校の時、校長が「淡窓の実践した万善簿を、われわれ小学生に習慣づけようと努力された。一日一善、その善行の内容を簡単に記すだけのことであるが、毎日つけるのはかなり苦痛だったことを覚えている」(p.6)という経験から、研究者になってから研究に費やした時間数が何年何か月で1万時間に達するか万時簿として記録されたということである。
ここで主題にしている「功過格」と「万時簿」はなかなか結びつけるのは容易でなかったが、伝六思想の一つの柱である(と私が思う) 「功過格」の背景は江戸時代の流行にあり、その一つが豊後日田の広瀬淡窓の桂林荘・咸宜園であり、淡窓が自ら行った「万善簿」が戦前の地元の小学校に伝わり、戦後、教育史の研究者である三好氏によって「万時簿」として実践されていたというのは、誠に興味深い。しかし、伝六の「功過格」は地元因島では伝承されたという記録は、まだ見つかっていない。
さて、形式としては現在まで継続性は見ることができるが、その考え方の背景については『隠隲文(いんしつぶん)』について見るのが良いだろう。
石川梅次郎氏は『陰隲録(いんしつろく)』(明徳出版社)のあとがきで、述べている。「昔は大変よく読まれたが、今日はあまり読まれない本がある。陰隲録もそのひとつである」と。この本は明の学者袁了凡(えん りょうぼん)が書いたもので、ふつう「善書」と呼ばれる。「善書」「袁了凡」『陰隲録』と言っても、極めて限られた人しか聞いたことがない言葉であろうから、身近なところから記しておこう。「今日はあまり読まれない」どころか、「全く読まれない」と書いても、2022年の今ならおかしくはない。
いろいろ探してみたら、安岡正篤氏の『立命の書「陰隲録」を読む』(竹井出版、平成2年)というのがあった。年末に細木数子さんの訃報に接して安岡正篤氏の名前を思い出した方もおられるかもしれない。また、以前話題になった『菜根譚』の著者洪自誠は袁了凡の弟子であったと言われているので、こんなところにも、その考え方は現在にまで引き継がれているのかもしれない。
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伝六の行為でわかりやすい功過格の普及の思想的背景を考えるためには袁了凡の『陰隲録』から考察するのがよいだろう。安岡正篤氏の『立命の書「陰隲録」を読む』(竹井出版、平成2年)のp.17に「了凡は王陽明の高弟王龍渓について学んでおることもわかりました。龍渓の学問には随分私も厄介になったわけですが、陽明の直弟子の中では最も天才的な人であります」とある。ここで陽明学がでてきたので島田虔次『朱子学と陽明学』(岩波新書)を見てみよう。その「第3章 二 陽明学の展開、とくに左派」(p.146~)に
王龍渓がでてくる。色々書いてあって、「このような良知説が容易に『儒・仏・道」三教
の一致という主張にすすむであろうことは、ただちに想像できる」とあり、まことに興味深いが「このような良知説」がよくわからないので、『岩波 哲学・思想事典』を観ることにします。「気一元の天地万物一体観をもち、良知は宇宙と人間とを貫流する霊的性格をもつ究極的実在だとする。彼のいう性、良知は、道徳的本性を説く程朱学とは異なり、生理的欲求を含む点で、後世の人間論に継承発展する契機をもっている。ただ、人間の生理的欲望、聞見知識をそのまま天則自然として容認するのではなく、こうした日常意識を徹底して無化した『無欲』『無我』の境位において良知が真に発揮され、万物一体が実現するという。日常意識の虚無虚弱化へ向かうのがその倫理論の主題であった。」(p.182)
やはり、抽象的すぎてよくわからないが、これが弟子の袁了凡になると、より具体的になるのである。
その前に、こちらの流れは王陽明から王龍渓、そして袁了凡、それから広瀬淡窓らへと繋がるのであるが、もう一つの我が国への陽明学の伝わり方がある。それは王陽明から中江藤樹、熊沢蕃山、そして大塩中斎、佐藤一斎へと続く。その後へ吉田松陰と西郷隆盛、三島由紀夫を入れるかどうかは難しい。表面的にはそうであろうが、それぞれが少しずつ違う。違うと言えば、みんなそれぞれ違うのだから、並べていてもよいかもしれない。
大塩中斎と佐藤一斎は交流があった。西郷隆盛は佐藤一斎の『言志四録』を抜粋し「南洲遺訓」を作った。三島由紀夫は「革命哲学としての陽明学」(旧版全集34巻)で西郷隆盛に次いで吉田松陰を取り上げ、「陽明学は良知が到達した果ての太虚、言ひ替へればニヒリズムをテコにして、そこから能動性のジャンプを使ってしゃにむに行動へ帰って来るための帰り道であるといへよう」(p.475)と書いている。
佐藤一斎は『言志四録』を書き、袁了凡の弟子の洪自誠が『菜根譚』を書く。袁了凡の『陰隲録』は今では読む人はいないが『言志四録』と『菜根譚』は心ある人たちに今でも読まれている。
王龍渓から生まれた双子が『陰隲録』と「功過自知録(功過格)」であった。そしてこの両者は磁石のN極とS極のように引き合い、合本となって我が国では出版された。『陰隲録』と「功過格」の概要は本会資料24回p.51、25回p.69 Vo.3(2018)に記したが再度掲載してみよう。
「功過格」について。『大漢和辞典巻二』、昭和51年による。
