2022年6月28日火曜日

30番 護国山 善昌寺

30 護国山 善昌寺 曹洞宗 千手観音 広島県府中市上下町上下341 





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27番観音寺

 27番 孤岸山 観音寺 真言宗 聖観音 広島県尾道市因島三庄町千守591-2








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瀬戸内三十三観音

 01 景光山 不洗観音寺 真言宗 十一面観音 岡山県倉敷市中帯江820

02 神遊山 遍照院 真言宗 十一面観音 岡山県倉敷市西阿知464

03 矢上山 寳島寺 真言宗 十一面観音 岡山県倉敷市連島町矢柄5633

04 與楽山 観音院 真言宗 十一面観音 岡山県玉野市日比2-1-12

05 室谷山 金剛頂寺(西寺) 真光院 真言宗 千手観音 岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓4032

06 海岸山 妙福寺(東寺) 真言宗 千手観音 岡山県瀬戸内市牛窓町牛窓2718

07 台雲山 花岳寺 曹洞宗 千手観音 兵庫県赤穂市加里屋1992

08 明王山 普門寺 天台宗 千手千眼観音 兵庫県赤穂市尾崎825

09 日光山 光明寺 真言宗 十一面観音 岡山県備前市三石148

10 大瀧山 福生寺 真言宗 十一面千手観音 岡山県備前市大内983

11 馬路山 明王寺 天台宗 聖観音 岡山県岡山市東区竹原185

12 瓶井山 禅光寺 安住院 真言宗 千手観音 岡山県岡山市中区国富3-1-29

13 天柱山 頼久寺 臨済宗 聖観音 岡山県高梁市頼久寺町18

14 栖隆山 龍泉寺 真言宗 聖観音 岡山県高梁市成羽町下原370

15 頂見山 千手院 真言宗 千手観音 岡山県井原市野上町971

16 長谷山 法泉寺 曹洞宗 聖観音 岡山県井原市西江原町4841

17 西谷山 泉勝院 天台宗 千手観音 岡山県浅口市金光町占見2391

18 矢崎山 本性院 天台宗 千手観音 岡山県倉敷市玉島黒崎4595

19 三部山 不動院 真言宗 不空羂索観音 岡山県浅口郡里庄町新庄3167

20 小田原山 教積院 真言宗 聖観音 岡山県笠岡市有田1777

21 樋之尻山 嫁いらず観音院 真言宗 十一面観音 岡山県井原市大江町1036

22 明尾山 寒水寺 真言宗 千手観音 広島県福山市神辺町西中条1674-1

23 妙智山 能満寺 真言宗 聖観音 広島県福山市西町1丁目20-3

24 海潮山 磐台寺 臨済宗 十一面観音 広島県福山市沼隈町能登原1427-1

25 金亀山 神宮寺 真言宗 千手観音 広島県尾道市向島町1206

26 梵音山 慈眼寺 対潮院 臨済宗 如意輪観音 広島県尾道市因島土生町474-1

27 孤岸山 観音寺 真言宗 聖観音 広島県尾道市因島三庄町千守591-2

28 弁宝山 北之坊 満福寺 真言宗 千手観音 広島県尾道市御調町下山田460

29 今高野山 龍華寺 真言宗 十一面観音 広島県世羅郡世羅町甲山152

30 護国山 善昌寺 曹洞宗 千手観音 広島県府中市上下町上下341

31 珀明山 十輪院 真言宗 聖観音 広島県府中市鵜飼町147-1

32 妙雲山 福盛寺 大坊 真言宗 千手観音 広島県福山市駅家町新山356

33 北面山 福性院 真言宗 十一面観音 広島県福山市芦田町福田2689

2022年6月15日水曜日

因島文学散歩

山椒魚  朗読1 朗読 2  高校生向解説動画

     原文 原文2

 

刊行本  全集1 新潮文庫

  


