正式な字は峯越しである。現在は川口と書いた方がわかり安い。
峯松山鐘楼線は白滝山の南西の尾根を登る登山道で、かつてよく利用された。峯松神社の先で右折して、尾根筋を登れば鐘楼下に至る。
灰の奥鐘楼線は、大浜往還(古道)を峯松山登山口からさらに登ってから左折して山に入る。尾根で峯松神社から登ってきた道と合流する。
注連柱(注連石)。鳥居と同様、ここから神域であることを示す。
右側「惟終」。
左側「追遠」。
右側後「同族中」。
左側後「昭和六年仲夏」。
注連石を過ぎて灯籠までの参道。
峯松神社。
注連柱(注連石)。鳥居と同様、ここから神域であることを示す。
右側「惟終」。
左側「追遠」。
右側後「同族中」。
左側後「昭和六年仲夏」。
注連石を過ぎて灯籠までの参道。
峯松神社。
2014.12.10.左へ進み、この岩が切れたところを右折して登れば、白滝山鐘楼下に至る。
2014.12.10.「峯松元祖 豊安大権現」「天保十二年二月建之」
2014.12.10.
2014.12.10.昭和6年建立の石燈籠。
峯松家は元祖の五郎左衛門家の旧紀によると、足利尊氏が新田義貞軍に敗れて九州に逃れるとき随従して尾道に来た、延元元年1336年のことで、そこから話は始まっているが、過去帳も家系図も見当たらず、4代末葉の室が元和8年善光寺に記帳され、その間286年間の姿が見えない。重井に居住した最初の分家の常楽院の記録に従った。元和8年1622年、常楽院大徳 歿、以降正確な記録がある。
村上安弘「わが家のルーツとロマン」p.53
峯松家は元祖の五郎左衛門家の旧紀によると、足利尊氏が新田義貞軍に敗れて九州に逃れるとき随従して尾道に来た、延元元年1336年のことで、そこから話は始まっているが、過去帳も家系図も見当たらず、4代末葉の室が元和8年善光寺に記帳され、その間286年間の姿が見えない。重井に居住した最初の分家の常楽院の記録に従った。元和8年1622年、常楽院大徳 歿、以降正確な記録がある。
村上安弘「わが家のルーツとロマン」p.53