2023年5月5日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 311-320

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ふるさとの史跡をたずねて(311)

村上雅房墓(今治市伯方町木浦)


 能島村上氏初代村上雅房夫妻の墓が伯方島にある。今治市役所伯方支所のある木浦である。曹洞宗禅興寺を目指す。山門から外を見ると左前方に楠の大木が見える。路地を少し歩くと着く。伯方支所の方から山側を歩くとお寺の手前になるが見過ごすことはないだろう。

 推定樹齢670年、樹高16m 、幹周7mの大木で、雅房逝去後、館の一部に供養塔が建てられ、そのうしろに植えられたものだと伝わる。

 その伝承の真偽は今となっては確認のしようはないが、禅興寺が村上雅房の開基になる能島村上氏の菩提寺であり、群廓複合式の木浦城跡群の一角であるから、そうであったのかもしれない。

 能島城跡や大島の城跡などとの関係はわからないが、伯方島内の遺跡の多さから考えても、かなり長い間に渡って、この辺りが能島村上氏の本拠地であったことは十分に考えられる。




ふるさとの史跡をたずねて(312)

来島城跡(今治市波止浜町来島)


 来島村上氏の本拠地来島には今治市波止浜港からフェリーに乗れば5分ほどで着く。島の東から南にかけての平地には民家が何軒かあり、建物はしっかりしているのに人の住んでいないような家もある。江戸時代以降、港町として栄えた名残だろう。



 南の人家が途絶えたあたりから西、さらに北へかけては岩場で潮が引いていれば北の方へ回ることができ、島の大きさが実感できてよい。

 さて、島の中央には小山があるのだが、どの面も傾斜がきつく畑になるようなところはほとんどない。おそらく民家のあるところも狭く、もし攻撃用に上陸しても留まるところがなかったのではないかと思われる。この地形と周囲の速い潮流を考えると、誠によくできて城塞であったと思われる。しかし、その傾斜地から頂上へかけて、何人が生活できるとかと考えた時、多くの家臣団が集うには狭すぎるように思われる。

 しかし、6代160年間にわたって、ここが来島村上氏の本拠地であったということが事実であったとすると、いくら家臣団が対岸や近くの島に住んでいたとしても、決して大所帯ではなかったと思わざるを得ない。



ふるさとの史跡をたずねて(313)

心月庵(今治市波止浜町来島)


 来島村上氏の城主の館跡を心月庵という。なかなか風流のある名前だが、館跡は荒れ果てている。建物は来島村上氏の時代のものではなく、江戸時代の建物でもなかろう。しかし、古井戸や庭園の配置から考えると、島の裕福な人が、城主の館の跡地で優雅な生活をしていたのではないかと想像される。そしてさらにその後、お堂や神社や石仏が加わったものと思われる。




 このような次第であるから城主の館を想像しても意味はないが、場所だけは良いところにあると言える。

 ちょうど城跡への登り口にあり、北面の構造はわからないが、必要に応じて海にも出れたのではなかろうか。もちろん切り立った崖は防御の機能をもっていたのに違いない。

 城跡に登れば急な勾配の上に村上神社があり、さらに登るとかなり広い平坦地に出る。国際航路である来島海峡の激しい潮流が眼下に見える。




ふるさとの史跡をたずねて(314)

芸予要塞跡(今治市波止浜町小島)


 東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる というのは啄木の有名な歌であるが、そんな感傷とは全く無縁な小島は波止浜から出るフェリーに、来島からさらに5分ほど乗ると着く。「こじま」ではなく「おじま」と呼ぶ。

 その小島は、一見人が住んでいるのだろうかと思われたが、確かに人が住んでいた。そして感傷ではなく、動と静とが混在していた。

 言うまでもなく動というのは速い潮流。いつまでも眺めて飽きない潮流であるけれども、島に滞在する時間は限られているので、未練を振り切って山に入ると、レンガ作りの建物が、まるで時間が停まっているように木立の中に佇んている。