日記のやうに一冊を三百六十五日に分け、各日に功・過の二欄を設け、更に行為の項目に細別し、日日、善行と悪行とを記して善に進む手段とするもの。宋時代に既に范文正公・蘇眉山及び張魏公にこの風があり、明代には袁了凡の功過格がある。又、道教信者間には、其の行為の善悪大小軽重によって、鬼神が禍福を下すといふ信仰があり、功過格は其の経典で、人の日常の行為を善(功)・悪(過)に二大別し、夫々の行為に対して点数をつけて其の善悪の程度を示す。信奉者は夜間、自己の一日の行為を省みて其の功過の数を調べ、其の点数を計算して之を記入して、月末には一月間、年末には一年間の点数を総計して、若し過が多ければ之が改革に努め、功が多ければ益々励んで、福を多く受けることに努める。(以上p.1447)
次に「功過格」について『岩波哲学・思想事典』は次のように書いている。
中国の明・清時代に流行した善書の一種。その思想は、禍福は本人が行なった善悪の行為に照らして天が決定するという応報の思想に基づく。古くは『易経』文言伝に善悪の行為が子孫の禍福につながるといい、晋の葛洪の『抱朴子』内編「対俗」「微旨」には善悪の行為がその人の寿命に結びつくという。仏教、道教の因果応報の思想とも関わる。宋代から善書が流行すると、この考え方が強調されるようになり、人の行為・思考は日夜、諸神に監視され、天に報告されて、その記録の評価に基づき、禍福・寿夭など運命の変更・決定がなされるとされた。だから幸福・長寿を求めるならば、善事に励み、悪事を避けなければならない。そのための善悪の行為とその善悪の程度を示したのが〈功過格〉という書である。 この書には、行為が「功(善)格」と「過格」とに二分して具体的に列挙された。それぞれの格(項目の意)に功(または善)・過、つまりプラス・マイナスの点数が付与されている。「死刑を免れしめると、1人につき100功」「妊娠中絶1回につき20過」というぐあいである。功過格の末尾に1年分の点数記入表(格図・格目之図という)が付けられていて、毎日、就寝前にその日の行為をふりかえって、功過それぞれの点数を記入し、月末に小計し、年末に総計する。明の袁了凡は3000善を行って子宝を授かった。
功過格の最も古いのは、1171年に道士の又玄子が夢のなかで授けられたといわれる『太微仙君功過格』であるが、明末清初には『雲谷禅師授袁了凡功過格』と雲棲袾宏の『自知録』などが著され、とくに流行した。『太微仙君功過格』には道教、『自知録』には仏教の色彩が強いが、多くの場合は、社会生活上の一般的な倫理・道徳が説かれている。わが国には江戸時代にもたらされ、和刻本や翻訳書が各種刊行されて流行した。(以上p.484)
類似の説明が「善書」の項p.956にもある。また、p.106の「陰騭録」の項は、興味深い。『陰騭録』には明の伯仕宋のものと。明の袁了凡のものの2種があり、前者は雲棲袾宏の「自知録」「功過格」を収め、後者には雲谷禅師伝の「功過格款」を収めている。袁了凡の『陰騭録』はわが国では袾宏『自知録』と1冊に収められて元禄14年(1701)に和刻本が出版された。(『岩波哲学・思想事典』p.566)
袁了凡は三教一致論者であり、雲棲袾宏は浄土宗の高僧でありながら禅宗と浄土宗の両者の兼修を説いた。また、儒教と仏教の融合を説いた。
同じ頃に書かれた書物に洪応明の『菜根譚』がある。「作者の伝記は不詳であるが、袁了凡に師事して道教を学んだ隠者的教養人の一人であったようである。洪氏の立場は、儒教を中核として道教と仏教の三教合一を説くもので、『菜根譚』は三教合一の真理を抽象的哲理としてではなく、自身の生活経験に照らして平明直截に述べた一種の教養書である。」(『岩波哲学・思想事典』p.566)
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いよいよ伝六が元にした「功過格」と「陰隲録」に入っていきたい。本来ならば、思想的背景となる「陰隲録」を先に紹介すべきであるが、まず「功過格」から見ていこう。
ここに『増補繪抄 和字功過自知録』という和本がある。これが重井町で発見されたものならば、伝六が見た本ということになるのだが、残念ながらそうではなく、私が古書店で求めたものである。
表紙 22.5cm 15.5cm
奥付には、安永五年丙申二月原刻 寛政十二年庚申九月再刻 とある。安永五年は1776年、寛政十二年は1800年であり、伝六(1781-1828)生存中に刊行されている。
巻末に4頁に渡って「格目之圖」として、集計表の見本がついている。右上に「年号干支」を書く。最終頁の晦日(30日)の次に「月の終に相くらふ(ぶ)、善、過」として1列に月ごとの合計を書く。さらにその次に「毎月あまる所の純善」として1列がある。これは善から過を差し引いた数を書く。最後の列の上半分は「一年総くらぶ善合過合」とあるから一年間の善、過の合計を書く。下半分には「あまる所純善凡得」ということだから
上に記した善の数から過の数を差し引いた数字を書く。
最後の3列は書き方の説明である。「受持乃人毎晩其日の下に善悪の数を記し卅(30)日に算用して余る所の善悪を記し、一年の総合差引し、我身の福(さいわい)又は罪をも知るべき也。善の数五百、一千乃至(ないし)一万に至らば必ず願成り満足するなり。」