2020年11月8日日曜日

ふるさとの史跡を訪ねて(増補版)191-200回

本館 白滝山 いんのしまみち

ふるさとの史跡をたずねて(191)

芋地蔵(因島重井町善興寺)

 大三島の住人、下見吉十郎翁が危険を冒して鹿児島から持ち帰ったサツマイモは栽培に成功し、四方へ伝わった。痩せ土の島嶼部は五穀の産は豊かでなかったが、サツマイモは風土に適し、美味にして豊産なるを見る、と菅菊太郎『愛媛県農業史中巻』(昭和18年)は記している。さらに同書は、以下のように記している。平時の時はもとより、飢饉不作の年には大いに助けられた。そのため島嶼部では下見吉十郎を甘藷地蔵(イモじぞう)尊として祠、石像、石塔などを作り、命日の旧暦八月一日に年々の祭事を続けている。そして、洲之江の正善寺の次に因島では重井村の二カ所が記されている。

 一つは善孝寺境内とあるがこれは善興寺のことであろう。駐車場から坂道を上がったところに甘藷地蔵堂があり、祀られている。眺めているいるだけではいけない。「ちょっと失礼」と言ってよだれかけをめくらせていただき、抱いているタネ芋を見て欲しい。よく見るとツルが出ている。

 昭和16年頃撮影されたと思われる『郷土慰問写真帳』には盛大に行なわれている「甘藷観音祭典」の写真が載っている。 



ふるさとの史跡をたずねて(192)

芋地蔵(因島重井町細島)

 菅菊太郎『愛媛県農業史中巻』(昭和18年)には、前回書いたように重井村に二カ所芋地蔵があることになっている。もう一つはどこにあるのだろうか。ちょっとした謎である。こういう時は、だいたい細島を探せばよい。それでもなければ小田の浦である。小田の浦に人が住み始めてバス停ができた時、因の島バスには黒いバックを持った車掌さんが乗っていたから、人が住み始めたのは、ワンマンバスに切り変わる少し前である。それ以前は人は住んでいなかったので、遺跡らしきものはない。ため池と陸軍境石があるぐらいであろう。軍用地があったことは聞いているが、ここの陸軍境石はまだ見たことがない。

 細島の廃寺となった長福寺は、現在は荒神社になっていて古い五輪塔などがある。墓の多くは共同墓地にある。そこに三十三観音と並んで、それらしいものがあった。(写真)「芋元祖 古岩獨釣信士 下見吉十郎」と書いてある。「古岩独釣」というのは下見吉十郎翁の雅号である。大三島の吉十郎翁の生家は海岸に近い。古い岩の上で釣りをするのを楽しみとしたのであろう。

 サツマイモを広めた下見吉十郎翁の行為はサツマイモの恩恵を受けた側から見れば慈悲であり救済であるから、芋観音、芋地蔵と呼んで尊敬と感謝の意を表したのである。そして、その形態として、重井善興寺のように吉十郎翁の像を彫った場合もあるし、細島のように供養碑の場合もある。また、三庄町観音寺のように既存の観音菩薩像を「芋観音」と呼んで供養したり、大浜町の才崎城跡のように食饒神社を「芋神社」と呼んで祀っている場合もある。このように様々であるが、おそらく島内全域で下見吉十郎翁への敬慕の供養は行われていたと思われる。




ふるさとの史跡をたずねて(193)

廻国供養塔(因島重井町善興寺)

 芋地蔵尊のモデルである大三島の下見吉十郎翁がわざわざ鹿児島まで行ったのは全国66か所のお寺に法華経を奉納する巡礼のためであったことは既に書いた。それを達成した人が結願記念に建立した廻国供養塔の一部についても以前に書いたことがある。因島にある残りの廻国供養塔についても書いておこう。まず重井町の善興寺にあるものから。