 明治35年(1902)に旧日本陸軍によって築かれた砲台跡などだ。大久野島にあるものとセットになっていて「芸予要塞」と呼ばれた。明治37年の日露戦争で6門の28cm榴弾砲が旅順等へ移送されて使われたほかは要塞として一度も使われることなく、大正13年(1924)に廃止されたので、その当時のようすが今に伝わるわけである。発電所跡とか弾薬庫跡、砲台跡、砲座跡、兵舎跡などが点在する。

 なお、来島海峡のまったっだ中にあのるで周辺は激流であるが、地形により流れの穏やかな場所もあるので、上陸は容易であり、来島村上氏にとっては狭い来島よりも小島の方が生活には適していたと思われる。




ふるさとの史跡をたずねて(315)

芸予要塞跡(竹原市忠海町大久野島)


 大久野島へ行くには大三島の盛港からフェリーに乗れば15分で着く。ただし車では上陸できない。

 大久野島といえば、古くは毒ガスの島として、戦後は国民休暇村として、最近ではウサギの島として有名であるが、芸予要塞のことはほとんど話題にならない。前回の波止浜町小島の芸予要塞が伊予の方で、安芸の方が大久野島のものである。

 芸予要塞跡を見るには、フェリーから降りると右へ海岸沿いを進む。ウサギにも出会うが、発電所跡、火薬庫跡、


北部砲台跡と次々に古い建物が出てくる。しかし発電所は毒ガス製造用のものだ。北端に達したら少し手前から108mの小山に登れば、巨大な中部砲台跡関連施設がある。また中四幹線の高圧送電線鉄塔は塔高226mで日本一である。 


 なお、1129年に海賊追討使の平忠盛が平定した時、北側の地を忠海、南の大三島の地を盛と名付けたと言われている。

 また、中世には、この辺りは小早川水軍の支配地だから小早川庶家の砦があってもおかしくはない。しかし、確かな記録はないだろうから、細かなことを推定しても意味はないと思う。



ふるさとの史跡をたずねて(316)

村上義弘生家跡(新居浜市大島)

 今回訪ねた大島は新居浜市にあるので新居大島と呼ばれている。四国側の黒島港からフェリーで15分ほどで着く。今回は一周道路があるということなので車で行ったが、猪が落とした石が方々へ転がっており、お勧めできない。

 さて、車を港近くに駐車し、少し歩いた。村上義弘の生家跡だと伝わる村上邸はすぐにわかった。



江戸時代には庄屋を勤めていたが、西条藩主の避暑地として島本陣的な役割を果たしていたようだ。御成門の面影を留める門や武器を納めた箱などがあった。



 また、近くには大島城跡や船くぼ(造船所跡)があり、島内には出城や船かくしの跡がある。これらと義弘との関係はわからないが、栄えていた時があったと思われる。

 ここで力をつけた義弘はより広い伊予大島へ進出し、そこで亡くなる。跡継ぎがいなかったということであるから、子供がいなかったのだろう。

 信州からやってきた村上師清(もろきよ)が村上義弘の跡を継ぐ。義弘までの時代を前期村上水軍、それ以降を後期村上水軍と呼んでいる本もある。




ふるさとの史跡をたずねて(317)

能島城跡(今治市宮窪町能島)

 今の能島はかつての能島ではない。かつてと言ってもそんなに昔のことではない。ほんの2、3年前の能島とは大きく異なる。かつて瀬戸内海有数の桜の名所であったが、今はその面影すらない。去年の四月には桜があった。





今はただの無人の島である。

 桜の名所だった頃、臨時のフェリーが出て、花見と城跡見学ができた。海岸に降りれば岩礁ピットも見ることができた。昨春、上陸付き潮流体験に参加したが、文化庁が地下の遺跡の保存のために桜を伐るという話を聞いた。

 周囲の激しい潮流と能島村上氏との関係は考えれば考えるほど難しくなる。城塞としても小さ過ぎるし、この水路を好んで通る船が多かったとも考えられない。何のためにこの島を一時的にせよ、根拠地にしたのだろうか? こんな小さな島で不便な生活を送らなくても、大島は広く何かと便利であったのではなかろうか。


ふるさとの史跡をたずねて(318

造船所跡(今治市宮窪町鵜島)

