はじめに
中国では、宋の時代に勧善の書、すなわち善書が多く出版された。土着の儒教に加え、善行を積んで仙人になるという道教の考え方や、外来宗教である仏教の因果応報などが融合して、善行を積み重ねることによって運命が開けるとするものであり、積善の家に余慶ありと、広まった。明の時代には具体的な実践例として善悪を点数化して日々の行為を反省する功過格というものが生まれた。伯仕宋、袁了凡はそれぞれ『隠騭録』を書いたが、異なる功過格を採用していた。
江戸時代にこれらが我が国に伝わった。我が国では、袁了凡の『隠騭録』に伯仕宋の本から袾宏の「功過自知録」を合わせた翻訳本がよく売れた。
我が重井村の柏原伝六は、その一書を知り、父母から観音信仰を受けつぎ、自ら観音菩薩の生まれ変わりと信じ、情熱的に「功過自知録」を庶民に広めた。時計や新聞の普及していない時代であったから、規則正しい生活をして生産に励めば生活は豊かになった。まさに観音信仰の現生ご利益であった。
伝六はそれに留まるだけでなく、観音菩薩の使命である庶民を極楽浄土へ導くという役目を自覚し、白滝山の最上部に阿弥陀三尊像を建て西方浄土を作ることを願った。現生ご利益の観音信仰から来世往生の浄土信仰への見事な展開であった。また善行を積み尊敬されるべき羅漢として山上に登ろうと説いたとしたら、活動の継続性も保たれ、余力のある人は自らの姿を石像として刻んだであろう。
伝六は道徳的な「功過自知録」を普及させたせいか、自らは神仏習合の徳川封建制度から抜けだすことはできず、また他宗教を批判することも、曹洞宗に反旗を翻すこともしなかった。
伝六の死後、弟子たちは組織的な活動をすることなく、散発的に観音講を行い伝六の人格の称揚に努めたが、伝六の思想を発展させることはなかった。
しかし伝六の播いた「功過自知録」の種は、村民に深く浸透して勤勉な農村社会を形成し、世代を超えて継承され重井村を木綿、薩摩芋、除虫菊などの一大産地にした。またその精神は戦前の修身教育と共鳴したであろうし、戦後は修養団捧誠会活動として全国に発信された。重井小学校の白滝市活動は若き熱心な教職員の情熱なくしてはありえなかったが、それに応えた児童とそれを支える保護者の誠意により、全国的にもユニークな活動として注目され高く評価された。
潮音石声 その1
白滝山についてのエッセーである。
潮の音は既に聞こえている。生まれた時から。石の声はまだ聞こえない。彼らに、すなわち石仏たちに語ってもらおう。それが最終目標である。
はじめに白滝山に関する誤謬について指摘しておきたい。
①白滝山の語源について。
白い滝であるというのは間違いである。タキは崖を表す。白い崖山という意味だ。
②恋し岩伝説について。
伝説ではなく創作民話・説話である。白滝山の語源説話の部分は単なる子どもの創作で、話は逆である。もしそういう相撲取りがいたとしたら山の名前をもらったのである。
③千手観音の持物を十字架と解釈することについて。
全くの誤解である。無知の連鎖である。
④一観教について。
伝六の時代にも、伝六死後も、そして現代も庶民の間で、一観教という言葉が使われたこともなく、またそれを信仰する集団は存在しない。また、一観教とはこんな宗教だと、説明した人もいない。意味もわからずに書き写すのは知性の欠如である。
⑤伝六が毒殺されたということについて。
証拠もなく、全くありえないことである。
白滝山とは何であったのかということを主題にして考えていきたい。
白滝山は五百羅漢ということになっていて諸記録も皆そう書いてある。羅漢信仰とは何だろうか? この辺りから考えていきたい。
まず、宇井伯寿監修『佛教辞典』、大東出版社、昭和44年の中型第4版よりp.284「五百羅漢」。
①仏滅後第一結集の時、来界したる無学果の声聞五百人をいふ。大迦葉これが上首たり。②省略③支那・日本に五百羅漢の崇拝行はるるも根拠なし。
根拠なし、というのは例えば観音信仰なら『法華経』の25品、阿弥陀信仰なら『阿弥陀経』というような仏典がないということであろう。早くも、この問題の難しさが露呈したということである。
