2020年11月12日木曜日

ふるさとの史跡をたずねて 181-190回

本館 白滝山 いんのしまみち 



ふるさとの史跡をたずねて(181)
不動明王(因島大浜町福泉寺)
 大浜町の真言宗福泉寺は因島村上家の分家筋の村上丹後守吉房創建のお寺ということで65回(2017年12月9日)で書いたが、江戸時代に再建したのは細島の修験者であった。
 細島のの松本屋西原氏の初代松本弥兵衛は72歳で天正八年(1580)に亡くなっている。以後、各代の戒名は禅定門・禅定尼で修験者はいない。ただ、初代のところに「我が宅地の上に白道院の古跡あり、代々所有す、他家は無論親類たり共譲を禁ず、土人此地を道院畑と呼」とある。
 一方、福泉寺の伝える文書によると、松本弥惣兵衛氏清は大内義隆の四天王の一人で、甲州船起山の合戦で負けて死ぬ。「子供二人あり逃れて牛窓に来り山伏となり、遂に細島に来りて住す。弟は松本の性(姓)をかたり百性(姓)となり、兄は僧となり」福泉寺の住職となったと概説されている。その後に、氏清から、氏政(酒井先祖)、氏勝(白道和尚)、実長坊(福泉寺祖)と人名が続く。四代俗名実長坊については、権大僧都浄慶法印、細島にて父子修行、慶安四年(1651)没などの記述がある。
 以上の二つの伝承を私なりに最小限の修正で整合性を持たせると次のようになる。氏清の子供二人は細島に住んで、大浜酒井氏、松本屋西原氏の祖となる。酒井氏三代の実長坊が福泉寺の専属住職となり、細島を去るとき土地屋敷は松本屋へ与えた。
 酒井氏により福泉寺は守られるのであるが、『御調郡誌』277頁に紹介されている山伏吉祥院は十代大越家吉祥慶賀法印のことである。大越家とあるので福泉寺住職が他家に変わったような印象を受けるが、そうではない。大越家(だいおっけ)というのは当山派山伏の最高身分のことである。なお、この吉祥院は中庄村佳屋からの養子である。
 不動明王は山伏につきものであるが、多くの宗派で奉納されているので、これだけでは修験道関連遺物だとは断定できない。しかし福泉寺の場合は、本尊の十一面観音を左脇侍の役行者とともに右脇侍として不動明王が配されており、山伏好みだと思う。










ふるさとの史跡をたずねて(182)
天狗山(因島中庄町)
 中庄町の天狗山は中庄のお宮、すなわち熊箇原八幡神社の裏山であるが、青影山があまりにも有名で、そちらばかり話題になるせいか、知名度が低い。
 しかし高さで言えば、青影山276mよりも少し高く291mである。因島最高峰の奥山(観音山)391m、風呂山301mに次ぐ高さである。そして、その名前が示すように修験道に関係があったことは間違いなかろう。
 神社の裏手に登山道らしきものはあったが、潅木に覆われて消えかけている。北面の尾根を登ったが、斜面は樹木がなければかなりの急勾配で修行の地であったと言ってもおかしくはない。
 頂上には、三角点、明治34年3月の寄付石、それに神武天皇遥拝所の石碑があった。石碑は台石から落ち倒れていた。せっかく登ってきたのだから元に戻そうと三人で努力したが、重くて台石の上に載せることはできなかった。せめて起こしておこうということで、写真のようにして下山した。現在は元に服しているかもしれない。
 神武天皇を遥かに拝むということは、奈良県の橿原神社の方を向いて拝むということである。熊箇原八幡神社の祖である従五位下隠島神社が紀州熊野神社の熊野大権現を祀るから神武天皇と特別な関係があるが故の遥拝所か、あるいは時代の流行故の遥拝所であるかは私は知らないが、ここで神武建国神話を思い出しておくのも無駄ではないと思う。
 神武天皇は熊野から3本足の八咫烏(やたがらす)に導かれて大和に入り畝傍の橿原宮で即位した。紀元前660年の元旦で、太陽暦に直すと2月11日で、戦前の紀元節、現在の建国記念日となる。
 なお余談ながら、私の姓と橿原神社は同音であるが関係はないと思っていた。ところが、旅の途次寄った信州の家紋工房で、「家紋のことなら何でも聞いてください」とあったので、こちらの名前は言わず、「丸に抱き柏です」と言うと、「奈良の橿原神社で食事を司っていた人たちの間で使われていた家紋です」との返答には驚いた。



