読書旧記 (1) 『ロミオとジュリエット』
はじめに。読書日記と誤読していただいて構わない。でも、読書日記というタイトルなら4度に3回は新刊書を紹介しないといけないようなイメージをもっている。しかし、そんな元気はもうない。だから、横に縦棒を一本入れて読書旧記とした。これなら、昔読んだ本のことなどを書いて、いつまでも続けられる・・。因島文学散歩は随時掲載ということで深く考えずに始めたが、4、5回目あたりで、20回はしんどいなと気づいたものの後の祭りだった。因島の、文学の、という2つの限定を取れば少しは肩の荷は軽くなるだろうと安易に考えての再出発である。
これは紙媒体として出版文明への挽歌ではない。私は紙の本も読むし、パソコンで読むこともある。時代とともに変わるのは当然で惜しんでも仕方がない・・。しばらくは紙の本を見てみよう。
誰もが知っている『ロミオとジュリエット』。文学全集でも文庫本でも各種出ている。最初は旺文社文庫を買った。昭和42年の5月だから1967年である。今でも新本と変わらない。緑の表紙も上等なら本文用紙も白色の上質紙で立派な造本である。高校生人口も増え、学習参考書の出版社も限られてていた時代だったから旺文社も景気の良い時代だったのだろう。学習参考書のみならず一般書籍、雑誌などもどんどん増加する、今から見れば面白い時代がしばらく続いた。
さて、本題に入ろう。清水義範さんという私より少し年上の作家はパスティーシュ(文体模写)の名人で『世界文学全集』という小説では、女子短大生の卒業論文ということで「ロミオとジュリエット」は、いきなり「バッカじゃなかろうか」と始まったのには、驚きかつ笑ってしまった。まさにその通りなのだ。親どうしが喧嘩して仲が悪い家があった。片方の家のロミオがこともあろうに、相手方のジュリエットに一目惚れし、やがて相思相愛となり、ひょんなことから死んだ真似ごっこをして、本当に死んでしまうのである。だから、「バッカじゃなかろうか」と言われても仕方のない二人の話なのである。
それでは、もう少し利口な人の話だったらどうであろうか。親どうしも知り合いで・スポーツと勉強ができて、英会話とピアノが趣味の美男美女が家族からも親戚からも祝福されてゴールインなどという話を書けば、作家や出版社の方が「バッカじゃなかろうか」の標的となる。知らない人からもらったものは食べないような理性的な白雪姫は、物語の主人公にはなれない。そして本の前の「そのリンゴ、食べちゃいけない!」という多くのこどもたちの忠告を無視して、食べるから世界中のこどもたちに読まれる本が存在する。
シェイクスピア著、大山敏子訳『ロミオとジュリエット』(旺文社文庫)、昭和41年、150円。
読書旧記 (2) 「氷点」
旭川市で個人病院を経営する院長の辻口啓造が旅行から帰ってきた時には、3歳の娘は殺されていた。その時間帯に病院の勤務医と密会していた妻夏枝に嫉妬した辻口院長は、後に、養女がほしいと言った妻に、犯人の娘であることを隠して陽子を育てさせる。仮面夫婦の生活が始まる。ここで普通の読者なら、バッカじゃなかろうか!さっさと離婚すれば済むのに、と思うだろう。どうやら名作にはバカな人間が必要なようだ。・・しかし秘密は長く保てない。犯人の娘であることを知った夏枝の復讐が始まる。すなわち陰湿な継子(ままこ)いじめ物語へと話は展開する。あらゆる試練に知性と良心で立ち向かうのが太陽の子、陽子で、日本の小説史上稀なヒロインであろう。どうしてこんなに賢い子なんだろうかという疑問は、『続氷点』の出生の秘密を読めばわかるのだが、諸悪の根源である辻口院長が陽子の身方になり、理想の男性のように描かれるのは何故なのかは理解できなかった。
さて、本作品は朝日新聞社が昭和39年に行った1千万円懸賞小説の入選作で、多くの話題を生んだ。朝日新聞連載後に出版されベストセラーになり、映画化もされた。また、テレビ等で何度もドラマ化された。募集要項等は見ていないが、常識的に考えれば、それらの諸権利はすべて朝日新聞社側にあり、朝日新聞社は十分に元は取れたのではないかと、私は想像する。作者の三浦綾子さんは、病身との闘いではあったが、以後順調な作家生活を送られた。一方、我々読者や視聴者は費やした時間に十分満足した。このように考えると、『氷点』の出現は三者を益した稀有な昭和史の一コマだったように思う。
三浦綾子著『氷点』(朝日新聞社)、昭和40年、380円
読書旧記 3 「万葉の旅」
毎月第3水曜日に因島図書館で行っている因島文学散歩の会は、若き日に三庄町に滞在した福山市出身の作家・井伏鱒二の作品を読む会である。『鞆ノ津茶会記』を終え、現在は『ジョン万次郎漂流記』(新潮文庫)を読んでいる。1頁読むごと話し合う。今回はその会で出た話題から。
福山市鞆町は古来潮待ちの港として瀬戸内海航路の要地であったから、多くの歴史を留めている。
大伴旅人(おおとものたびと)の歌が『万葉集』に載っている。「天平二年庚午冬十二月太宰師大伴卿(おほとものまへつきみ)、京に向かひて上道(みちたち)する時、作る歌五首」のうち三首。
我妹子(わぎもこ)が見し鞆の浦のむろの木は 常世(とこよ)にあれど見し人そなき(巻3-446)
鞆の浦の礒のむろの木見むごとに 相見し妹は忘らえめやも(巻3-447)