久保田権四郎 実業道を語る   因島ふるさとの歴史を学ぶ会資料82回 p.30


平家物語

Wikipedia

冒頭     原文  横書


敦盛最後 は巻9 原文






さざなみ軍記



主人公の公達は誰だろうか。
p.21  父の身代わりとなった三郎次の台詞。

 「私こそは平家で有名な平中納言三位知盛といって・・」

父が中納言で知盛だから平知章(ともあきら)ということになる。

 平知章:一ノ谷で知盛が大手の大将で義経の奇襲に敗れ、父に代わって知章が討ち死にした。

 知盛:「見るべき程の事は見つ、今は自害せん」33歳。

       宗盛の前で一ノ谷で知章を死なせたことを述懐。



平知章

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
平知章
時代平安時代後期
生誕嘉応元年(1169年
死没寿永3年2月7日1184年3月20日
墓所明泉寺兵庫県神戸市長田区
官位従五位上武蔵守
主君安徳天皇
氏族桓武平氏維衡流(伊勢平氏
父母父:平知盛、母:治部卿局
兄弟知章増盛知忠知宗中納言局
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平 知章(たいら の ともあきら)は、平安時代後期の平家一門の武将平知盛の長男。怪力で知られた。

略歴[編集]

寿永2年(1183年)の平家都落ちに伴って西海へ。寿永3年(1184年)2月の一ノ谷の戦いでは、父・知盛に従い、源氏方の源義経軍と戦闘。『平家物語』の「知章最期」によると、全軍総崩れの中、知盛と知章、郎党の監物太郎頼方の主従三騎で敗走。海岸に出たところを、源氏方の児玉党に追い付かれ、交戦。児玉党の大将が知盛に組付くところに割って入り、児玉党の大将を討ち取ったが、周囲の武士に囲まれて壮絶な最期を遂げた。享年16。そのおかげで生き延びた知章の父である知盛は、「どんな親が息子を助けないで逃げるだろうか」と自分を責め、さめざめと泣いたという。





人物

 三郎次  父の郎等の一人  p.20









全集に沿って


p.18

1183年寿永2年7月5日


p.41

8月21日

三位中将  清盛5男平重衡(しげひら)

 義経 一ノ谷は翌年1184年寿永3年2月 重衡捕らえられる。

    屋島 扇の的はさらに翌年1185年寿永4年2月

p.43 

中務(なかつかさ)

中務省の長官。正四位上相当。平安時代以後、四品以上の親王が任命された。



2022年8月17日さざなみ軍旗 7回目

 8人 松浦、東、矢葺、岡野、青木、宮地、今井、柏原、

新潮文庫p.58   同じ日の夜  から

全集 p.55

同じ日 9月24日

切斑(きりふ)

 鷲 わし の尾羽で、白と黒のまだらがあるもの。 矢羽根に用いる。 まだらの大小や濃度によって大切斑・小切斑・薄切斑などがある。


垣楯(かいだて)楯を並べて垣のようにしたもの。

 

1183寿永2年8月後鳥羽天皇即位 



建久三年(一一九二)二月十七日後白河法皇は病危急により所領を処分した(『玉葉』)。すなわち後鳥羽天皇には後院領・六勝寺領・蓮華王院領・鳥羽法住寺・新日吉社領・新熊野社領・最勝光院領・神崎荘・豊原荘・会賀荘・福地牧を、殷富門院には金剛勝院領・押小路殿を、宣陽門院には六条殿・長講堂領法金剛院を、前斎院式子内親王には大炊殿・白川常光院領など、前斎宮好子内親王には花園殿・仁和寺を伝えた。

 

2022年9月21日さざなみ軍記 8回目

 8人 松浦、東、矢葺、岡野、青木、宮地、今井、柏原、

新潮文庫p.68   5行目   から

全集 p.63


2023年1月18日

1205 7月 北条時政 妻牧氏と平賀朝雅を将軍擁立 失敗 義時執権となる。

1224 6月 泰時執権となる。

1232  8月 関東御成敗式目制定(貞永式目)


全集p.99

二月十九日 1185年 寿永4年 文治元年8月14日   (3月8日)



