2021年12月23日木曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 251-260回

 ふるさとの史跡をたずねて(251)

中須賀峠道路改修記念碑(尾道市因島中庄町峠)

 因島中庄町は山で囲まれているので峠は至るところにある。今回は西浦峠について記す。とはいえ、近くに住んでいる人を除けば、青影トンネルがあるのだから、わざわざその上まで行く人は多くないだろう。そのせいかそのトンネルの上へ行く道を探すのは難しい。いつもの横着な説明を踏襲すれば、島四国15番国分寺を目指せばよい、ということになる。

 青影トンネルの上に写真のような道路改修記碑がある。



それには「自字中須加権防至峠道路改修記念」と彫られている。右に小さく「大正五年竣成」とある。因島消防署があるところが中須賀池があったところだからその近くから峠に至る道路のことだろう。現在では東から来た車で青影トンネルを通るには消防署前の信号で右折して左に大きくカーブする。その直後、トンネルの少し前で、国道から外れて右へVターンしてさらに別の坂道へ上がる。すると普通車がかろうじて通れるような道が峠まで続く。西浦峠旧道である。おそらくこの道路が大正5年に拡張整備されたのだろう。ただし進入路付近はのちに青影トンネルができたとき大きく変わったと思われる。そしてまた間もなく新しいトンネルができるとこの辺りの状況は更に変貌すると思われる。

 峠だから反対側、すなわち西浦側からも当然来れるのだが、実は難しい。また、光平の方へ通じる道や田熊町へと続く道があるが、これらの道は狭いので注意が必要だろう。

 さて、記念碑だが、下の段に金額では百五十円が本村、百円から五円までの寄付者63人の名前が書かれている。加えて「十六円西浦組中」と「百四十二円七十銭外百十人」と左隅にある。これだけ多くの人が協力したということは、この道路が当時としては主要な道路だったことがわかる。




ふるさとの史跡をたずねて(252)

梶田上畑道路改修碑(尾道市因島中庄町水落)

 因島中庄町の西浦峠から島四国15番国分寺の横を通って、小山の東側を迂回するような形で南へまわると水落・光平地区へ出る。と書いても、その境目がどこかわからないのであまり意味はないのだが、要するに消防署の上の方とその左の青影山北麓である。そのあたりには傾斜の大きい深い溝が時々見えていかにも水落という感じがするが、消防署から少し離れたところ、島四国16番観音寺近くに消防団の消防器具庫がある。正確には消防屯所というのだろうか。その前の防火用水に接して写真のような道路改修碑がある。消防署が近いのだから消防器具庫というのもおかしなことで、いずれ整理されるかもしれない。そうなったら、ここの記述も早晩古びてしまうが。



 さて写真を見ていただきたい。前回の石碑とよく似ていて、左右を反対にしただけだと思う人がいてもおかしくはない。フィルムの時代は裏表を間違えればそういうこともあったかもしれないが、デジタル画像であるから意図的にしない限りそういうことはありえないのである。どちらも自然石をうまく利用していて、当時は景観ともよく合ったことだろう。同じ石工の作品かもしれない。でも、アスファルト道路には似合わない。

 石碑の上の段には右から「字自梶田至上畑道路改修碑」、その上に小さく「大正十一年秋竣工」と書かれている。現在各町で残っている字(あざ)を書いた地図には、掲載されてないが、その下にさらに小さい字(あざ)があって、現在では日常的に使われない地名がある。「梶田」「上畑」というのもその類で、土地台帳、登記簿、あるいは固定資産税の明細などを見ないと、正確な場所はわからない。

 下の段は寄付額と寄付者名であるが、一番上の右側は「一、金千五百五十五円本村」と読める。ここもまた一部を村費で負担し、地元民の寄付金で道路改修がなされたことがわかる。



ふるさとの史跡をたずねて(253)

聖歓喜天・大師堂土地等寄付碑(尾道市因島中庄町水落)

 島四国16番観音寺へ行ってみよう。二つのお堂がある。正面は島四国の大師堂だからお堂。向かって左側の少し高くなっている方が、聖歓喜天だから、祀るというので、お社(やしろ)と書くべきかもしれないが仏教系の神様だからお堂でもよいだろう。聖歓喜天はご利益も多いが、守るべきことも多いせいか因島には少ない。

 さて境内からの眺めは東の方がよく見えて素晴らしい。



境内に写真のような石碑があった。これまた自然石をうまく利用している。わずかな文字だから全文写しておく。「大聖歓喜天祠堂壱宇 大師堂敷地二畝廿八歩 右寄付者松浦萬吉 一、金壱百円也基本金 右寄付者中井勝太郎 大正拾壱年三月」。

 島四国が設置されたのが明治45年。初めは仮設のお堂のようだったものが、約10年後にしかるべき所におさまったということであろうか。大正時代も遠き昔でよくは知らないが、大正11年には、前回のように道路も広くなるし、お堂も整備される。活気にあふれていたよい時代だったのだろうと思う。 