 能島のすぐ隣にある鵜島は村上水軍時代の造船所があった場所として有名である。白石一郎氏の『海狼伝』はフィクションであるが、能島と鵜島は重要な舞台となっている。

 その鵜島に行くには、伯方島尾浦と大島宮窪のそれぞれの国道317号線を結ぶ、いわゆる国道フェリー(と呼んでいる人はいないと思うが)に乗ればよい。大島の宮窪港から行けば時間も短いし、鵜島港に着く前にひと山左の、造船所があった小浜の海岸が見える。ここは水軍時代には船役所があり、船奉行小浜源右衛門が住んでいたところである。

(左手前が能島、その右が鯛崎島。)

 また島内には、兵粮奉行中山繁右衛門が住んでいた中山(繁浦)や代官大谷弥左衛門が住んでいた大谷、陣屋のあった月の浜(着の浜、船着場)などの地名が残っており、主力部隊が鵜島にあったことがわかる。こうなると、近いとはいえ、急流で隔てられた能島本城の役目について考えざるを得ない。おそらく抗戦を目的とした城ではなかったのだろう。

         (手前が能島、向こうが鵜島。右端の湾が小浜。)


ふるさとの史跡をたずねて(319

鶏小島(今治市伯方町有津)

 しまなみ海道の各島は、干満の差による海水の東西への移動を妨げるように並んでいる。なかでも燧灘(ひうちなだ)と斎灘(いつきなだ)の広い海域の間にある大島は、その南北で急流が生じる。南を来島、北を能島の村上氏が占め、その残りの北側を因島村上氏が担当したのは、海賊業であれ、水先案内業であれ、あるいは関銭の徴収であれ、時代と共にその比重は変わったのであろうが、妥当な縄張りであった。

 さて、その大島の北側には伯方島があり、その狭い海水の通路を能島と鵜島がさらに狭くしている。鵜島と伯方島との間は船折瀬戸と呼ばれるぐらいだから、古来、海難事故も多かったであろう。こういうところは怪談話もまた豊富である。

 船折瀬戸には2つの岩礁からなる島があり鶏小島と呼ばれている。大きいほうには灯台があり、小さいほうは海食門の間から向こう側が見えて奇観である。 

 ・・・夜、船が進まなくなる。死んだ人の亡霊が出てきて、「杓を貸せ! 杓を貸せ!」と言う。老練な水夫は杓の底を抜いて渡す。亡霊はその杓で海水を掬って船を沈まそうとする。何度やっても船は沈まない。とうとう一番鶏が鳴いて亡霊は去った。

 地名語源説話にはヴァリエーションが多い。本当のことは誰もわからない、と書くべきであろう。



ふるさとの史跡をたずねて(320)

吉井勇歌碑(今治市伯方町有津)

 船折瀬戸の東、矢崎の集会所のところに吉井勇の歌碑がある。地図上ではエンコ石と書いているところだ。ただし、エンコ石と歌碑とは違う。



 鵜島から離れると海域が広がり潮流はおだやかになるだろう。二つの半島が直角に交わりその付け根に有津(あろうず)の港がある。

 その港町に、吉井勇が昭和12年の夏に二か月ほど滞在した。百以上の作歌があり、その一つである。

人麿がむかしいゆきし海をゆき うまし伯方の島山を見む」

 人麿には伊予の地名を詠み込んだ歌はないが、万葉集3巻303のところに「柿本朝臣人麿、筑紫国に下りし時、海路にて作る歌二首」というのがあるから、瀬戸内海を通ったことだろう。人麿に限らず多くの万葉歌人が瀬戸内海を通った。たとえば、額田王が「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と道後温泉近くで詠んだ歌は、単に時刻を待ったというだけではなく、月の形と位置にその土地における潮流が対応しており、船出の時刻を示していることががわかる。「人麿が」と言う五文字で万葉世界を象徴したものであろう。        
         



      写真・文 柏原林造





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2023年5月1日月曜日

夕凪亭閑話 2023年5月

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2023年5月1日。月曜日。晴れ。4520歩。68.45kg。朝から6月資料の完成、校正、印刷。途中でインクがなくなりエディオンへ買いに行く。午後、公民館へ印刷の依頼。来月からデジタル配信にして印刷物の配布はしないので、これが最後の印刷。この辺で生活のスリム化をしないと体力がついていかない。帰って、峯松神社へ。参道の枯れ葉の除去。雌竹の伐採。昼寝。よい季節。日没は佐木島ではなく近くにある大師堂山へ沈む。『徳川家康26』p.440まで。終わる。


