ふるさとの史跡をたずねて(171)
釈迦三尊像(因島重井町白滝山)
猿に玉ねぎをやると目をこすりながら皮を剥いでいき、最後に食べるところがなくなり怒るという話がある。白滝山の四大誤謬を書いてきたのだが、こんなことばかりやっていると、ラッキョウの皮を剥いている猿だと笑われそうだから、そろそろ食べるところを残しておく。
だから柏原伝六は何をしたのか、そしてそもそも白滝山とは何かということを考えてみたい。
しかし、白滝山に650以上の石仏群を作るパワーはどう考えてもわからない。例えば、650枚の写真なり絵画なり、粘土細工のようなものを白滝山に置くと考えてみれば、大変なことがすぐにわかるだろう。人一人では持ち上げれないような石仏が大部分であるのだが、それを我々が日々目にする重機など無かった時代に、作り並べるということは、企画力、経費、マンパワー、どれをとっても想像を絶するとしかないと、はじめに表明しておく。すなわち、どうやって(単なる方法だけでなく、あらゆる面で)作ったのか、ということは私にはわからないし、今後もわかることはないと思う。だから、わかることを少しずつ書くことにする。
まづ、白滝山の石仏群の中心は釈迦三尊像であろうから、これを見ても、あるいは周辺のものを見ても、白滝山が仏教遺跡の模倣であることは確かだろう。そしてどこにも新しい宗教を伺わせるものは感じられない。むしろ逆に、宗派にとらわれない古い形での仏教そのものを信仰するのだという強烈な意志が感じられないであろうか。
ただ釈迦三尊像はよくあるパターンであるが、その周辺に十大弟子、羅漢像を配するのは、禅宗の例を踏襲していると言える。
ふるさとの史跡をたずねて(172)
白衣観音像(因島重井町白滝山)
伝六の著作の中に功過自知録というのがあった。他の人の名前もあったが、他の著作と一緒に綴られていたので、他の人の著作を参考に伝六が考えたものだと思っていた。類似のものが翻訳されて出版されていたということがわかったので、古書を求めて比較してみると、その人の著作を写したものだったということがわかった。
その内容は一言で言うと、道徳の点数化である。多数の善い行為、悪い行為が点数化されており、毎日記録して集計する。月ごとに集計し、また1年でも集計する。その古書には集計表まで付いていた。
今でも生徒に家庭での学習時間を記録させている中学校があると思う。テレビ、読書、勉強などと分けて日々の時間数を記録し、週ごとに集計する。はじめのうちは、学習時間が増えるので、効果があるかも知れない。
伝六は観音菩薩の生まれ変わりと称し、観音道一観と名乗ったのだが、難しいことを言ったわけではない。二百年も前の、各家庭には時計もなかった時代の農村である。善い行為を多くするように心がければ、規則正しい生活になり生産性も上がる。熱心に実践すればするほど生活は豊かになり、家は富む。
伝六はどこかで、その功過自知録を知り、わかりやすく説明して広めた。このことだけでも、時代と地域を考えれば凄いことである。社会教育化としての伝六を、まず評価してよいだろう。
おそらく伝六とその弟子たちは、宗教的情熱をもって説明したのであろう。生活が豊かになった人たちから送られたのが白衣観音像である。これは伝六の姿を表現していると言われている。
宗教家としての伝六を考えたとき、白衣観音像は何を意味するのであろうか。伝六自身が観音菩薩だと言っているのだから伝六崇拝と観音崇拝が重なる。すなわち現世御利益祈願の観音信仰(伝六信仰)が成立したと言える。
と同時に、伝六の道徳家的一面がここに起因することにも注意したい。この面は戦前の修身教育によく合い、伝六と白滝山は大いに持てはやされたことが容易に想像できる。
ふるさとの史跡をたずねて(173)
平和一神碑(因島重井町白滝山)
私の宗教は、葬式仏教としての曹洞宗である。従って座禅はしない。それはさておき、だから他のいかなる宗教にも、文化史的な関心はもっても、信仰心からの関心はもたない。