 鐘楼の隣に、上に立派な子安地蔵尊を載せてある長方形の石塔がある。一見、これらは別物のように見えるが、両者一体で廻国供養塔なのである。これと同じようなものを岡山県と広島県の県境で見たことがあるので、これが基本パターンと思っていたが、島内各地のものは千差万別で、予算の違いが歴然としている。ただ、書かれた文字はほぼ共通で「天下泰平 日月清明 奉納大乗妙典六十六部廻国」に近いものが書かれている。今回紹介するものには、更に「肥後國天草郡世濠村 長五郎 この女」「雲州 勝三郎」また 文政13年、嘉永元年の二つの願主、二つの年号が書かれており、上と下が別々の人に寄って奉納されたものであることがわかる。しかし、なぜ他国の人が重井に廻国供養塔を建てたのかは理解できない。



 以下、私の推定である。年代的には白滝山の石仏群が完成してから遠くないから、廻国巡礼中に白滝山の評判を聞き、立ち寄りこういう形で寄付したのであろう。さてそれでは、因島の地に骨を埋めたのかというと、そうではないと私は考える。今治市の四国55番南光坊へ行くと因島の人たちの名前を書いた寄附碑がある。また、金毘羅さんや大阪の住吉神社にも、因島の人の名前があると聞く。これらと同じように考えてよい思う。ただ、六十六部の行者であったので、廻国供養塔となっただけであろう。このように考えると結願記念ではなく、途中であるが、天下泰平、すなわち世の安寧と自己の平安を願って建立したと考えるのがよいかもしれない。



ふるさとの史跡をたずねて(194)

廻国供養塔2(因島重井町善興寺)

 重井町善興寺にはもう1基廻国供養塔がある。正確にはあった、と記すべきであろう。平成30年の7月豪雨で島四国75番善通寺とともに土砂に流され、以来再建されていない。少し小ぶりで、六地蔵の裏、善通寺の隣にあった。正面には「奉納大乗妙典日本六十六部廻國 天下泰平 日月清明 大和國産 大願主新叡」台座には「十方施主 世話人 施主」などが書かれている。 



 以前書いた島四国84番屋島寺のある川口大師堂の裏にある了心という尼僧が建てたものと合わせて重井町内には3基あることになる。

 ところで「白滝山之図」という絵があり、そこに添えられた文字の中に「天下泰平 日月清明 国家安全」というのを見ることができる。廻国供養塔の決まり文句がここにあるのが不思議だ。伝六が廻国供養の行者になったか否かはわからないが、関心をもっていたことは確かだろう。伝六は西国三十三観音の巡礼はしている。もし他の地域へも足を運んだとしたら、結願はしなかったものの廻国供養で訪ねたのかもしれない。

 さて、そろそろこの連載の重心を明治以降に移したいと思い、江戸時代的なものを整理してみたら、伊能忠敬の来島があった。併せて書いておきたい。村上貢氏の『しまなみ人物伝』には測量日記が紹介されている。文化2年(1805)2月8日に因島の周辺島々を測量し、「止宿、曹洞宗善興寺。此の夜晴天。測量。」と記してある。善興寺は天保13年(1842)に火災にあっているから、伊能忠敬らが泊まった建物は残っていない。翌日は因島周辺を測量して三庄へ泊まる。「三津庄浦へ着。止宿、庄屋宗平。家作新らし。測量。」とあるのは、当時火災にあって新築間もない家だったと聞いたことがある。


ふるさとの史跡をたずねて(195)

廻国供養塔(因島田熊町浄土寺)

 次は田熊町の廻国供養塔を訪ねる。浄土寺の鐘楼付近である。鐘楼の隣に六地蔵があり、さらに一段高くなって墓地がある。左端に岡野氏の先祖碑がある。その前あたりに松ぼっくりをお供えしたツングリ地蔵さんがある。


その隣だ。苔むした石碑の文字は読みにくいが中央の梵字の下に「奉納大乗妙典六十六部日本廻國為」と読める。その左右に「天下大平」「国土安全」などの文字がある。かつては「正徳五年」と読めたそうである。右にあるツングリ地蔵は久保田喜兵衛という人のことで享保六年に建てられている。西暦では1715年と1721年だから、同一人物のものだと思う。ただし、廻国供養塔が墓地にあるのは珍しいので、おそらく別のところにあったものを子孫の方がここに移したのではないかと考えられる。