ふるさとの史跡をたずねて(254)

水落西久保道路修繕碑(尾道市因島中庄町水落)

 島四国16観音寺と聖歓喜天よりさらに高いところに写真のような石碑がある。



上段に「自水落至西久保道路修繕」と書いてある。右に小さく「大正七年九月」とある。 

 青影トンネルの上、すなわち西浦峠の島四国15番国分寺から南側の水落地区へ行く道は2つある。国分寺のすぐ横を通る道と、下を通る道がある。島四国遍路道は上の方を通る。下の方の道だったらまもなく右手に石垣のある赤雲神社に着く。ここから16観音寺と聖歓喜天は近いが道は複雑だ。もう一つの上の方、すなわち国分寺のすぐ横を通る遍路道では途中で左下へ降りる。今回は左下へ降りずに、左下へ降りる手前で右手方向へ登って行く。これは青影山と龍王山との間の峠道へ続く道である。小字(あざ)を書いた図と現在の地図を重ねるのは難しいが、小字の水落も西久保も狭い範囲だからこの辺りの道路ということになる。

 下段はほとんど読めない。右端に「一、金七十五円本村」とあり、左へ金額と人名が並んでいるようだ。個人の寄付だろう。中庄村の村費と地元民の寄付によって道路の整備が行われていたことがわかる。農道のような感じがするが、田熊方面への通勤路でもあったであろう。我々は今外周の低いところを通ることが多いが、歩くだけなら峠を越える山道は想像以上に短い。 


ふるさとの史跡をたずねて(255)

青木道路改修碑(尾道市因島重井町青木)

 因島重井町の青木道路改修碑も干拓地に建つ道路改修碑である。



中央に書かれている「本村字青木道路改修碑」は「青木道路の改修碑」ではなく「本村字青木の道路改修碑」と解すべきで、青木道路という道路名があったわけではない。しかし、重井郵便局の隣を南東に伸びる路地を青木道路と呼んでも誤解はないと思う。その道路は青木沖新開と長右衛門新開の山側の道で、明治40年3月10日から10月10日まで6ヶ月をかけて改修された。明治30年に測量された地図によると現在の郵便局のところに村役場があり、かつては幹線道路であったと思われる。また、江戸時代初期の干拓地であるが一面が畑地であって水田ではない。

 工費に関する記述が左側面にある。「改修金高壱千三百八拾八円」の内訳として六百円が村費補助、七拾三円が特別寄付、三百拾九円が関係寄付とある。関係寄付というのは周辺住民の寄付金で、特別寄付は村内有志の寄付と考えられる。

 さらに金三百九拾六円が人夫壱千三百二拾人とある。人夫一人当たり0.3円すなわち30銭になる。これが当時の日当であろうか。そのように計算して加えているから、無料奉仕を工費に換算して加えたものである。収入金額に人件費を合わせたものを改修金として計上しているので、現在の感覚から考えると紛らわしいが、以上のように考えるしかない。


ふるさとの史跡をたずねて(256)

大正橋青木新道寄付碑(尾道市因島重井町小林)

 因島重井町の重井駐在所の隣に「大正橋青木新道寄付碑」と書かれた石碑がある。



 左(南)面に「大正十二年二月起工 同十三年三月竣工 人夫八百八十三人」とある。大正十三年に大正橋が架かるとともに、そこから前回書いた青木道路まで新らしく道路が作られた。青木沖新開のほぼ中央を東西に貫く道路である。

 右面に書かれている「一、金高二千五百七十円八十銭」が総工費だと思われる。また、正面には金額と寄付者名が書かれており、本村補助が三百五十円であることもわかる。正面左下に関係寄付として7名の名前しかないのは、新道を作るのだから当然といえば当然である。しかし、南北に走る2つの道路が結ばれるのは何かと便利であり、村の発展には不可欠であった。その後干拓地の宅地化が急速に進んだことと想像される。

 舗装道路になる前のこの道を知っている人は、この新道が、あたかも干拓地の堤防跡のように見えたことを思い出すだろう。異なる干拓地の境界と思った人もいたと思う。しかし、古い地図ではこの道路ができる前は一面の畑地であったから、両側は同一時期の干拓であったことがわかる。



ふるさとの史跡をたずねて(257)


山田大池道路改修記念碑(尾道市因島重井町山田口)

 明治45年に創設された島四国は本四国のイメージを生かすためにさまざまな工夫がなされている。重井町の83番一宮寺を字「一ノ宮」へ設置するため、あるいは一の宮があった所に設置するために、その前で、不自然と思えるほど南北へ行きつ戻りつするようになっている。その一宮寺へは82番根香寺から県道沿いに南に進むが、一本松の手前で県道から別れて狭い道を直進する。



