2020年8月16日日曜日

因島 白滝山 リンク集 Mt. Shirataki in Innoshima Island,Shimanami Kaido.




MtShirataki (226 meters, 750 feet)

白滝山 (RCC中国放送 2018.2.11. 放送)
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2018.1.1.

アウトライン
白滝山五百羅漢と呼ばれています。これは創建当時からそう呼ばれていたようです。
それでは白滝山五百羅漢とは何か? というと、最上部に阿弥陀三尊像がありますから、極楽浄土を表したものでしょう。
発案者の柏原伝六は、子のできない親が西国三十三観音にお参りして生まれたということを聞き、のちに自分を観音菩薩の生まれ変わりと信じて「観音道一観」(かんのんどういっかん)と称したようです。
観音菩薩の役目に庶民を極楽浄土へ導くというのがありますから、伝六の仕事の締めくくりは、そうでなければなりません。ですから、ここは極楽浄土への入り口です。
ですから、そういう意味で白滝山五百羅漢を観音霊場と呼んでもおかしくはありません。
それで、伝六は近所の年配の柏原林蔵に石仏工事を依頼します。1600年の柏原氏重井土着の時には同じ家ですが、それぞれ分家になりますから、同族とはいえ濃い親戚ではありません。
林蔵が文政10年の正月から工事を始め、11月には阿弥陀三尊像が完成し、各地から多くの人が集まります。この時の寄付金を元に他の石仏群が作られます。
しかし翌年の3月15日伝六は亡くなります。しかし、林蔵の指揮の元、工事は続けられ、文政13年3月に工事は一応完成します。林蔵が工事を始めて実に3年3ヶ月です。この間林蔵は一度も下山せず、家族のものが他の職人(石工)たちの食事も含めて支えたと言われております。

天明元年 1781    伝六生まれる

文政11年1828   伝六死去  48 歳


文政10年1827年1月石仏工事始まる 11月釈迦三尊完成

文政13年1830年3月完成 


天保11  1840年 林蔵死去 74歳


観音堂  安政6年1859 観音堂再建

     大正8年1919年庫裏鐘楼再建  観音堂吹き替えか。 


数々の誤解
雨が降ると岩の上を流れて白い滝のようになったので、白滝山と名付けられたと書かれているが、本当だろうか。長年麓に住んでいるが、そんなの見たことない。おそらくそういう人の方が多いと思う。
谷川健一さんの「日本の地名」(岩波新書)のp.87に「中国地方から西ではタキの地名
は断崖を指す。」と書いてある。
こちらが正しそうだ。

十字状の持物を掲げた石仏を「十字架観音像」と書いてあるものがあります。実際には垂直に交わっていません。
これは若い人には、とても受けるそうです。受けるといえば恋し岩伝説というのまたそうです。
村上水軍でも同じことですが、またどこの観光地もそうでしょうが、歴史的なものであっても、その真実性よりも話題性の方に人々の関心が行くのは当然です。
いくら宗教的に崇高な遺跡でも、多くの人が宗教的な関心から訪ねるのではなく、景観の美しさや、ものめずらしさから訪ねているから、当然でしょう。
そして多くの観光地が人集めのためにそのような風潮に便乗し、有る事無い事を宣伝の材料に使います。それは白滝山にとどまらないと思います。そうするとそれを管理している人たちすら人が交代すると新しく入ってきた人は、その誤った宣伝を真実だと思って、さらに拡大再生産するでしょう。
本ページはそういう風潮を助長するものではなく、ちょっとおかしいぞ、と思う人たちのために書いております。ですから、上記風潮でご満足の方は、以下お読みいただいても無駄だと思います。どうぞ閉じてください。ここまでの閲覧を感謝いたします。
ということで、以下は私の個人的な見解です。
「十字架観音像」 は間違いです。十字架ではありません。「誤伝・十字架観音像」と記しておきましょう。
現在までのところ、伝六が「禁制のキリスト教をも加えた」という確たる事実はありません。伝六著作や関係資料の中からキリスト教関係のものが発見されれば、話は別です。
また、キリスト教を取り入れた伝六の新宗教を解説した人は誰もいません。
 それゆえ、白滝山が隠れキリシタン史跡であるとする確かな根拠は現在のところありません。
 さらにまた、「毒殺されたという噂」について書かれたものもありますが、これまた現在までのところそれを証明する確かな証拠(古文書等)はありません。
 それではなぜ、こういう話が出来上がったのか考えてみましょう。
 それは昭和25年ごろ地元の中学校の教師が伝六さんの偉さを自分では表現できなかったせいか、神道、仏教、儒教(ここまでならば当時としては当たり前)にキリスト教を加えて新しい宗教を起こしたと言ったことに始まります。
(根拠がない妄説です)。
 それではなぜ、現在も隠れキリシタンとか十字架・・が言われているのかというと・・・。
 それは白滝山の良さを言いたい人が、自分の言葉の足りなさを補うために、十字架・・とか言っているのではないでしょうか。
 十字架・・とか隠れキリシタンなどなくても白滝山は、きれいな空も海も島々も見えて素晴らしいところです。それに加えて見事な石仏群。それだけで十分です。
 