 

2022年6月5日日曜日

画本実語教


 中澤道二翁閲
画本実語教
浪花書肆 三書房梓

絵本実語教序
実の(能)処世に行わる事既に久し
童子是を読事その略に通じて
その精を遺す 盤石堅こうにして刀
鋸を施す事あたわずといへども是
を砕製する時は眼中に投したく

猶可也 炉甘石の如き製の以

眼中の雲翳を去るも細密の功

なり 此諸家伝註の権誉乎 今

此書通俗にして日用の切近なり

文字また簡にあらず堅にあらずといへ

ども 童子此を喜こび亦透徹し 易か


らず 是弁解の無くむばあるべから

づの所以也 今此解を閲するに

其説詳らかにして言外の義を拡め

和漢の人物を評論し 燦然として

義理再明也 加之 山水人物童舎

牛馬等を絵画を加へて其大略 



を示せり 巻を写て喋々として倦
ことなく沈潜反復する時は自其
味をしって其益を得るものあらん 学
智の二字等閑(なおざり)にする事なかれ
良鉄ありといへども鍛功を加へざれば
宝剣となることなく良璞(はく)ありといへ

ども玉人の手を経ざれば光明に
    人亦然り 学ばずれば才
智をなすことなし







唐土戦国の時斉の国

に晏嬰といえる智者あり


写真帳 1-p.10

 














2022年6月3日金曜日

ふるさとの史跡をたずねて 増補版 271-280


 ふるさとの史跡をたずねて(271)        

平田道路改修記念碑(尾道市因島鏡浦町)


 島四国25番津照寺の近くにも平田道路改修碑がある。と言っても少し山道に入るので丁寧に書いておこう。平田道路そのものが、外浦町と鏡浦町を結ぶ山道であるのだから、その山道沿いにある。かつて歩き遍路道として峠道が利用されたが、現在は海岸沿いの水軍スカイラインを通る人が大部分であろうから、そちらからの方向を示す。すなわち鏡浦港側から津照寺にお参りしたら、北側の三叉路に出て山の方へ上がっていく。程なく道は二本に分かれるので、左側の道を進む。電話線の下である。津照寺を出て、5分もしないうちに石碑が見えてくる。



 正面には右から大きく「道路改修碑」と書かれており、その下に縦書きで金五十円から順に金額と寄付者の氏名が49名書かれている。そして最後に「いろは順」とある。これは同額の場合の順序であろう。同額の場合には順序に苦労するのはどこも同じであろう。「いろは順」と言う表現は初めてで、興味深い。

 右側の面には「大正八年一月建之」と書いてある。


20220613

下から登ってくると、この面がまず目に入る。また裏面には「発起人」として13名の名前が書かれている。



 なお平田は「ヘイダ」と読むのが正しいようである。そしてこの平田道路について、古い本には「県道なるも車は通れない」と書いていたものもあるが、今も県道なのであろうか。


世話人 

川崎寅太郎 吉平力太郎 楽平□市 宮地福松 宮地萩次郎 吉本清四郎 門藤□松

川本久行 岩本清右衛門 川崎善次郎 吉平勇助  宮長舘一 大石留吉  


ふるさとの史跡をたずねて(272)

           写真・文 柏原林造

昭和橋住吉神社道路改修碑(尾道市因島外浦町三区)


 外浦町の本因坊秀策囲碁記念館から直線距離にして南東方向へ約100メートルのところに、赤い木製の鳥居の千兵衛神社がある。探し物をするのにご利益があるそうだから、高齢者にはありがたいところである。その近くに道路改修碑がある。

 あるいは島四国22番平等寺から23番薬王寺へと遍路道を歩くと、赤い鳥居の前で右に回ってすぐのところだと書いた方がわかりやすいかもしれない。



 その石碑の中央には「自昭和橋至字住吉 道路改修碑」と書かれているから、その近くから住吉神社方面へ伸びる道路の改修記念碑だとわかる。石碑の文字によると、それが昭和二年四月竣工であり、総工費が五百五十円だった。