さて、伝六の普及の功績として大きいのが、道徳の点数化である功過自知録である。これは明代の中国で生まれた。土着宗教の儒教、外来宗教の仏教、新興宗教の道教などが混ざっている。「陰騭録」という本がある。隣の一人暮らしのお婆さんが怪我をしたので毎日食事を運んだら、孫の代になって地方の長官になって金持ちになった、というような話が延々と続く。「積善の家には必ず余慶あり」という。善いことをしたら仙人になれるというような話から来ているのだろう。その積善の具体的処方が功過自知録で、各種できた。我が国では袁了凡の「陰騭録」と袾宏の功過自知録を組み合わせたものの翻訳本がよく売れた。伝六が見たのはそれだった。
だから伝六の道徳を儒教的だと思うのは正しくない。論語や孟子のどこにも道徳の点数化は書いていない。
あえて書けば、功過自知録はわかり安いが、不完全な理論だと思う。例えば、殺人(実際入っている)がマイナス百点だとすると、プラス十の善行を10回すれば帳消しになるではないか。すなわち、「してはいけないこと」と「しない方がよいこと」は明確に区別されなければならないと思う。
それにもかかわらず、功過自知録の普及は伝六の活動の中でもわかりやすく、それがあったからこそ白滝山の石仏群ができたと思う。
今では宗教法人として登録されている修養団俸誠会の平和一神和石は全国に何箇所かあるが、ここ白滝山頂のものが最初にできたもので、昭和34年に建てられた。創始者の出居清太郎氏が伝六の話を聞き、観音道一観から「平和一神」(へいわいっかん)と命名されたものである。毎年年祭が行われている。伝六の人格に共鳴されたものだと思う。
昭和27年に重井町へ俸誠会と生長の家が伝わった。伝六の功過自知録の普及活動によって重井村民の道徳性が向上した。その地盤で修養団俸誠会が多いに栄えた。出居総裁を伝六の再来と思った人がいたかどうかは、私は知らないが、伝六の教えと俸誠会活動には通じるものがあるのだろう。それを象徴するものが平和一神和石である。
ふるさとの史跡をたずねて(174)
阿弥陀三尊像(因島重井町白滝山)
白滝山は地元では観音山(かんのんさん)と呼ばれ、それはまた観音様の「かんのんさん」で、伝六さんのことに通じている。しかし、白滝山の大石仏群が単なる観音信仰の表現でないことは誰の目にも明らかだろう。では五百羅漢と呼ばれるように羅漢信仰かというと、そうでもない。では、白滝山とは一体なんだろうか。
功過自知録の普及の効果は絶大であった。しかし、いつまでも功過自知録の普及だけを続けていくわけには行くまい。成功が大きかっただけに、民衆は伝六に更なる御利益を期待したことであろう。伝六にとっては、引っ張っているつもりが、いつの間にか民衆に押されていたという感じではなかったか。
その熱気に押されて建設されたのが、白滝山の大石仏群である。ここで四国16番観音寺の御詠歌を思い出していただきたい。「忘れずも導きたまえ観音寺 西方世界弥陀の浄土へ」。庶民を弥陀の浄土へ導くのが観音さまの役割だという意味である。聡明な伝六がこのことを知らなかったとは思われない。
白滝山の最高部に阿弥陀三尊像があることから伺えるように、白滝山は極楽浄土の具現であった。ではなぜ五百羅漢と呼ばれるのか。それは、庶民一人ひとりが羅漢となって極楽浄土(白滝山)に行こうという考え方である。また、観音信仰・五百羅漢であれば、地元の曹洞宗の範囲内であり、体制順応の伝六が曹洞宗に反旗を翻したのではないことをよく表している。
これは、白衣観音像に象徴される現世御利益の観音信仰(伝六信仰)から、来世往生の阿弥陀信仰への見事な展開である。
ただ、「あなたの極楽浄土を作ろう」と言ったのでは、お金は集まらない。「あなたと共に家族や周りの人たちの行く」極楽浄土であったはずである。なぜなら「積善の家に余慶あり」と教えられているのだから、お金を出したり石仏をみずから彫る行為が、「善」にならなければならないからである。
かくして、信じられないほどの多くの人の寄付と協力によって白滝山の大石仏群が完成したのであった。これを伝六の人徳と呼ぶか、あるいは今風に「洗脳」と呼ぶかは、紙一重の差もない。
ふるさとの史跡をたずねて(175)
伝六墓(因島重井町白滝山中腹)
白滝山中腹にある伝六墓所のある小広場は地元では「伝六さん」と呼ばれていた。だから、ここの地名は「通称墓所」ではなく、正式名称「墓所」で「通称伝六さん」なのである。