礒の上に根這(は)ふむろの木見し人を いづらと問はば語り告げむか(巻3-448)
727年・神亀4年、太宰師となって九州筑紫へ船で赴任したが、翌年妻・大伴郎女(おおとものいらつめ)を失った。730年・天平2年12月大納言になって船で帰京した時の歌。旅人は66歳で、当時としては老齢。翌3年、67歳で亡くなっている。三首目は、どちらにいるだろうかと聞いたら、教えてくれるだろうか、の意。
他に鞆の浦を詠んだ歌がある。いずれも7巻にあり、作者不詳。こういうのを探すのに犬養孝「万葉の旅」(昭和39年)は便利だ。写真が豊富なのも魅力。今では日本列島は様変わりしているから出版当時の写真は貴重だ。中四国地方は下巻。
鳥取県になるが、国府町(当時、因幡国国庁があった)で大伴旅人の子・家持(やかもち)が詠んだ歌が万葉集の最後を飾る。
新(あらた)しき年の始の初春の 今日降る雪のいや重(し)け吉事(よごと)(巻20-4516)
これといった技巧のない平易な歌で、新年にふさわしい。万葉集も古代人ぶりの歌から、現代人の感覚に近いものまで変わってきていることがわかる。
犬養孝『万葉の旅、上中下』(現代教養文庫)、昭和46年、各320円。現在は刊行されていないが、改訂新版が平凡社刊。
読書旧記 「親鸞」
瀬戸田町御寺のの光明坊には松虫・鈴虫伝説が伝わり、彼女らの墓と法然上人の墓がある。
(写真、左から法然上人、如念尼、松虫、鈴虫)
さて、その松虫・鈴虫とはどういう人たちであろうか。
松虫・鈴虫は、吉川英治『親鸞』(講談社・吉川英治文庫)の3巻目に出てくる。これはあくまでも小説であるが・・。
まずいかなる時代の出来事であったかということから見てみよう。それには『歎異抄』巻末の親鸞流罪の記録がわかりやすい。しかし、この部分は写本によっては記載されてないから注意が必要だ。岩波文庫、日本の名著(中央公論社)、高森顕徹『歎異抄をひらく』(万年堂出版)には載っている。
承元(じょうげん)、あるいは建永(けんえい)の法難とも呼ばれる事件で、法然の門弟4人が死罪とされ、法然、親鸞それに門弟7人が流罪とされた時のことである。
建永元年(1206年)12月頃、後鳥羽上皇の熊野御幸の間に安楽房遵西と住蓮が鹿ヶ谷で開いた別時念仏会に院の女房らが参加した。彼女らの中に出家をする者があった。出家したのが松虫と鈴虫という名前の女性だったという話として伝わる。
吉川英治『親鸞(三)』では松虫・鈴虫は京都で死んでしまい、生口島まで行かない。一方、『瀬戸田町史通史編』によると「後白河法皇の皇女如念が松虫・鈴虫の二人を連れて来寺し、(中略)法然も如念の師として逗留し」瀬戸田の法然寺を開いたとある。
小説『親鸞(三)』では冒頭から100ページにわたって安楽房、住蓮と松虫と鈴虫の話があり、安楽房、住蓮は刑死、松虫と鈴虫は自害する。安楽房と住蓮の名は『歎異抄』巻末に「彼行死罪(しざいをおこなはせらる)人々」4人の中に記録されている。
なお、当時の記録として『吾妻鏡』とともによく引用される『玉葉』は月輪禅閤として登場する九条兼実の日記である。また兼実の弟慈円は天台座主で『愚管抄』の著者。これらの人々が生き生きと描かれているのもこの小説の魅力である。
吉川英治『親鸞(一)(二)(三)』(講談社・吉川英治文庫)、昭和50年、各400円。
読書旧記 「老人と海」
考えてもみてほしい。サメの棲息する海域で自分のボートより大きな魚を釣ったら、どういうことになるかを。
そんなこともわからないで、あんた何年漁師やってんの? それとも認知症が始まってんじゃない? と、多くの読者は思うに違いない。そうなのだ。この作品は認知症の始まったじいさんの話なのだ。
この作品などでにノーベル文学集が与えられた時、草葉の陰ではなく石壁の下のアルフレッド・ノーベルは思ったに違いない。東洋の島国では、オイラのことを科学者だと思っている子供たちが多いらしいが、それは違うよ。おいらは根っからの火薬職人さ。だから、職人気質(かたぎ)をもっと書き込んで欲しかったなあ・・と。
高度に人工化された老人政策に、ほどなくお世話になることは視野に入っているのだから、それを否定するつもりは毛頭ないが、こういう現在の我が国の社会と対極にある、キューバの貧しい漁村が舞台だと思えばよい。独居老人は地域で面倒を見る。と言っても村人はクールで、かつて漁を手ほどきした少年が食事や釣りの餌を運ぶ。一人で釣りに出て、夜になって帰ってこなくても捜索隊など出たりはしない。そういう意味での自然が溢れた世界だ。
戦い済んで日が暮れて、老人はライオンの夢を見る。動物園のライオンではなくアフリカのライオンである。動物園のライオンは自ら獲物を捕ることを禁じられた巨大な猫に過ぎない。
もう何日も餌にありついていない、今日獲物がなければ明日死ぬかもしれない。そんなアフリカのライオンでいたい。猫になってはいけない・・。というのが老人の願いであり、それはまた作者の願いでもあった。
明日(あした)は明日の風が吹くというのは若さの特権であるが、釣れなくても釣りに出るというのは老人の執念である。さて、我々はいつまで執念を持ち続けることができるであろうか?
E.ヘミングウェイ著、福田恆存訳『老人と海』(新潮文庫)、昭和45年2月9日購入。90円。