ふるさとの史跡をたずねて(183)
修験者の墓(因島土生町宝地谷)
 国道317号線というのがある。大浜町のアメニティープールのところから中庄町を通って、青影トンネルを抜けて、田熊町の金山フェリーまでが因島内。すなわち尾道市から今治市まで、島伝いに行くルートで、後に延長されて松山市まで伸びた。だから因島の両端はフェリー乗り場という訳で、北のほうはその面影は今はない。このルートに沿って話を進めると、次は山伏山ということになる。しかし、山伏山については、140回(2019年7月20日)にすでに書いた。そこで今度は少し後戻りしながら南部へと足を伸ばしてみよう。その時書いたように、山伏山から龍王山、青影山と辿れば大山峠を経て土生町に入る。あるいはもう少し東よりの尾根を降りれば、百凡山や木の山砦近くを通って、小丸山へ出てその先は因島公園のある天狗山(浅間山)である。
 わざわざ上り下りの多い山道を通らなくてもよかろうにと考えるのは、車の通れない道は道ではないと思っている現代人の偏見である。
 柳田国男は「峠に関する二、三の考察」(青空文庫、岩波文庫「山の旅 明治・大正篇」)という小文に、交通機関の発達とともに峠道はより低く、より遠回りとなったと書いている。これは因島でも当てはまり、トンネルのないところでは最も遠回りをしているのである。
 だから一度尾根に出れば、「まるで天狗のように駆け抜けることができる」のである。
 鏡浦町では地蔵堂の向うに修験者が住んでいたとか、椋浦町では松本塾の創始者松本良寛は山伏で、重井の常楽院家と交流があった、などと語られるが、彼らにとって山の道は修行の道であると同時に交流の道であったに違いない。
 土生町の変電所近くにある水軍時代の第二家老稲井氏の菩提寺であった宝持寺跡にある石塔群の東上には、写真のような修験者の墓がある。小丸山の麓であるから、どこへ行くにも便利な所に住んでいたと考えられる。



ふるさとの史跡をたずねて(184)
石鎚大権現(因島大浜町重岩) 修験道の霊山として中国地方では大山、四国では石鎚山が有名である。88箇所の四国遍路の札所は弘法大師空海のゆかりの地ということであるが、もともと山岳宗教の修行場で空海も修行したことが始まりであろうから、修験道関連史跡を探せばいくらでもあるのであろう。中でも石鎚山は西日本の最高峰でもあり、古くから多くの人を魅了してきた。山に畏敬の念をもち宗教的な憧憬を抱くのは、日本人のみならず人類共通の本能のようなものである。だから高いところにある札所は余計にありがたい。それらが四国霊場の魅了を増していることは、遍路経験者の多くが久万高原町の札所や横峰寺に忘れがたい印象を持っていることからも窺われる。
 石鎚山は因島からも場所や天候によりかすかに見えることがあり、特別の思いを抱く人も多いだろう。島内にも石鎚神社を祀ったものがある。その一つが大浜町の石鎚大権現である。大浜町と言っても白滝山の北側だだから、重井町からのアクセスがよい。白滝フラワーラインの三叉路で、白滝山方面へ向かわず大浜方面に向かうと、登ったところである。フラワーラインに車を駐めて、東側にある赤い鳥居の下を抜けると、山側に石鎚大権現を祀った岩がある。石鎚というのは石の霊のことだから、岩が御神体であるのは納得できる。その前には大きな岩があるが、手すりはないので注意が必要だ。
 ここは、字名の重岩と呼ばれる大きな岩のある絶景の地である。因島北インターから、しまなみ海道を尾道方面に向かって利用すると、本線に合流して白滝山の南を回ったところで左手中腹に大きな岩が見えるだろう。春先には幟がはためいているのでわかりやすい。深い谷の上に大きな岩が重なって絶壁となっている。
 その岩の上からの大浜方面の眺望は誠に素晴らしい。大浜や細島の修験者がここで修行をしたのかどうかは、私は知らないが、そのゆかりのところに石鎚大権現を祀ってあると考えてもおかしくはないような場所である。
 石鎚大権現の写真を撮ろうとすると、絶壁を背にする。撮影スポットではないことを申し添えておきたい。