ここには、かつては小さな建物があった。墓守の風習について私は知らないので、井上靖さんの小説『孔子』で想像するだけであるが、偉人には弟子の何人かが死後何年か墓の管理をしたのであろうか。数年はここで、その後頂上に住み、堂守と呼ばれていた。何代も続き、その堂守の何人かの墓もここにある。(写真後方)
伝六の死については次のような曖昧な話がつきまとう。①百姓一揆の疑いで広島藩に呼びだされた。②無罪放免されたが、毒を盛られて帰された。(あるいは帰郷後毒を盛られた)。
百姓一揆と宗教活動の区別がつかないような役人(武士)を抱えていたら、浅野広島藩が幕末までもたなかっただろう。伊予大島では島四国八十八箇所を作っただけで罰せられた時代である。処罰し白滝山石仏工事を中止させることは、その気があれば簡単にできたことであろう。
一流のガイドは、こういう話はしない。そうでないガイドは時間を持て余すのか、こういう話をしたがる。(私は一流になれないので、ガイドなど極力お断りしている)。
こういう噂話などを書く場合はそれを信じているのか、信じてないのか一言付け加えておくべきであろう。それの書けない、無署名のパンフレットや看板にはそのような噂話など書かないことだ。
思うに、ドラマや映画を見ていると、一部の英雄と多くの悪人が主役で、また遅れた時代だから、殺された人の方が偉いと思いがちである。しかし、主役になることのない、その時代の法律を守り、日々営々と生活している普通の人たちによって歴史は作られきたことを忘れてはならない。
虚心になって考えればよいことである。『碧巌録』に一盲引衆盲(一盲衆盲を引く)と戒めてあるが、難しいことである。
ふるさとの史跡をたずねて(176)
奥之院(因島重井町白滝山中腹)
白滝山へ登る人の大部分は八合目の駐車場から歩くが、表参道は東の浜の重井郵便局のところから始まる。青木道を通って川口大師堂(島四国屋島寺)下の変形四つ辻で左に曲がって東へ方向を転じる。道なりに進んで重井村四国80番国分寺のところで伝六ロードを横切って進む。次に因島ペンション白滝山荘の赤煉瓦の塀沿いの石段を登る。竹藪を迂回すると、百華園からの道が合流してくる。前回の墓所(通称伝六さん)の手前で、自動車道からの登山道と合流する。墓所のすぐ上に白滝山の石造物中最大にして最高傑作である仁王像があり、その上に六地蔵が両側にある。だらだらと登ってくるような調子で、だらだらと書いてきたが、ここからが今回の主題である。
六地蔵の上で参道は二つに分かれる。左へ大きく曲がるのが表参道。やや右へ進む道は無粋にも「遊歩道」などと書かれているが、「くんぐり道」と呼ぶ。大きな岩の下をくぐるからである。阿蘇山なら噴火の状況に応じて通行止にしないといけないだろうが、因島は火山地帯ではないので、この「くぐり岩」が落ちるような地震はまず起こらないと思う。だが別の理由によってしばしば通行止めになる。その時は八合目駐車場からの登山道の表参道との合流点近くから降りてこれるので、そちらを迂回すればよい。目指すのは島四国八栗寺である。
八栗寺のお堂の左側、すなわち山頂側を南に伸びる小径がある。この突き当たりが奥之院と呼ばれているところである。
さて、奥之院としては次の3つが考えられる。①島四国八栗寺の奥之院、②白滝山の奥之院、③善興寺の奥之院。このうちのどれであろうか。一時、白滝山そのものが善興寺の奥之院となったことがある。だから、ここは③ではない。島四国は田熊町に、例の彩色摩崖仏のあるところがが三角寺の奥の院になっているだけでで、他は聞かない。ということで、白滝山の奥ではなく手前という感じであるが、②白滝山の奥之院なのである。
五来重さんの『四国遍路の寺』(角川ソフィア文庫)によると各札所の奥の院の多くは、修業の場だったところだそうである。そのことと、かつて不動明王が安置されていたというから、修験道者たちの修業がここで行われたのではないかと思っても間違いはなかろう。
ふるさとの史跡をたずねて(177)
天狗三態(因島重井町白滝山)
白滝山の観音堂前にある、例の「誤伝・十字架観音像」を彫ってある大岩の最上部に、天狗像が三体ある。表情が異なるので「天狗三種」などと呼ばれるが、ここでは「天狗三体」と紛らわしいけれど「天狗三態」と呼んでおこう。ではこの三体は白滝山の石仏群の個数の中に入っているのだろうか。石造物の数になら入れてもよいが、石造仏ではないだろう。しかし、石造物となると花台やら香炉台が入るのでますます混乱するであろう。石仏の数などをいう時は、注意が必要である。