次に『岩波 佛教辞典』、岩波書店、1994年の第5刷より、p.15の「阿羅漢」より、要点のみ抜粋。「尊敬・施しを受けるに値する聖者を意味する。インドの宗教一般において尊敬されるべき修行者をさした。原始仏教では修行者の到達し得る最高位を示す。学道を完成し、もはやそれ以上に学ぶ要がないので阿羅漢果を無学位という。」
原始キリスト教というのはイエス没後からキリスト教が誕生するまでの間のこと。紀元後1世紀ごろ様々な宗教が起こり、その中の一つに後にキリスト教になるグループがあった。これらを原始キリスト教という。それに対して原始仏教というのは釈迦の言葉そのものを言う。釈迦入滅後、様々な解釈が行われ、大乗仏教と小乗仏教などと呼ばれた。我が国に伝わったのは大乗仏教である。
『岩波 佛教辞典』の「阿羅漢」の続きである。元は仏の別称であったが、大乗仏教では弟子(声聞しょうもん)を阿羅漢と呼び、仏と区別した。また「特に禅宗では阿羅漢である摩訶迦葉に釈尊の正法が直伝されたことを重視するので、釈尊の高弟の厳しい修行の姿が理想化され、五百羅漢の図や石像を製作して正法護持の祈願の対象とした。」(p.16)
重井村の宗派は曹洞宗であったから、ここに五百羅漢と伝六や村人の宗教との関係が明らかにされる。すなわち、五百羅漢は曹洞宗と対立するものではない。
また、五百羅漢については次のような説明もある。長崎唐寺の道教的信仰の「その風は黄檗僧・黄檗寺院によって、やや薄められながら全国へ伝搬していくことになる。(中略)さらには十八羅漢や五百羅漢像などいわゆる黄檗様式といわれる異風な仏像彫刻は、儒仏道三教の混在を見る人の視覚に強烈に訴えたに違いない。」中野三敏「都市文化の爛熟」(『岩波講座 日本通史』第14巻近世4、p.273)
白滝山の十六羅漢像や釈迦三尊像の背後(南側)にある個性的な羅漢像が異風で道教的だと言えばわかり易いだろう。しかし、言葉の上で道教と言ってもその実態を知るものは少ない。漢籍の分類では「荘子」「老子」「管子」などを道家と称するが、道家と道教は違うと幸田露伴は言っている。(『露伴全集』18巻、p.256)
「功過格」については後に記すが、そこでも道教の影響が出てくる。すなわち、仏像でも、伝六の教えでも道教の影響を否定できない、と結論を先取りするが記しておく。
なお、善興寺には「元文三戊午 月海湛玉上座 十月十四日」(元文三年は1738年)と書かれた、文字をなぞると字が上手になるとか、頭が良くなるとか言われ、墓参の時はお参りする黄檗僧の像があった。
次に観音信仰について考えてみたい。伝六は母が自分を身ごもったのは西国三十三観音にお参りしたからだと聞かされて、後年自分は観音菩薩の生まれかわりだと信じて、観音
道一観と名乗った。
このことは重要であり、伝六の宗教が観音信仰を基にしていることは間違いなかろう。また地元の呼び名として白滝山よりも観音山(かんのんさん)の方が一般的だった。
すなわち、地元では「かんのんさん」そして向かいの山は「ごんげんさん」が一般的で「白滝山」「龍王山」というのは、いわば「よそゆき言葉」であったということを強調しておきたい。
重井町は昭和28年までは重井村であった。そして村という言葉からイメージされるように村はずれには家はなく、それは隣接する大浜村、中庄村ともその村界に家などなかったのである。そういう閉じた社会では一つしかなければ「山」であり、複数あれば呼び慣れた名前で呼ばれる。それが「かんのんさん」であり「ごんげんさん」であった。
それが人の往来が頻繁になり、特に重井町になった頃から、そしてやがて交通機関の発達によってそれは加速されたわけであった。
人の往来が繁くなれば、他村(町)の人にもわかるように、方言が避けられ標準語を使かおうと努力するように、地図に書かれている「白滝山」「龍王山」が使われるようになった。すなわち、白滝山は、地元民には「五百羅漢」よりも「かんのんさん」として親しまれてきたのである。ただ「かんのんさん」という表現には「観音山」と「観音様」の両用があるが、「観音様(かんのんさん)」と言えば、「伝六さん」と観音像をさすが、おそらく「観音山(かんのんさん)」として多用されたと思う。