 キリスト教が成立する以前の揺籃期を「原始キリスト教」の時代と言い、それはまだキリスト教ではない。しかし、「原始仏教」というのは釈迦の時代のことであるから仏教そのものである。「原始仏教」で、出家するのも功徳があるが、その人達を援助することも功徳があると言った。そういう訳で富裕者が精舎などを寄進した。これが布施であり、お接待などもその延長である。全国六十六ケ寺へ法華経を奉納する六十六部の行者のことを略して六部(りくぶ)行者というが、同じ考え方で、六部行者を支援する人がたくさんがいた。廻国供養塔を建てるにも同様な寄付が集まった。しかし実際には廻国供養をしないのに六部行者だと言って金品を要求する人が増えたので、明治四年に明治政府は廻国供養を禁止した。以後、この制度は復活していない。だから廻国供養塔というのは、極めて江戸時代的な建造物である。もちろん廻国供養の制度は江戸時代以前からあったが、流行するのは江戸時代以降である。

 六十六部の廻国供養塔が地域の文化財として記録され、また大切に保存されているところは多い。場所としては、私見に過ぎないがお寺の境内が多い。また、島四国などのお堂の中というのが生口島の2番にあったし、向島にもあった。そして、路傍にあるものもあるが、これは道路改修等で移動させられる。



ふるさとの史跡をたずねて(196)

廻国供養塔(因島中庄町荒神社・大山)

 中庄町には廻国供養塔が5基ある。寺迫の片刈山南麓の2基はすでに第113回で紹介した。残り3基のうちの2基はかつては釜田のてんまや前の道路に面してあったが、現在はそこより南東の荒神社の境内に移設されている。(写真1)



ただ、左右が反対になっているが、対になっているわけではないので、どちらでもよい。左が寛政4年、右が寛政10年のものである。

 そして、中庄町の5基目は大山トンネルの近くにある。詳しく書くと、大山トンネルの北側、すなわち中庄町側の入り口付近に奥山ダムや老人保健施設あおかげ苑へ入る道がある。その道に入って間もなく、ダム方面とあおかげ苑方面に分かれる三叉路がある。(正確に書くと下から登ってくる小さな道があるので四叉路ですが)。そこの南東側に倉庫があり、道からその敷地内に大きな岩が立っているのが見える。これが廻国供養塔である。隣に頭部が欠けた地蔵さんもある。(写真2)



 ここで廻国供養塔と地蔵さんとの関係を考えてみたい。ここの地蔵さんが六部行者を表していることは明白であろう。田熊町のつんぐり地蔵さんもそうだし、寺迫の廻国供養塔のひとつにも供養塔の上に地蔵さんが載っている。これらも同様に六部行者その人以外を考えることはできない。ということは廻国供養を結願した六部行者は、困難な修業を完遂した行者として、地域の人々から尊敬されていたと想像できる。それはまた、廻国供養塔が現在までも大切に残されていることからも理解できる。

 一方、六部行者のもうひとつの面を考えてみよう。弥次さん喜多さんで有名な『東海道中膝栗毛』では旅籠で六部行者と同宿する。その注で「鉦をたたき、鈴をふり、仏像を厨子に入れて負い、銭を乞うて歩いた」(岩波・日本古典文学大系111頁)と書かれている。これを読むと、前回書いた偽六部行者でなくとも、往来の繁華な宿場町などでは白眼視されたのではないかと想像する。それが特に田舎では結願者は苦行を達成した修験者と同様に尊敬されたのではないだろうか。

 中庄村の古い絵図にある「六部山」というのは、この大山の六部行者が住み、地域の人から一目置かれる存在として尊敬されていたからこそ、そういう地名が残ったのだと思う。




ふるさとの史跡をたずねて(197)

廻国供養塔(因島三庄町円福寺跡)

 因島最高峰の奥山は観音山と呼ばれるだけあって山頂付近には複数の西国三十三観音があり、また南麓には観音寺があり、観音寺の裏山にも別の三十三観音がある。この観音寺三十三観音の場合は1番と33番が観音寺の境内にあり、残りが裏山を回るように配置されている。案内の矢印に従ってお参りすることにしよう。山に入ると2番がある。そこでコースから外れて左へ入る。そこには古いお堂や五輪の塔などがある。円福寺の跡である。お堂の前、一番奥に立つ直方体の石碑が廻国供養塔である。