余談ながら、これだけ多数の石造物があると誤解や俗説が生まれるのも当然かもしれない。古い資料を見ていると「二八尊者」というのはどれかと、かなり無理をして28体の石仏名を書いたものもあるが、「三五夜」の月の形は、29を引いて想像する必要は全くなく、まん丸なのである。「二八尊者」とは十六羅漢の別名であって、特別意味のある石仏が28体あるのではない。
かくのごとく、多くの石仏の中に混ざって天狗像が三体あるのは異様なのである。また、いつ、誰が、どういう目的で天狗像を奉納したのか、わからない。裏に回ってみれば、どこかに年号や名前が彫ってあるかも知れないが、怖いのでしていない。ただ、言えることは、天狗は修験者を示すので、白滝山が修験道と関係があったことを示すものだということである。
因島村上氏6代吉充が観音堂を建て、常楽院靜金を堂主にしたという伝承が本当なら、細島や白滝山などに居た修験者に配慮したことが伺われる。ただ、この三体があることで、江戸時代になっても修験者がいたことが考えられる。
修験者が僧侶よりも社会的に偉かった時代に、修験者について僧侶も修行をした。修行を終え、修験者なみになったことを「天狗になる」と言ったのではなかろうか。修行を十分に積まず、実力もないのに修験者の真似をする僧侶を「得意になる」という意味で言ったのが、現在では僧侶以外でも使われている。当然のことながら「鼻高々になる」ともいうのは、天狗の鼻は長いというイメージから付加されたものであろう。
ふるさとの史跡をたずねて(178)
秋葉社・愛宕社(因島重井町白滝山中腹)
またまた白滝山中腹の島四国八栗寺のところに話を戻す。八栗寺のお堂の前には石でできた小祠が3基あり、下から「愛宕地蔵菩薩」「道了大権現」「秋葉大権現」(写真)が祀られている。
京都の愛宕神社は、話題にするには時期として少し早いが、麒麟さんが本能寺を攻めたとき、吉凶を占ったところだし、「時は今天が下しる五月哉」という連歌(愛宕百韻)を詠んだところでもある。しかし、忘れてはならないのは、ここは火の用心の神様が祀られている。
また、東京の秋葉原は、最近ではAKB48、ちょっと前は爆買い、その前はつくばエクスプレスと、話題にこと欠かないところだが、かつてラジオ少年であった私にとっては眷恋の地であった。さらにそれよりも古くは、明治2年に火除地という空き地に江戸城から鎮火社が勧請された。鎮火社には秋葉大権現を祀っていたので、この火除地を「秋葉の原」、「秋葉っ原」と呼んだことから秋葉原の地名ができた。だから、ここを重井の秋葉原、あるいは因島の秋葉原と呼んでもおかしくはない。
すなわち、愛宕神社も秋葉神社も防火、火除けの神様なのである。それで、ここが椋浦町だったら、「大火伝説」は本当で、大火の後建てられたのでしょう、と書けばいい。しかし、ここは重井町で、重井町には大火伝説は存在しない。
ここで、我々の遠い先祖に思いを巡らしてみよう。あるサルの集団で、一匹のサルが後ろ足で立った。「サルまね」というように真似をするのが本能だから、同じことをする仲間が増えた。やがて、手持ち無沙汰になった前足で、石ころや木の枝を使うようになる。すなわち道具の利用だ。でもまだサルである。やがて、勇気があるというか、風変わりというか、火を恐れないものが出てきて、使うようになった。もうこうなると、サルというよりもヒトと呼ぶべきであろう。
以来、人類は火とともにあった。特に我が国では年間を通して湿度が高く、住居は木造住宅だ。その中での火の使用であったから、常に火災の危険はあった。守り神が必要だ。「火の用心」の護符は、修験者によって配れることが多かったのではないかと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(179)
道了大権現(因島重井町白滝山中腹)