観音信仰についてさらに考えてみたい。観音菩薩については『法華経』の巻八の観世音菩薩普門品第二十五に詳しい。「観世音菩薩は、かくの如きの功徳を成就して、種種の形を以って、諸の国土に遊び、衆生を度脱(すくう)なり」(岩波文庫『法華経』下p.256)というように相手に応じて姿を変える。我が国で『法華経』と言えば、鳩摩羅什の漢訳のものである。また、我が国で読まれる般若心経は、唐の玄奘訳が元になっていて、その冒頭はよく知られている観自在菩薩・・である。すなわち玄奘は、種々の形に変わるということを強調して観自在菩薩と訳したわけである。
いわゆる「観音経」というのは、上記観世音菩薩普門品第二十五の最後にある偈(げ)のことで、般若心経についで人気のあるお経で、多くの宗派の法事葬式等で耳にすることがある。曹洞宗との関係については、以下のような説明が参考になる。
「また、観世音菩薩には三十三応身といって、必要に応じて三十三に変身して衆生を救済する融通無碍の性格があります。このいわば円通自在の心が、禅者にとっては必要なわけで、刻々として移りゆく事象の変化に応ずる心境が要求されるわけです。観音信仰が特に禅宗において重要視されるわけです。」(松下隆章「禅宗の美術」、小学館『原色日本の美術10禅寺と石庭』p.196)
話はそれるが同書に松下氏はまた次のようにも記している。「地蔵菩薩は一所に滞在せず、常に遊行して人びとの霊を救う役割をもっています。禅僧が修行のためあるいは布教のため常に師を求めて江湖を行脚する姿にも似ているわけです。」「この地蔵信仰に関連して禅林でとりあげられたものに十王信仰があります。」「禅宗では特に羅漢の姿を修行の範として尊崇します。五百羅漢や十六羅漢の姿が禅寺に多くみられる所以であります。」と。ここまで書けば、白滝山が一時、曹洞宗善興寺の奥の院になっていたことが不思議ではないということがわかるであろう。そして白滝山五百羅漢が伝六にとっては、曹洞宗からはみ出たものでなかったことがわかる。すなわち、伝六が「観音道一観」と名乗ったからといって、曹洞宗から飛び出したものではないことがわかる。同様に白滝山が曹洞宗に異を唱える聖地を目指そうとしたものではなかったことがわかる。
さて、伝六が自ら観音菩薩の生まれ代わりだと言ったのであるから、さらに観音菩薩とは何かと考えてみたい。それは白滝山の最頂部、展望台の東側にある阿弥陀三尊像を見ればよくわかる。中央が阿弥陀如来、阿弥陀如来の右側が勢至菩薩、左側が観音菩薩である。この位置に阿弥陀三尊像を置くというのが伝六の意志によるのであれば、その観音菩薩は伝六自身でなければならないだろう。観音菩薩の生まれ代りで「観音道一観」と名乗る以上はそうであろう。そうでなければ言行不一致になるではないか。余談ながら、そうであるならば、阿弥陀三尊像より少し下にある一観夫婦像というのは余分である。私は必要ないと思う。ではなぜ、あそこに一観夫婦像があるのか。伝六寄進にはなっているが、伝六の子息の寄進ではなかろうか。そして、親の心子知らずで、頂上の観音菩薩が伝六であるという認識に達していなかったのだと思う。
「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」を合わせて「浄土三部経」というのは法然がこの三経でいいと言ったからそう呼ばれるのである。死後の極楽浄土のことはこれらに描かれている。「観無量寿経」に、観世音菩薩は「この宝手をもって、衆生を、接引(しょういん)したまう」と書かれている。(『浄土三部経(下)』、岩波文庫、p.63)
同書p.104の註によると、接引とは、「親しく仏が衆生を浄土に導き迎えとること」である。このことを伝六が知らなかったとは考えにくい。