ふるさとの史跡をたずねて(185)
石鎚神社(因島重井町龍王山)
 重井町の龍王山は因島高校の北に聳える340mの山である。雨乞いをしていた山は八大龍王を祀るので龍王山と呼ばれ、至るところにある。今は印刷物に従い龍王山と呼ぶ人が多いが、ふだんは権現山と呼ぶ。権現には蔵王権現や熊野権現などいろいろあるが、頂上に写真のような石鎚神社の石碑があるから、石鎚大権現を祀っているのであろう。他の権現を祀っているようには思われない。
 だから、前回の重岩の石鎚大権現と同様のものだと思ってよいだろう。ここで修験道の話が突然神社の話になって戸惑われる方もおられるだろう。これを説明するには、例の中庄村出身の鴻雪爪翁の話に戻らなければならない。明治維新で宗教政策は大きく変わり、神道、仏教、それに新しく公認されたキリスト教に限ると雪爪翁は提案した。したがって、修験道はもちろん江戸末期に起こった天理教や金光教なども、そのいずれかでないといけないことになった。それで修験道の多くは寺院に属し、一部は神社に属した。それは修験道がもともと神道に通じる山岳宗教に仏教や道教などを取り入れたものであったからだ。石鎚山には古くから成就社があったから石鎚神社として継承した。また明治の宗教改革はでは神社と寺院が同居する神仏習合も禁じられたので、横峰寺と前神寺が分離した。四国遍路のガイドブックの多くに、この二寺は石鎚山の元別当寺であったと書いてあるのはそういうことだ。また両寺がその開基をともに役行者小角とするのも同じ理由である。
 だから石鎚神社というのは修験道系の神道と考えてもよいかもしれない。あるいは信者の中には神道系の修験道だと思っている人がいるかもしれない。そんなところに人気の秘密があるのか、石鎚神社や石鎚山遥拝所が多数存在するし、山開きを中心に行われる大祭には多くの人が集まるという。ここで山開きというと、海開きと同じようにそのシーズンの解禁日の印象を受ける。そのような意味で使われる山もあるかもしれないが、修験道では一日だけの特別な行事を山開きと言っているようだ。
 さて、重井町の権現山に戻ると、そこには石鎚山遥拝所の建設寄附碑がある。それで遥拝所はどこだろうかと考えると、明らかに写真の位置であろう。そうしたら石鎚神社はどこにあるのだと迷ってしまう。山頂の或る範囲が石鎚神社であり、同時に石鎚山遥拝所であろうと解釈しておこう。


ふるさとの史跡をたずねて(186)
石鉄神社(因島土生町龍王山)
 因島南小学校の東側に、かつて三庄町との往来であったと思われる山路がある。登って行くと右側に石切場の跡があり、垂直に削られた岩の下は池になっている。登りきると峠で、近くに三庄明徳寺山四国八十八ケ寺がある。峠の少し手前に、左へ行けば竜王山という看板があった。やや複雑な地形で十分に説明できないが、少し下った別の頂が龍王山だったのだろう。その下り道は、山道というよりも畑道に近かった。実はこの道が、昭和42年の高校一年の時、生物の時間に井手元先生に連れられて野外観察に来たところだと、知人に教えられた。とは言え、前の生徒について歩いただけであるから、どこをどう通ったか全く記憶にない。どうやら当時の因島高校(現因島南中学校)と天狗山を結ぶ最短コースであったようだ。
 さて竜王山は巨岩の山である。山四国も尾根近くは巨岩の傍に佇んでいるという感じで、その岩にも驚かされるのだが、そのような巨岩が何個かずつまとまってあるから、誠に壮観である。そして小さいながら登山路らしきものもある。
 少し降りたところに石の小祠があった。イノシシにでも壊されたのかバラバラになっていたが、完全なものもあった。祠の一つに「石鉄山」とあった。石鎚山のことである。このことから石鎚神社(石鉄神社)と石鎚山遥拝所であったことがわかる。樹木が多くは視界はよくないが、建設当時は気候によっては石鎚山がよく見えたのかもしれない。近くの祠からは「享和元酉八月吉日」の文字が読めた。享和元年は1801年である。庶民信仰の跡を留める貴重な場所である。
 さらに下ると三子松の円筒形の古い貯水槽の所に出たから、こちらから登るのが近いと思う。 
 天狗山から小丸山へかけての尾根筋は長いから、方々に登山道があったのであろうが、人が通らなくなると潅木に覆われて消失するのは、ほかの多くのところと同じである。