 下の方には世話人10人の氏名が書かれている。

 またこの石碑の右隣にも少し小さな石碑があり、「一、金壱百円 寄附 村上善右衛門 昭和二年四月 道路改修費之内」と書かれているから、世話人の一人である善右衛門氏がおよそ五分の一を負担されたということがわかる。

 昭和元年は大正15年の年の年末7日間だったから、昭和の文字も目新しい頃の石碑である。




世話人 村上善右衛門 松原儀市 田頭良平 松原増五郎 村上美三郎

    村上清一 松原芳作 笹野登一 吉田延秋 中山太郎 

   

ふるさとの史跡をたずねて(273)

西奥道路改修碑(尾道市因島外浦町二区)


 前回の千兵衛神社のところからさらに南側へ、奥山方面に向かってゆるやかな坂道を登る。すなわち島四国22番平等寺を目指して登り、左手に平等寺を見ても、さらに登る。一番奥の民家を過ぎると農道がさらに続く。その民家に寄り添うように左側に道路改修碑がある。



 正面の上には右から「西奥道路改修碑」と横に書かれている。その下にはまず二段分三行に渡って「大正十四年竣工」「人夫百四十人 村補助」「一、金五百十九円   

 段別割」と書かれている。その後、特別寄付として15名の氏名と金額が書かれていて、そのあと「以上金学順」とある。その総額は329円である。また、最下段には世話人として12名の氏名が書かれている。

 さらに左側面には合計15円として大阪の人二名の氏名が書かれている。

 この石碑からさらに山側へ道路が伸びているから、その道路を利用する畑の所有者が土地の面積に応じて負担した金額が、段別割の519円であろう。工事人の延べ人数140名の日当を村費で補い、他は村内外の人たちの寄付で補ったということである。

 ここから下は暗渠になっているが、かなり大きな川が町内を貫流しているから、川沿いの道路であり、その補強も当然行われたものだと推定できる。




ふるさとの史跡をたずねて(274)

外浦青年支部事業記念碑(尾道市因島外浦町住吉神社)


 次は島四国23番薬王寺を目指そう。あるいは、外浦町の住吉神社を目指すと書いても同じことである。神社に入るとすぐに、右手の山側に石碑が並んでいる。

 その一つに珍しい石碑があった。



「外ノ浦青年支部事業記念碑」と書いてある。次の行には「自海岸至住吉神社道路改修費寄付者」とあるから、これも道路改修碑の一つと考えてもよいだろう。百二十円、百円、百円の三名の氏名の次に「一、金五百二十円 外百四十一名」とある。

 また、右側面に発起者2名の氏名が記されている。左側面には「大正元年十二月竣工」とある。そしてまた、裏面には世話人9名の氏名が書かれている。

 以上のことから大正元年に海岸から住吉神社までの道路改修が行われ、ほぼ村内全世帯の寄付金が当てられたと考えてもよいだろう。そして青年支部の方たちが総出で工事に当たったのだろう。海岸というのは現在の県道のところである。しかし、青年支部というのがわからない。町内会の青年支部というような位置付けであろうか。あるいは後の青年団活動の前身となる団体だったのだろうか。







〔面面〕

外ノ浦青年支部事業記念碑

自海岸至住吉神社道路

改修費寄付者

一、金百二十円 吉田源右衛門

一、金百円   井上豊三

一、金百円   田頭宮吉

一、金五百二十円 外百四十一名 

〔右側面〕

発起者  吉田源右衛門

     井上豊三

〔左側面〕

大正元年十二月竣工

〔裏面〕

世話人 

 田頭栄太郎 松原幸三郎 中山善次郎 松原徳吉 田頭良平

 市河勝市 井上勅松 田頭雅市 笹野登一


ふるさとの史跡をたずねて(275)

久保田鉄工寄付碑(尾道市因島外浦町)