2023年5月2日。火曜日。晴れ。3912歩。67.45kg。朝、峯松神社へ。枯れ葉の清掃。5月資料公民館印刷できる。閉じ作業。吉川英治『新平家物語(六)』(講談社文庫)p.284まで。


2023年5月3日。水曜日。晴れ。3083歩。68.2kg。朝、買い物。峯松神社、北側参道整備。琵琶の袋がけ。吉川英治『新平家物語(六)』p.432まで。


2023年5月4日。木曜日。晴れ。3688歩。68.2kg。朝、。峯松神社、境内、北側参道整備。午後、藤棚の管理。琵琶の袋がけ。吉川英治『新平家物語(六)』p.467まで。終わる。

2023年5月5日。金曜日。曇り、一時雨。3707歩。68.4kg。朝、峯松神社、境内清掃。午後、来客。


2023年5月6日。土曜日。晴れ、夜雨。4396歩。67.6kg。本郷、竹原行き中止。朝、峯松神社、鐘楼線整備。


2023年5月7日。日曜日。雨。2094歩。67.35kg。朝、買い物。吉川英治『新平家物語(三)』(吉川英治全集35)、講談社、p.132まで。


2023年5月8日。月曜日。曇りのち晴れ。16384歩。67.7kg。朝から伯方島島四国1番から23番まで。10人。


2023年5月9日。火曜日。晴れ。やや寒い。4619歩。67.75kg。朝、峰松神社、周辺整備。午後、昼寝。夕方庭木の剪定。


2023年5月10日。水曜日。晴れ。5730歩。67.6kg。朝、買い物。帰って、山へ草刈り。午後、論語を読む会。徒然草。3人。のち、歯科医院。1600円。ジュンテンドーでキュウリとズッジーニの苗を買って帰る。


2023年5月11日。木曜日。晴れ。5567歩。68.4kg。朝、瀬戸鬱タイムズ原稿送る。山へ草刈り。来客。午後昼寝。


2023年5月12日。金曜日。晴れ。1971歩。午後、古文書学習会。夜、解読文入力。


2023年5月13日。土曜日。曇りのち雨。3363歩。67.7kg。朝、峯松神社。午後、昼寝。『新平家物語(三)』(全集35)、p.180まで。


2023年5月14日。日曜日。曇り。3070歩。67.2kg。朝、峯松神社。午後、コロナワクチン接種。


2023年5月15日。月曜日。曇り。2059歩。68.2kg。腕が痛いので、ずっと家にいる。6月資料作り。


2023年5月16日。火曜日。晴れ。6143歩。67.8kg。
kg。第3火曜会。朝、20人。午後、19人。今回をもって定例会の第二部を終わる。7年間事故が起こらなかったことを感謝。


2023年5月17日。水曜日。晴れ。2816歩。67.7kg。朝から因島図書館で因島文学散歩の会。7人。「朽助のゐる風景」(新潮文庫『山椒魚』所収)終わる。帰りに買い物。帰って昼寝。夕方暑いので夕凪亭の方へ降りる。逆疎開をしようと思う。しかし、しばらくして寒くなったのでまた二階に戻る。


2023年5月18日。木曜日。曇りのち小雨。2845歩。68kg。10時から中庄公民館で因島文化財協会の準備会。大浜町の文化財協会が解散した。残りは重井、中庄、田熊、東生口となった。会長の後継者がいない。いるけれども嫌う。これでは続かない。文化財協会だけではない。他の団体でも同じだろう。田熊は研修旅行を計画しても高齢化で人が集まらないとのこと。事情はどこも同じ。昨日の夏を思わせる暑さは去って、今日はまた晩春から初夏という雰囲気。午後、昼寝。夜、6月資料。吉川英治『新平家物語(三)』(吉川英治全集35)、講談社、p.212まで。