 その分岐点に山田大池道路改修記念碑がある。南向きに建てられれおり、その中央に「本村 自字山田至字大池 道路改修紀念碑」と書かれている。記念碑でなく紀念碑と書かれているところに時代が感じられる。左側面に「維時明治廿五壬辰年仲秋」とある。その頃はまだ漢字の用い方はおおらかであった。

 また、近くには「八十三ばん」(ばは者に濁点)の遍路道標、それぞれ「中庄村行」と「はぶ たくま行」を別面に書いた道標などがある。

 遍路道標の指示方向(南)の右手に丘があるだけで、周囲はかつては海だった部分であるが、左前方は、しまなみ海道の本線を作るのに削られた土で埋められ、今では干拓地だったことを想像するのは難しい。


ふるさとの史跡をたずねて(258)

脇田舟原道路改修記念碑(尾道市因島重井町川口)

 重井町の青木道路の南の端である川口大師堂(島四国84番屋島寺)下には古い石碑がある。



文字は鮮明ではないが、「本村字 自脇田至舟原 道路改修記念碑」と正面に書かれている。脇田も舟原も現在はほとんど使われることのない字名である。ここから一本松までの道路改修が明治二十七年五月十日起工、十月三日落成で行われたということである。 

 右(西)面に、金高四百七拾七円、その内訳は村費補助が三拾五円、特別寄付三拾一円、川口中寄付百八十一円、人夫千百五十人二百三十円

と書かれている。人夫費は、一人当たり20銭として無賃奉仕を総工費に計上されたものと考えられる。また岩の寄付者四名も記録されている。

 さらにまた裏面には、明治四十四年初秋再改修の記録が追加されている。



それには、金八百六十二円八十銭改修費、内訳金百四十円村費補助 、 金十五円特別寄付 、金三百三十七円七十銭川口中寄付、金三百七十円十銭人夫千四百八十人 などと記されている。最後の人夫数と金額は一人当たり25銭としても数値が合わない。半日程度の奉仕を10銭と計上したのかもしれない。

 前回の山田大池間が明治25年、青木道路が明治30年と、次々と道路改修が行われていたことがわかる。


 地図


ふるさとの史跡をたずねて(259)

舟原広道道路改修記念碑(尾道市因島重井町一本松)

 因島北インター入口と大浜方面へ向かう側道入口の中間辺りが重井町と中庄町との境界である。そこから一本松までの現在では県道になっている道路が明治26年に改修された。その道路改修記念碑が重井町一本松に青木城跡を背にして建っている。



 中央に「本村字 自舟原至広道 道路改修紀念碑」とあり、左右に「明治廿六年一月起工 明治廿六年五月落成有志者立之」と書かれている。

 右側面(東面)には「金百五十円村費補助 同三十円特別寄付 同二百七十三円関係中 人夫四百四人村内合力 同千九百人関係中」とある。関係中というのは周辺住民ならびに田畑の所有者だと思われる。また字灰ノ奥と字池ノ迫の岩の寄付者名と三庄村石工篠塚音松とある。石工として工事にかかわったということか、この石碑の製作者ということかはわからない。おそらく両方であったのだろう。 

 なお、右側には昭和二年に久保田権四郎翁の寄付により、再改修と大浜へ向かう旧道の整備が行われ、その記念碑がある。それについては219回で紹介した。


ふるさとの史跡をたずねて(260)

吉備津彦命の祠(尾道市因島重井町一宮)

 島四国83番一宮寺のお堂の中には重井村四国1番霊山寺がある。また一宮寺のお堂の外、右側には小さな石の祠がある。祠の中には吉備津彦命と彫られている。また、左右の側面(外側)には「イ組ロ組中」「明治二十九年」と書かれている。



 一の宮というのはその地域で社格が1番の神社という意味であるが、

備前国一の宮が吉備津彦神社、備中国一の宮が吉備津神社でともに吉備津彦命を祀っている。その分社は各地にあって新市町にあるのは後者の分社で備後一の宮である。また、一の宮のある所の地名が一の宮になっているところは全国的に多い。だから、ここも、もともと一の宮と呼ばれていたところへ、明治45年に島四国一宮寺をもってきたことがわかる。

 重井町の字(あざ)「一宮」の近くに「友貞」がある。「友貞」は因島村上家文書の三に、放生会のため友貞名の田を1286年(弘安9年)に寄進したと記されているから、ここもかつて友貞という人の所有だったことがわかる。

 これらのことから、荘園・中庄の重井浦として、この辺りから開発されたと考えてよい。なお、重井庄と記されるようになるのは1337年(建武4年)以降である。

 現在の浜床を通るルートは土生新開ができてから後にできたものであるから、奥鹿穴、あるいはもっと運動公園寄りから重井浦へ通じるルートをへて、中庄の荘園が重井方面へ広がり、重井浦から重井庄となった。重井浦というからこの辺まで海水がきており、今と違って護岸壁などはなく、草の生い茂った湿地帯、すなわち繁の井であったのであろう。



  写真・文 柏原林造


➡️ブーメランのように(文学散歩)