前回、愛宕さん、秋葉さんについて書いたので、高さから言えば、まん中になる道了大権現について記す。正面中央に「道了大権現」、その左右に「奉海珊海演台守夜神 詩寂静◻︎海守夜神」と書かれている。(◻︎は判読不能)また外壁には「己酉九月吉日」とある。これは嘉永2年(1849)ではなかろうか。
妙覚道了は室町時代の曹洞宗の僧侶にして著名な修験者でもあった。小田原最乗寺の開基に協力し、師の入定(死亡)後は天狗になって守護神になろうとしたという話が伝わる。
曹洞宗といえば重井の善興寺は曹洞宗だから何か関係がありそうだし、天狗は山頂の天狗三態との関係が気になる。しかし、善興寺ができるのは江戸時代以降だし、直接の関係はなさそうである。天狗三態と直接の関係があるのなら、離れたところに置く理由がわからない。だからこれらは、無視してよいだろう。
そこで祠に刻まれた文字について考える。岩の上にあって詳しくは読めない。各行の冒頭の一字は右から読んで、「奉詩」(詩を奉る)と考える。しかし、各行の末尾3文字は同じで、こういう漢詩か何か呪文のようなものだろう。「しゅやじん、しゅやじん」と繰り返し言ってみよう。「守夜神」(夜を守る神)である。夜を守る神というのは、夜に泥棒や火災から守ってくれる神である。ここまで書いてきて、やっと前回の「愛宕社」「秋葉社」との関係が明らかになった。すなわち、ここが村民の火の用心の祈願所だったということである。これはあくまでも私の想像に過ぎない。そして、火の用心を拝むのは、お寺の御釈迦さまや観音さまでもなく、また八幡神社の神さまでもなく、やはり修験道者が最適だと思う。
ふるさとの史跡をたずねて(180)
真界山(因島重井町細島)
重井町の細島は因島の属島のうちの唯一の有人島である。三原市木原町の鉢ヶ峰が修験道の道場になった時、修験者が住みだしたのが、この島に人が住むようになった始まりだという。だから、古くは山伏島と呼ばれたが、今はそう呼ぶ人はいない。三和ドックとの間の海には今も山伏瀬戸と地図に書かれており、その名残をとどめている。
細島大明神の石碑は方々探したり、地元の方に尋ねたりしたが見つからず諦めていた。ところがある年の早春に茶臼山に登った時、畑の縁の通れなくなった山道の冬枯れの中に石のようなものが見えたので入って行くと、一石五輪塔などの墓石とともに「松の古跡」と「南無妙法蓮華経 細島大明神」の2つの石碑があった。(写真)やがてまた樹木の中に埋もれてしまうであろうから、詳しく記しておく。共同墓地の入口の反対側から茶臼山に登る。畑の右端がかつての登山道であろうが、樹木が茂って通れないので畑の草の生えていないところを選んで登ることになる。その、かつての登山道の段差のあるところ、と書いておけば僅かの距離なので探せると思う。
この石碑のあるところが真界山と呼ばれるのは、真界坊という山伏の修行地だったことによる。そしてそこには、天狗が飛来したという松の古木があり、神木として崇められていたとうことである。「松の古跡」というのだから、その松は枯死したということであろう。
一般には日蓮上人供養碑と呼ばれる「南無妙法蓮華経」の石碑は、重井町には3基ある。他の2つは播磨のバス停と、島四国甲山寺の近くである。南無は南無阿弥陀仏のナムでサンスクリット語(梵語)。敬意を表し帰依するという意味であり宗派によって様々な意義付けが行われているのであろうが、門外漢の私流に解釈すると「阿弥陀如来さま万歳!」というような感じだろうか。(阿弥陀如来は万歳どころか無限の寿命をもつので賛美したことにはならないが・・)南無妙法蓮華経は日蓮宗の専売特許のように思っている人が多い。しかし、法華経は日蓮宗はもとより、それから派生した各宗派で重んぜられるのは当然であるが、宗派を問わず重要なお経である。特に天台宗は天台山の智顗(ちぎ)が法華経を再解釈しそれを元に仏教を再構成したものである。その日本における総本山延暦寺で学んだ法然、栄西、親鸞、道元、日蓮などにより、のちに鎌倉仏教と呼ばれる新仏教が誕生するのであるから、法華経がいかに重要なお経であるかわかる。
一方、細島大明神の明神というのは神仏習合時代の仏教側からの神社の呼び方である。
修験道は山岳信仰に仏教、道教、儒教、神道などを取り入れてできたものであるが、以上のことから細島の修験者たちが、法華経を読み、神社を敬っていたことがうかがえる。
写真・文 柏原林造