「奉納大乗妙典六十六部日本廻国 天下和融 日月増輝 願主 当邑 行者 幸助 寛政十二庚申十月吉日」などの文字が読める。基台には「本願主 久比村 茂四郎 里者 文太郎」と書かれている。寛政十二年は1800年である。

 六部行者は三庄村の幸助で、お金を出したのは茂四郎と文太郎である。久比村で茂四郎から供養塔を立てるための布施をもらったのであろうか。文太郎からも同様であるが、里者が何を表しているのかわからない。

 六部行者になって廻国供養をすることも尊いが、その人をサポートしたり、廻国供養塔を建立するお金を出すのも尊いという考え方は、原始仏教のいう布施そのものの考え方である。そう考えて初めて他人の廻国供養塔を建てるのにお金を払う人の気持ちがわかる。

 なお、三十三観音と廻国供養塔には直接の関係はない。すなわちここでは、三十三観音の近くに廻国供養塔を建てたとか、あるいはその逆もありえない。しかし、六十六部の廻国供養というのは法華経を六十六カ国の各国一寺へ写経した『法華経』を納経するために廻国したのだし、西国三十三観音霊場は『法華経』の観世音菩薩普門品第二十五による。この第二十五品(今風に書けば第25章)がいわゆる「観音経」である。我々が日頃目にする『般若心経』は唐の玄奘訳であるが、観自在菩薩と訳されているように33の姿に変化(へんげ)することに因んで、三十三観音霊場なのである。だから両者が近くにあるのは意味のないことではない、と私は思う。


ふるさとの史跡をたずねて(198)

六部地蔵(因島三庄町八区)

 三庄町八区の集会所の少し前に小さな地蔵堂がある。その地蔵堂の中を見て驚いた。(写真)


「六部地蔵」と書いているではないか。これまでに紹介したように廻国供養塔だけのものと、それに地蔵さんがついたものがあった。しかし六部の地蔵さんだけというのは珍しいのではなかろうか。六地蔵、笠地蔵、身代わり地蔵、水子地蔵、芋地蔵、果てはボケ封じ地蔵などと様々なお地蔵さんがあるが、六部地蔵というのは他に知らない。

 前回の円福寺跡の廻国供養塔を建てた六部行者とこの六部地蔵の行者は、距離的に考えて別人だと思う。そしてこちらの行者も地域から一目置かれていたということであろう。

 さてお地蔵さんとは、一体なんだろうか。お地蔵さんは子供でも知っている。石仏はなんでもお地蔵さんだと小さい子は言う。おそらく笠地蔵の影響だろう。絵本の中でも多くの外国の童話の中にあって国産童話として十分太刀打ちできる魅力的な話た。

 観音さんと地蔵さんの区別がつかないのは子供たちだけではない。芋地蔵と芋観音の表記に私は戸惑った。地域によって違うのかと思っていたら、そうでもないようだ。村四国でもお地蔵さんと呼ぶ人もいる。大師像をお地蔵さんと呼ぶのはどうなのだろうか。ご本尊の方は全てが観音菩薩というわけではない。如来もあれば地蔵菩薩もあるから、お地蔵さんと呼んでも全てが間違っているわけではない。

 お地蔵さんも観音さんもどちらも菩薩である。仏教界は平等かと思っていたが、そうではない。最高位が如来で、悟った人という。次が悟りを目指して努力している人という意味で菩薩があり、その下が羅漢で、尊敬される人たちという意味。本によってはその区別が曖昧で互いに矛盾したりするのだが、私はそのように解している。

 観音菩薩は『法華経』や「浄土三部経」といったポピュラーなお経に出てくるので分かりやすい。一方、地蔵菩薩の方は観音菩薩より庶民的で親しみやすいせいか多様である。その分意味も多様で複雑である。また典拠となるお経もポピューラーでなく、読んだことがなく私には説明できない。



ふるさとの史跡をたずねて(199)

お台場跡(因島大浜町剛女岩)