 隠れキリシタンが大石仏群を作ることなどありえないのではないでしょうか。
 それでは、あの十字状のものは何か、と思われる方は、他の場所の仏像や彫刻品をよく見れば似たようなものがあるでしょう。自分で探してみてください。
 そういうものと関連して、他の江戸時代の聖書とか十字架等の遺物があって、初めてそれらが隠れキリシタンの遺物と言えるのです。
 いい例がキリシタン灯籠と呼ばれるものです。ほとんどが隠れキリシタンとは関係ないでしょう。
 常識的にも学問的にも間違っていることがかくも長く無批判に信じられ書かれているのは無知の連鎖と言うほかありません。

次に、一観教について
  伝六が神道、仏教、儒教、それにキリスト教を加えて一観教を作ったと流布されていますが、奇妙なことに、その具体的的内容を説明したものはどこにもありません。
 最初に言った人の思いつき以上のものではないでしょう。そしてそれを内容も考えずに書き写し拡散させるのは、知性の欠如というほかはありません。
 新しい宗教一観教を言う人は、まず簡潔に、一観教とはこう言う宗教だと述べ、次に
既存の他宗教との違いを具体的に述べ、また一観教独自の概念は何か説明すべきでしょう。
 そういう作業をせずして、伝六が神道、仏教、儒教、それにキリスト教を加えて一観教を作ったという人は宗教を小学生の足し算や割り算と同じように考えているのではないでしょうか。

新尾道市史 上巻 文化財編』では、さすがに上記のような愚史は引き継がなかったが、一言の説明もなく「一観教」という言葉が使われているし、また明らかに間違っている十字架とかキリシタン関係の流説は現代でも方々に書かれており、過去の誤謬、すなわち解決済みの問題ではないにもかかわらず、否定や疑問も呈せられていない。したがって、「白滝山」の項目に限って言えば、まことに、学問的なレベルは低い。

「一観教」という言葉は伝六自身も、弟子たちと呼ばれる関係者も、あるいはそれらの人々の子孫も使ってはいない。また、教団としての活動はなされていない。
 伝六の死後も地元の関係者は曹洞宗のままであり、伝六の法要も曹洞宗で行われているし、「一観教」という実態はない。
 

 


 


総覧107 白瀧山頂の石仏。
すでに「全国ふるさと富士」や「にほんの里100選」にも入っている白滝山が公益財団法人日本離島センターによって、「しまやま100選」に選ばれ11月26日(土)に公表されました。岩城島の積善山なども入っております。
しまやま100選
全国ふるさと富士
にほんの里100選


話題:自転車で山頂へ 「因島富士」とも言うのですね。


頂上図(パンフレットより)


石仏661  
山頂広場555体
過去七佛7体+21体
鐘楼 鐘楼下3体
観音堂広場28体
多宝塔(+8磨崖仏)9体
 表参道71体      裏参道3体
山門下石段6体                子授け観音1体
塩釜神社                      裏参道磨崖仏1体
慈母観音 1体                 裏参道石仏1体
一丁〜慈母観音1体            ウサギ岩 カエル岩
くんぐり道分岐           くんぐり道2体
 白滝フラワーライン駐車所分岐        白滝山奥の院1体
                    道了大権現 愛宕神社 秋葉神社  
大日如来25体             くぐり岩1体
くんぐり道分岐
六地蔵6体
 仁王門2体

伝六さん(墓所12体
白滝山関連Link
「白滝山霊異記」 現在公開しておりません。
白滝山案内(他サイトリンク集)
その他のLink
しげいみち 




Mt. Shirataki in Innoshima Island,Shimanami Kaido.