ふるさとの史跡をたずねて(187)
権現宮(因島三庄町二区)  島四国34番種間寺へは三庄町善徳寺にある33番雪蹊寺を出て、切り通しのバス通りを東へ下り、権現池を目指す。ところが百凡山の南東の畑道の下にへんろ専用の道標がある。このことから、バス通りを南へ越えて、百凡山周辺を通るへんろ道がかつてはあったと思われる。百凡山は不思議な山で、東側に山麓と呼ぶには高すぎる位置に、草に覆われた広いなだらかなところがある。そこにも道があったかも知れないが、その道は想像できないので、他のルートを考えると2つある。一つはその広いところより東側で、片山家の墓地周辺を通る小径。もう一つは百凡山の西側、百凡山と百凡池の間を南へ抜ける道。これはどんどん進めば小丸山を通って天狗山へ続く。この道を百凡山の南で東へ曲がり畑道を下る。この二つの小径が出会うあたりに前述の道標がある。ここからは柑橘畑の中を、南東へ下ると権現社に出る。近くにあるため池が権現池である。
 種間寺はこの権現社の中にある。権現社は鳥居も狛犬もあって、誰が見ても神社である。因島はもちろん他の地域でも島四国、村四国がお寺の中にあるのはよくあることだが、神社の中にあるのは珍しい。それは明治の神仏分離令以降の世界に生きている我々には当然のことである。だから、この種間寺の違和感は何だろうかと思っていたが、やっとわかった。すなわち「仮住まい」であった。台風で壊れて権現社に同居させてもらっているのである。近くにあったのだろう。
 さて、その本家である権現社は鳥居に「権現宮」とあるから石鎚権現かと思ったら、向きからわかるようにそうでなかった。江戸時代も終わりに近い文化の頃(19世紀初め)、熊野の本宮、新宮と那智大社の飛竜権現を三所権現として勧請したものである。そして修験道の道場でもあったそうである。
 権現池というように、地域の名となっているということから、地域に開かれたお宮であったことが伺われる。








ふるさとの史跡をたずねて(188)
御嶽大神(因島重井町白滝山)
 御嶽教は江戸時代後半に山岳宗教から出発し、明治以降国家神道的な宗教になった。だから江戸時代の木曽御嶽講を明治以降の御嶽教と同列に論じるととんでもない誤りに陥るであろう。
 しかし、御嶽大神というのはクニトコタチノミコト、オホナムチノミコト、スクナヒコナノミコトの三神のことで、御嶽講の伝統を継承しておりながら、明治以降の御嶽教では神徳の発揚と敬神、尊王、愛国を教義としている。一方、御嶽講の方は時期によって異なるが、修験道の祈祷行法による現世利益に惹かれた農民層を中心に発展していた。
 このようにまことに複雑な御嶽教の小祠が白滝山にあるのだ。と言ってもご存知ない方が多いと思う。山頂で大浜町方面を望むと東の端に日本大小神祇と書いた石碑がある。その後ろにある大岩が、いつの頃からか、ゴリラ岩と呼ばれている。語感からして古い呼び名でないことはわかるだろう。そのゴリラ岩の裏側(東側)に回ったところにある。
 その設置が、明治以前か以後のものかが私には気にかかる。前述のように教義は変わっても御神体は同じだから、写真のように御嶽大神とだけ書かれているので、どちらのものかは決めることはできない。
 古い写真では日本大小神祇の隣にあるように見える。日本大小神祇というのは、日本の様々な神々ということで白滝山五百羅漢建設当時のものとしては唯一の非仏教的建造物である。神仏習合、すなわち神も仏も一緒に拝んでいた時代であった名残である。それとの近親性からここに祀られたのなら、明治以降のことであろう。
 あるいは、鴻雪爪翁が御嶽教の第二代管長になられたのは、明治18年から37年までであるから、その関連かもしれない。 






