師清伝説。因島村上氏に関する伝説はたくさんあるがその最大のものは、師清伝説である。師清伝説というのは、村上義弘の跡を継いだということ、北畠氏であったということ、新田、脇屋の遺児を引き取り成人させ舎弟にしたこと、三人の息子を来島、能島、因島の三家の祖としたこと、釣島箱崎浦の合戦で今岡通任に勝ったことなどである。これらの事象は独立に存在しているのでなく関連している。一方、これに関連した人物の存在と事象の存在は別問題であることである。すなわち、北畠師清なり村上師清という人物の存在が確認されたからと言って、上記の事が史実だとは言えない。別問題である。さて、こんなことを書いたら、自分はどこまで史実だと思っているかということが問題になる。しかし、それは本当はどうでも良いことではないかと思う。我々が読んだり書いたりする文書の情報量に比べて人間の活動の歴史は時間的にも空間的にも無限大に近い。すなわち記述される歴史などというのは人間の全活動の極めてわずかに過ぎない。だから、記述されていない人類の活動の方がはるかに多い。その記述されなかった活動から漏れ出たものが伝説である。漏れ出て、記述された領域に入るか入らないかのところにあるのが伝説である。だから、結論から言えば、史実であったかも知れないし、そうでなかったかも知れないものが、伝説である。だから、史実であったとしてもかまわないし、史実でなかったかも知れないのである。学問の世界では、実証性とか客観性が重視されるが、幾分かの主観性から逃れられるものではない。
城跡伝説。村上海賊関連史跡が日本遺産になって何年か過ぎた。因島を出て、よその島へ行っても、観光するほどの遺跡はない。海賊という呼称が尾道市の学芸員がいつも言うようにパイレーツのような海賊ではないとしても、海賊という言葉が示しているように、日常的には海上生活者であり、時に根拠地とする島に帰ってくるとしても、そこが定住地とは限らない。海賊行為がアウトローである限りにおいては、根拠地は移動するものであろう。子供の頃から繰り返し聞かされた桃太郎の話では盗賊団の本拠地は一人の少年によって征服されてしまうが、瀬戸内海の島で城砦を作っても似たようなものであろう。難攻不落の城砦などを瀬戸内海の島々に作ることはむずかしかろう。逆に言えば、瀬戸内海の船乗りを、時にアウトロー的な行為があったとしてもそれを海賊と呼ぶのは間違っている。本拠地を襲おうとしても遠すぎるぐらいに遠征するのが真の海賊であろう。だから瀬戸内の海賊衆と言っても海賊らしからぬ海賊であるから、その本拠地も城砦らしからぬ城砦ということになるのは当然であろう。そういう意味で見れば、近世の城下町というのは良くできた防災都市であった。長年の戦国時代の経験から人災へ備えた防災都市であった。それに比べると、現代の地方都市の体制はお粗末である。県庁の周辺に幹部級の官舎を作り地下で結ばれてすぐに集合できるようでなければならない。さて、海賊ならぬ海賊衆の根拠地であるが、斯様な次第であるから、城郭らしからぬ城跡であることは当然であろう。それは瀬戸内海に限らず、本土でも戦国時代初期の城跡などと呼ばれているものは、三日ほど陣を張った丘なども含まれるのであろうから、必ずしも住居を兼ねたものではなかったと思われる。海上生活が中心であればなおさら、水、食料に不便な山の上に住む必要はないのであるから、我々が普通考えるお城とは全く異なるものを城跡と呼んでいると思えば良い。すなわち海から離れた城跡はシンボル的な意味を除いては意味はなかったのではなかろうか。しかし、一方では能島城跡のようなものがある。国史跡というだけあって変化に富んでいるし、ある時代には重要な役割を担っていたことは確かだろうが、不思議な場所である。海の城砦のような印象を受けるが生活の場ではなかったと思う。そして戦いを想定した城砦でもなかったと思う。周囲の急流はあたかも自然の防御壁のような印象を受けるが、そうではない。海流は潮の干満の逆転する時、必ず止まる。その時襲われれば、急流の役目は果たせない。しかし、流れが止まる時に特別に警戒を強め、他の時はそれほど注意しなくても良いと考えれば、城砦としての役割があったのかもしれない。それにまた、水は対岸の大島に水場跡が残っているように、島内に貯蓄できる水は限られている。従って籠城戦には向かない。長所と短所を備えた不思議な場所である。いずれにしても長い間利用されたのではなく、いっとき活用されたのであろう。
水軍伝説。仮に因島村上氏の時代を230年ほどと考えてたとしてもその間に国内の状況も村上氏の状況も大きく変わっている。しかし、何かの根拠となるような話があると、それが230年間全ての時代にわたって行われていたような錯覚をもつ。特にそれ以外の情報がないのだから。まさに針小棒大である。たとえば因島の各城跡について、その城主がいわゆる五家老に割り当てられている。これについては本来は城主は村上氏であり五家老は城代家老というのが適当なのかもしれないが、それは今は置いておく。さて、その五家老が何代にわたって、あるいは何年城主を勤めたのであろうか。村上本家の記録もほとんど残っていないのだから、まして家臣団の記録を期待する方が無理であろう。するとこれも伝説の域を出ないのであろうか。さらに難しいのは伝説にせよ残された名前が世襲されたものであれば、その名前の意味する人が何人いるのか我々には決められないということである。このようなことを考えると、我々が記述によって確かめられる事柄は長い歴史のほんの一部のことかも知れない。