2023年5月19日。金曜日。雨。午後晴れ。2513歩。67.25kg。朝から雨。時々テレビの前で立ち止まっては広島のサミット中継を見る。昼前に来客。因島の田中氏、脇屋義助について今治まで来て、脇屋が死んでから因島へ来たのであろうか。朝のドラマを見忘れたので、昼ごはんを食べてから見る。精米に行ったついでに灯油も買って帰る。5000円で45.87L。午後も寝転んで本を読んだり、古文書をみあり。夕方、つげの若芽を刈り込みバサミて刈る。


2023年5月20日。土曜日。曇りのち晴れ。3376歩。67.05kg。朝、ブログの整理。午後、庭木の剪定。古文書。夜ホトトギスの声を聞く。


2023年5月21日。日曜日。晴れ。3056歩。66.9kg。朝、買い物。午後、庭木の手入れ。吉川英治『新平家物語(三)』(吉川英治全集35)、講談社、p.255まで。


2023年5月22日。月曜日。晴れのち曇り。14582歩。68.2kg。朝から伯方島八十八箇所2回目。25番から54番前12人。


2023年5月23日。火曜日。晴れ。一時雨。2913歩。67.2kg。朝、来客。散髪。午後、昼寝。歯科医院。庭木の剪定。夜、寒い。


2023年5月24日。水曜日。晴れ。3311歩。67.7kg。朝、買い物。9時から中庄公民館で因島文化財協会総会。午後、重井公民館で論語を読む会4人。


2023年5月25日。木曜日。晴れ。4131歩。67.35kg。朝瀬戸内タイムズ原稿送る。庭木の剪定。柑橘の農薬散布。昼寝。古文書。

2023年5月26日。金曜日。晴れ。2329歩。朝から福山。午後福山城博物館でコピーしてもらってから古文書学習会。コピー部数が足らなかったので、終了後再び福山城へ。改装されたばかりの城は青空の元、実に清々しい。夜、入力終わる。


2023年5月27日。土曜日。晴れ。3525歩。66.95kg。朝、解読文メールで送る。午後、庭木の剪定。暑くもなく寒くもなくちょうどいい。風呂上がりに二階に上がると少し暑いが扇風機でなんとかなる。田熊から古本をあげるという連絡。これから何年生きるかわからないので、あまり本を集めても意味がない。既に残り人生では到底読みきれないだけの本で溢れている。それに再読、三読したい本も山ほどある。時間だけがやたらと少ない。


2023年5月28日。日曜日。晴れ時々曇り。3876歩。66.75kg。朝、買い物。午後、山へ草刈。庭木の剪定。梅雨間のパットしない天気。あまり暑くなく2階での生活を続ける。夜、公民館だより原稿を書く。


2023年5月29日。月曜日。曇りのち雨。2745歩。66.5kg。朝、公民館へメールで原稿送る。10時から文化財協会役員会。午後、山へ草刈り。


2023年5月30日。火曜日。雨。2777歩。66.45kg。本郷古墳巡りは雨のため中止。午後、少し雨が止むので山へ草刈り。
来客。


2023年5月31日。水曜日。雨のち晴れ。4588歩。66.45kg。朝、買い物。のち田熊へ。古い本をもらってくる。午後、山の草刈。夕方、瀬戸内タイムズ原稿を書いて8時前に送る。吉川英治『新平家物語(三)』(吉川英治全集35)、講談社、p.282まで。

読書の記録
5月1日
山岡荘八『徳川家康26』、講談社文庫。
5月4日
吉川英治『新平家物語(六)』(講談社文庫)
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2023年4月25日火曜日

因島重井町 天秀庵城跡

 

因島重井町 天秀庵城跡

2015-02-03 

天秀庵城跡

2015.2.1.二ノ丸東側。かつて山の神池があった付近。

2015.1.11.左が本丸。右が二ノ丸。間が、本丸の東側の水堀跡。今は暗渠になっている。写真奥が北側。

2015.1.11.水堀にそって北へ歩くと左手に本丸のあった丘が見える。

2015.2.1.水堀が西へ方向を変える辺りにある石灯籠。

 

