2021年12月25日土曜日

史料による因島史 大正時代

1915年大正4年8月中庄町鼠屋新開道路改修

鼠屋新開道路改修記念碑(尾道市因島中庄町新開)

「本村字自鼠屋新開至油屋新開唐樋道路」

 左側面には「大正四年八月建之」。



1916年大正5年中庄町中須賀西浦峠道路改修


「自字中須加権防至峠道路改修記念」。右に小さく「大正五年竣成」

百五十円が本村、百円から五円までの寄付者63人の名前。加えて「十六円西浦組中」と「百四十二円七十銭外百十人」。

1922大正11年3月       中庄町水落


聖歓喜天・大師堂土地等寄付碑

 「大聖歓喜天祠堂壱宇 大師堂敷地二畝廿八歩 右寄付者松浦萬吉 一、金壱百円也基本金 右寄付者中井勝太郎 大正拾壱年三月」。





1922年大正11年秋   中庄町梶田上畑道路改修(尾道市因島中庄町水落)

「字自梶田至上畑道路改修碑」、「大正十一年秋竣工」と

「一、金千五百五十五円本村」



1924年大正13年1月中庄町升浜道路改修


升浜道路改修記念碑(尾道市因島中庄町浜床)

「字(あざ)升浜道路改修記念碑」最初の二行は「大正十三年一月建」、「一、金六百五十円本村補助」。



 丸池の手前あたりから浜床まで、土生新開の北端にある道路だろうか。主に江戸時代に行われた干拓地の道路が明治時代以降に改修されのは、さらに沖に干拓地ができることと、人口の増加が考えられるし、また交通機関の発達も考慮せねばならない。この時代は荷車が通れるような道路にすることが主な狙いだったと思われる。こういう状態がしばらく続き自動車が通るようになるのはもっと後の時代である。

 また、道路の発達と人口増加は関連性は高いのであるが、この周辺の人口が増加するのはもっともっと後のことであるから、この道路改修の主たる狙いは今でいう農道のようなものだったのかもしれない。

 土生新開は江戸時代よりも前の干拓地であるが、江戸時代にさらに東の鼠屋新開ができて、田んぼや畑が増え、最近ほどではないにしても明治時代になってから周辺人口も少しずつ増えていたであろう。そして元の海岸線と土生新開の境目が道路らしくなったのではないかと想像する。そして道路が整備されればさらに家も増えた。