ふるさとの史跡をたずねて(451)
平山画伯スケッチポイント39(今治市大三島上浦町)
島の生活というものはおもしろいもので、いつも目にしている近くの島々でも、何かの理由がなければめったに訪ねることがない。そして一生訪ねない島の方が多いのである。
生口島の西北部で育った平山郁夫画伯にとって大三島は対岸の島で夕日の沈む島であった。だから対岸の地は幼い頃から多くの想像をかきたてたことであろう。
そういう意味では大三島でのスケッチは多いが、このスケッチポイント39「大三島上浦町 盛漁港」には特別の思いが込められたものだと思う。
しかし、海岸は遠くから見ると多くの夢を誘うが、実際にその場所に行くのは意外に難しい。幸いここまでくると、大久野島経由忠海行きのフェリー桟橋があって海辺に出られる。
残念ながら貨物船も漁船も停泊していなかったが、かすかに大久野島が見える。その向こうは画伯がかつて戦後通っていた旧制忠海中学校のあったところだから、こちらの方向を描く必然性があったのだろう。
ふるさとの史跡をたずねて(452)
二番札所極楽寺(尾道市因島大浜町一区)
因島八十八ヶ所の二番札所極楽寺は大浜公民館の前にある。一番霊
この道も所々岬の先端を回った名残の旧道があったりして、
それはさておき因島大橋の真下を通り速い潮流や遠近の島々をゆっ
ただ、これが初期の遍路道かというとそうではなく、
さて半島の付け根の大きな堤防が近づいたら右手に二番札所が見え
周辺には235回(『暑往秋収』p.40)で書いた「
時間があれば、
ふるさとの史跡をたずねて(453)
三番札所金泉寺(尾道市因島大浜町三区)
因島八十八ヶ所の三番札所金泉寺へ向かうには国道まで出て左折する。要するに広い道まで出て南へ向かうのである。少し行くと川があり第三久保田橋がかかっている。さらに南へ行くと、保育所の跡に「週末カフェC0G0」(大浜地域未来交流館)がある。その手前に第二久保田橋がある。橋と言っても川はほとんど見えないので注意が必要だ。元幼稚園の建物が目立つのでその手前だと思えばよい。そこで直角に右折して、まっすぐ進めば間違いなく金泉寺へ着く。ここまでは車を利用しようと歩き遍路をしようと、初心者でも簡単に行けて、島遍路の楽しさを味わうことができるだろう。
境内には現在のお堂とそれ以前のお堂の建設寄付碑がある。
さてその寄付碑の隣の3体の石仏に注目したい。
ふるさとの史跡をたずねて(454)
四番札所大日寺(尾道市因島大浜町七区)
四番札所大日寺については、65回福泉寺(『温故逍遥』65)、181回不動明王(『空手還郷』81)と同じ場所を目指せば良いのであるが、前回の3番金泉寺からの順路を記したいと思う。
車の場合は、駐車場がないので見性寺に駐めてから戻るのが良いだろう。歩き遍路の場合は地図の通り細い道を南下する。
斎島神社の前を過ぎて右折し、旧久保田邸の前で左折するとゴミステーションの前に細い路地がある。ここを右折して登れば良い。正面が福泉寺、左奥が大日寺である。
狭い登り道の左下の畑地が旧大浜小学校のあったところである。平地だけでは狭く見えるが、今は民有地になっているこの辺りに校舎、講堂、校庭などがあった。大浜町文化財協会発行『ふるさと』の昭和2年ごろの写真では、左上の三角形の屋根が福泉寺である。
久保田権四郎氏の生家は左中央付近。電柱の真上に大出先祖碑。
ふるさとの史跡をたずねて(455)
旧大浜小学校跡(尾道市因島大浜町八区)
前回地図を載せたため、
旧久保田邸の前で左折する。
大浜小学校はこの位置からさらに3番札所金泉寺の西に移転するの
さて大浜小学校の校舎の変遷は、
昭和2年頃の写真には左奥の丘の上に三角屋根の福泉寺が見える。
写真は大浜町文化財協会発行『ふるさと』による。
ふるさとの史跡をたずねて(456)
五番札所地蔵寺(尾道市因島大浜町五区)
大日寺の次は五番札所地蔵寺である。
4番大日寺から元の登り口まで出たら、南下し、
あるいは海側から説明すると、海岸通りの国道317号線の、
時間があれば海岸通りに出て備後灘を眺めるのも良いだろう。
ふるさとの史跡をたずねて(457)
六番札所安楽寺(尾道市因島大浜町六区)
六番札所安楽寺は見性寺の境内にある。だから誰に尋ねても、お寺の場所は教えてもらえる。そうしなくても南西の方角の山の方を見れば墓地の墓石かあるいは山門などが目に飛び込むだろうから、そちらの方向を目指せばよい。具体的に言えば、五番地蔵寺から南へ歩き、突き当たれば右へ、という動作を繰り返す。その時右を向いた時西の方を注意すれば、ほどなく見性寺を見つけることができるだろう。
それでも見性寺にたどり着くことができなければ、もはや島遍路は断念するか、適当な先達を頼むほかはあるまい。
見性寺、正確に書けば見性禅寺の山門をくぐれば、左折して突き当たりまで進めば、境内というよりも境内の外に近いところに六番安楽寺がある。隣に無縁墓地があるので、やはり境内と書くのが良いのだろう。
すぐに安楽寺を目指すのも良いが、ここは山門をはじめ久保田権四郎さんの多大な寄進の跡を留める寄付石がたくさんあるので、それらを探しながら散策するのも良いだろう。そのいくつかについては以前にも書いたことがあるので、今回は触れない。
安楽寺の堂内には立派な阿弥陀如来像がある。彩色木像である。
ふるさとの史跡をたずねて(458)
七番札所十楽寺(尾道市因島大浜町十区)
大浜町最後となる七番十楽寺は、
本堂前の石柱に書いてあるように地元出身の大黒信治さんが寄進さ
六番札所安楽寺からは地図を頼りに路地を進むのも良いが、
ふるさとの史跡をたずねて(459)
旧七番札所十楽寺(尾道市因島大浜町十区)
せっかくなので、
以前の七番札所十楽寺も、
さらに歩き遍路道であった大楠山へ至る農道もイノシシが掘り返し
そして今後はこの旧札所も竹藪に覆われてしまうことだろう。
これまで管理されてきた方々への、
ふるさとの史跡をたずねて(460)
十番札所熊谷寺(尾道市因島中庄町新開)
いよいよ中庄町に入る。場所は簡単だ。丸池の隣の集会所の隣と書けばわかりやすい。丸池についても、その隣にある道路改修碑についても以前書いたので場所は説明するまでもないと思うが、丸池と言っても広いので、そのどの辺りかと言うと、北東である。
因島八十八箇所霊場が出来た時には、海沿いの道は無かったので、船でお参りするか、峠超えの山道を通るしかなかった。でも、現在と違い峠道の周囲は畑で、遍路道といっても畑道であったので心配する必要はなかった。そして降りたところもまだ大浜町で、一面干拓地であった。 我々がその当時のことを想像できないように、初期の参拝者には現在のような舗装道など想像の埒外であっただろう。
ただ、我々は注意して見れば、まだまだ至る所に干拓地の痕跡があり、初期の干拓地は想像できなくても、その面影を感じることはできる。
( 写真・文 柏原林造)




