2015.2.1.右が本丸。水堀を隔てて天秀庵。

2015.2.1.天秀庵。個人の家。北側。

2015.2.1.天秀庵の下、東側。左が二ノ丸。

2015.2.1.天秀庵北東の石垣。

2015.2.1.天秀庵からさらに西に歩くと、水堀が溝になっているのが見える。

20151.11.本丸への登り口。

本丸への登り口。

本丸のあった辺り。

本丸の西側は低くなっている。

天秀庵城跡

2023年4月2日日曜日

夕凪亭閑話 2023年4月

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2023年4月1日。土曜日。晴れ。6587歩。70.45kg。庭木の剪定。村四国yamap記録。「論語」写経。季氏第十六の1まで。


 2023年4月2日。日曜日。晴れ。4655歩。70.55kg。買い物。庭木の剪定。「論語」写経。季氏の5まで。


2023年4月3日。月曜日。晴れ。12803歩。70.6kg。朝から大島四国3回目。45番から67番まで。8人。折しも桜が満開でどこに行っても見事だった。「論語」写経。季氏の7まで。


2023年4月4日。火曜日。晴れ。7719歩。70.7kg。朝、買い物。午後、来客。


2023年4月5日。水曜日。曇りのち雨。6175歩。71kg。8時半に中庄をでて、仁賀ダム、仁賀小学校、仙石庭園。「論語」写経。季氏の12まで。


2023年4月6日。木曜日。晴れのち雨。歩。71.4kg。朝、せとうちタイムズ原稿送る。四月資料印刷。公民館へ印刷依頼。散髪。午後、山へ草刈り。夜、公民館運営協議会。「論語」写経。季氏の14まで。終わる。陽貨第十七の1まで。『竹堂かな帖』の百人一首、3回目終える。


2023年4月7日。金曜日。雨のち曇り。2057歩。午後古文書学習会。夜、入力文送る。「論語」写経。陽貨の4まで。


2023年4月8日。土曜日。晴れ。風強し。3104歩。70kg。「論語」写経。陽貨の12まで。『徳川家康25』p.429まで。終わる。


2023年4月9日。日曜日。晴れ。3923歩。69.95kg。朝、買い物。午後、来客。「論語」写経。陽貨の23まで。終わる。『徳川家康26』p.37まで。


2023年4月10日。月曜日。晴れ。4552歩。69.65kg。朝、山へ草刈り。昼から公民館。役員会、2つ。「論語」写経。微子第十八。6まで。


2023年4月11日。火曜日。晴れ。4462歩。朝から庭の草取り、剪定。「論語」写経。微子第十八。11まで。終わる。子張第十九の3まで。『徳川家康26』p.44まで。


2023年4月12日。水曜日。晴れ。2861歩。朝、買い物。午後、論語を読む会。3人。「論語」写経。子張の9まで。『徳川家康26』p.88まで。


2023年4月13日。木曜日。晴れ。68.75kg。4274歩。朝買い物。夏野菜の苗を買う。畑の草取り。「論語」写経。子張の13まで。


2023年4月14日。金曜日。曇り。夜雨。2252歩。午後、古文書学習会。Y氏病気欠席。F氏本会を最後に引退。「論語」写経。子張の18まで。『徳川家康26』p.94まで。


2023年4月15日。土曜日。小雨、午後曇り。夜小雨。2252歩。68.85kg。「論語」写経。子張の25まで。堯日第二十の3まで。終わる。以上で加地信行『論語全訳注増補版』講談社学術文庫での白文終わる。貝塚茂樹世界の名著で第1学而編で3まで。『徳川家康26』p.144まで。


2023年4月16日。日曜日。晴れのち小雨。3152歩。69.85kg。「論語」写経。学而編で6まで。『徳川家康26』p.178まで。古文書。畑の草取り。庭の草取り。



2023年4月17日。月曜日。晴れ。4646歩。69.8kg。朝、重井公民館で文化財協会総会。午後、畑と庭の草取り。『徳川家康26』p.216まで。古文書。畑の草取り。庭の草取り。


2023年4月18日。火曜日。晴れ。8231歩。68.85kg。朝、重井公民館で84回定例会。午後、中庄片刈山から縦走。『徳川家康26』p.272まで。古文書。


2023年4月19日。水曜日。晴れ。夕方雷雨。3869歩。69.1kg。朝、因島文学散歩。6人。p.40まで。帰りに買い物。午後、山の草刈り。庭の草取り。『徳川家康26』p.287まで。古文書。