 江戸時代のものを全て紹介したわけではないが、大雑把な傾向を、そろそろ明治以降のものに変えようと思う。それで江戸時代を締めくくるのに何が良いだろうかと考えたら、お台場が時代の変化を象徴しているように思うので紹介したい。

 侍は今風に言えば軍人である。その軍人が同時に官僚でもあったのだから、江戸時代は不思議な時代だった。さらに不思議なことにそういう軍事政権でありながら、初期の島原の役や両度の大坂御陣を除くと平和な時代が二百年以上も続いたのだから、喜んでばかりはいられない。第二次世界大戦が終わって百年も経っていないのに、平和ボケが蔓延しているわけだから、江戸時代の平和は退屈を通りこして弊害となっていたことであろう。これは全徳川時代を通して言えることで、例えば暇をもてあました実戦経験のない兵法家が、水軍戦法なるものを残しており、小説や祭りの素材を提供してくれているのは愉快だが、私は信じないことにしている。末期の例をあげれば、新撰組という機動隊を京都に駐屯させておかなければならなかったということは、侍官僚たちにはチャンバラはできなかったということだろう。ならば刀など持たねば良いのにと思うがそうはいかないのだ。お城へ出勤するのに、今日は腰が痛いので大刀は置いて行こうというようなことは許されない。武士にも細かい身分があり、身分とTPOに応じて刀と衣服は厳格に規定されていた。

 こういう時代に大慌てで軍備拡張を図ったとしても、おのずから限界がある。砲台ができても操作できる人がいかほど集められたか。成功談も失敗談も残されていないようだから、おそらく使われなかったのだろう。「大浜村御砲台并勤番所」の文字のある祈願札の写真が『因島市史』p.591に載っている。文久三年八月であるから1863年で、明治になる五年前である。

 お台場と言えば東京の人気スポットであるが、こちらのお台場はマムシの巣窟となり、人も近寄れない。「虎穴に入らずんば虎子を得ず」「君子危うきに近寄らず」という2つの格言を天秤に掛け、後者を選んだ。写真は見る角度によっては心霊写真のように人の形が見えるかもしれない。古い写真を修正した名残です。ご安心ください。


この場所には説明板があった。今はあるかどうかはわからないが、写真を載せておこう。


ふるさとの史跡をたずねて(200)

中庄八幡神社(因島中庄町熊が原)

 中庄八幡神社は熊箇原八幡神社とも呼ばれる。『因島市史』には「同神社にはいろいろと箔つけの材料が残っているようであるが、これを鵜のみにするのは早計である」(875頁)と記してある。それを承知で書くのだが、天明二年の覚えによると、887年(仁和三年)8月当国同郡八幡邑より勧請、とある。これより古くからあった神社といえば、因島が文献上最初に出てくる878年(元慶二年)「授備後国無位隠嶋神従五位下」(日本三代実録)の隠嶋神社を思い浮かべても、おそらく間違いはなかろう。しかし、当国同郡八幡邑がどこのことか分からない限り隠嶋神社を特定することはできない。

 大浜村剛女岩に砲台(お台場)が設置された頃、農兵の練兵が中庄八幡宮で行われた。なぜ、大浜でなく中庄かという疑問は、彼らの出身地が大浜村に限らなかったことを示しているのだろう。それではなぜ中庄八幡神社なのであろうか。

 もしこれが明治時代以降の話であるならば、武運長久を祈って・・というようなことが想像されるのであるが、まだ明治になるには少し早い。それともそういう伝統は江戸時代からあったものなのであろうか。それよりも、農民を兵士として利用することが、江戸時代を通してなかったことであるから、農民に武運長久を祈るというようなことは思いつかないのではなかろうか。

 あるいは単なる広さの問題で、訓練をするような広場は神社しかなかったということであろうか。

 さらにまた、軍人というべき武士がいるのに、俄かに農民を兵士として訓練するのもおかしな話である。

 明治時代以降のような光景を江戸時代に見ているのだから、こちらの想像力も鈍ってしまうのも仕方がないのかもしれない。



写真・文 柏原林造

➡️ブーメランのように(文学散歩)