 外浦町の本因坊秀策囲碁記念館の隣にあった石切風切神社の跡は駐車場になっているが、巨大な本因坊秀作碑は残っている。広い駐車場の一角にあるので、以前よりよく目立つ。後ろに回って見ていて、周囲を囲む寄付者名の書かれた玉垣に「久保田鐡工尼崎工場」と書かれているものがあった。



従業員一同などと書かれていないし、工場そのものも久保田権四郎さんの持ち物なのだから、権四郎さんの寄付と考えてよいだろう。秀策碑には大正十四年と書かれている。その頃、「クボタ石油発動機」が脚光を浴びていた。

 久保田権四郎さんに関係するものは、本連載でも度々書いてきた。そのうちの16回分が因島高校の『百周年記念誌』に再録されている。島内各公民館に寄贈されている。機会があればご覧いただきたい。

 ・・ということで、ここは因島の生んだ二人の偉人に思いを寄せることのできる、貴重な場所である。



ふるさとの史跡をたずねて(276)

権現道改修碑(尾道市因島三庄町二区)


 島四国34番種間寺へは、三庄町善徳寺から変電所横の峠道の三庄町側のほぼ最高部を横切って、百凡池の横を通るのが初期の遍路道であったが、現在では峠道を東へかなり下がって、南側の山が切れたところで、南へ入る。

 種間寺は権現宮の中にある。隣のため池が権現池である。権現宮は19世紀の初めごろ熊野三社権現が岡本氏によって勧請され、修験道の道場として親しまれてきたものである。このことは187回で紹介した。

 石段の手前に道路改修碑がある。



 石碑の裏面には「大正十一年五月成工」の文字とともに、3人の世話人名が記されている。

 正面には「権現道改修」とあり、寄付者名があるのだが、「金壱百円正金」が1名。5名は百六十円から三十円まで、金額の下に「敷地」とあるから、土地提供者で、当時の時価で面積を金額に換算したものであろう。

また、その次に「金壱百九十三円人夫 通組信者中」とある。「通り」が二区の地名である。地元の信者の方が労働奉仕をし、延べ人数と当時の日当から算出した額だと考えられる。


権現道改修 寄附人 金壱百円正金   岡本惣平 金壱百六十円敷地 宮地兵太郎 金壱百円  同  毛利己之助 金六十円  同  岡本好子 金五十円  同  宮地縫吉 金三十円  同  光法兵助 金壱百九十三円人夫 通組信者中



「大正十一年五月成工」



「世話人 宮地悦太郎 柏原鋼吉 宮地兵太郎」


参照:https://yamap.com/activities/18177212


ふるさとの史跡をたずねて(277)

弘法大師像(尾道市因島土生町荒神区)


 島四国45番岩屋寺は、因島病院の前から、東へバス道路を横切り、さらに商店街を横切って、因島公園の方へ登る。島四国44番大宝寺のある同じ名前の大宝寺の前をさらに登ると大きな岩の横にある。

 明治45年に作られた因島88ケ所は本家の四国88ケ所札のイメージに近づけようと数々の工夫が凝らされているのだが、その中でも傑作の一つがこの岩屋寺であろう。

 その大岩は磨崖仏となっており、弘法大師立像が描かれている。右には「弘法大師 明治四十五年」、左には「施主村井才吉」の文字がある。


写真では見えないが左側の側面(内側)には「地主本家小林坂太郎 石工金本才兵衛」と彫られている。



 また、その大師像の右奥には不動明王の磨崖仏がある。これは45番岩屋寺の御本尊が不動明王であるからであろう。



その他の写真

 


ふるさとの史跡をたずねて(278)

弘法大師像(尾道市因島土生町赤松奥)


 前回の弘法大師像は少しだけですが腑に落ちないものがありました。それは言葉で言い表せない記憶の混乱です。敢えて書けば、「こんなところにあったかなぁ?」という感じです。別の場所だったが・・いや大岩大神の位置と勘違いしているのかな・・などと色々考えて、古い写真を見たりしていると、何と同じような大師像がありました。(写真)