ふるさとの史跡をたずねて(189)
浅間神社(因島土生町天狗山)
 旧土生小学校の校歌は「朝夕映えて天狗の山も、絵にさえまさるほまれも高き瀬戸内海を見はるかし」と始まる。一方旧三庄小学校の校歌は「朝日夕日にうるわしく、えまいて高き浅間山も」と始まる。どちらも「ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む」の福山市出身の童謡詩人葛原しげるさんの作詞で、同じ因島公園のある山のことである。葛原さんの作詞になる校歌は因島内の学校に他にもあるということはすでに何度も書いたので、そのことはこれ以上触れない。 
 山の名前は地域によって呼び方が異なるのは当然である。そもそも地域を隔てるものの一つであるから、色も形も異なり、それらに因む名前が異なるのは当然であろう。因島最高峰の奥山というのは、重井町に住む私には、奥の奥で見えないから、まさに奥山でぴったりだが、目の前に見える三庄町の子供に奥山と呼べと言っても呼ばないだろう。
 ところで大浜町と重井町の境界をなす白滝山は両町で同じであるが、名前の由来になった思っている滝がそれぞれ異なるのがおもしろい。以前にも書いたように「タキ」は崖を表し、それに滝の字を当てたにすぎない。そもそも雨の少ない因島で水の落ちる滝を探そうとするのが間違っている。
 さて、天狗山(浅間山)に話をもどそう。「あさまやま」と呼ぶのなら立原道造さんの詩とからめて別のところで書けばよいので、ここで取り上げる必要はないのだが、「せんげんさん」と呼ぶのだそうであるから、前回の続きで是非書いておきたい。
 せんげんさんのあるところには「せんげん神社」がある。浅間神社は、多少修験道とも関係あるし、また山の神、すなわち田の神さまと関係もあるのだが、やはり富士山信仰との関係が最も深いと思われる。
 その浅間神社は、天狗山の一番高い場所にある駐車場からさらに歩いてテレビ塔と展望台があるところへ登る途中にある。写真の左は「石土蔵王大権現」と読める。これは石鎚山信仰であるから、山どうしで相性がよいとも言えるが、もともと八百万(やおよろず)の神と言うように多神教の日本人は、キリスト教などの一神教と異なり、何でも合祀が可能だからよいのであろう。


ふるさとの史跡をたずねて(190)
下海吉十郎像(今治市上浦町瀬戸)
 芋地蔵のことを語るにはまず大三島に行かなければならない。上浦町の向雲寺には、下海(あさみ)吉十郎翁の顕彰碑の隣にブロンズ像がある。杖をついて胸の前に下げた鉦(かね)を叩きながら諸国を行脚する姿である。全国66か国の各国1寺に、写した法華経を納経して回る修行である。こういう人を六十六部行者、あるいは略して六部(りくぶ)行者と呼んだ。
 背中に籠を背負っている。笈(おい)という。竹冠がついているように竹製である。『勧進帳』の弁慶らが背負っていたのは直方体であったが丸いものもあった。山伏や高野聖なども同じような笈を背負って諸国を遍歴した。この笈の中には旅行道具や衣類などが入っていたのであるが、仏像が一体あった。これを「守り本尊」という。山伏には不動明王が好まれた。滞在先で仏像を彫って奉納したそれを胎内仏とした。仏像は重いのでだんだん小さくなった。のちには「不動明王」とか「弘法大師」とか紙に書いて入れるだけになった。四国遍路の「同行二人」というのも、そこからきていると私は思っている。
 さて、この像の近くに住んでいた大三島の住人下海吉十郎氏は正徳元年(1711)六部行者として、薩摩国伊集院村の農家に泊まった。その時、サツマイモをご馳走になった。栽培法などを聞き種芋を所望したが、薩摩藩は国外持ち出しを禁じていた。それをどのように持ち出したかは、提供者も本人も法を破ることになるので、伝わっていることをそのまま信じることはできないが、苦労があったことと思う。その経緯はとにかく、国外持ち出しに成功し、大三島での栽培に成功した。そして島内はもちろん、近隣の島々へ広めた。
 生口島あるいは他の島々経由も考えれるが、海上を通ってサツマイモは因島へ伝わったのではなかろうか。
 というのは方言分布から見ると伯方島までが因島と同じ圏内に属する。これは因島村上水軍の支配地が伯方島にあったということもあるかもしれないが、潮の流れによる流通が原因だと思う。大三島橋と多々羅大橋の下を流れる満ち潮は伯方島のトウビョウバナのところで合流し、岩城島で再び南北の流れに分かれる。北側の流れが因島とぶつかる。これが因島へサツマイモが来た道である、と考える方が自然だ。











写真・文 柏原林造








本館 白滝山 いんのしまみち