2023年4月20日。木曜日。晴れ。6583歩。68.8kg。朝、せとうちタイムズ原稿書いて送る。庭の草取り。1時半来客、峰松神社へ。夕方、庭木の剪定。『徳川家康26』p.300まで。古文書。


2023年4月21日。金曜日。晴れ。4780歩。68.5kg。朝、郵便局。山へ枯れ枝の整備。これは足腰を鍛えるため。午後、庭木の剪定。古文書とあれやこれやの読書。昔の自分だ。集中主義を配して、分散主義へ回帰しようと一瞬思った。その方が自分に向いているのではなかろうか、と。今日もある人から電話があって、以前文学全集を差し上げると言ったが勘違いで捨ててあったとのお詫びだったが、一向に気にしてないとお答えしておいた。最近いただいた書籍の荷解きもまだ済んでいないのに、もう一つ別の人の本をもらいに行こうという話もあるので、ちょっと身の回りを見て反省した次第。このまま、こういう生活を続けておれば白滝山麓ごみ屋敷になるのは目に見えている。ちょっと考えなければ・・・。


2023年4月22日。土曜日。晴れ。8031歩。68.85kg。朝、山へ。枯れ竹の片付け。午後、昼寝。夕方、家の周りの整理。やることが一杯。その間に休憩がわりの読書。筑摩の古典日本文学全35巻の一つ、「仏教文学集」。この全集は、世界古典文学50巻の35巻のほるぷ版を買ったとき、1冊がサービスとしてついて来たが、全巻を揃える前にまず岩波の日本古典文学大系を先に揃えたかったので、買わずにおいた。両大系本が揃い、さらに歳をとって、ふと気になったのでネットで探して見たら、35巻本があった。安かったので買った。だいたい持っている本の現代語訳で、目新しさはなかったが、この歳になって原文はもう読めないと思っていたのがあり、これはこれで重宝している。「仏教文学集」の編集は見事というほかなく、また解説が良い。


2023年4月23日。日曜日。晴れ。6808歩。68.3kg。朝、買い物。庭の草取り。山へ。山は体力維持のため。夜、古文書学習会のためのテキスト原稿作成。20枚。それにしても体力が落ちたと思う。退職後10年だから当然といえば当然。このまま今の生活が続けられるとは思わない。それ相応のシフトが必要だ。これまでの活動の軟着陸だ。軟着陸と言うのはそもそも難しいものだ。


2023年4月24日。月曜日。晴れ。13592歩。68.8kg。11時半に寝て6時前に目覚める。カワセミが来ているかと池に行ってみたがいなかった。今朝は寒くも暑くもない。朝、8時前に出て、大島八十八箇所4回目(最終回)9人。無事結願。やや寒かったが、楽しい一日であった。車を駐めて、山の中の遍路道を歩くのは楽しかった。


2023年4月25日。火曜日。雨。4901步。68.25kg。朝から降ったり曇ったり、夕方から本格的に降り出す。朝、文化財協会一日研修旅行募集開始。午後来客。夕方、昼寝。夜、古文書。


2023年4月26日。水曜日。小雨のち晴れ。3467歩。68.5kg。朝、買い物。山へ草刈り。午後、JAへ行きビワの袋を買ってくる。1時より4時まで論語を読む会。4人。帰って昼寝。『徳川家康26』p.338まで。


2023年4月27日。木曜日。晴れ。4326歩。68.3kg。朝から資料つくり。10時ごろから山へ枯れ竹整理。午後も資料作り。夜、古文書。


2023年4月28日。金曜日。晴れ。2234歩。朝から福山。福山城。午後、古文書学習会。夜、本日の読解文、書き出。


2023年4月29日。土曜日。曇りのち雨。3961歩。68.4kg。解読分送る。峯松神社。5月資料作り。


2023年4月30日。日曜日。晴れ。3742歩。68.75kg。朝、買い物。峯松神社へ。5月資料作り。ほぼ完成。











読書の記録。

4月8日。

山岡壮八、『徳川家康25』、講談社文庫

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