前回の写真を誤って載せたのではありません。よく見て下さい。明治の文字がないでしょう。

 この弘法大師像のある場所を説明するのが、また難しい。土生公民館の東側の道を南へ進みます。少し坂になっています。元土生保育所を過ぎたあたりが赤松峠で、かつて一本松があったそうです。また、タヌキが出たとも言われています。そこには「平木氏発祥之地」と「金之神」の2つの石柱があります。そこから東へ少し入ると丘があります。その丘の上に「因島龍神」の鳥居や大きな岩があります。下記地図の赤星印。これらを併せて播磨石磨崖仏と呼んでいるようです。

 その岩の一面に彫られている磨崖仏です。右端に「弘法大師 大正八年三月」左端には「寄附者 村井才吉」と彫られています。隣には不動明王らしき磨崖仏もあります。





ふるさとの史跡をたずねて(279)

八坂寺磨崖仏(尾道市因島土生町宇和部)


 赤松奥の磨崖仏を出したら、次は当然のこととして八坂寺の大岩を紹介しないといけなくなる。こちらは島四国47番だから、場所の説明は省略する。位置的には土生公民館の山側であるが、直線道路がないのでぐるりと回って行く。そこには複雑な大きな岩があって、鉄の梯子があり、岩の上にも石仏があるし、その下の岩の隙間にもたくさんの石仏が並べられている。

 島四国の岩屋寺については、前に書いたが、こちらの方がもっと良かったかなと思う。明治45年頃に因島の地区ごとに札所が割り当てられた時、ここを岩屋寺にしようという意見があったことは当然考えられる。しかし、そうすると土生町南部が少なくなるので現在のようになったのだろう。

 さて、この八坂寺であるが、鉄の梯子のある正面が壮観であり、人々の目はここに集中する。しかしこの大岩の右側(南側)も見ていただきたい。周りの岩が大きいので小さく見えるが大作である。文字は見られないが、阿弥陀如来像だと言われている。



 この大岩の上にはさらに別の岩が重なるように載っているが、形から想像するに元はくっついていたのではないかと思う。正面から見ると上の岩は4枚の岩があるように見える奇岩である。



ふるさとの史跡をたずねて(280)

馬頭観音像(尾道市因島土生町郷区焼家谷)


 赤松奥の磨崖仏と島四国八坂寺の磨崖仏を書いたので、三点セットという訳ではないが、やはり三子松の馬頭観音を紹介しないといけなくなる。スマホで地図を出すと、八坂寺はすぐに出てくる。そして驚くことに「赤松峠播磨石磨崖仏」という文字が、画面を大きくしたり小さくしたりしていたら出てきた。赤松奥の磨崖仏のことである。だが、今回の馬頭観音像は出てこない。

 もう随分前のことになるが9回の三子松のところで出てきたため池の近くである。ここへ行くには天理教因南分教会の北側の道を東へひたすら進んでいただきたい。と、書いても、実際は複雑である。因島南中学校の南西にため池がある。池の名前の載っている地図はなく「長加八池」と以前書いたが、「長加入」という地名があるから「長加入池」と書くべきかもしれない。

 このため池の南側の道路を天理教会のところまで辿り、そこから入っていただきたい。そしてため池の隣をまっすぐ進み、家と倉庫の間を通過し正面の法面(崖)の岩を見ていただきたい。因島はもちろん全国でも珍しい(と思う)馬頭観音座像がある。




「廿九番まつお寺」と彫ってあるので、西国33観音の「松尾寺」と呼んでもおかしくはない。

 なぜ、ここに馬頭観音があるのだろうか。地主の方が馬を飼われていたか、馬に愛着があったのか。あるいは西国29番松尾寺の寺伝にあるような、海で流木につかまり命拾いをした体験がありその謝意か。私の想像である。いずれにせよ、明治5年の制作だから、詳しいことはおそらくわからないだろう。























                         写真・文 柏原林造

➡️ブーメランのように(文学散歩)

本館 白滝山 いんのしまみち